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永山則夫連続射殺事件|ベストセラー作家になった死刑囚

永山則夫日本の凶悪事件
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永山則夫連続射殺事件

1968年(昭和43年)10月から11月、当時19歳の永山則夫は米軍基地で盗んだ拳銃を使い、4都道府県で次々と人を撃ち殺す。
刑事裁判では、当時少年だった永山への死刑適用の是非が争点となった。
死刑確定後に執筆した書籍は世界で評価され、彼は売れっ子作家となる。しかし、彼が死刑囚であることに変わりはなく、1997年に刑が執行された。
また、この事件の判決は「永山基準」として、現在でも死刑を適用する際に強い影響を与えている。

【凶悪過ぎ】未成年でも死刑になった事件【4選】

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事件データ

犯人永山則夫(当時19歳)
事件種別連続殺人事件
発生場所/発生日 東京都/ 1968年10月10日・京都府/ 1968年10月14日
北海道/ 1968年10月26日 ・愛知県/ 1968年11月5日
被害者4人死亡(警備員2人、タクシー運転手2人)
判決死刑・1997年8月1日執行(48歳没)
動機警備員から逃げるため、のちの犯行では金銭目的
キーワード少年・死刑・永山基準、執筆活動

無知の涙 / 永山則夫 死刑囚が書いたベストセラー

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事件の経緯

永山則夫(当時19歳)は、1968年10月8日、金品を盗むために米軍横須賀基地に忍び込んだ。
しかし、基地内の米国海軍一等兵曹宅で小型拳銃1丁と拳銃の実弾約50発をみつけ、アメリカ合衆国製ジャックナイフ1丁や8ミリムービーカメラ1台・ハンカチ2枚・米国貨幣十数枚とともにそれらを盗んだ。そして永山は、拳銃と実弾を神奈川県横浜市の桜木町駅前のガレージ裏に隠しておいた。

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東京事件

1968年10月9日、桜木町駅前のガレージ裏に隠していた拳銃を持ち出した永山は、それを持って東京の池袋へ遊びに行った。その夜は映画館で明かしたのだが、その時館内のトイレで拳銃に弾5発を装填し、拳銃をジャンパーの左内ポケットへ隠した。

翌10日は夕方まで都内の池袋・新宿・渋谷などで遊んで時間を過ごしたが、午後9時過ぎに東京タワーへ移動して、ベンチで休んでいるうちに寝込んでしまう。夜中に目を覚ますと、近くに東京プリンスホテルの照明が見えたため、そこへ行ってみようとした。

日が変わった0時過ぎ、 永山は東京プリンスホテルのプール入口から敷地内へ入った。そして、ホテル本館南側芝生付近を徘徊していたが、午前0時50分頃、巡回の警備員Aに見つかってしまう。
どこへ行くのかと聞かれた永山は、「向こうに行きたい」と答えたが、「ちょっと来い」と言われてジャンパーの襟首を掴まれた。永山は、その手を振り払おうとして、前のめりになり転んでしまった。
彼は「捕まったら拳銃を持っていることがばれる。死んでもかまわないから、拳銃で撃って逃げよう。」と考えた。そして至近距離にいる警備員Aの顔に向けて拳銃を2回撃った。 弾は1発は顔面に命中、もう1発は首を貫通した。

 
警備員は東京慈恵会医科大学附属病院に搬送されたが、午前11時5分ごろ死亡した。
事件を受け、警視庁は特別捜査本部を設置した。警備員Aは偶然現場に居合わせただけで、怨恨による犯行の線は薄く、犯行の動機は解明できなかった。ただ、凶器が22口径の回転式拳銃ということだけは特定できた。

永山則夫連続射殺事件
東京プリンスホテル
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京都事件

10月12日、永山は横浜駅で京都行きの切符を購入して、夕方の列車で出発した。京都に着いたのは翌13日だった。
昼間は市内見物をしたり映画を観たりして遊んだが、夜になって徘徊しているうちに八坂神社へ出た。 永山は、神社の境内で野宿しようと考え、山門から境内に入った。しかし日が変わった14日午前1時35分頃、またしても巡回していた警備員Bに見つかってしまう。

