宮崎家族3人殺害事件|「遺族にも愛される死刑囚」はウソ?

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宮崎家族3人殺害事件 日本の凶悪事件

宮崎家族3人殺害事件

数日に1回は義母に叱責され、家の中で小さくなって暮らしていた奥本章寛(当時22歳)。揉め事の嫌いな奥本は、言い争うより我慢するほうを選び、言いたいことも言わずに耐えてきた。
しかしある時、自分ではなく両親や大切な故郷の人たちを罵倒される。それは奥本にとって耐えられないことだった。彼の中で殺意が芽生えていく

数日後、彼は義母だけではなく妻子まで殺害してしまう。奥本にとって義母と妻は一体に感じ、妻を殺す以上、長男は残しておけないと思ったのだ。
裁判では彼の立場に一定の同情は示されたが、下った判決は死刑だった。

事件データ

犯人奥本章寛(当時22歳)
事件種別強盗殺人事件
発生日2010年3月1日
犯行場所宮崎県宮崎市
被害者数3人死亡(家族)
判決死刑:福岡拘置所に収監中
動機義母から逃れたい
家族や故郷を罵倒された
キーワード色鉛筆画

宮崎家族3人殺害事件の詳細

宮崎家族3人殺害事件

奥本章寛は高校卒業後、航空自衛隊に入隊して宮崎県で勤務した。この頃、出会い系サイトで知り合ったくみ子さんと交際を始め、2009年3月、くみ子さんの妊娠を機に結婚。そして自衛隊を退職する。

だがこの退職について、くみ子さんの母親・池上貴子さん(50歳)は気に入らなかった。
あんたのことは自衛隊を辞めた時から気にくわん
事あるごとにそんな嫌味をいわれたが、元来気の小さい奥本は何も言い返せなかった。結納や結婚式をしなかったことについても、しつこくなじられたが、「お金がない自分が悪い」と謝る日々だった。実際、奥本は車のローン400万円や出産費用などで余裕がなかった。

自衛隊を退職したあとは、月給18万円の宮崎市の建設会社に勤めた。しかし妻子と義母の4人で暮らすには満足な額ではない。義母は、生活費の足りない分は補ってくれたが、「男のくせに、稼ぎが悪い」といったような罵声を浴びせた。

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そんな奥本のために、実家からはよく米や野菜を送ってくれたが、貴子さんは「お前の家族は何もしてくれん」と言う。両親が福岡から訪ねて来た時も、最初は家にあげるのを嫌がった。

家にあがってからも目を合わせようともせず、初孫のために持ってきた服がお古だったことが相当気に入らない様子だった。両親が帰ると、貴子さんは「何をしに来たんだ」「新品を買ってこないのは非常識。お古なんか汚い」というようなことを言った。

精神的な限界

義母のそんな仕打ちに対し、揉め事の嫌いな奥本はひたすら我慢していた。そのうち衝突を避けるため、仕事が終わっても車の中で午後10時~11時まで過ごしてから帰宅するようになる。一方で土木系の仕事の朝はとても早く、睡眠を削られた奥本は心身ともに疲弊していく。

車の中では出会い系で知り合った女性とメールするなどして時間を潰していたが、それを知ったくみ子さんからは「いつでも離婚してあげる」とメールが届いた。

そんな ”精神的に限界が近かった” 奥本に、致命的な出来事が起こる。

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2010年2月23日、長男・雄登くんの初節句を宮崎と奥本の地元のどちらでするかを巡って、貴子さんと口論になった。その際、貴子さんから頭をたたかれ、奥本の出自を差別的な言葉で中傷されたのだ。
さらには「離婚したければ離婚しろ。慰謝料をガッツリ取ってやる」と言われた。

奥本は自分に対する中傷はまだ我慢できたが、家族や少年時代から良くしてくれた故郷の人たちへの罵倒は許しがたかった

しかし翌24日には、貴子さんと互いに謝罪し合った。表面上は収まったかに見えたが、奥本の心の中では「こんな生活はもうイヤだ」という気持ちが渦巻いていた。
自殺や離婚、自分が失踪することも考えたが、実家の両親に迷惑をかけると思い、25日に家族3人の殺害を決意する。

息子まで殺害

宮崎家族3人殺害事件・池上貴子さん
被害者の義母・池上貴子さん

2010年3月1日午前5時頃、奥本章寛(当時22歳)は、宮崎市花ヶ島町の自宅で長男・雄登くん(5ヶ月)の首を絞め、風呂でおぼれさせて殺害。次に妻・くみ子さん(24歳)の首を包丁で刺し、頭部をハンマーで殴って死亡させた。最後に義母・貴子さん(50歳)の頭部をハンマーで何度も殴って殺害した。

