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藤沢市母娘ら5人殺害事件|報道カメラにVサインした死刑囚

藤間静波/藤沢市母娘ら5人殺害事件日本の凶悪事件
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「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の概要

子供時代から悪事をくり返し、成人するまでに何度も少年院に入れられていた藤間静波。彼は少年院で知り合った仲間とひったくりなどで稼いでいたが、やがて裏切られたと感じて仲間を殺害
その後、知り合った女子高生に冷たくされたのを恨んで、女子高生とその母親・妹の3人を殺害した。この時、共犯だった仲間も信じられなくなり殺害している。
猜疑心が強く、「裏切られた」と感じると、いとも簡単に相手を殺した藤間静波。彼に下った判決は死刑だった。

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事件データ

犯人藤間静波(当時21歳)
犯行種別仲間割れ殺人
ストーカー殺人
被害者数5人死亡
横浜事件1981年10月6日
場所:神奈川県横浜市戸塚区
被害者:1人(共犯者)
藤沢事件1982年5月27日
場所:神奈川県藤沢市
被害者:ストーカー相手の家族3人
尼崎事件1982年6月5日
兵庫県尼崎市
被害者:1人(藤沢事件共犯)
判決死刑
2007年12月7日執行(47歳没)
動機裏切り者は殺す
キーワード広域重要指定112号事件
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「横浜事件」の経緯

藤間静波(当時21歳)と平山勝美(当時20歳)は、ともに久里浜少年院に入っていたが、平山は1981年3月19日に退所した。その2か月後には藤間も退所、平山の働く空調設備会社で配管工として働き始めた。だが、藤間が就職した直後から2人でひったくりを開始。5月18日・19日と2日連続でひったくりで現金17万6千円を得たことから、5日後には2人して退職した。

その後、2人はひったくりで得た金で共同生活を送っていた。2人は神奈川県内(鎌倉市・川崎市・厚木市・横浜市)で8件(被害総額145万円)のひったくり・事務所荒らしなどを起こした。

しかし1981年8月5日夜、平山が藤間の財布から20万円を抜き取って逃げたため、藤間はこれを「裏切り」とみなして激怒。平山を見つけ出すと、彼と母親を脅迫して返済を誓約させた。藤間はその後も、平山が覚醒剤密売で稼いだ7万円を取り上げるなど全額回収しようとした。

だが1981年9月頃、平山が「俺が警察に自首したら藤間もおしまいだ」と発言したことを知り、平山に殺意を抱くようになる。

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仲間の平山勝美を殺害

平山は当時、覚醒剤売買の損失で70~80万円の借金を抱えており、藤間に金を返済できる状態ではなかった。藤間は1981年9月頃、平山殺害の凶器として2本の包丁を購入した。

返済期限としていた1981年10月5日、藤間は帰宅後に「平山から電話があった」と聞かされたため、2度目の電話を待ったが、その後平山からの電話はなかった。一方、平山は覚醒剤の売買をめぐり、元少年院仲間と喧嘩して顔面を負傷、駆け付けた警察官にいさめられていた。

藤間は「平山に裏切られた。もう殺すしかない」と考え、事前に用意していた凶器類をショルダーバッグに詰め込んでバイクで平山宅に向かい、翌6日深夜3時頃に平山宅に到着。平山は不在だったが、引き返そうとしていたところ、湘南モノレール高架下にてバイクに乗った平山を見つけた。

藤間は平山に返済について問い詰めたところ、平山は「返す気は無い。これ以上お前とは付き合いたくない」という返事だった。そして「俺には知り合いのヤクザがいる」とか「警察に犯行をチクる(密告する)」と逆に脅してきた。

藤間は、平山が誠意を見せないことに激怒して殺害を決意。人気のない場所で実行することにした。そのための口実として「最後のドライブだ」と提案して、ともにバイクで中田町方面に走り出した。

広域重要指定112号事件/藤間静波
現場のキャベツ畑

1981年10月6日5時頃、藤間は現場から約1km手前でバイクを停車。藤間は平山に「お前のバイクの調子を見てやる」と申し出て、平山のバイクに2人乗りして殺害現場(キャベツ畑)へ乗り入れさせた。

