袴田事件
1966年6月30日、静岡県で味噌製造会社専務宅が全焼し、焼け跡から一家4人が焼死体で見つかった。
遺体には刺し傷があり、静岡県警は殺人事件と断定、逮捕されたは従業員の袴田巌さん(当時30)だった。袴田さんは過酷な取り調べに一度は犯行を認めたものの、その後は一貫して否認。しかし、裁判で死刑が確定してしまう。
当初から冤罪と言われ続けた本事件は、48年ぶりに袴田さんが釈放される異例の事態となっている。2023年3月13日には再審が決定している。
事件データ
1966年6月30日 | 事件発生 (有)王こがね味噌橋本藤作商店 専務一家4人死亡 | 事件発生 からの年月 |
1967年8月17日 | 袴田巌さん(当時30)逮捕 | 2か月 |
1966年11月15日 | 第一審開始(静岡地裁) | 5か月 |
1968年9月11日 | 第一審で死刑判決 | 2年3か月 |
1976年5月18日 | 東京高裁:控訴棄却 | 9年11か月 |
1980年11月19日 | 最高裁:上告棄却 死刑が確定 | 14年5か月 |
2008年3月24日 | 最高裁 第1次再審請求(特別抗告)を棄却 | 41年9か月 |
2014年3月27日 | 静岡地裁:死刑・拘置の執行停止 第2次再審請求の再審を開始 | 47年9か月 |
2018年6月11日 | 東京高裁:第2次再審請求を棄却 | 52年 |
2020年12月22日 | 最高裁:東京高裁の棄却決定取消し 東京高裁に差し戻す決定 | 54年6か月 |
2023年3月13日 | 東京高裁:再審開始を決定 | 56年9か月 |
2023年3月20日 | 検察側「特別抗告」を断念 |
事件の発生

1966年6月30日午前2時頃、静岡県清水市(現・静岡市清水区)の「有限会社王こがね味噌橋本藤作商店」専務宅で火災が発生した。家は全焼し、焼け跡からは、橋本藤雄専務(当時41)、妻・ちえ子さん(当時39)、次女・扶示子さん(当時17)、長男・雅一郎さん(当時14)の家族4人の遺体が発見された。
遺体には多数の刺し傷があり、遺体周辺には混合油を撒いて火をつけた痕跡が残されていた。また、売上金約20万円と小切手5枚(合計約6万円)がなくなっていた。長女の昌子(当時19)は別棟の祖父母宅にいて、被害を免れた。
静岡県警は、被害の状況から殺人事件と断定し、捜査を開始。そして事件発生から約2カ月後の1967年8月17日、住み込み従業員で元プロボクサーの袴田巌さん(当時30)が強盗殺人・放火の容疑で逮捕された。


袴田さんに容疑がかけられたのは、以下のような理由からである。
- 現場の状況からみて、内部の人間の犯行
- 袴田さんが事件直後、左手(中指)に怪我をしていた
- 袴田さんには、犯行当夜のアリバイがない
- 袴田さんの部屋から、血の付いたパジャマが見つかった
- 袴田さんは、元プロボクサーである
- 日頃から勤務態度が真面目ではなく、夜間外出が多かった
人権無視の取り調べが始まった
袴田さんに対する取り調べは、過酷なものだった。警察は連日連夜、猛暑の中で1日平均12時間、最長17時間にもおよぶ取り調べを行った。20日間にもおよぶ取り調べは、2~3人がかりでこん棒で殴り、罵声を浴びせ、「(たとえ袴田さんが死んでも)病気で死んだと報告すれば済む」といって脅し、精神的にも体力的にも袴田さんを追い詰めた。
トイレに行かせず、取調室に持ち込んだバケツにさせるという屈辱的なこともあったという。

袴田さんは耐えきれず、拘留期限3日前の9月6日、ついに自白に追い込まれ、9月9日に起訴されてしまう。その後も警察の取調べは続き、自白調書は45通にもおよんだ。
この長い取り調べ期間に、弁護人が袴田さんに会えた時間は、たった30分程度だったという。
袴田さんの自白内容は、日によって違っていた。動機についても、当初は「専務の奥さんとの肉体関係があったための犯行」と言っていたのが、最終的には「金目当ての犯行」と変わっている。
犯行時の着衣についても、自白ではパジャマということになっている。
しかし公判において、辻褄が合わなくなった検察は、自白とは全く異なる着衣だったと主張を変更した。
これは「自白に信憑性がない」と認定されたも同然である。にもかかわらず、殺害の自白は採用され、袴田さんは死刑になるという、異常な事態が起こったのだ。
公判 ー 日本の司法に正義はなかった ー
第一審:静岡地裁
1966年11月15日、静岡地裁で一審初公判が開かれ、袴田被告は「自白は強要された」と全面否認した。
一方、検察側は公判当初「袴田被告はパジャマを着て犯行におよんだ」と主張していた。しかし、パジャマに着いた血痕はきわめて微量で、再鑑定ができなかった。また、付着していた混合油の鑑定には、強い疑問が生じていた。
その後、事件から1年2か月後の1967年8月31日、なぜかすでに捜索済みの「味噌工場のタンクの中」から血の付いた「5点の衣類」が、麻袋に入った状態で見つかった。

