「名古屋老夫婦強盗殺人事件」の概要
「強盗殺人ではなかった」とした無期懲役判決が差し戻され、やり直しの裁判で死刑が言い渡された。これは、2017年に名古屋で起きた老夫婦殺害事件。
犯人の松井広志被告は、逮捕から一貫して強盗目的を否定してきたが、最初の判決ではそれが認められていた。しかし、差し戻しが決定した直後から松井被告の体調に異変が現れる。2022年2月、末期のすい臓がんであることが判明し、医師から「余命1年」と宣告された。今更ながら命の尊さを思い知る松井だが、”命あるうちに刑が確定できるのか” が懸念されている。
事件データ
犯人 | 松井広志(当時42歳) *現在は改名して山田広志 |
犯行種別 | 強盗殺人事件 |
犯行日 | 2017年3月1日 |
犯行場所 | 愛知県名古屋市南区豊1丁目 |
被害者数 | 2人死亡 |
判決 | 死刑:控訴中 |
動機 | 嫌味を言われてカッとなった |
キーワード | すい臓がんで余命宣告 |
事件の経緯

2017年3月2日午前8時頃、愛知県名古屋市南区豊1丁目の大島克夫さん(83)と妻・たみ子さん(80)が、自宅で死亡しているのが見つかった。この日、たみ子さんと会う約束をしていた近隣の知人女性が大島さん宅を訪ねたところ、1階の居間付近で倒れている夫婦を発見した。夫婦は2人暮らしだった。
県警によると克夫さんはあおむけで、たみ子さんは横向きの状態で重なり合うように倒れていた。いずれも首付近に克夫さんは1カ所、たみ子さんは複数カ所に刃物で刺されたような傷があり、発見時すでに死亡していた。
知人女性が訪問した時、玄関は無施錠で室内のテレビは点いたままだった。また早朝4時30分頃、「普段は消えている室内の照明が灯いたままだった」と新聞配達員が証言している。現場からは1200円が入った財布がなくなっており、凶器とみられる刃物は見つからなかった。愛知県警は殺人事件と断定、南署に特別捜査本部を設置した。
だが、事件は思いのほか早く解決してしまう。なぜなら事件発生から3日後となる3月5日、犯人が警察に自首してきたからである。
犯人が自首

自首したのは、はす向かいのアパートに住む松井広志(当時42)だった。事件前日の3月1日午前9時頃、無職の松井は区役所で生活保護費8万2千円を受け取った。松井には6万6千円の借金があり、その金で返済する約束だったが、今まで行った事がなかったパチンコ店で約6万円を使ってしまう。
自己嫌悪でイライラした気持ちのまま、自宅アパートに帰ってきたのが午後7時頃。この時、はす向かいの2階建て一軒家に住む大島たみ子さんと言葉を交わした。
供述によると、大島たみ子さんに「仕事もしていないのに、いいご身分ね」などと言われたのだという。
松井は交通事故の後遺症で足が悪く、「好きで働かないわけじゃない」と思った。もともとイラついていたところに面白くないことを言われ、松井はさらに機嫌が悪くなった。いったんは部屋に戻った松井だったが、その後、あらためて自分を全否定されたように感じ、「何でそんなこと言われないといけないんだ」と怒りがわいた。
午後8時頃、松井は包丁を手に大島さん宅へ向かい、そして犯行におよんだ。犯行のあと、松井は部屋を物色し、みつけた財布を持ち出して家を出た。財布には1200円が入っていたのだが、このことが裁判で「強盗殺人かどうか」の争点となる。大島さん宅を出たあと、松井は行きつけの南区のスナックで「パチンコで負けた」と話し、ツケの一部2万5千円と飲み代3千円を支払った。
緊急逮捕となった松井は犯行をおおむね認めたものの、強盗目的については否認した。アパートの部屋からは、凶器とみられる刃物と大島さん方から奪った財布が見つかった。大島さん夫婦については「顔は知っている」と話した。
松井広志は余命わずか?
事件を起こしたのは2017年3月。その5年後となる2022年2月下旬、松井はすい臓がんで余命宣告を受けた。この時すでにがんは末期のステージ4。肝臓にも転移していて手術や放射線治療はできず、「余命は1年」と医師に告げられた。
2022年5月に面会した記者によると、体重は約20キロ減り、逮捕時とは別人のように痩せ細っていたという。松井は「身体がだるく食欲もない。飲み薬と栄養剤で延命治療をしている」と話した。