どこへ行くのかと聞かれた永山は、本殿の向こう側を指さしたが、その方角には何もないため怪しまれてしまった。永山は逃げようと考え、ジャックナイフを向けて「近づくと刺すぞ」と脅した。しかし、警備員Bはそれに怯まず、警察へ連れて行こうとした。
永山は、拳銃を盗んだことや東京での射殺事件の発覚を恐れた。そしてとっさに射殺して逃走しようと決め、隠し持っていた拳銃を取り出し、警備員Bに向けて4発撃った。弾は4発とも警備員の頭と顔に命中した。

永山はすぐ逃げようとしたが、2人の警官が見えたため近くの茂みに隠れた。しかし、ひとりの警官に落ち葉を踏む音で気付かれてしまった。だがその時、倒れている警備員Bに気付いたもうひとりの警官が「殺人だ!」と叫んだため、警官2人は警備員Bのほうに集中した。そのため、永山はその隙に逃げることができた。
永山は三条大橋まで逃げたところで、薬莢を拳銃から抜き取って鴨川に投げ捨てた。その後、京都駅から普通列車を乗り継ぎ小田原へ、小田原から夜遅く新宿へ向かった。

警備員は大和病院に搬送されたものの、午前5時3分頃に死亡が確認された。京都府警察は、特別捜査本部を設置した。警備員の遺体から摘出した弾を調べたところ、東京事件と同じ拳銃と銃弾であることが判明した。
また科学警察研究所は2つの事件を見比べ、

  • 閑静な人通りの少ない場所
  • 犯行時間は深夜
  • 動機が不明
  • 被害者は両事件とも警備員
  • 撃たれた部位はともに頭部
  • 発射距離は1~2mで射撃が上手い

などの共通点が多いことから、両事件を同一犯と断定した。10月18日午後5時には、警察庁が両事件を「広域重要指定108号事件」に指定して大規模捜査を開始した。

永山則夫連続射殺事件
八坂神社・境内
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函館事件

東京・京都で2人を殺害した永山は、生まれ故郷の北海道網走市自殺しようと考えた。

京都事件から5日後の10月19日、網走までの旅費をもらおうと、池袋に住む次兄を訪ねた。しかし次兄から理由を追及された永山は、やむなく拳銃を見せて犯行を打ち明けた
そして、北海道で自殺する決意を告げたが、自首することを勧められた。永山はこれを断り、旅費として8000円ほどをもらった。

永山は、拳銃と弾を持ったまま上野駅から普通列車で青森駅まで行き、そこから連絡船で21日に函館へ到着。そこから札幌駅行きの急行列車に乗った永山は、死ぬ前に札幌見物しておこうと思いつく。
札幌に着いた永山は市内見物しているうちに、自殺への気持ちが薄くなっていくのを感じた。そのため、東京に帰ることにして、26日夜に函館へ戻った。しかし所持金をほとんど使い果たしていた永山は、タクシー運転手を射殺して金を奪おうと考えた。

国鉄・函館駅のトイレ内で拳銃に弾6発を込め、午後10時50分過ぎ頃に函館駅前付近を通りかかったタクシーに乗った。永山は運転手C七飯町へ行くように告げ、しばらくタクシーに揺られていたが、午後11時13分頃タクシーを停車させた。そして、拳銃を取り出し後部座席から運転手の頭と顔を2回撃った。その後、タクシーの売上金約7000円と200円が入ったガマ口を奪い、約2時間かけて函館市街地まで逃走した。