家族間殺人

妻子まで殺害したことについて奥本は、「3人は一体のように感じていたから」という内容のことを話している。育児を通じて ”義母と妻の結びつき” は強くなり、妻と息子の ”母子関係” は絶対切り離せないもの。義母に罵倒される奥本は、ひとり孤立していき、3人を一体にみなして全員殺してしまったのだ。

その日は、普段通り出社した。午後2時頃まで仕事した後はパチンコ店で過ごし、午後9時頃一旦帰宅。その後、自宅から約800m離れた、自身が勤める建設会社の資材置き場に、雄登くんの遺体を埋めた

帰宅後、奥本は「自宅で妻と義母が倒れている」と通報。駆けつけた宮崎県警・宮崎北署員が2人の遺体を発見した。署員は長男が見当たらないので捜索する一方、奥本から事情を聞いた。

この時、奥本の説明があいまいだったため追求したところ、奥本は「長男を埋めた」と供述。その通りの場所から、雄登くんの遺体が発見された。

翌2日、警察は奥本を死体遺棄容疑で緊急逮捕。23日、長男殺人容疑で再逮捕、4月13日に妻と義母の殺人容疑で再逮捕した。

奥本章寛の生い立ち

宮崎家族3人殺害事件・奥本章寛
剣道一筋だった少年時代
奥本章寛・少年時代
少年時代の奥本章寛

奥本章寛は1988年2月、福岡県豊前市求菩提で3人兄弟の長男として生まれた。
山間の小さな集落で育った奥本は、周りの人たちからも愛されてまっすぐ育った。幼いころから気が弱く、揉め事が嫌いで自分から謝るような性格だった。人に好かれたいがために、周りに合わせて我慢することが多かった。

両親によると「反抗期らしいものはなかった」という。小学校高学年の頃は、我慢できないことがあった時は棒で石をたたいて発散した。

国の重要文化的景観
求菩提の農村景観

豊前市のシンボルである「求菩提山」は、日本を代表する山岳修験の山として2001年に国の史跡に指定された。そして2012年6月15日には、「求菩提の農村景観」が国の重要文化的景観に選定されている。  

転職が事件のきっかけに…

高校時代の奥本章寛
築上西高校時代の奥本章寛

築上西高校卒業後は航空自衛隊に入隊した。赴任先は宮崎県で、そのころ出会い系サイトでくみ子さんと知り合い、妊娠をきっかけに結婚することとなった。

結婚と同時に性に合わなかった自衛隊を退職し、宮崎市の建設会社に勤めた。建設会社の社長は奥本のことを、「まじめな働き者。安心して作業を任せられる」と評価している。

ところがこの転職を義母は気に入らず、日常的に嫌味や罵倒を言われるきっかけとなる。自衛隊だから結婚を許したというようなことも言われた。

それからというもの、数日に1回は叱責・罵倒されるような生活が続いた。そして2010年2月23日、故郷や両親について差別的な言葉を浴びせられたことで、奥本はついに我慢の限界を超えてしまう。
2010年3月1日、本事件を起こして逮捕。何の罪もない息子まで殺害したことが不利となり、裁判では死刑が確定する。現在は福岡拘置所に収監中である。

家族という呪い (加害者と暮らし続けるということ)

不満や怒りを溜めて我慢してしまう人は、限界を超えた時には怖いってよく聞きますね。

奥本章寛もそんな男だったのでしょう。

 

この事件は「誰が悪い」とか「何が悪い」とかいうよりも、一番の原因は奥本と義母・貴子さんが水と油のような関係だったことではないでしょうか?

 

奥本はのどかな山間の小さな集落で、みんなに可愛がられて育ちました。彼に合うのはそんな故郷の温かさを感じるような人ではないかと思います。そんな家族との同居だったら、きっとみんなが幸せに暮らせたような気がします。毒舌タイプの激しい性格の人とは、きっと合わないんでしょう。
被害者は本当に気の毒ですが、加害者もある意味かわいそうな事件です。

色鉛筆裁判

宮崎家族3人殺害事件・色鉛筆裁判/黒原弁護士
奥本章寛死刑囚の描いた絵を見せる黒原弁護士

殺人事件の死刑囚が絵を描くのに使う色鉛筆を使用禁止とされたのは ”表現の自由” の侵害に当たる

こう訴えて法務省訓令の取り消しを求めた訴訟が、東京地裁で開かれている。奥本章寛死刑囚側は、色鉛筆で描いた絵画の販売収益を遺族への弁償に充てており「贖罪(しょくざい)のために必要不可欠」と主張している。