白半袖シャツ・緑色パンツ・白ステテコ・ねずみ色スポーツシャツ・鉄紺色ズボン・
事件当時、味噌の量は少なく、本来ならすぐ見つかるはずなのに、パジャマが証拠にならなくなったタイミングで、偶然見つかっている
鑑定の結果、付いていた血痕は被害者3人と袴田被告のものであるとされた。さらに9月12日には、ズボンと一致する布きれが、袴田被告の実家から発見された。
1967年9月13日の公判では、検察側は犯行時の着衣を「血の付いたパジャマ」から「血の付いた5点の衣類」に変更。また、半袖シャツの血痕は袴田被告と同じB型であり、当時右肩を負傷していたことから袴田被告のものとした。
結局、袴田さんは「5点の衣類を着て犯行におよび、その後パジャマに着替えて放火をした」と認定されたのである。
凶器のくり小刀については、刃物店の証言により袴田被告が購入したものと断定した。
凶器購入先とされた刃物店で働き、公判で「袴田死刑囚の顔に見覚えがある」と証言した女性(87)が「本当は見覚えがなかった。思っていることと違うことを証言した」と話していることが23日、共同通信の取材で分かった。
女性は店を訪れた捜査員に数十枚の顔写真を見せられたが、見覚えのある顔はなかった。別の日に捜査員が「犯人がこの店で刃物を買ったと話している」と言い、犯人が書いたものとして手書きの地図を見せた。女性は地理関係が正しかったので「だったら店に来たのだと思う」と答えたという。
スポニチAnnex 2014年2月23日の記事より
袴田さんは、火災がおさまる直前に現場に現れたが、それまでの時間に彼の姿を見たものは誰もいなかったため、「事件当時のアリバイがない」と断定された。動機については、母・子と3人で住むための「アパートの敷金・権利金がほしかったため」と認定された。
判決では供述調書45通のうち、44通について「任意性がなく、証拠とすることができない」として排除され、証拠採用されたのは、1966年9月9日付の供述調書のみだった。また「着衣についての自白は、虚偽のものだった」として、捜査について厳しく批判した。
以上により「袴田被告を犯人と認定し、残忍非道、鬼畜の所為と批難。社会一般に与えた影響も大きく、極刑以外にありえない」とし、死刑が言い渡された。
一審判決で主任裁判官を務めた熊本典道氏は、無罪を主張していた。自白を取った方法や信用性、また凶器とされるクリ小刀と袴田死刑囚との結びつきに疑問があったからだ。しかし、残り2人の裁判官に1対2で敗れたことを2007年3月に明らかにした。
控訴審・上告審は棄却
控訴審で、弁護側は以下のような主張をした。
- 犯行に使用した油は、石油缶の蓋に血痕がなかったことから工場にあった混合油ではない
- 味噌タンクの「5点の衣類」については、ズボンが小さすぎて袴田被告がはくことはできない
- 事件当時は味噌の残量はわずかで、そのようなすぐに発見される場所に隠すはずがない
- くり小刀1本では犯行は不可能
- 途中でパジャマに着替えて放火するなどの行動は、飛躍がありすぎる
- 侵入経路、脱出経路等についても疑義がある

これを受けて1971年11月20日、「5点の衣類」の装着実験が実施された。その際、ズボンは小さ過ぎて、袴田さんは穿くことができなかった。その後2回の実験でも、どちらも穿くことができなかった。
判決で裁判長は、混合油については、工場内のものと同じ成分である可能性が相当高いと判断した。
また、ズボンの「B」の文字は、B体(肥満体)を示すと判断した。そのため、事件当時は穿けたが、「生地が縮んだため実験では穿くことができなかった」と結論付けた。縮んだ理由としては、1年以上も水分や味噌成分を吸い込んだあと、証拠物として長期間保管された間に自然乾燥したため、さらに被告が拘留中に体重増加したものと認定した。
裁判長は、その他の項目についても退けた。そして、「5点の衣類」が袴田被告のものであること、シャツに袴田被告と同じB型の血痕があること、パジャマに被害者らと同じ血液型の血痕および混合油がついていたこと、アリバイがないことを挙げ、袴田被告を犯人と断定し、1976年5月18日、控訴を棄却した。
1980年11月19日、最高裁は、原判決に事実の誤認がないとして、上告を棄却した。
これにより、袴田さんの死刑が確定することとなった。
再審のゆくえ
これを不服とした弁護団は第1次再審請求を申し立てたが、2008年3月24日、最高裁はこれを棄却した。
しかし翌月、弁護団は静岡地裁に第2次再審請求を申し立て、2011年8月、「5点の衣類」の血痕のDNA鑑定が行われた結果、袴田さんのDNAと一致しないことが判明。唯一の物的証拠の根幹が揺らいだことから、2014年3月27日、静岡地裁は再審開始を決定した。