バイクを降りると藤間は包丁を持ち、「ぶっ殺してやる」と脅して道端で平山をうつぶせにさせた。そしてショルダーバッグからガソリン入りの瓶を取り出して平山にかけ、点火したマッチを投げつけたが、当日は小雨が降っていたため引火しなかった。

2本目のマッチを擦ろうとした時、平山が立ち上がって抵抗したため、平山に包丁を突き出したところ、刃先が平山の大腿部に突き刺さった。平山は自ら刃を抜き取り逃げようとしたが、足を刺された体ではうまくいかなかった。

平山は力尽きて歩けなくなったが、藤間は「油断させた上で殺そう」と考えた。藤間は平山に「俺が悪かった。背負って医者に連れて行ってやる」と謝罪しながら近づき、くり小刀で滅多刺しにして殺害した。
死因は失血死だった。

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「藤沢事件」の経緯

藤間はかねてから女子高生と交際したいと思っていた。だが地元の平塚市周辺では非行歴などが知られていてるため、誰も自分のことを知らない茅ヶ崎市方面に目を付けた。

1981年11月20日夕方、藤間は茅ヶ崎高校付近で女子生徒の下校を待った。そして午後7時頃、2人組の女子高生に声をかける。そのひとりが高校1年生の畑真輝子さんだった。

藤間は2人組に「どこの高校?」などと質問をしつつ、自分は平塚に住む”山田等”と偽名を名乗った。藤間は「父親は社長で金持ち」「友達になろう」などと話しかけ、2人に住所や電話番号を尋ねた。

この時、主に対応したのは真輝子さんで、彼女は自分の名前・住所・電話番号をメモして藤間に渡したが、もうひとり(同級生)は頑なに答えなかった。

それから約1週間後、藤間は真輝子さん宅に電話してデートに誘った。だが、同級生から相手にしないよう忠告された真輝子さんは、最初の約束はすっぽかした。藤間はこれに懲りず電話をかけ、12月15日には辻堂駅前で待ち合わせて初デートとなった。

2人は熱海方面で一緒に遊んだが、当時の真輝子さんは好きな同級生男子がいたし、さらに藤間が狙っていたのは自分ではなく同級生のほうだと気付いて、真輝子さんは面白くなかった。それに何より話題の乏しい藤間は、一緒にいて楽しい存在ではなかった。

このように、真輝子さんの気持ちが冷めたのと裏腹に、藤間は真輝子さんに好意を募らせていった。そして、茅ヶ崎高校が冬休みに入った12月27日夕方、藤間は真輝子さん宅をいきなり訪れる。しかし真輝子さんは、藤間を両親に会わせたくない気持ちもあって、突然来たことを責めて拒絶した。

12月31日、2人は改めて辻堂駅で待ち合わせた。藤間は交際してほしいと告白したが、真輝子さんは好きな男子がいることを明かして断った。それでもしつこく引き下がらない藤間に、真輝子さんは「10年早い」「ガキみたいでダサいし不潔だから嫌」と言い放った。藤間にとっては「侮辱された」と受け取れるような言葉だった。

藤間は、茅ヶ崎高校に「真輝子さんの従兄」を名乗って電話して「真輝子さんの好きな男子生徒」について聞き出そうとしたが、あまりの不審さに応対した事務職員はまともに取り合わなかった。

その後も藤間は、真輝子さんに電話をかけている。真輝子さんは「名前と電話番号を教えなければよかった」と後悔し、友人に「藤間は名前・年齢がコロコロ変わるから、どれが本当かわからない」とも漏らしていた。

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こじれる関係

交際を拒否した真輝子さんに対し、藤間は12月のデート費用を返済しろと迫るようになった。真輝子さんは突き放すような態度を取るも、藤間はしつこかった。

1982年1月下旬には、電話で真輝子さんの父親に「貸した金を返して欲しい」と要求。父親からは「いい加減なことを言うな」と拒否された。だが翌月には藤間は真輝子さん宅を訪れ、真輝子さんはおごってもらったものだと説明したが、父親は3千円を藤間に渡した。

この時、父親は藤間の素性についていろいろ聞いたが、藤間は偽名(山田等)を名乗ったのみで電話や住所は明かさなかった。

こんなことがあってからも、藤間は真輝子さんに電話をかけ続けた。ほとんどはすぐ切られるなど、真輝子さんと話すことはできなかったが、3月11日には真輝子さんが応対したため、2人は辻堂駅で会うことになった。