裁判の争点は「強盗目的」があったかどうか。2019年の一審判決では、「殺人」と「窃盗」にあたるとして、無期懲役を言い渡されていた。しかし、翌年の控訴審で高裁が審理を差し戻す決定をした。その後、松井の体調に異変が現れ、2022年2月に末期のすい臓がんであることがわかった。
松井は、「自分の罪は重く、命の儚さを感じた。もともと自分が死刑になることは受け入れていたが、余命宣告されたことで命の尊さを身近に感じる」と語った。
また、遺族らは松井被告の病状を知って、複雑な心境を以下のようにコメントしている。(2022年7月)
- 大島夫婦の三男・大島明好さん(58)
「あいつが、がんでどうなろうと何も思わんけど、まだ裁判が終わっとらん」。極刑を求めることは変わらないとする一方、「犯罪者にも人権はある。医療の部分は国がちゃんとしてあげないと」と冷静に話した。 - 夫・克夫さんの弟(79)
「裁判は終えられるのか。刑が確定しないままでは、2人は浮かばれん」 - (克夫さんの弟の)妻(81)
「罪のない身内を殺された怒りは消えない」としつつ、「末期がんとは気の毒。健康でなければ刑罰も与えられないし、本人が悔いても罪を償えない」と語った。
そして2023年3月2日の差し戻し審で、松井に死刑判決が下された。”強盗殺人”であったことが認定されたのだ。このまま最高裁判決まで松井の命がもつのかが懸念される。
「がん発見遅れ」で松井が国を提訴
松井被告は、「名古屋拘置所の医療措置が不十分だったため、末期がんの発見が遅れた」などとして、国に損害賠償を求めて訴訟を起こす方針だという。
松井は「以前から何度も倦怠感や食欲不振、体重減少を訴えてきた。数値が悪化していたのに速やかに精密検査を行ってもらえず、手遅れになった可能性がある」と主張している。訴訟の代理人を務める弁護士は「被収容者が適切な医療上の措置を受ける権利は憲法や法律で保障されている。早期に専門医の診療や精密検査を受けていれば、打つ手があったのではないか」と指摘する。
法務省矯正局や名古屋拘置所は、「一般論として矯正医療は適切に行っている。医療過誤があったとは考えていない」と取材に回答している。
裁判:差し戻しで死刑判決
本事件の裁判は強盗殺人の成立を巡り、異例の経過をたどっている。
争点は、”強盗殺人かどうか” 。検察側は「強盗目的があった」と主張して「死刑」を求刑、一方の弁護側は「強盗目的はなかった」と反論した。松井(現・山田)広志被告も一貫して強盗目的を否認した。
2019年3月8日、第一審判決で名古屋地裁は強盗殺人ではなく「殺人」と「窃盗」の罪が成立するとし、無期懲役の判決を言い渡した。
検察側は「借金があり、強盗目的だった」と主張していたが、裁判長は「金品目的なら広範囲を物色するのが自然なのに、バッグを物色して財布を持ち去るだけにとどめたのは不自然」と指摘。「殺害してまで金品を奪おうと考えるほど追い詰められていたかは疑問だ」と述べた。また、殺害後に窃盗を思い立った可能性を認めた。
しかし翌年の控訴審判決で名古屋高裁は「原判決には事実誤認がある」と、審理を差し戻す決定をした。裁判長は、「強盗目的でも、現場の状況などから物色の範囲が限定されることはある」と述べ、「強盗目的を認めることが前提」として一審判決を破棄。裁判はやり直しとなった。
こうして2023年1月30日から、差し戻しの裁判員裁判が始まった。松井被告は最終陳述で「もし叶うのであれば事件前に戻りたい」と後悔の念を示した。
そして注目の判決となった3月2日、名古屋地裁は「死刑を選択することが真にやむを得ないと認められる」と、松井被告に死刑を言い渡した。
名古屋地裁は「2人を殺害した直後にバッグや車を物色するなど、強盗殺人を遂げるため一貫した行動を取っている」として強盗殺人罪の成立を認め、求刑通りの死刑判決となった。
弁護側が主張していた「軽度の知的障害が事件に影響した」という点についても、日常生活が送れていたことを挙げ、「障害による衝動性・短絡性の影響は認められない」との判断を示した。
被害者夫婦の長男は「裁判所として強盗目的があると言ってもらえたことは嬉しい。やったことに対しての反省はしてもらいたい」とコメントした。
松井被告は犯行当日、受け取った生活保護費およそ8万円のうち6万円ほどをパチンコに使い、借金が返済できない状態にあった。裁判長は「自業自得で犯行に至る経緯に酌むべき事情はない」と指摘した。
死刑判決直前の松井被告

差し戻し審の判決を迎える前、松井被告は記者の面会に応え、以下のように話している。
「知的障害は事件後に鑑定されて知った。事件時、自分が正常じゃなくて怒りが収まらない状態で、自分の体が自分の体じゃない感じ。刺した記憶はあっても感覚がない。説明できないが、殺めたことに対して自覚がない」
「仮に死刑になるとしても、自分にはがんがあるので覚悟はできている。問題は罪名。最初はお金目的ではない、そこだけは自分の頭にある。控訴する方針、罪名が強盗殺人であれば」
この言葉通り、松井被告は死刑判決後に控訴している。