裁判長は「証拠捏造の疑いがある」と捜査機関を厳しく批判。刑の執行・拘置の停止という異例の決定も下し、同日、袴田さんは東京拘置所から釈放された。

しかし2018年6月11日、東京高裁は、DNA鑑定の方法について深刻な疑問があるとし、味噌漬け再現実験についても証拠価値は低いとして、再審請求を棄却した。
2020年12月22日、最高裁は、東京高裁の「第2次再審請求の棄却」を取り消し、審理を東京高裁に差し戻す決定を行った。第2次再審請求審では、公判に未提出の否認調書が14通、自白調書が20通あることも判明している。
ついに再審決定

そして2023年3月13日、東京高裁は再審開始を認める決定を出した。
東京高裁は「1年以上みそ漬けされた衣類の血痕の赤みが消失することは合理的に推測できる」と認定。また、赤みがある衣類は第三者が事件後にタンクに隠したもので、「第三者は捜査機関の者である可能性が極めて高いと思われる」とまで述べた。
この決定に対し、東京高検は「特別抗告」をする意向を示していたが、3月20日、これを断念したことがわかった。
特別抗告(とくべつこうこく):各訴訟法で不服を申し立てることができない決定・命令に対して、その裁判に ”憲法解釈の誤り”、その他 ”憲法違反” を理由とするときに、特に最高裁判所に判断を求める抗告をいう。
これで袴田さんの再審公判開始が確定し、裁判は静岡地裁からやり直しとなる。3月23日には、今後開かれる静岡地裁の再審公判で検察が有罪立証を見送る方向で検討していることが判明した。
大きな争点がなくなることで審理が短縮され、無罪判決が早まる見通しとなった。
死刑が確定した事件で再審が行われるのは5件目で、過去4件はいずれも無罪が言い渡されている。
袴田巌さんの生い立ち

袴田巌さんは1936年3月10日、静岡県浜名郡雄踏町(現浜松市西区)で生まれた。中学卒業後にボクシングを始め、アマチュアでの戦績は15戦8勝7敗(7KO)。1957年 静岡国体に成年バンタム級出場した。
1959年に上京して不二拳闘クラブに入門。岡本不二氏に師事し、プロボクサーをめざす。そして、1959年11月にプロデビュー。戦績は29戦16勝(1KO)10敗3分で、最高位は全日本フェザー級6位である。
1961年5月、身体の不調のためプロボクサーを引退。1960年に19戦したが、これは日本最多記録である。
その後、静岡県清水市(現静岡市清水区)横砂の、有限会社 王こがね味噌橋本藤作商店に就職した。
「有限会社王こがね味噌橋本藤作商店」は、1972年に「株式会社富士見物産」と改称した

1966年6月30日、同社専務宅で本事件が発生し、8月18日、容疑者として静岡県警察に逮捕された。当初は無実を主張したが、警察の違法な取調べに耐えかねて自白、裁判(第一審)では死刑判決となった。
1980年12月12日、最高裁が上告を棄却したため死刑が確定した。
2014年3月27日、静岡地裁で第2次再審請求が認められ、48年ぶりに異例の釈放となる。
2018年6月11日、東京高裁は再審開始を認めない決定を出した。
2020年12月22日、最高裁は東京高裁の決定を取り消し、高裁へ差し戻す決定を下した。
2023年3月13日、東京高裁は再審開始を認める決定を出した。
現在、袴田さんは死刑囚のままだが、収監されてはいない。
袴田事件の一審裁判官・熊本典道さんが死去

袴田さんの第一審裁判官だった熊本典道さんが2014年11月11日午後2時57分、急性肺炎のため福岡市の病院で死去した。83歳だった。
熊本さんは判決で無罪と主張したが、あと2人の裁判官が有罪と判断したため、袴田さんは死刑となり、仕方なく死刑判決を書いたと、のちに告白していた。
判決翌年の1969年、自責の念から退官。2007年、「公判当時、無罪との心証を持っていた」と告白。それ以降、袴田さんの再審請求を巡り、陳述書を裁判所に提出するなど支援を続けていた。