タクシー運転手Cは翌日10月27日の午前8時15分頃、市立函館病院で死亡した。当初、死因は「鈍器で殴られたことによる脳内出血」とみられたため、初動捜査は遅れた。しかし函館中央警察署の捜査本部が遺体を司法解剖したところ、右目窪みから金属片1個を発見。その金属片の材質が鉛・真鍮であることが判明したのは11月5日だった。
そこで12日、函館中央署は改めてタクシー内を捜索した。
その結果、線条痕の付いた金属片が発見され、鑑定したところ108号事件(東京・京都事件)で使用された拳銃と同一の弾丸と判明した。

線条痕

線条痕(せんじょうこん)は、銃から発射された弾に刻まれた筋状の傷の事である。「銃の指紋」とも言え、線条痕を調べることでどの銃から発射された弾であるかが分かるため、警察の犯罪捜査でも利用されている。


これを受けて、警察庁は11月13日に函館事件を「連続ピストル射殺事件(108号事件)同一犯である」と断定した。しかし、死因の見極めミスなどの初動捜査の遅れに加え、それまで拳銃による事件をほとんど扱ったことがなかったこともあって捜査は難航した。

永山則夫連続射殺事件
永山がタクシーで向かったとされる七飯町(大沼国定公園 *犯行現場ではありません)
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名古屋事件

永山は、函館事件後に横浜へ帰り、拳銃は横浜市内の空き地に埋めて隠した。そして1週間ほど沖仲仕(船内荷役作業員)として働いたが、逮捕の危険を感じたため名古屋に移動することにした。


11月2日、拳銃を掘り出し、弾を6発を込めた上で名古屋へ向かった。翌3日朝に名古屋駅に到着、4日までは市内を見物したり、映画を見たりなどして時間を過ごしている。
夜遅く、永山は翌朝の沖仲仕の仕事を見つけるために、名古屋市中川区の路上を名古屋港方面へ向けて歩いていた。

日が変わり11月5日午前1時20分頃、1台のタクシーが近づいてきて、どこへ行くのかと声をかけてきた。永山が港へ行くとを告げると、運転手Dがドアを開けたため、永山はタクシーに乗車した。
車内では運転手Dから「あんた東京の人でしよう。今晩どうする?」と聞かれ、永山は焦った。東京の人間であることを見抜いたこの運転手は、警察に話すかもしれない。そうなると3件の殺人で逮捕されることにつながるかもしれない、と考えたのだ。永山は、所持金が約2000円余りしかなかったこともあり、運転手Dを射殺して金を奪って逃げようと決めた。そして、犯行場所を求めてタクシーを走行させた。

数分走ったところで、永山はタクシーを停車させた。そこで隠し持っていた拳銃を突然取り出し、運転手Dの頭部などを4回撃ち、布袋に入った売上金約7000円を奪った。走って名古屋駅方面へ逃走しようと考えたが、途中で見つけた材木屋の敷地に入り、材木の間に隠れて朝まで休んだ。そして布袋と腕時計の壊れた鎖バンドをその場に捨てた

タクシー運転手Dは午前6時20分頃、中部労災病院で死亡が確認された。遺体を司法解剖すると、被害者の体内から鉛弾4発が発見され、科学警察研究所で鑑定した結果、東京・京都両事件と同じ箇所に線条痕が確認されたため、この事件も108号事件同一犯の犯行と断定された。
これを受けて愛知県警察特別捜査本部はタクシー・宿舎関係・船員・指紋などを重点的に捜査したほか、全県下のホテル・旅館など宿泊施設の宿泊客を調べて犯人の足取りを追った。

永山則夫連続射殺事件
犯行現場

4件の殺人を犯した後、横浜に帰った永山は拳銃を土に埋め、桜木町で沖仲仕などをしていた。その後11月末には上京して中野区のアパートに住み、新宿区の深夜喫茶店で働いている。

一方警視庁は犯人逮捕に向けて、11月14日夜~15日朝にかけて、東京都内全域にあるホテルなどの宿泊施設(計4942か所)の一斉大立ち入り調査を実施。そのほか、全国の警察官たちの協力による大規模な張り込み・聞き込みを実施している。永山はこの大規模捜査の80,000人の被疑者リストに入っていた。

