西鉄バスジャック事件|初めて死亡者が出たバス乗っ取り事件

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日本の凶悪事件

「西鉄バスジャック事件」の概要

2000年5月3日、ゴールデンウイークの真っ只中、17歳の少年が高速バスを乗っ取る事件が発生した。
佐賀県から70分かけて福岡市天神へ向かうはずのバスは、少年の要求により山口県・広島県に進路を変えた。途中、窓から脱出した乗客に腹を立てた少年は、腹いせに別の女性客を殺害。最後は事件発生から15時間半後、山陽自動車道の小谷サービスエリア(広島県)で取り押さえられた。
動機は「中学時代のいじめの復讐」だったが、精神病院から許可された一時帰宅がゴールデンウイーク中で学校は休み。急遽、バスジャックに変更したのだという。

事件データ

犯人谷口誠一(当時17歳)
事件種別 殺人事件
発生日2000年5月3日
犯行場所西日本鉄道の高速バス「わかくす号」車内
佐賀県→山口県→広島県
被害者数1人死亡、2人重傷
判決 医療少年院送致(2006年1月仮退院)
動機「いじめの復讐」の代替え行為
キーワードバスジャック、17歳、2ちゃんねる

事件の経緯

(参考画像)西鉄高速バス「わかくす号」

2000年5月3日12時56分頃、西日本鉄道の高速バス「わかくす号」は、定刻通りに佐賀第二合同庁舎を出発した。このバスは福岡県の「西鉄天神バスセンター」行きで、九州自動車道を走行して午後2時6分に到着する予定だった。

バスは順調に目的地に向かっていたが、全行程の半分以上が過ぎた太宰府インターチェンジ付近で、ある異変が起こる。午後1時35分頃、バスの乗客のひとりである谷口誠一(当時17)が刃渡り40cmの牛刀を片手に騒ぎ出したのだ。

谷口は運転手(当時57)に「大宰府インターを降りずにまっすぐ行け」と命じ、乗客に向かって「行き先は天神じゃない。地獄だ」と、バスの乗っ取りを宣言した。そして、乗客に「持っている荷物を出せ」と怒鳴り、女性は車内前方に、男性は後方に座るよう指示した。

この時、寝ていて騒ぎに気づいていない女性客(当時34)を突然刺し、車内に戦慄が走った。谷口は倒れ込んだ女性を蹴り、乗客から奪ったカメラで写真を撮った。

事件発覚

その後、九州自動車道を山口県方面に走行するよう運転手に要求し、乗客に対してもカーテンを閉めさせるなど、様々な指示をくり返した。運転手は外部に異常事態を伝えようと、ハザードランプの点灯やパッシングをしていた。

午後2時47分頃、九州自動車道・新門司IC付近で運転手が「トイレ休憩が必要だ」と谷口を説得し、一部の乗客がバスを降りることを許された。その際、ひとりの女性客が隙を見て非常電話を使い、福岡高速管理室に通報。それに気付いた谷口は腹を立て、車内に残っていた山口由美子さん(当時50)の顔を切りつけた。

非常電話を受けた福岡高速管理室が警察に通報したことで事件は発覚した。午後3時8分、山口県警が県内に緊急配備を発令し、福岡県警も300人態勢の捜査本部を設置した。

西鉄でも午後3時30分頃、本社内に対策本部を設置して約20人が情報収集に当たった。しかし、乗っ取られた高速バス「わかくす号」は予約制ではないため、乗客の身元確認にも時間がかかった。また、当日は博多どんたくの期間中で、高速バスの利用者も多かった。

バスは山口県内へ

西鉄バスジャック事件・全行程

一方、バスは九州自動車道から関門橋を経て、中国自動車道に入った。

小郡IC付近では午後3時34分頃、乗客の女性看護師(当時30)が隙を見て窓から飛び降りた。この時、バスを追尾していた高速道路交通警察隊が女性看護師を救助し、警察は彼女の証言からバス車内の様子や、負傷者の発生を把握することができた。(女性看護師は右足を骨折するなど加療6週間の怪我を負った)

この逃走に対する見せしめとして、谷口は乗客の塚本達子さん(当時68)の右肩などを数回切りつけた。

塚本さんと顔を切られた山口さんは友人で、福岡市でコンサートを見るためにバスに乗車していた。

午後4時9分、谷口が携帯電話で110番に電話して「吉備サービスエリア(岡山県)まで行けば人質を解放する。拳銃と防弾チョッキを渡せ。東京へ行きたい」と要求した。

その後、バスは山口ジャンクションから山陽自動車道に入った。午後4時20分、下松サービスエリア付近(下松市)では警察車両がバスを誘導しようとするも失敗。この時、減速したバスから男性乗客(当時52)が窓から飛び降り、警察に救出された。

警察は山口県内での解決を断念して封鎖を解除し、バスを広島方向へ走らせた。その直後、谷口は男性客が逃げたことに対する見せしめとして、再び塚本さんの首を刺した。午後4時21分頃、塚本さんは失血により死亡した。

