大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件|死ぬまで誰も止めなかった…!

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大阪・愛知・岐阜リンチ殺人連続事件日本の凶悪事件

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件

!注意!本記事は凶悪犯罪の詳細を説明するもので、その性質上「過激な表現」が含まれている場合があります。苦手な方はこちらから退出できます。

【凶悪過ぎ】未成年でも死刑になった事件【5選】

凄絶な集団リンチの果てに、何の落ち度もない4人を惨殺した少年グループ。
主犯格の小林正人小森淳芳我匡由の3人は、「未成年だから死刑にならない」と高をくくっていた。裁判当初、傍聴席の遺族を睨み、友人に笑みを見せた彼らだったが、キリスト教の教誨を受けるようになると次第に反省の色を見せるようになる。
しかし、時すでに遅し。犯行の過激さを知れば、誰もが納得するしかない ”死刑” 判決だった。

事件データ

犯人1小林正人(当時19歳)
死刑:東京拘置所に収監中
犯人2小森あつし(当時19歳)
死刑:名古屋拘置所に収監中
犯人3芳我はが匡由まさよし(当時18歳)
死刑:名古屋拘置所に収監中
犯行種別強盗殺人事件、殺人事件
犯行日大阪事件:1994年9月28日
木曽川事件:1994年10月6日
長良川事件:1994年10月7日
犯行場所大阪府・愛知県・岐阜県
被害者数4人死亡
動機強盗目的、虚勢の張り合い
キーワード少年犯罪

事件の経緯

小林正人(当時19歳)、小森淳(当時19歳)、芳我匡由(当時18歳)の3人は、同じ暴力団の構成員だった。最初に所属したのは小森で、パチンコ店で知り合った小林を兄貴分の暴力団組員・B(当時45歳)に紹介。その後、小林と芳我が知り合ったことで芳我も構成員となる。

すでに構成員だった少年A(当時18歳)もこの3人に加わり、少年たちは4人で行動するようになった。彼らの ”シノギ” は主に恐喝で、狙うのは少し悪ぶったような ”自分たちと似た” タイプ。真面目そうな普通の若者は、すぐに警察に駆け込むので避けていた。そのうち恐喝だけではなく、「工事業者に人夫を送り込んで、その上前をハネる」ことも考えるようになる。

少年4人組のリーダーは表向きは小森だったが、実質的にグループを引っ張っていたのは小林だった。

大阪事件:殺人・死体遺棄事件・9月28日

犯行に関わった者:小林正人小森淳芳我匡由、少年A、暴力団組員・B

1994年9月28日午前3時頃。4人組が結成されて2週間が過ぎた頃だった。

小林芳我は、大阪・道頓堀の繁華街で26歳の男性2人とトラブルになった。2人は男性らを何度も殴り、小突きながら事務所前まで連れて行ったが、男性のひとりは隙を見て逃げ出した。そのため、残った林正英(まさひで)さん(26歳)を強盗目的で拉致・監禁する。

小林と芳我は、林さんを ”人夫” として工事業者に送り込むことに決め、小森少年Aにもそう説明した。彼らは林さんをトランクス1枚の姿にして、両手を後ろ手でベルトで縛った。さらに、口の中に靴下を押し込み、顔面にガムテープを巻き付けるなどして、身動きが取れない状態にした。

小林ら4人は何度も工事業者と連絡を取ろうとしたが、結局うまくいかなかった。そんなイライラを解消するように、何度も林さんに殴る蹴るの暴行をくわえた。
結局、工事業者とは連絡が取れなかったので、本来なら林さんにもう用はないはずだった。しかし、彼らは林さんを解放しなかった。

ここまでの暴行で林さんはかなりの負傷をしていたし、顔も知られた以上「生きて帰すわけにはいかない」ということに決まったのだ。こうして、ここから少年たちは暴走していくことになる。

単に金を得る目的だったのが、気付けば恐ろしい犯罪に手を染めようとしている状況だった。しかし、誰もそれを止める者はいなかった。なぜなら、ここで ”待った” をかけることは、彼らにとって「弱さ」を見せることになり、”誰が一番悪くて、誰が一番凶暴か” 、それこそが彼らにとって重要なことだった。