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逮捕

永山則夫連続射殺事件

年が明け、1969年(昭和44年)3月末頃、永山は埋めてあった拳銃を掘り出し、アパートへ持ち帰った。彼は拳銃を明治神宮の森に埋めようと考え、4月6日に拳銃を持ってアパートを出た。永山は暗くなってから拳銃を埋めることに決め、それまで渋谷で映画鑑賞をして時間を潰した。

暗くなったころ明治神宮の参道へ向かうと、入口が柵で封鎖されていた。詰所には警備員もいたため、彼は侵入を断念した。
午後9時頃、永山は所持金がわずかだったので、どこかで金を盗むことを思い付く。

永山則夫連続射殺事件
犯行に使用したレームRG10型ピストル

4月7日午前1時40分頃、拳銃に銃弾6発を装填して「一橋スクール・オブ・ビジネス」の事務室に侵入。金品を物色していると、突然警報装置が作動、永山は、駆けつけた警備員Eに発見されてしまう。
逮捕されれば、今までの犯行が発覚してしまう。永山は、今までのように警備員Eを射殺して逃げようと考えた。そして、玄関ホールで拳銃を警備員Eに向けて2回撃ったが、今回は命中しなかった

永山は警備員Eを振り切って逃走し、明るくなるまで明治神宮の森に隠れていた。警視庁は午前4時27分に都内全署へ緊急配備して永山の行方を捜索した。

一方、永山は、午前5時28分頃になって明治神宮北参道入口の歩道脇の森の中から表に出た。それを、張り込んでいた代々木警察署の署員に見つかってしまう。彼は職務質問され、ポケットの拳銃も発見されてしまった。代々木署員は、警備員Eへの強盗殺人未遂および拳銃不法所持の現行犯で永山を逮捕した。拳銃の弾丸は17発所持していた。

永山は取り調べに対し「108号事件」に指定されていた4件の強盗殺人を認めたため、警視庁は午前11時12分、永山を殺人容疑で逮捕した。

【凶悪過ぎ】未成年でも死刑になった事件【4選】

犯人・永山則夫について

永山則夫・幼少時代
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恵まれない子ども時代

永山則夫は1949年6月27日、北海道網走市呼人番外地で生まれた。
父親は、農業試験場の試験にも合格したリンゴ栽培技師、母親は行商人だった。永山は8人兄弟姉妹の第7子(4男)だった。

3歳のとき、一家で郊外の呼人から網走市内中心部に引っ越す。
父親は博打好きで、太平洋戦争から帰還後は酒も飲むようになり、母が1日行商で働いていた。そのうち、父はほとんど家に戻らなくなり家庭は崩壊する。幼い子供たちはネグレクト状態だった。
家事は19歳年上の長姉が担当し、永山の面倒を見た。だが、彼女は婚約破棄や堕胎といった出来事の後に心を病み、1953年に地元の精神科病院に入院する。

母は1953年年10月末、永山を含む4人の子を網走に残したまま、実家のある青森県北津軽郡板柳町に帰った。残された永山を含む4人の兄弟は、くず拾いやゴミ箱を漁ったりして極貧で暮らしていた。当時、永山は次兄からよく殴られたと証言している。
この生活は半年余り続いたが、1954年春、福祉事務所からの通報により、4人は板柳の母親の元に引き取られた。

母親は行商で生計を立てて兄弟を育てたが、多忙なため永山を構うことはほとんどなかった。
永山は、津軽弁が話せずいじめられたことから無口になり、小学校に入っても友達はできなかった。また、自宅でも次兄暴力がエスカレートしていた。そのため、彼は小学2年生頃から、頻繁に列車に乗って家出するようになる。母親はそのたびに引き受けに行かなければならなかった。これでは仕事に支障が出るということで、母親は次兄に注意して虐待は止まった

5年生の時、症状が回復した長姉が板柳に転居してきた。長女が面倒をみたおかげで、この学年だけは学校にほぼ通った。しかし、長姉は再び堕胎し精神に変調をきたして入院している。