藤間は3千円を返して改めて交際を申し込んだが、真輝子さんは拒否。藤間はいったん手渡した現金を奪い返し、真輝子さんの顔面を平手打ちした。

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そして殺意へ…

普通なら完全に縁が切れそうなものだが、藤間は真輝子さんを諦めていなかった。藤間は電話をかけ続け、3月20日には真輝子さんが電話に応じ、互いに自分たちの非を認め謝罪する形で和解。その後、2人は再び辻堂駅で待ち合わせた。

真輝子さんは、バレンタインデーに好きな同級生男子から「ほかに交際している子がいる」と交際を断られていた。また、真輝子さんは成人男性との文通も不調に終わっていた。

そんな寂しさや心の空白を埋めるため、真輝子さんは好きでもない藤間の誘いを完全に拒絶することができなかったものと考えられている。

この時、制服姿だった真輝子さんが「帰宅して着替えたい」と言ったため、藤間は真輝子さん宅まで同伴したが、真輝子さんは家に入ると玄関を施錠して藤間を閉め出した。

2人がドア越しに口論していたところ、帰宅した母親が藤間に「まだ何か用があるの?」と問い詰めてきた。藤間は「お金のことで来た」と答えたが、「お金なら返したはず」と返され相手にされなかった。

藤間は同年3月~4月にかけ、チョコレートなどを持って2回ほど真輝子さん宅を訪れている。この時、ひとりで留守番をしていた妹に家に入れてもらい、妹自身や真輝子さんの卒業アルバムを見せてもらったり、姉妹それぞれの部屋に通してもらった。

これ以降も藤間は頻繁に真輝子さん宅に電話をかけ、真輝子さんも初めは応対していたが、やがて一貫して強い拒絶の態度を取るようになり、妹もそれに同調するようになった。

その後、父親が電話に出た際、「真輝子さんと交際させてほしい」と申し出たが、「真輝子は大学受験を控えていてそんな暇はない。本人も嫌がっている」と拒否。藤間は一連の電話で「真輝子さんから一貫して侮辱された」と逆恨みし、殺意を抱き始める。

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真輝子さん家族3人を殺害

このころ、藤間は「心変わりされた腹立たしさ」と「交際したい気持ち」が入り混じった複雑な感情に支配されていた。藤間は無言電話やいたずら電話で真輝子さんに嫌がらせをしながらも、執拗に交際を求めて真輝子さんに付きまとうストーカー行為をした。しかし結果的に、真輝子さんを含めて家族中からますます疎まれるだけだった。

1982年5月8日午後8時頃、真輝子さん宅を訪れた藤間は、父親から「110番するぞ」と怒鳴られ逃げ出した。藤間は自分の非は考えず、これまで真輝子さん一家から言われた言葉を侮辱と受け取り、一家に対する殺意が芽生えるきっかけともなった。

1982年5月27日朝、平山勝美殺害事件を捜査していた戸塚署員が藤間宅を訪問したが、藤間は元少年院仲間の岸純太郎とともに旅館に宿泊していたため不在だった。

1982年5月27日、元少年院仲間の岸純太郎(19歳)と旅館に泊まっていた藤間は、午前10時頃に宿を出て帰宅。そして凶器や手袋・運動靴をバッグに詰め、午後7時に岸をバイクの後ろに乗せて自宅を出発した。

茅ケ崎駅前の駐輪場にバイクを停めた2人は、バスに乗り真輝子さん宅を目指した。午後8時頃、岸が新聞集金人を装い真輝子さん宅のチャイムを鳴らした。

当時、在宅していたのは母娘3人で夕食中だった。母親が玄関を開けたところ、藤間は手袋を嵌め、包丁を握った状態で家の中に押し入った。そして岸はドアチェーンを掛け、電話線を切断。藤間はまず妹の胸部・や腹部を刺すと、次いで台所にて母親を襲撃して胸部を突き刺した。

さらに異変に気付いた真輝子さんが2階から降りてきたところを、藤間は襲い胸部を刺した。藤間と岸は父親の帰宅を待ち伏せるつもりだったが、3人の悲鳴が大きかったため、近隣住民に犯行を知られた可能性を考えて5分以内に逃走した。