その後、林さんに対する暴行は19時間にわたって続けられ、最後はベルトを使って絞殺してしまう。殺害後は暴力団員Bに遺体の処分を相談。彼らは高知県安芸郡奈半利町の山中に死体を遺棄することになった。

犯人たちは死亡確認するために、被害者の体にタバコの火を押し付けていた。また、遺体には全身に凄まじい暴行の痕があったという。


木曽川事件:傷害・殺人事件 10月6日深夜

リンチ殺人

犯行に関わった者:小林正人小森淳芳我匡由、男C、D子、少年E、F子、G

大阪事件から数日経った10月1日、暴力団の仲間が高校生3人組を恐喝する。しかし、そのうちのひとりが隙を見て逃走、警察に通報したため暴力団事務所に大阪府警の家宅捜索が入ることになった。

この件には直接関係ないものの、大阪事件の発覚を恐れた3人は事務所には帰らず、大阪をあとにする。彼らは小林の地元である愛知県稲沢市に移動して身を潜めた。

10月6日、不良仲間の家でシンナーを吸引していると、少年グループの1人である型枠大工・岡田五輪和(さわと)(22歳)がやってきた。岡田さんは過去に彼女を小林に寝取られたことがあり、恨みを持っていた。それが原因で喧嘩が始まり、小林は仲間と6人がかりで、岡田さんを約8時間にわたって激しく暴行。ビール瓶で殴打したり、シンナーやフォークも使われた。

そして翌日、愛知県尾西市の木曽川河川敷で岡田さんを堤防から突き落とし、更に雑木林へ引きずり込んで殺してしまった

遺体は10月13日に同場所で発見されるが、遺体には全身に殴打や火傷の痕があったという。

長良川事件:監禁・強盗殺人・強盗致傷事件 10月7日深夜

リンチ殺人
ここでトラブルが発生した

犯行に関わった者:小林正人小森淳芳我匡由、男C、F子、男G

翌7日深夜、彼らは愛知県稲沢市のボウリング場で、若い男性グループとトラブルになる。男性グループは、尾西市の会社員・渡辺勝利さん(20歳)、同市のアルバイト・江崎正史(まさふみ)さん(19歳)、男性X(20歳)の3人だった。

小林らがボウリングを終えて帰ろうとした時、ちょうど入って来る男性3人とすれ違った。トラブルの原因は、渡辺さんと江崎さんが ”小林らのほうを見て笑った” というものだった。小林らは3人に因縁をつけたが、男性らが反抗的な態度だったことでさらに激怒。駐車場付近で男性らに暴行し、現金11,000円を奪ったうえに拉致した。

男性3人は車で連れ回された後、岐阜県安八郡輪之内町の長良川河川敷に連れて来られた。ここで小林ら少年グループは、渡辺さんと江崎さんを鉄パイプなどで激しく暴行して2人を殺害した。

この時も犯行グループは、タバコの火を押しつけて死亡確認している。
彼らは一旦はその場を離れたが、息を吹き返すことを恐れたのか、「とどめを差しておけばよかった」と現場に戻った。遺体は翌日発見されたが、2人の遺体は無惨な状態だったという。

事件の発覚

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件

翌10月8日午前6時15分頃、1台のトラックが、車の整備のため長良川堤防道路の路肩に停車。運転手はその場所から約30m下の雑草地で、渡辺さんと江崎さんの遺体を発見する。驚いた運転手は、近くの民家を通じて岐阜県警大垣警察署に通報した。
現場を見た捜査員は、一帯に多くの足跡が見つかったことから、複数人による集団暴行と断定した。

その頃、3人は愛知県に戻っていたが、小森と芳我はひとり残った被害者・男性Xを連れたまま、大阪に戻ることになった。大阪に到着した2人は男性Xの処遇に困り、近鉄難波駅付近の路上で解放する。
男性Xはすぐに警察に駆け込み、事件は警察の知るところとなった。そして、これが早朝に長良川でみつかった遺体と結び付くのに、そう時間はかからなかった。

2日後の10月10日、男性Xの証言から犯人グループが特定され、小林、小森、芳我を含む少年ら複数人が指名手配された。10月12日、大阪府警は別件で小森を逮捕、14日には小林が一宮署に出頭し、木曽川事件の殺人容疑で逮捕された。