中学に上がると、就職で家を出た兄に代わって新聞配達を始め、学校にはほとんど通わなかった。
中学1年の冬に、岐阜県の列車内で父が死亡。葬儀の席で、永山は次兄から”母がかつて自分たちを捨てた”という話を聞く。そのせいなのか、彼は妹や同居の姪に暴力を振るうようになった。

中学3年生の秋、母が脳卒中で入院。その間、妹と姪は永山の暴力を恐れて病院で寝泊まりし、約5か月間、彼は自宅でひとり暮らしとなる。そして、不良少年たちと付き合うようになった。自宅に彼らの盗品が隠され、万引きの手伝いなどもしていた。
卒業間近の2月、母への「当てつけ」として目立つ形で衣類を盗み、これを機に不良少年の悪事が露見する。当初、永山は罪をかぶったが、真相が明らかになり、衣類の件も寛大に処置される。だが、母は永山が自宅を出ることを望むようになっていた。

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就職で東京へ

1965年3月、板柳から東京集団就職する。就職先は渋谷の高級果物店だったが、小柄なせいか、まわりからかわいがられた。また、北海道育ちのため訛りが少なく、接客も要領よくこなし、信用も得ていた。
しかし、就職勧誘のため青森に出向いた上司が、永山の窃盗の件を知ってしまう。そして、それをほのめかしたことから解雇されると思い込み、わずか半年で退職した。

果物店を退職後、南の島に行こうと横浜港からデンマークの貨物船に乗り込んで密航しようとした。しかし、寄港地の香港で見つかり日本に送還されている。
その後、栃木県小山市に住んでいた長兄に引き取られ、宇都宮市の自動車板金工場で働く。しかし、長兄からほとんど無視されたことに恨みを持ち、「当てつけ」として市内の肉屋で窃盗を繰り返す。そのため、11月10日には宇都宮少年鑑別所に収容されたが、不処分となった。
1966年早々に永山は長兄の元を飛び出し、大阪までヒッチハイクで移動した。

大阪府守口市の米屋で勤めた時、雇用主から言われ戸籍謄本を取り寄せた。本籍の欄に「北海道網走市呼人無番地」との記載があり、自分は「網走刑務所生まれ」だと誤解する。(映画の『網走番外地』から連想した)永山は、周囲がそれを冷やかしたり辞めさせようとしていると思い込んだ。社会に出てから被害妄想が強くなっていたのだ。

雇用主の子息が受験の下見などで東京に行くと、自分の身辺調査に向かったに違いないと思い込み、店に来た公認会計士も自分の調査に来た弁護士だと考えた。そして、4月に新人が入りそうになるのをきっかけに、一方的に退職した。
その後、池袋や羽田空港の喫茶店で働くが、ちょっとしたことで勝手な思い込みから、逃げるように退職している(後者は同じ職場に板柳出身者がいると知っただけで辞めた)。

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努力と挫折のくり返し

このころ、手首を切って自殺を図るが果たせず、その数日後の1966年9月6日にアメリカ海軍横須賀基地に侵入して基地内で窃盗を働いた。しかし、これは憲兵に見つかり、横須賀警察署に刑事特別法違反・窃盗罪で逮捕された。逮捕後には横浜少年鑑別所へ身柄を移されたが、同室者からリンチを受ける。

逮捕から1か月半後、10月21日に横浜家庭裁判所横須賀支部で開かれた審判により、試験観察処分を受けた。審判には、長兄が関わりを拒否したので代わりに次兄が訪れ、母も上京した。
池袋に住む次兄の「困ったらいつでも来い」という言葉と、母が来てくれたことに刺激を受けた永山は、定時制高校への進学を決意。新宿区淀橋の牛乳配達店で働きながら勉学し、1967年4月、明治大学付属中野高等学校の夜間部に入学する。