奥本死刑囚は公判中から「集中でき、心が落ち着く」との理由で色鉛筆画を描き始めた。最初に描いたのは桜の木。当初は植物が多かったが、次第に動物や故郷の風景を、最近では子供を囲む家族の絵を描くようになった。

黒原弁護士は、絵を販売して収益を遺族への被害弁償に充てることを提案。絵葉書や絵を収録した小冊子を作成し販売、200万円超を送り、遺族も受け取っているという。

ところが、法務省は2020年10月に訓令を改正。この中で、「死刑囚が色鉛筆や鉛筆削りを購入し、自室で使うこと」が禁じられ、2021年2月から施行された。禁止された理由について黒原弁護士は「鉛筆削りの刃を用いて自傷行為に出た人がいたためではないか」と推測する。

法務省が現在、ホームページで公開している訓令には、確定死刑囚らが自費で購入できる文房具として、シャープペンシルやボールペンが記載されている。同省によると、カラーシャープペンシルも含まれるというが、奥本死刑囚は現在、「(色鉛筆でなければ)濃淡が出せない」と、絵を描くのをやめているという。

黒原弁護士は奥本死刑囚の意向を受けて今年7月、国を相手取り訓令の取り消しなどを求める訴訟を提訴する手続きを取った。国は争う姿勢を見せており、裁判所の判断が注目される。

裁判員裁判

検察側は犯行動機として、「義母からの叱責や育児の負担により、家族が邪魔になった奥本章寛被告が、自由になりたいと思った」と指摘。「事前にハンマーを準備するなど計画性」、「被害者の頭を何度も殴る残忍さ」、「長男の遺体を埋めて証拠隠滅を企てた」などを挙げ、死刑を求刑した。

弁護側は「奥本被告は明るくまじめだが、日頃から義母に怒鳴られるなどして家に居場所がなかった」と説明。「離婚も考えたが、義母から高額な慰謝料を請求すると言われ、自由になるには3人を殺害しなければいけないと考えるようになった」と訴えた。

そして前科がなく、まだ若いとして情状酌量を求めていた。

第一審判決は死刑

2010年12月7日、宮崎地裁は、検察側の主張する動機や求刑の理由について認定し、死刑判決を言い渡した。奥本被告は犯行の2日前、義母から「部落に帰れ。これだから部落の人間は!」「離婚したければ離婚しなさい。慰謝料ガッツリとってやる!」と激しい罵倒とともに頭を何度も叩かれ、「その翌日に犯行を決意した」と認定した。

裁判長は「極めて自己中心的で人命を軽視した犯行。厳しい非難に値する」と指摘。長男の殺害状況や、土に埋めた証拠隠滅について「生後5カ月のわが子への情愛は感じられない。無慈悲で悪質」と述べた。反省についても「表面的な言葉にとどまり、内省の深まりは乏しい」と言及した。

更生の可能性については「否定はできない」としたものの、「強い自己中心性や人命軽視の態度に照らせば、過大に評価できない」と退けた。

また、奥本被告に有利な事情、「義母とのトラブル」や「まだ若い年齢」などについても「結果の重大性と比較すると、極刑を回避すべき決定的な事情とは認められない」と結論付けた。

弁護側は判決を不服として控訴した。

裁判員裁判での死刑判決は全国で3例目で、九州・沖縄地方では初だった。

控訴審:心理鑑定を実施

2011年5月19日の控訴審初公判で、奥本被告は動機について「一方的に文句を言う義母から逃れたかった」と語り、現在の心境を「取り返しのつかないことをした。今でも家族4人で笑っている光景を思い出す」と述べた。

弁護側は、奥本被告の動機に関する被供述があいまいなことから、「精神的に追い詰められていたことを証明したい」として心理鑑定を依頼した。

11月10日の第2回公判では、奥本被告の心理鑑定を行った臨床心理士が鑑定結果を明らかにした。

犯行動機については、以下の3点を犯行の引き金として挙げた。

  1. 義母の叱責
  2. 借金などの経済的問題
  3. 睡眠不足に伴う疲労感

さらに「追い込まれたことで、意識や視野が狭まり、思考判断が衰えるようになった。自分の身を守るため、殺すしかないという偏った選択肢に飛びつくしかなくなった」と述べた。

殺害の矛先が母子にまで向けられた心理状態について、「義母と妻は一体で、母親のいない息子は考えられない。3人は一体と考えるようになり、追い込まれた末の行動だった」とした。