最後まで逃亡していた芳我は、阪神・淡路大震災の翌日である1995年1月18日、和歌山市内のラブホテルで女性と一緒のところを取り押さえられ、大阪事件の殺人容疑で大阪府警南署に逮捕となった。リンチに加わった他の少年らも、その後全員逮捕された。

少年事件と死刑 (年報・死刑廃止2012)
少年法の理念さえ踏み越え、更生ではなく厳罰へ、抹殺へとこの国は向かっている。少年事件と死刑をめぐる問題点を徹底検証する。

【凶暴】若者たちの集団リンチ殺人事件【3選】

この事件は、世間に衝撃を与えた。そして、未成年による過激な殺人事件がどう裁かれるのか注目の的となる。

小林正人の生い立ち

小林正人/大阪・愛知・岐阜リンチ殺人

小林正人は1975年3月19日、愛知県一宮市生まれ。

母親は高齢出産で彼を生んだ直後に急死したため、困った父親は小林を弟夫婦に養子として預けた。こうして叔父夫婦に育てられることになった小林だが、養母の弟4人のうち3人は暴力団組員という環境だった。さらに預けられた直後に叔父の事業が失敗して破産、小林は極度に不遇な幼少期を過ごした。

幼少期から盗みをくり返し、小学生で喫煙、中学1年でシンナーを覚えた。中学2年で養母から虐待を受けて家出、児童相談所で一時保護される。

1989年2月(小林は13歳)、県立の教護院「愛知学園」に入所。中学卒業まで過ごしたが、ここでは落ち着いた生活を送っていた。その後、稲沢市立稲沢西中学校を1990年3月に卒業、同時に「愛知学園」を卒園すると、再び非行がエスカレートしていく。

児童相談所・教護院の記録によれば、当時はむしろ気の弱い子供で、中学2年生の時には児相から「まだ小学校の中学年程度に感じられる。協調的に行動できない一方で気が弱く、特に成人男性を目の前にすると萎縮する。職員男女への反応差が顕著で、父母の養育のアンバランスさを感じさせる」と記録されている

彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠
内ゲバが激化した一九七二年、革マル派による虐殺事件を機に蜂起した一般学生の自由獲得への闘い。いま明かされる衝撃の事実。

中学卒業後、就職した稲沢市内の会社をわずか1か月で退職。その後は定職に就かずシンナー遊びにふけり、1991年8月には窃盗・道路交通法違反容疑で補導。中等少年院送致の決定を受け瀬戸少年院に1年4ヶ月入所した。

1991年12月に少年院を仮退院。塗装店・ガソリンスタンドで短期間働いた。1992年9月には窃盗・毒物及び劇物取締法違反・住居侵入・銃刀法違反の非行により特別少年院送致となり、愛知少年院で1994年2月までの1年5ヶ月間を過ごした。

その後は型枠大工として働いたが長続きしなかった。そのため、少年院時代のツテで暴力団事務所に出入りするようになり、1994年7月以降は家出中の中学生を連れ歩き、通行人から恐喝して金を手に入れていた。

小林は実質的なリーダー

【凶悪過ぎ】未成年でも死刑になった事件【5選】

1994年8月10日、愛知県津島市のパチンコ店で知り合った会社員(22歳)に対する強盗致傷罪で指名手配された。この時、逃亡先の大阪市内のパチンコ店で共犯者・小森淳と知り合い、暴力団組員・Bに紹介してもらう。こうして小林は、暴力団の構成員となった。

小林は、(犯行グループを含めた)十数人の遊び仲間のリーダー的存在だった。素行の悪さが目立ち、愛知県警の尾張にある各警察署が動きをマークしていた。

本事件の裁判で、第一審から死刑判決を受けたのは小林だけだったが、結局、3人とも2011年3月10日に最高裁で死刑が確定した。現在は東京拘置所に収監されている。

死刑確定後の2011年12月に名古屋高裁へ再審請求したが棄却。2016年12月に2回目の再審請求を行っている。

名古屋拘置所の関係者は小林について「事件直後は社会への敵意を剥き出しにし、面会に来る弁護士にまで警戒感を露わにしていたが、拘置所内で宗教教誨を受け、弁護士・篤志家・教誨師らとの交流を続けるうちに徐々に成長し、内省を深めてきている」と証言した。

また小林は、拘置所内で読書を始めたことで「”家族の愛・友情・夢が核にある人は強い” と知ったが、そういうものは自分にはなかった」と述べている。

青木理の取材より(2008年)