一方で岸は、藤間の凶行の一部始終を目撃してうろたえていた。そのため犯行後に藤間から「ガタガタするな」と叱られていた。

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父親が遺体を発見

午後8時40分頃、帰宅した父親が妻子3人の遺体を発見、警察に110番通報した。これを受けた神奈川県警・藤沢署員が事件現場に駆け付けたところ、姉妹が食卓脇で、母親も台所の裏(隣家との境)で血を流して死亡しているのを確認。3人は失血死だった。

現場の様子から、県警は殺人事件と断定。室内に物色されたあとはなく、短時間で3人を殺害していることから、「恨みによる犯行」との見方を強め、被害者の交友関係などを調べた。

父親は「恨まれるとすれば、『平塚の山田等』(藤間)しかいない」と証言し、事件前から真輝子さんに付きまとい、事件後に失踪したその男が何らかの事情を知っている可能性が高いと断定した。

しかし、真輝子さんが残していた「山田等」の住所・電話番号で戸籍を調べても該当者はいなかった。周辺で聞き込み捜査を行ったところ、普段から素行が悪く、犯行時間帯にアリバイがなかった藤間が浮上、顔写真を父親に見せたところ「よく似ている」という供述を得た。

また、事件数日前から藤間宅に出入りしていた同年代の身長が高い男(岸純太郎)も事件以降、姿をくらましていることが判明した。

さらに現場付近の歩道に落ちていた血痕を照合したところ、藤間と同じO型だったほか、玄関ドア内側から藤間の掌紋が検出され、遺された足跡と同種の靴(25.5cm)も藤間の自宅に置いてあったことが判明した。

しかし、父親が「山田等」に対し抱いていた「17、18歳くらい」という印象と、藤間の実際の年齢(21歳)は隔たりがあり、掌紋も藤間が以前訪れた時の物である可能性が否定できなかった。そのため、この時点では藤間を殺人容疑で指名手配することはできなかった。

恋愛トラブルからこのような大事件を起こすなどとは、ベテラン捜査員でも考え難かったようで、県警は藤間以外にも一家4人全員の関連人物をくまなく捜査した。
事情聴取された人数は2000人以上におよんだが、動機や容疑性を持つ人物は浮上せず、事件後から行方不明になっていた藤間への容疑が強まる結果となった。

「尼崎事件」の経緯

午後9時15分頃、岸を連れて帰宅した藤間は、母親に左手首の傷を治療してもらったが、その際に「母娘3人を殺した」と告白。これを聞いた両親は自首を勧めたが、藤間はそれを拒否。なおも説得されると「警察に通報したら家族を皆殺しにする」と言い放った。

約40分の滞在後、2人は西に逃亡することにして、小田原駅から普通電車を乗り継ぎ、5月28日午前10時頃に大阪に到着。その後、新幹線で九州方面に向かい、この日は博多駅付近のビジネスホテルに宿泊した。

藤間の両親は「罪の責任を取ろう」と2人で心中することを決め、事件翌日(5月28日)夜に長女(藤間の妹)に父親の実家に行くよう促したが、異様な雰囲気から事情を察した長女に号泣され、強く反対されたことからこれを断念した。

5月29日~6月4日にかけて、藤間と岸は福岡市の博多・中洲・天神などの繁華街や熊本県熊本市などをうろつきながら過ごしていた。藤間は、一家殺害時にうろたえていた岸が「自首するのではないか」と不安になってきたため、岸を信用していいか試すことにした。

藤間はホテルで、わざと財布をポケットに入れたまま狸寝入りをした。すると岸は藤間が寝入ったと思い財布を盗もうとした。藤間がくり小刀を岸に突き付けたところ、「藤間は怖い。一緒にいるのが嫌になった」と発言。藤間は岸を「裏切り者」と認定し、「口封じのために殺すしかない」と殺害を決意する。

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共犯・岸純太郎も殺害

藤間は九州各地で岸を殺害する機会をうかがったが、6月5日には「やはり尼崎でやるしかない」と考え、岸と博多駅発の寝台特急に乗り、翌朝、再び大阪に到着した。

大阪でも盗みに入る家を探すふりでうろついたが、藤間は「大阪は駄目だ。尼崎に行けばあるかもしれない」という口実で尼崎へ向かった。午後9時頃、尼崎駅の改札を出ると、偶然見つけたマンションで「このマンションに強盗に入ろう」と持ち掛けた。