入学後は学業にも仕事にも熱心に取り組み、最初の中間試験は79人中13位の成績で、演劇部にも所属した。しかし、睡眠時間を削っての生活による疲労に加え、保護観察官が勤務先に訪れたことで「前科がバレる」という被害感情を募らせ、6月下旬に店を辞めてしまう。高校は「保証人と連絡が付かない」という理由で8月に除籍処分となった。

この後、横浜港で沖仲仕の仕事に3か月就く。続いていくつかの職を転々とし、自衛隊にも応募したが基地侵入の犯歴により受験できなかった。
永山は再び定時制高校に通う気持ちになり、1967年10月下旬から池袋近くの牛乳配達店に勤めた。だが、1968年の正月明け、電気ポットのスイッチを切り忘れて店の畳を焦がしたことで「店にいられない」と考える。彼は、”日本から逃げよう”と考え、「横浜は顔を知られている」という理由で神戸港からフランス籍の船に乗って2度目の密航を企てるも失敗。船内で手首を切って自殺を図ったが、横浜に戻される。

横浜と東京の少年鑑別所での収容を経て、2月に再度の保護観察処分となった。次兄も今度は引き取りに来なかった。
代わりに来てくれた3番目の兄に励まされ、杉並区西荻の牛乳店で働きながら、同年4月、明大付属中野高校に再入学。学業、仕事ともに熱心に取り組んだ。
その後、クラス委員長に選ばれたが「辞めさせて貶めるためにわざと委員長に選んだ」という被害妄想が生まれる。相談しようとした3兄が不在だったことで、5月7日に配達中の牛乳を放置して売上金を持ったまま失踪、板柳の実家に戻った。 

一審公判中に永山の精神鑑定を行った石川義博氏は、こうした行動の繰り返しについて「努力には保護者的存在からの愛情や賞賛、尊重などが伴わなければ永続しない」と指摘している。
永山の場合はそうした裏付けのないまま「自分を変えたい」という無理な努力であった。そして、”心身の疲労の蓄積”と、”対人関係の障害”が攻撃衝動を高め、「弱みを突かれる等の強い情動刺激」に接すると自己が否定されたと感じて逃避し事件を起こす、という悪循環に陥ったと述べている。

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そして凶行へ

帰郷した永山に、母は厳しく毎日叱責を繰り返した。
永山は地元の定時制高校への進学を希望したが、高校にも中学3年時の担任にも断られた。彼は実家に引きこもった後、母から金を借りて再度上京。6月からまた横浜港で沖仲仕となる。過去の職歴から当初は「常備」と呼ばれる常勤に近い待遇を与えられた。
稼ぎの多くを次兄を通して「入院費用」が必要だという長兄への仕送りに回した(実際には長兄は詐欺事件を起こし、逃走資金に使われた)。

だが、8月に体の不調から無断欠勤して所属会社を辞める。それ以後は「アンコ」と呼ばれる日雇いの仕事しかできなくなった。そのころ、時折寝泊まりしていた次兄の家で、「もう来るな」と言われ、以降は路上生活に近い暮らしだった。

そしてその年の10月8日、米軍横須賀基地に忍び込んだ永山は、拳銃を手に入れる。
これが事件の発端となった

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獄中作家となる

永山則夫 入門
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1970年に事件に関心を持った井出孫六氏が永山に面会した。
(井出氏は当時、中央公論社を退職した直後で作家デビュー前)
井出氏は弁護士から永山が獄中で記したノートを見せられ、その内容に驚いて出版を企図した。これにより、1971年に手記『無知の涙』が発表され、ベストセラーとなった。

その後も執筆活動は続いた。作家としての活動は以下の通り。

1973年、「人民をわすれたカナリアたち」、「愛か-無か」を発表。この印税は4人の被害者遺族へ支払い、そのことが1981年の控訴審判決において情状の一つとして考慮され、死刑判決破棄につながった。
1981年の控訴審判決から半年後には小説「木橋」の執筆を開始。1982年(昭和57年)8月下旬に完成させて第19回新日本文学賞へ応募し、1983年2月に行われた選考により同賞を受賞した。