小森淳の生い立ち

小森淳/大阪・愛知・岐阜リンチ殺人

小森淳は1975年7月21日、大阪府松原市生まれで姉が2人いる。

小林・芳我と比べれば、恵まれた家庭環境で育った。両親は上2人が女の子だったことから ”待望の男の子” である小森に過度な愛情を注いだ。松原市立松原第六中学校へ入学してからは、反抗的な態度が目立つようになり、2年の時に野球部を退部してからはシンナー吸引・原付の窃盗など、非行をくり返すようになった。

1991年4月、府立の定時制工業高校に進学したが、夏頃に高校を中退。その後は料理店・自転車店・自動車整備工場・瓦店・引越センターなどを転々とするも、いずれも長続きせず、1992年春頃に交際していた女性を通じて暴力団組員・Bと知り合った。

小森はBに心酔し、両親の承諾を得てBの下で「たこ焼きの露店販売」などをするようになった。やがて、Bの舎弟として活動するようになる。

暴力団に入ってからは恐喝・強盗などを働くようになり、1993年11月には暴力行為等処罰に関する法律違反の非行で保護観察処分を受け、この時に加勢したBも、懲役1年の判決を受けて刑務所に服役した。

1994年4月頃にBが刑務所を出所し、山口組系暴力団山健組内にある山本組の舎弟となったため、小森もその配下として活動するようになった。1994年6月頃には、大阪市内のレディースクラブでホストとして働いていたが、この時にクラブの同僚だった少年Aと知り合い、Bが借りた千日前のビルの一室で、ともに寝泊まりするようになった。

根は気が弱かった小森

小森淳/大阪・愛知・岐阜リンチ殺人
栃木リンチ殺人事件―殺害を決意させた警察の怠慢と企業の保身 (新風舎文庫)
栃木リンチ殺人事件―殺害を決意させた警察の怠慢と企業の保身 (新風舎文庫)

裁判では第一審で無期懲役となったが、控訴審では共犯2人とともに死刑を言い渡された。最高裁で死刑が確定し、現在は名古屋拘置所に収監されている。

2013年1月、名古屋高裁へ再審請求するも棄却。2016年12月に2回目の再審請求を行っている。

暴力団時代の4人グループでは、最上位の兄貴分だった。少年Aによると「突っ張っていたが、根は気が弱くて喧嘩もできないようなヤツ」とのこと。

第一審判決で無期懲役が下った時、「兄貴分の立場にありながら、犯行を止められなかった事なかれ主義が最悪の結果を招いた」と断罪され、人目もはばからず号泣した。

青木理宛の手紙で、事件について「悔やんでも悔やみきれない。自分自身でもこのような大きな事件を起こしたことが信じられず、『人との出会いが人生を左右する』と思えてならない」と述べている。

【凶暴】若者たちの集団リンチ殺人事件【3選】

改名について

大倉小森黒澤 と2度にわたって苗字が変わっている。(時期は不明、本記事では小森姓で統一)

芳我匡由の生い立ち

芳我匡由/大阪・愛知・岐阜リンチ殺人

芳我匡由は1975年10月23日、大阪市西成区生まれ。6人兄弟の第4子である。

父親は元暴力団員で、背中には入れ墨、指も欠損していた。母親も咥えタバコでゲームセンターに入り浸るようなタイプ。サラ金に追われて両親は別居し、生活はかなり貧しかった。小学校時代は汚らわしい服装が原因で激しいいじめを受け、母親も次第に家事をしなくなった。

小学4年頃から少年野球に打ち込み、大阪市内の少年野球チームに捕手として所属。少年野球チームでは人の良いコーチを兄のように慕い、試合・練習にも熱心に取り組んでいた。

小学校6年生頃からは「いじめや家庭の問題を忘れられる」とシンナーを常習するようになる。1988年4月、中学校入学するも入学直後から不登校になり、建設現場で働きながら暮らしたこともあった。

中学2年の時、母親が失踪。その年の8月には窃盗で補導され、9月以降は教護院に入院した。さらに1990年8月には窃盗の非行で初等少年院に送致された。少年院では何度かてんかん発作で意識を失い、医療少年院に移送されている。

少年犯罪はどのように裁かれるのか: 成人犯罪への道をたどらせないために
いま、少年犯罪を厳罰化するため、少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げ、 少年を大人と同様に刑法の元で裁くことが検討されています。 しかし、少年を刑法で裁いても、必ずしも「厳罰化」につながらないどころか、 十分な更生や再犯防止の教育すら受けないままの少年が、社会に放り出されるだけです。 その先に見えるのは、はたして社会...