藤間は屋上手前の踊り場で、岸に「指紋が付いたものを落とせば、そこから足がつく。持っているものを全部出して指紋を拭き取れ」と岸に命じた。

藤間は岸から怪しまれないよう雑談していたが、岸が指紋を拭き取り終えると「お前のような度胸のないやつをこのまま生かしておいたら、俺の身が危ない。お前には消えてもらう」と言い、くり小刀で岸の胸を突き刺した。無防備なところを襲われた岸は、抵抗もできない状態で背中を滅多刺しにされ、藤間に殺害された。

午後9時45分頃、現場マンション4階の住民が踊り場を通りかかったところ、血まみれで倒れている岸を発見、110番通報した。これを受けて兵庫県警察・尼崎中央警察署(現:尼崎南警察署)は殺人事件と断定して捜査を開始した。

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藤間を別件で逮捕

遺体の状態から捜査本部は「強い恨みを持つ、顔見知りによる犯行」と推測して捜査を進めた。やがて岸の身元も判明、東京在住だったことからその交友関係を辿って藤間との関係が浮上する。

岸殺害の翌日(1982年6月6日)、藤間は国鉄(現・JR)名古屋駅西口のサウナで仮眠し、付近でスポーツウェアや下着などを購入、返り血の付いた服はコインランドリーで洗濯したうえで2か所に分けて捨てた。

その翌7日には、東京に出て仕事を探すことを決め池袋駅に移動、翌8日早朝に池袋駅西口公園で声をかけてきた手配師について行った。そして、その日から埼玉県大宮市三橋(現:埼玉県さいたま市大宮区三橋)の建設工事現場宿舎に偽名で住み込み、昼間は群馬県前橋市内の建設現場で働くようになった。

同日、池袋在住の元少年院仲間から「家に藤間が来た」と通報があった。さらに捜査本部は聞き込みにより、別の少年院仲間から「埼玉県内にいる」という情報を得たため、埼玉県内に捜査員を派遣した。

そして母娘3人殺害事件から18日目の1982年6月14日、藤間は潜伏していた宿舎近くで捜査員に発見される。当初、藤間は殺人の容疑について否認していた。地検も「限りなく黒に近い」と考えてはいたが、藤間は犯行を否認しているうえに絶対的な証拠もなかった。

このころには、3つの殺人事件の被害者5人全員が、藤間との接点があることを警察は把握していた。

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母娘3人の殺害を自供

藤沢市母娘ら5人殺害事件

藤間は逮捕されたが、それは別件での逮捕だった。

1982年6月5日午前8時50分頃、藤間は厚木市の元少年院仲間・A宅に電話をかけ、応対したAの父親に「平山の事件のことを警察に話すなと息子に伝えろ。約束を破ったら一家を皆殺しにする。お前の妻の勤務先も知っているから、妻も強姦して殺すぞ」と脅した。

Aの父親は「電話の主は声や話し方の特徴から、息子の元少年院仲間で、2回ほど泊まったことがある藤間に間違いない」と確信し、神奈川県警・厚木警察署にこの脅迫電話の事実を届け出ていた。藤間の逮捕は、この脅迫事件に関してのことだった。

Aは藤間と平山と同時期に、久里浜特別少年院に在院していた。

逮捕から10日後の6月23日夜、「岸の殺害現場に残された足跡と、藤間の靴と一致する」ことが判明。捜査員がそれを告げると、藤間は明らかに動揺した。

同日夜には、藤間の母親が事情聴取に対し「息子がやったことを知っていた」と認める。その2時間後には捜査員の説得が功を奏して、藤間が容疑を認めるに至った。
翌24日から藤間は具体的な自供を始めたため、捜査本部は母娘3人への殺人容疑で藤間を再逮捕。事件発生から約1か月経っていた。そして他の2件の殺人についても追及が始まった。

警察庁は6月24日付で、一連の連続殺人事件3件を「広域重要指定112号事件」に指定、関係する神奈川・兵庫両県警本部の協力体制を強化する方針を決めた。

藤間静波の生い立ち

藤沢市母娘ら5人殺害事件/藤間静波

藤間静波は1960年(昭和35年)8月21日、神奈川県茅ヶ崎市内の病院で生まれ、平塚市内で育った。

1967年4月に平塚市立富士見小学校に入学。その当時から学校では喧嘩、近所の店で万引きなどの非行を繰り返していた。家庭では母親から「しつけ」と称して押し入れに閉じ込められたり、タバコの火を手に押し付けられたりするなど折檻を受けることがあり、担任教諭からも心配されるほどだった。