袴田さんの釈放後の2018年には、念願だった面会を50年ぶりに果たした。袴田さんの姉の秀子さんも入院中の熊本さんを見舞っていた。秀子さんは、「本人(熊本さん)としては言わなくても良いことなのに、よく言ってくれた。私たち家族にとっては大変ありがたかった」と話した。
生き残った長女が謎の死
2014年3月28日、袴田事件で唯一助かった専務の長女・昌子さん(67)が、清水区の自宅で死去していた。この日訪ねてきた家族が、死亡しているのを発見したという。静岡県警清水署は、事件性はないとみている。
この前日、袴田さんは48年ぶりに釈放されていて、あまりの偶然に「何かの力が働いている」とネットでは暗殺を指摘する声も相次いだ。彼女は何かを知っていて、口封じされた、というわけだ。
また、彼女こそ真犯人という声も以前から根強くあり、「冤罪が確定したら、自分の犯行がバレるから自殺した」という意見も多数みられる。
昌子さんは事件当時19歳で、別棟の祖父母の家で寝ていて難を逃れた。数年前に夫を亡くしてから1人で暮らし、家族がたびたび様子を見に来ていた。
袴田さんの拘禁反応

袴田さんは、死刑囚という立場のまま釈放されたが、収監期間は48年という気の遠くなる長さ。外部との交流をほぼ断たれ、狭い部屋に長期間閉じ込められると、人間の精神状態はおかしくなる。特に死刑囚は、毎日が死の恐怖と向き合っているのでなおさらである。
そういった場合に「拘禁ノイローゼ」という症状が出ることがあり、死刑囚には多いことが知られている。拘禁症状には、「野生動物のように暴力的になるタイプ」、それとは逆に「うつ病のようになるタイプ」といろいろだが、袴田さんは後者。このことからも、袴田さんは性根が暴力的な人間ではないと推測できる。
袴田さんの拘禁症状
- 視線を宙にさまよわせ、指を頭上に突き上げ何かをつぶやく
- 自分のことを、最高裁長官、日銀総裁、ハワイの王、などと口走る
- 壁にぶち当たる直前まで歩く(狭い独房に居るかのように)
- 同じ範囲の往復を繰り返す(これも独房にいた時の行動)
- 会話していても理解できないことを言う
独房での48年間、死の恐怖から逃れるために「自分だけの世界」を頭の中に作り上げたのでしょう。
新潟少女監禁事件でも、被害少女は耐えるため「暴行を受けているのは自分ではない」と、もうひとりの人物を頭の中に作ったといいます。想像を絶する苦痛に見舞われた時、人間の精神は自衛手段として、妄想の世界に逃げるのです。もし冤罪だったなら、これは謝って済むレベルではありません。

独房での48年間、死の恐怖から逃れるために「自分だけの世界」を頭の中に作り上げたのでしょう。
新潟少女監禁事件でも、監禁された少女は耐えるため「暴行を受けているのは自分ではない」と、もうひとりの人物を頭の中に作ったといいます。想像を絶する苦痛に見舞われた時、人間の精神は自衛手段として、妄想の世界に逃げるのです。もし冤罪だったなら、これは謝って済むレベルではありません。
冤罪なら真犯人は誰?
袴田さんには、誰もが納得できる犯行動機がない。袴田さんは単なる従業員であり、専務が死んで遺産が入ることもなければ、出世するわけでもない。それに彼は専務を慕っており、感謝の気持ちをいつもまわりに話していたという。
もし、「被害者がいなくなって一番得をする人間が犯人」と仮定するなら、それに該当する人物がひとりだけ思い当たる。それは専務の長女の晶子さん(当時19)である。彼女は家族でただひとり被害を免れている。彼女にまつわるエピソードは、怪しいものが多い。
- 彼女はいわゆる不良娘で、素行の悪い男と付き合い、親から勘当同然だった
- 事件の日は、たまたま家に帰って来ていた
- 家族からのけ者にされてる印象、という証言がある
- 出来のいい妹を妬んでいた
- 事件後、多額の遺産が入った
- 袴田さんの再審開始の翌日、謎の死を遂げた
ネットでは真犯人との噂まである。袴田さんの再審開始の翌日、謎の死を遂げているが”偶然にしてはタイミングが良すぎる”というわけだ。「再審で袴田さんが無罪になったら、自分が疑われるから自殺したのでは?」、「警察とか暴力団関係者に消されたのでは?」など、憶測はいろいろ流れている。