1991年9月に少年院を仮退院。このころ父親がガンで他界して、父親が勤務していた運輸会社に就職するも短期間で退職。その後も職を転々としながら非行を重ねたが、ある女性と同棲し、やがて結婚に至った。

1992年10月には窃盗・恐喝・傷害などの非行により中等少年院へ送致。入院中に長男が誕生した。1993年9月に少年院を仮退院してからは、兵庫県神戸市内でパチンコ店員や鉄筋工として働いた。
その後、ホストクラブに勤めて多数の女性と交際するようになり、妻とは離婚している。

改心するも死刑確定

暴力団時代、少年4人グループの中で最年少であり、序列も一番下だった。

裁判では、第一審で無期懲役の判決だった。木曽川事件においては傷害致死罪、小林に従属的な立場だったと認められたのだ。しかし控訴審では殺人罪とされ、「小林と罪責に差はない」として死刑判決となった。

2011年3月10日、最高裁で死刑が確定し、2016年12月には「事実認定に誤りがある」として再審請求している。現在は名古屋拘置所に収監中である。

第一審公判中、名古屋拘置所内で自殺未遂器物損壊行為を起こしている。しかしキリスト教に帰依して洗礼も受けるようになり、「もし許されるなら伝道師になりたい」と話すようになった。死刑確定前の2008年、名古屋拘置所の関係者は「芳我は独房で懸命に聖書を読み、教誨にも3人の中で最も熱心に取り組んでいる」と証言している。

【凶悪過ぎ】未成年でも死刑になった事件【5選】

改名について

河渕芳我 となっている。(時期は不明。本記事では芳我姓で統一)

7人の共犯者について

少年A:大阪事件

【当時】18歳、暴力団組員(小林ら3人と同じ) 【出身】大阪市

大阪事件では小林・小森・芳我の3人とともに男性Aを暴行し殺害した。

10月2日に別の強盗致傷事件で大阪府警・南警察署に逮捕され、大阪家庭裁判所送致を経て保護観察処分になっている。その後は行方をくらましていたが、11月26日午前に両親に付き添われて南署へ出頭し、大阪事件の殺人・死体遺棄容疑で逮捕された。

1995年9月12日に大阪地裁から懲役4年~8年の不定期刑に処する判決(求刑:懲役5年~10年)を受けた。少年刑務所を出所してから地元・大阪に戻って不動産会社に就職し、2008年10月中旬に青木理の取材に応じ、死刑判決を受けて上告していた共犯者3人の人柄について証言したほか、「人を殺してしまった過去は一生背負って生きていくつもりだ。自分はたまたま大阪で逮捕されたが、もし捕まらずに彼らと一緒に名古屋まで行っていれば同じことをしていたかもしれない」と話した。

暴力団員・B:大阪事件

【当時】45歳大阪市生野区在住、山口組系暴力団・山健組の傘下「山本組」構成員、政治結社の幹部 【出身】徳島県

小森・少年A・小林・芳我の順で4人を暴力団の配下として加え、大阪事件の現場となったアジトを提供し、小林らと共謀して殺害された男性Aの遺体を遺棄した。

大阪事件の死体遺棄罪に問われ、1995年4月21日に大阪地裁から懲役1年8月の実刑判決(求刑:懲役2年6月)を受けた。

男C:木曽川・長良川事件

【当時】20歳、無職 【出身】福岡県

定職を持たずにぶらぶらしていたところ、大阪府松原市内で大阪事件を起こして逃亡中の小林、小森、芳我の3人と出会い、運転手として彼らの配下に加わった。

木曽川・長良川事件に加担して10月15日に逮捕。1996年3月19日に名古屋地裁で傷害致死幇助罪により求刑懲役7年に対し、懲役3年(執行猶予4年、保護観察付き)の有罪判決を受けた。