その他の鑑定結果
  • 奥本被告の性格:気持ちが抑圧されても、小出しに感情を出すことが出来ず、積もり重なって爆発することがある。
  • 家庭環境:結婚後すぐ子どもが生まれ、生活環境が急変、湧き起こる問題にどこから対処していいのか分からなくなった。
  • 更生の可能性:人格形成上も未成熟さが残り、犯行時の精神状態に大きな影響を及ぼした。反省は深まり、更生の可能性は高い。

2012年3月22日、判決公判で福岡高裁死刑判決を支持し、控訴を棄却した。弁護側は最高裁に上告した。

最高裁:上申書を提出するも死刑確定

一審で奥本被告に対して死刑を求めた義弟(妻・くみ子さんの弟)が、上告審を前に「母の言動にも問題があった」といった内容で、最高裁に「死刑を回避し情状酌量するよう求める上申書を提出した。

2014年10月16日、最高裁は上告を棄却、これにより奥本被告の死刑が確定した。

上申書についての義弟の真意

義弟が上申書を提出した理由

義弟(妻・くみ子さんの弟)が上申書を提出したことを、マスコミは「遺族にも愛される死刑囚」として報じたが、当の本人はそうではないと九州・沖縄犯罪被害者連絡会「みどりの風」のインタビューで答えている。

義弟の真の目的は、奥本に「姻族終了届を提出してほしい」ということだったというのだ。義弟は事件後、遺族でありながら犯人の親族(義理の弟)でもあり、とても生きづらくなり、公務員も辞めてしまっていた。今後の自分のため、そして自分の親族のためにも、姻族終了届は絶対必要と考えた。

それを奥本側に伝えると、奥本の支援者団体からある頼み事をされた。それは「上申書」を書いてほしいということだった。義弟は支援者団体の信用を得るため、求められるがまま「上申書」を書いた。それが何かの美談のようにマスコミに報じられてしまい、とても心外な思いをしているという。

奥本と何回も面会してわかったのは「心から反省していない」ということ。謝罪に心がこもっていないと感じるそうだ。

・聞き手:木野千尋(2017年4月27日 宮崎市内にてインタビュー)

Q 第一審で死刑判決が出た時にはどんな思いだったか?
A 3人も殺しているので、それは当然だ。
Q 死刑を望んでいたということか?
A はい。
Q 死刑を望む気持ちだったのに、その後、裁判所に対して、「死刑を望まない」という上申書を提出したが、なぜか?
A 加害者側の親族と関係を切りたくて(結果的に)上申書を出した。
Q 加害者を救う会と関わりを持ったのは何時頃、どういう形だったか?
A 最高裁が始まる半年ぐらい前に、自分の仕事中に加害者を支える会の人が来た。
Q その後支える会の人と何回か会ったか?
A 数え切れないくらい。
Q どこで会ったか?
A 加害者の出身地(福岡)に救う会があったので、行って交流会とかした。
Q なぜそこまで交流をしたかったのか?
A 姻族関係終了届を出してもらいたくて、そのためには信用があった方が出してもらいやすいと思ったので会った。
Q 終了届を出してもらうことをなぜそんなに望んだのか?
A 自分の将来のために必要だったのと、親戚とかに迷惑がかかると思って、必要だった。
Q 加害者を支える会と話ができるようになって、終了届の依頼はしたのか?
A 何回もお願いしたが、してもらえなかった。
Q 終了届をしてもらいたいと頼んだ時、加害者を支える会から何か頼まれたことはあったのか?
A 上申書を書いてほしいと頼まれた。
Q 上申書の内容はどちらから出されたのか?
A 加害者を支援する会から出された。
Q 一審の時は死刑を望んでいたという話だったが、上申書はそれとは反対の内容だと思うが、その点についてどう思ったのか?
A 自分と思っていることとは違ったが、姻族関係終了届を提出してもらいたかったので仕方なく上申書を書いた。
Q 終了届はそれほど欲しかったのか?
A 絶対必要だった。
Q 加害者に何回ほど接見したのか?
A 全部で10回くらい。
Q 加害者に会って、事件に対しての反省とかについて、どんな印象を持ったか?
A 反省はしてないと思う。謝罪の言葉が心から言ってないなと感じた。
Q 加害者側が再審請求をしたが、上申書が拠り所になっている。それについてはどう思うか。
A それはいやだ。死刑を望むので、上申書で判決が変わったりするのはいやだ。
(以下略)

姻族関係終了届:夫婦の一方が亡くなった場合、生存配偶者が死亡した配偶者の血族との姻族関係を終了させる届出。(これをしないと配偶者の血族との姻族関係は継続する)

宮崎家族3人殺害事件被害者遺族へのインタビュー 2017年7月13日

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