小学4年までは女子や下級生男子をいじめていたが、4年生の時、同級生の女児の頬に鉛筆を突き刺す事件を起こしたことで、同級生から疎外されるようになる。それからは立場が一転して、いじめを受ける側になった。

1973年4月、平塚市立春日野中学校に入学。直後から藤間は、深刻ないじめを受けるようになり、「藤間を殺す会」なるものが結成されたりした。藤間は周囲を見返すために空手道場に4か月ほど通ったりしている。

中学入学後に新聞配達を始め、稼いだ金で果物を買い妹と一緒に食べるなど、良き兄の一面も見せていたが、2年生の頃には両親からピアノを買い与えられるなど溺愛されていた妹への嫉妬心から、母親や妹への家庭内暴力を振るうようになった。

中学2・3年時代は学校・家庭内とも居場所がない状態で、学業成績は全教科の評価が1だった。中学の卒業文集では「将来はお金持ちになってゴテン(御殿)を建てているだろう」と書いたほか、寄せ書きに平仮名で「ぼくのことをわすれないでほしい」とも書き記していた。だが、事件後も小学校時代の同級生の間では、極めて印象の薄い存在となっていた。

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犯罪にまみれた人生

1976年3月に中学を卒業後すると、学校近くの工場に旋盤工として就職したが、わずか3か月ほどで退職。それ以降も短期間で職を転々とした。

翌年8月26日には厚木市内でオートバイを盗み保護観察処分となる。
この年の10月、当時17歳の藤間は平塚市内の事務所に侵入して、現金2000円を盗んだ窃盗容疑神奈川県警・平塚警察署に逮捕される。藤間は家庭裁判所から「在宅試験観察」の処分を受けたが、その半月後には、中学時代の先輩とひったくりをして警視庁三田警察署に逮捕され、中等少年院送致の処分を受けた。

1978年8月2日から新潟少年学院に入所。藤間は12月27日に脱走を試みたが失敗、翌年3月には自宅に近い小田原中等少年院へ移送され、教官から厳しく監視されることになる。小田原少年院では同室の少年たちからいじめを受けていたが、約半年間の在院期間中は目立った問題行動は起こさなかった。

ここでは後に共犯者(および被害者)となった平山勝美岸純太郎の2人の少年と知り合い、親しくなっている。しかし、2つの少年院在院中に家族はほとんど面会に訪れず、仮退院時には両親が身元引受を拒否した。

少年院を出て5か月で殺人

1979年10月5日に小田原少年院を仮退院、川崎市内の施設に身を寄せた。しかし約10日で連絡無しで施設を去り、その後も職を転々としている。やがて無職となり、バイクを乗り回す生活を送っていた。

1980年3月9日、父親から生活態度を注意されたことに逆上し、止めに入った妹を殴る。父親は、かねてから藤間の家庭内暴力に身の危険を感じていたこともあり、平塚署に110番通報した。

この時、父親は、藤間がひったくりで盗んだ女性用ハンドバッグを駆け付けた警官に見せたため、藤間は窃盗容疑で逮捕。同年4月9日には久里浜特別少年院に送致されることになった。

藤間は久里浜特別少年院時代、成績不良に加え教官に反抗的な態度を取っていたため、本来なら退院となる20歳を過ぎても6か月間の収容継続措置となっている。
退院前には「次に事件を起こせば、刑務所に入ることになる。そうなれば前科が付いてしまうので、本当に反省して、悪いことを繰り返さないよう心掛けたい」と作文を書いていた。

1981年5月8日に久里浜少年院を退院したが、両親から引き受けを拒否されたため、横浜市内の更生施設に身を寄せた。だが、このころには「どでかい完全犯罪をやってやる」という考えに支配されるようになっていて、施設を1日で逃げ出した。