少女D子:木曽川事件

【当時】18歳、家事手伝い、愛知県一宮市在住

小林とはかつてシンナー仲間で、事件当時は少年Eたちとシンナー仲間だった。

木曽川事件の殺人容疑で逮捕されたが、同事件の直後には少年Eとともにグループから別れており、長良川事件には関与していなかった。傷害致死罪に問われた少年審判の結果、1994年11月25日に名古屋家裁一宮支部で少年院送致の決定がなされた。

少年E:木曽川事件

【当時】19歳、無職、一宮市在住

少女D子とはシンナー仲間で小林とも面識があった。
木曽川事件の殺人容疑で逮捕され、同年12月1日には殺人罪・傷害罪で名古屋地裁に起訴された。1995年7月6日に名古屋地裁で殺人罪により懲役4年~8年の不定期刑に処する判決(求刑は懲役5年~10年)を受けた。

少女F子:木曽川・長良川事件

【当時】16歳、無職、一宮市在住

木曽川事件・長良川事件の殺人容疑などで逮捕され、1994年12月16日には少年審判により名古屋家裁一宮支部で少年院送致の決定を受けた。
長良川事件では暴行を止めるように少年たちに訴えるが、誰も聞き入れなかった。

男G:木曽川・長良川事件

【当時】21歳、無職、愛知県稲沢市稲沢町北山在住

シンナー仲間の古株で、1997年3月5日に名古屋地裁で殺人幇助罪により懲役3年・執行猶予4年の有罪判決(求刑:懲役7年)を受けた。

裁判

この事件は2022年4月1日の少年法改正前の事件で、被告の3人は「少年」として扱われる年齢であった。しかし、あまりの凶悪さに、この原則が通用しない結果となった。

第一審の審理は1995年5月29日~2000年12月11日までの5年半にわたり、計105回行われた。

当初、大阪事件は大阪地裁で、木曽川事件・長良川事件については名古屋地裁での審理が予定されていたが、1998年までに3件の審理は併合されて名古屋地裁で行われることになった。

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第一審:小林に死刑、他2人は無期懲役

3被告は、事件の事実関係については認めたが、小林正人被告は殺意を否認したほか、芳我匡由被告は大阪事件について殺人罪成立を否認した。

また、小林被告は「木曽川・長良川事件は芳我が主犯」と主張した一方、芳我被告は「小林が最初に殴った」などと述べ、それぞれが「首謀者は自分ではない」と主張した。

1995年8月21日の第2回公判で3人は、木曽川・長良川事件について、被害者3人への暴行など事実関係を大筋で認めた。しかし殺意についてはすべて否認し、強盗についてもそれぞれ犯行・犯意を否定した。

被告人3人の弁護人も、殺意の有無について争うとともに、事件の特殊性・少年法の趣旨から、精神鑑定などを含めた多角的な情状を訴える方針を明らかにした。

木曽川事件

1995年9月6日の第3回公判では、木曽川事件の審理が行われた。この日は長良川事件の被害者・江崎正史さんの遺族(両親と姉)が初めて傍聴した。

3被告は傍聴席の遺族を睨みつけたり、彼らの知人の若者らに笑いかけるなど、反省を微塵も感じないような態度をとった。江崎さんの父親は、3人の態度を「まるで主役気取りだ」と非難した。

また3被告の供述は、当初こそ一致していたが、途中から対立し、誰が主導的だったかについて主張が食い違ってきた。そのためか、1997年8月25日の公判で、小森淳被告は単独での審理を希望し、それが認められたため、しばらくは小森被告の単独審理となった。

一転して殺意を認める

それまで木曽川事件・長良川事件について共謀・殺意を否定していた3被告だが、第54回公判(5月13日)で芳我被告が、第55回公判(5月27日)では小森被告がこれらを認める供述をした。残る小林被告は、それまで通り否認を続けた。

小森淳の変化

「一番の兄貴分」とされた小森被告は、公判の途中から3事件すべてについて全面的に容疑を認め「恥ずかしいほど無知だった。本当に申し訳なく思う。自分は死刑になっても仕方がない」と反省の言葉をくり返すようになった。

2000年11月には情状証人として芳我被告の姉が出廷し、弁護人から心境を問われて「最初は弟が許せなかったが、できれば人生をやり直すチャンスを与えてほしい。もうこれ以上人が死ぬのは嫌だ」と訴えた。(姉は、義母を殺害された犯罪被害者遺族でもある)