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この頃にはマスコミ各社も事件に関する報道を開始しており、男性客が救出される瞬間はテレビでも中継された。また、塚本さんが死亡したことにより、本事件は「日本のバスジャック事件において、人質が死亡した初めての事件」となった。

小谷SAで逮捕

西鉄バスジャック事件

バスは広島県に入った。午後5時24分、谷口は武田山トンネル(広島市安佐南区)付近で男性客4人全員を解放。午後5時50分、バスは奥屋パーキングエリア(東広島市)に入り、機動捜査隊長による谷口への説得が始まった。この時、「差し入れを提供する」という条件で、負傷した人質3人を解放した。(うち1人は失血死した塚本さん)

午後9時37分、谷口はバスを次の小谷サービスエリア(東広島市)に向かわせた。到着後の午後10時37分、ひとりの女性客(当時72)を解放。ちょうどその頃、谷口の両親が説得のために到着したが、谷口は接触を拒否した。

広島県警は食料や簡易トイレ、毛布などを乗客に差し入れ、4日午前0時41分には、女性客(当時52)が解放されている。

一方、小谷サービスエリア近くの広島県警警察学校では、福岡県警と大阪府警の特殊部隊(SAT)が、突入のための訓練を実施していた。

事件発生から15時間半が経過し、人質たちの疲労と緊張はピークに達していた。機動捜査隊長は窓越しに説得を続けていたが、そうしながらも実際は突入のタイミングを見計らっていた。

谷口誠一/西鉄バスジャック事件
バスジャックした谷口誠一

バスの乗客の中に、1人で乗っていた小学1年生の少女がいた。谷口はこの少女を盾のように自分のそばに座らせていて、うかつに手を出せない状況だった。
「少女から離れた時が突入のチャンス」、機動捜査隊長はそう考えていた。

すると午前5時3分、谷口が少女のそばを離れた。機動捜査隊長はすかさず合図を出し、それと同時にバス後方から機動隊員約15人が現れた。隊員らは左右の窓ガラスを割ってフラッシュバンを投げ入れ、5、6人が車内に突入。谷口はあっという間に取り押さえられ、逮捕となった。

フラッシュバンとは?

英国が開発した強烈な音と光を放つ新種の手投げ弾。それにさらされると人は「胎児状態(頭を抱え、腹部を守る姿勢)」になる生体反応があるため、容疑者は凶器が使えなくなり、人質は身を守る格好になる。日本において事件で使われたのは初めてだった。

突入で機動隊員1人が谷口に左足を切り付けられて負傷したが、この時点の人質9人と運転手に怪我はなかった。事件発生から解決までに要した時間は15時間半、全走行距離は374kmだった。
なお、事件の様子はテレビで生中継された。

犯人・谷口誠一の生い立ち

谷口誠一/西鉄バスジャック事件
バスジャックした谷口誠一

谷口誠一は1983年3月に佐賀県で生まれた。家族は4人で建設機械会社に勤める父親、役所で保健士として働く母親、兄弟は妹がひとりだった。

谷口は身体が小さく運動は苦手だったが、小・中学時代の成績は優秀だった。ただ協調性がなく注意力も散漫で、そんな性格のせいか中学3年生の頃からいじめを受けるようになった。その鬱憤を晴らすかのように家庭内で暴れるようになった。

この時のいじめが、事件を起こすきっかけとなっている。

中学3年生の1月某日、谷口は同級生に筆箱を隠され、「返して欲しければ(高さ5mほどの)踊り場から飛び降りろ」と言われる。この時、着地に失敗して腰椎の圧迫骨折という大怪我を負って入院した。

そのため高校受験は病室で行われ、佐賀県立致遠館高等学校に無事合格。しかし、怪我の後遺症のためコルセットを着用しての通学となった。さらに、新入生オリエンテーションの自己紹介では言葉がしどろもどろになり、他の新入生から笑われた。

入学直後のこの体験に傷付いたのか、谷口はわずか9日間で不登校となり、翌年3月に高校を自主退学した。

「2ちゃんねる」にのめり込む

西鉄バスジャック事件・新聞記事

谷口は自室に引きこもるようになり、インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」にのめり込んだ。「キャットキラー」、「ネオ麦茶」のハンドルネームを使い、1日中書き込みをしていたが、否定的な反応があると感情的に反発し、他のユーザーと諍いを起こしていた。

2000年2月29日、2ちゃんねるのあるスレッドで、「1000番目に書き込んだ者が勝者」という遊びをした際、「キャットキラー」こと谷口は、950番から999番まで独占して「1000」とだけ書き込んでいた。しかし、肝心の1000番目を別の誰かに取られてしまい、笑い者にされた谷口はキレた様子を見せている。