藤間は平塚の実家に帰ろうとしたが、またしても家族から拒絶され、2か月早く久里浜少年院を退院していた平山を頼り、彼の勤務していた鎌倉市内の空調設備会社に就職した。

本事件を起こしたのは、この年(1981年)10月6日から翌年6月5日。この約8か月の間に5人殺害し、藤間は逮捕される。裁判では控訴を取り下げたり、それを無効にしてもらうなど、ひと悶着あったが、結局は最高裁で死刑が確定する。

そして2007年12月7日午前、東京拘置所で藤間静波死刑囚の死刑が執行された。享年は47歳だった。

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周囲からみた藤間の性格

横浜地検は公判中、藤間の性格について「友人がほとんどおらず、他人への猜疑心が著しく強い。一方でいったん心を許すと相手に過大な信頼を寄せ、執拗に付きまとうため嫌われたが、それを『相手の背信行為』と考え、激しい恨みを抱く傾向がある」と指摘している。

中学時代の同級生は読売新聞の取材に「近所の人には必ず笑顔で挨拶し、子どもたちを集めてボール遊びをすることもあった」と証言している。幼少期から非行を繰り返していた藤間だったが、オートバイ好きのわりに暴走族に入らなかったり、「体に害だから」と飲酒・喫煙・シンナーに手を出さないなど、意志の堅さも持ち合わせている。

知人によると、藤間の母親は「見栄っ張りで決して自分の非を認めず、身の不幸はすべて相手に責任転嫁して自己正当化するようなところがある」性格だという。
「そのような母親の性格・教育方針が、藤間の人格形成に影響を与えたのではないか?」という報道もされている。

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裁判

Vサインをする藤間静波

1982年10月12日、藤間被告は勾留先から横浜地裁まで移送される際、護送車を取り囲んだ報道陣のカメラに向かって笑顔で窓越しにVサインを送ったほか、閉廷後にも退廷時に傍聴人・法廷外のカメラマンにVサインを見せつけた。

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第一審で死刑判決

1982年10月12日、横浜地方裁判所で初公判が開かれ、罪状認否で藤間静波被告は、黙秘権を行使した。
弁護側は「藤間被告は別の脅迫事件で逮捕された。これは刑事手続き上でも違法であるうえ、殺人の自白も強制、拷問によるもので、証拠能力はない」と無罪を主張した。

検察側は証拠220点を提示したが、弁護側が同意した証拠品はわずか21点で、いずれも藤間被告の犯行そのものとは無関係だった。このため、検察側は証拠と同等の価値を持つ証言を引き出すため、証人尋問で犯行を立証することとなった。

3月10日午前9時頃、藤間被告は拘置先の横浜拘置支所で自殺未遂を起こし、それ以降は向精神薬投与などの治療を受けていた。

1986年3月25日に開かれた第41回公判で、藤間被告はそれまでの無罪主張から一転して、5人の殺人について全面的に認める発言をした。

弁護側は第43回公判(1986年6月16日)で「最近、藤間被告は拘置支所内で異常な言動を取ったり、接見で『うるさい音がして眠れない』『電波が飛んでいる』と訴えるなど、精神的な機能障害が進行していることが認められる。仮に精神疾患があれば自白は無効だ」と主張し、横浜地裁に精神鑑定実施を申請した。

しかし、藤間被告は被告人質問で「日が経つにつれ、犯行を後悔するようになったので罪を認めた」と述べたため、裁判長は「藤間被告は立場や責任を理解した上で証言を翻しており、精神鑑定は必要ない」として申請を却下した。

求刑は死刑

1987年11月26日に論告求刑公判が開かれ、検察側は藤間被告に死刑を求刑した。一連の連続殺人を「犯罪史上稀に見る凶悪かつ重大な事犯」と位置づけ、殺人3件の情状関係を中心に動機・手口・性格などを厳しく断罪した。

1988年1月14日の第58回公判で、弁護側による最終弁論が行われて結審した。弁護人は「脅迫罪で別件逮捕されたにも拘らず、取り調べは母娘3人に対する殺人容疑に終始し、殺人の自白も強制・拷問によるものであり、任意性・証拠能力はない」と無罪を主張したうえで「仮に有罪としても無期懲役が相当」と訴えた。

一審判決は死刑

1988年3月10日の判決公判で、横浜地裁は求刑通り死刑を言い渡した。
弁護側が主張していた「脅迫容疑による別件逮捕の違法性」に関しては、「脅迫事件と母娘3人殺害事件は事実として一連の関係にあったため、違法とは言えない。拷問的取り調べがあった事実も認められない」として退け、藤間被告の自白調書に関して証拠能力を認めた。