当初は強気の態度で公判に臨んでいた3被告だが、判決直前には態度が変化し、全員がキリスト教徒の説話を受けたほか、最終弁論の際には「生きて償いたい」「キリスト教の洗礼を受ける」などと発言。これに対し、被害者遺族は「反省・謝罪の態度は、刑の減軽を勝ち取るためだ」と受け取り、さらに嫌悪感を強めた。

芳我の動き

芳我被告は獄中で「死刑廃止を求める市民団体」のメンバーになったほか、「週刊文春」の記事について「自分の実名が類推される仮名が使用されており、少年法の趣旨に反する」として、発行元・文藝春秋に対し民事訴訟を起こした。

求刑は3被告に死刑

2000年12年27日、求刑公判が開かれ、検察側は3被告に死刑を求刑した。
検察側は3被告の役割について「事件で果たした役割に軽重はなく、刑事責任は同等」と述べた。木曽川事件については、岡田さんへの殺人罪が成立すると主張した。

量刑については「3被告の反社会性は、極めて顕著で矯正は不可能。”少年”という理由で刑事責任を軽減することはできない」と主張した。

翌2001年2月28日、3被告の弁護人が最終弁論を行い、死刑回避を求めた。3被告も以下のように最終意見陳述をしている。

3被告の最終意見陳述
  • 小林被告:「大切な命を奪いながら『生かしてほしい』というのは虫がよすぎるが、それでも生きたい気持ちを隠せない。刑務所で働き、慰謝料を被害者遺族に送りたい」
  • 小森被告:「重大事件を起こして本当に申し訳ない。2度と事件を起こさないよう精一杯努力する」
  • 芳我被告:「拘置所でキリスト教を信仰するようになり、被害者の冥福を祈ってきた。(キリスト教の)教えに従いやり直せると思う。許されるなら生きて罪を償いたい」

この公判をもって、第一審は初公判から約5年8か月ぶりに結審した。

第一審判決

2001年7月9日に判決公判が開かれ、名古屋地裁は小林被告に求刑通り死刑小森・芳我両被告に無期懲役を言い渡した。

1983年の永山則夫連続射殺事件の上告審判決以降、少年事件における第一審の死刑判決は、名古屋アベック殺人事件判決(1989年)、市川一家4人殺害事件判決(1994年)に続き3件目

判決理由で「3被告は、3つの事件で被害者への殺意を持っていたことが認められる。特に長良川事件では小林被告に強固な殺意があった」と認定。しかし、木曽川事件については「岡田さんを暴行後に放置したが、そのことと死亡したことの ”因果関係” が立証されていない」として傷害致死罪を適用した。

裁判長は「わずか11日間に4人を殺害した、例を見ない凶悪事件」と指摘した一方、「小林被告が中心的な立場で集団の推進力になり、犯行を主導した」と認定。「3被告の役割に軽重はない」とする検察側の主張を退けたかたちとなった。

量刑理由において、小林被告を「全ての実行行為者で、反社会性は顕著。小林被告がいなければ、事件は起きなかった。事件当時は ”少年” だったことや、現在は反省の兆しが表れるようになったことなど情状を最大限に考慮しても、極刑はやむを得ない」と断罪した。

一方、小森・芳我両被告人については「小林被告との共謀共同正犯であるが、小林被告に追従的な立場。暴行や矯正可能性などの程度は、小林被告と異なる」として死刑選択を回避し、無期懲役刑を選択した。

3被告の弁護側検察側はいずれも名古屋高等裁判所に控訴した。

各方面のコメント

中日新聞
「少年法の理念を尊重しながらも罪の重大性に対し、毅然とした態度を示した判決」

板倉宏・日本大学教授(刑法)
「犯行時の役割、矯正可能性など様々な事情について厳密に判断した妥当な結論。特に実質的な主犯格の小林正人は死刑もやむを得ない。少年の凶悪事件には厳しい目が向けられており、今後同様の少年犯罪における量刑を考慮する上で重要な先例になるだろう」

沢登俊雄・國學院大學名誉教授(刑事法学)
「本事件のような集団心理下における犯行は共謀・殺意の有無など認定が難しい面がある。主犯格とされた小林正人も『永山基準』に照らして死刑が妥当か否か、法理論的に若干疑問がある」