キャットキラー、1000番ゲットならず

谷口の付添人団の弁護士男性は、谷口には「プライドが高い一面も見られる」と述べている。

それと同時に母親や妹への暴力は激しくなり、母親が警察や精神科に相談するようになると、谷口はこれを ”裏切り” と受け取った。父親はそんな状況から外の世界に連れ出そうと、谷口と関西方面に長距離ドライブをするようになった。

精神科病院に措置入院

ある日、谷口の部屋からスタンガン・ナイフ・ハンマー・催涙スプレーなどがみつかり、机の引き出しからは「中学を襲撃する」という犯行声明文らしきものも発見された。

みつけた母親は「自分の手に負えない」と考え、精神科医に相談した結果、谷口は肥前精神医療センターに措置入院することになった。2000年3月5日、入院当日の谷口は、両親に「貴様ら、この恨みは絶対に忘れないからな!」と激しい怒りをあらわにした。

しかし、いざ入院すると病院スタッフや他の入院患者には礼儀正しく接し、落ち着いた態度を見せた。担当医はそんな谷口に、5月3日から1泊2日の一時帰宅許可を出す。だが、実際の彼は本事件の2日前に17歳少年が起こした「豊川市主婦殺人事件」のニュース報道を見て、「素晴らしい、自分もこの犯人の少年のようになりたい」との内容の手記を残していた。

豊川市主婦殺人事件

2000年5月1日、愛知県豊川市で発生した17歳の少年による殺人事件。主婦を40ヶ所も刺して殺害したうえ、夫にも重傷を負わせた。高校での少年は明るく活発、成績も優秀と評判が良く、犯行との乖離に注目が集まった。

また、本事件の3年前(1997年)には神戸市で「神戸連続児童殺傷事件」が発生しており、この犯人も17歳少年だった。このような風潮から、マスコミは「キレる17歳」との論調で騒ぎ立てた。

病院から一時帰宅

西鉄バスジャック事件・2ちゃんねる書き込み・ネオ麦茶

当初、谷口はかつていじめを受けた中学校で無差別殺人を行う予定だったが、一時帰宅が許可された5月3日はゴールデンウィークで学校が休みだったため、計画をバスジャックに変更した。

事件当日の12時18分、谷口は ”ネオ麦茶” というハンドルネームで2ちゃんねるに「佐賀県佐賀市17歳・・・。」というタイトルのスレッドを立て、「ヒヒヒヒヒ」とだけ書き込んだ。それから12時56分発の西日本鉄道高速バス「わかくす号」に乗り込み、バスを乗っ取った。

逮捕された谷口の付添人団は、「更生の余地があり、医療的ケアが必要」と感じ、刑事処分相当と判断される「検察逆送致」ではなく、医療少年院に送致する「保護処分」の審判が下るよう尽力した。その結果、佐賀家庭裁判所で医療少年院への送致が決定。その後、2006年1月に仮退院した谷口は社会復帰への訓練を始めたといわれている。

乗っ取られたバスは警察が証拠として差し押さえたが、捜査が終了すると事件当時とは別の営業所で使用された。

被害者との面会

被害者の山口由美子さん/西鉄バスジャック事件
顔を切られた山口由美子さん

2000年5月3日、西鉄バスに乗ったばかりに被害に遭い、顔や手のしびれといった後遺症も残った山口由美子さん。彼女はそれまでは漠然と「悪いことをしたら罰せられて当然、殺人を犯したら死刑になって当然」と考えていた。

しかし、自分自身が事件の当事者となり、加害者側の気持ちに直接触れた経験から、「ほとんどの加害者は、事件を起こすまでは何らかの ”被害者” だった」ということに気づいた。取り巻く環境に心を傷付けられ、やり場のない気持ちは誰からも理解されない。そして、あふれ出る怒りを制御できずに凶器を手にする…。

そんな考えに至った山口さんは、2005年頃に谷口との面会を決意する。初めての面会では、谷口は深々と頭を下げて謝罪し、山口さんは彼の背中をさすって「これまで誰にも理解されずつらかったね」と声をかけた。そして「罪を許したわけではない、許すのはこれから。生き方を見ているから」と伝えた。

山口さんは、自分の娘も不登校に苦しんでいた時期があったため、「不器用で社会に居場所のない少年少女たち」に対する同情的な心情が大きかった。

Bitly

また、事件で唯一命を落とした塚本達子さんは山口さんの友人で、塚本さんは小学校教師を29年間務めたあと、モンテッソーリ養成コースを受講して「幼児室」を開設した。子育てに悩んだ山口さんは、自身の子供を塚本さんの幼児室に入室させたことがきっかけで、公私ともに親交を深めるようになった。

塚本さんには『お母さんわが子の成長が見えますか―私の手づくり幼児教育論』という著書がある。この本は「幼児期にきちんとした自立教育を行うことで、将来出会うであろうさまざまなストレスに、立派に対処できる心をつくりだすことができる」と信じた塚本さんの遺稿集である。

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