判決理由で裁判長は「藤間被告は最初の横浜事件で嫌疑を掛けられたが、証拠不十分で釈放されたことから完全犯罪に自信を持ち、一家皆殺しの計画を立てた。母娘3人殺害事件は、平和な社会において稀にみる凶悪・残虐な犯行で、自己の非を棚に上げた身勝手・短絡的な動機に酌量の余地はない」と説明した。

判決後、藤間被告は突然、「自分が世界で好きな人は稲川聖城(稲川会総裁)さん」と発言し、傍聴席へ向けて2、3回両手でVサインを見せ、裁判長から「そんなことをしているから、反省していないと思われるんだ」と退廷を命じられた。
なお、同日の判決公判を傍聴した被害者遺族はいなかった。

控訴取り下げ騒動の控訴審

控訴審初公判前の1989年5月6日夜、藤間被告は収監先の東京拘置所の職員に対し「もう助からないから控訴をやめる」と言い出した。

藤間被告は初公判(7月10日)、第2回公判(9月11日)でも「控訴をやめたい」と発言。その後もしばしば同様の発言をしていたため、弁護人はその度に説得して控訴取り下げを思い留まらせていた。

1991年4月18日には、東京拘置所で控訴取り下げに必要な手続・書類の交付を強く求めた。弁護人は、控訴を取り下げないよう説得したが、藤間被告はそれに応じず、「控訴取下書」用紙の交付を受けて作成した書類を東京拘置所長に提出した。

これにより、第11回目まで開かれた公判は中断する格好となったが、弁護団は「控訴取り下げの効力には疑義がある」と表明した。

東京高裁は控訴取り下げは有効と決定し、弁護側の異議申し立ても棄却した。しかし弁護側は特別抗告し、最高裁は1995年6月28日、「判決のショックなどによる精神障害に起因する取り下げは無効」と判断、同高裁での公判再開を決定した。

審理再開

こうして紆余曲折あった控訴審だったが、2000年1月24日に判決公判が開かれた。東京高裁は一審の死刑判決を支持して藤間被告・弁護人側の控訴を棄却した。

裁判長は「藤間被告の言動には異常な点が見られるが、これは拘禁の影響によるものと認められる」と判断。刑事責任能力に関しては、弁護側の心神喪失・心神耗弱とする主張を退け「完全犯罪を意図して周到・緻密な準備の上で行われた高度な計画性に基づく犯行で、死刑になり得ることも十分に理解していた」として完全責任能力を認めた。

そして「5人の人命を奪った罪の重さを鑑みれば、死刑を選択した一審の量刑はやむを得ず、弁護側の『重すぎて不当』という主張は当てはまらない」として退けた。

弁護側は判決を不服として、最高裁判所へ上告した。

最高裁で死刑確定

2004年3月23日に最高裁判所で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護側は死刑判決の破棄を、検察側は上告棄却をそれぞれ求めた。

2004年6月15日に上告審判決公判が開かれ、最高裁は第一審・控訴審の死刑判決を支持して弁護側の上告を棄却する判決を言い渡したため、藤間被告の死刑が確定することとなった。

藤間被告は期日(判決から10日間)までに判決訂正を申し立てなかったため、正式に死刑判決が確定した。

死刑執行

2007年12月7日午前、東京拘置所で藤間静波死刑囚の死刑が執行された。(47歳没)
同日に死刑を執行されたのは「徳島隣人3人射殺事件」の池本登死刑囚と「江戸川老母子強盗殺人事件」の府川博樹死刑囚の計3人。

執行した死刑囚について、氏名・犯罪事実の概要・執行場所を法務省として初めて公表した。

また国会会期中の死刑執行は極めて異例で、当時の法務大臣・鳩山邦夫は、死刑囚の氏名などを公表した理由を「死刑という非常に重い刑罰が、法に基づいて適正に粛々と行われているかどうかは、被害者あるいは国民が知り理解する必要がある」と説明した。

この死刑執行により2007年の死刑執行は計9人となり、1976年以来では当時最多となった。
現在の最多記録は2008年と、オウム真理教事件の13人への執行が含まれる2018年の各15人。

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