加藤幸雄・日本福祉大学副学長(非行臨床心理学)*3人の犯罪心理鑑定を実施
「矯正可能性を小林には認めなかった一方、小森・芳我には認めた点などで論拠が弱い。なぜ『殺人の必然性がない事件でここまで至ったか』を、少年の発達・集団性の問題・動機面などについてより丁寧に真相解明する必要があった」

土本武司・帝京大学教授 *元最高検察庁検事
「裁判官は『被告人3人は少年』という点に引きずられ、全員を死刑にすることを躊躇した。最年長だった小林正人だけが死刑に処されたのはそのためだろう」

キリスト教信者 *小林被告の支援者
「死刑ではなく、生きて悔い改め続けることが本当の償いだ」

また、「3被告全員に死刑宣告」とはならなかったため、被害者遺族からは不満や憤りの声が口にされた。

控訴審(名古屋高裁):3被告に死刑

控訴審で検察側は、(仲間を殺害した)木曽川事件は、殺人罪が成立すると主張。また、「3被告の果たした役割に差はない」として、改めて3被告に死刑判決を求めた。 

小林被告の弁護人は、「首謀者との評価は誤り。重要な場面では小森被告の役割が大きかった。未成年者が虚勢を張り合う中で起きた犯行で、中心的役割とした一審判決は誤り。死刑は重すぎて不当」と述べた。

小森被告の弁護人は、「形式上は兄貴分だったが、小林被告に追従する立場だった。場当たり的な犯行で、殺意はなかった」と主張し、有期懲役刑を求めた。

芳我被告の弁護人は、「集団の中で末端の従属者に過ぎない」と述べ、有期懲役刑を求めた。

判決で裁判長は、3被告全員に死刑を言い渡した。(一審では小林に死刑、小森と芳我は無期懲役)

判決理由:各事件について
  • 大阪事件:3被告の共謀が認められる
  • 木曽川事件:3被告の暴力行為と死亡の因果関係は認められる
  • 長良川事件:強盗殺人罪が成立する(一審では傷害致死罪を適用)
判決理由:各被告について
  • 小林被告:終始、主導的に犯行に及び、グループの推進力として際立って重要な役割を果たした
  • 小森被告:小林被告が前面に出る場面もあったが、総合的にみて、小林被告とともに主導的に犯行にかかわった
  • 芳我被告:グループの序列は一番下だったが、強制された訳でもなく、かえって積極的に犯行に及んだ

争点となった ”殺意” や ”共謀” についても、3被告の言動や遺体の損傷状況などから「優に認められる」と述べた。

上告審:3人全員に死刑確定

2011年2月10日、最高裁で上告審口頭弁論公判が開かれた。

弁護側は「控訴審判決は少年の精神的未熟さを考慮していない」と主張して死刑回避を求めた。
検察側は上告棄却を求めた。

2011年3月10日、上告審判決公判が開かれ、最高裁は控訴審判決を支持し上告を棄却。これにより初公判から16年にわたった刑事裁判は終結した。そして、犯行当時は少年だった3被告の死刑が確定した。
(この時、3被告全員が36歳になっていた)

少年事件で死刑が確定したのは、「市川一家4人殺害事件」以来約10年ぶり、最高裁が把握している1966年以降では10件目だった。また戦後の少年事件で、複数の被告人に対し死刑が同時に確定した事例は史上初だった。

死刑が確定したことについて、小林被告は弁護人に「少年事件への厳罰化と受け止めた。判決は政治的な判断」という趣旨の感想を伝えた。

また、小森被告は「重く受け止めている」と話したほか、青木理との面会で「被害者遺族の心情を考えれば仕方がないとは思うが、やはり『生きたい』という思いもある。事件当時、少しでも勇気を出して『やめよう』といえなかったことなどへの後悔もある。」と述べた。

さらに「判決は結果だけで事件の内容を見ておらず、(自身が ”兄貴分” と認定されたことなど)納得がいかない点がある。事実に基づいて裁きを受けたかった」とコメントした。

【凶悪過ぎ】未成年でも死刑になった事件【5選】

3被告の弁護人は2011年3月22日付で判決を不服として最高裁に判決の訂正を申し立てたが、同月30日付で棄却。これにより、2011年4月1日付で3被告の死刑が確定した。

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