また、日本では逮捕時から有名な犯罪者として知られていたが、作家として数々の著作を世に出したことで、日本だけでなく海外にも名前を知られるようになり、死刑確定後にはアムネスティ・インターナショナル国際人権擁護団体ドイツ作家同盟などが各国の日本大使館を通じ、日本国政府に恩赦要請の書簡を送るなどしていた。

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1990年1月30日には秋山駿・加賀乙彦の2人が推薦人となり、日本文藝家協会への入会申請を提出したが、拒否されている。拒否の理由は、

  • 協会の利益に反したり体面を汚したものには除名の規定があり、永山はこれに抵触する、
  • 永山の入会に対し、会員の多くに心理的抵抗感が強い

などだった。
これにより、入会拒否に反発した中上健次・筒井康隆・柄谷行人・井口時男が相次いで日本文藝家協会からの退会届を提出し、脱会した。

一方、1996年にはドイツ作家同盟・ザールラント州支部から会員として受け入れられている。

死刑囚として、ここまで成功した例はほかにない。
彼が幸せな少年時代を過ごし、普通の人生を送れていたら、やはり作家として成功していただろうか?
それとも家族を持ち、会社まで電車に揺られる平凡な人生だっただろうか?
死刑囚だからそこ執筆を開始したのだとしたら、人生はいかにも皮肉なものだと感じずにいられない。

公判 ~ 判決まで

第一審・東京地裁:死刑

永山則夫

第一審は弁護団の解任・辞任劇などのせいで10年にもおよんだ。その間、裁判長も3度交代している。

初公判(1969年8月8日)

永山は罪状認否において、ほぼ全面的に起訴事実を認めたが、以下のように供述した。

  • 東京事件(殺人)に関しては「初めは殺意はなく、逃げたい一心で撃った」と供述して殺意を否認
  • 京都事件(殺人)については殺意を認めた
  • 函館事件(強盗殺人)は「金が欲しかったから」と認めた
  • 名古屋事件(強盗殺人)に関しては「売上金などを奪う気になったのは拳銃を撃った後」だとして、強盗の犯意を否認した
  • 横須賀海軍施設(窃盗事件)や原宿事件(殺人未遂・拳銃および銃弾の不法所持)については、これを認めた

第2回公判(1969年9月8日)

弁護人は、4件の殺人事件について以下のように全面的に殺意を否認したほか、「横須賀海軍施設から拳銃などが盗まれた事件は、永山の犯行ではない疑いがある」と主張した。

  • 東京事件(殺人)については「殺意はなく、逃走しようとした時に狙いも定めず拳銃を撃った。拳銃は小さくて玩具のような印象しかなく、人を殺害するほどの威力があるとは考えていなかった」とした
  • 京都事件(殺人)についても「拳銃の威力を誤信しており殺意はなかった」と主張した。
  • 函館事件(強盗殺人)について、偶発的なもので犯意の存在は認められない。
  • 名古屋事件(強盗殺人)では、永山に確定的な殺意はなかった、強盗についても「初めから強盗の犯意はなかった」とした。
  • 原宿事件に関しては警備員Eへの殺意は否認したが、拳銃・銃弾の不法所持は認めた。

第10回公判(1970年5月12日)

永山は函館事件に関する検証・尋問の調書について「函館事件が一番ひどかったと思っているので、この言葉を捧げたい。
『月の真砂は尽きるとも 資本主義のあるかぎり 世に悲惨な事件は尽きまじ』と述べた。

第12回公判(1970年6月30日)

永山は裁判長に対し「このような事件を起こしたのは、当時の自分が貧乏で無知だったからだ。何もかもが憎くてやった。資本主義社会が自分のような貧乏な人間を作るから自分はここにいる」と述べた。

そして「犯罪と経済状態」(ウィリアム・ボンガー著 )の一節「貧乏は人の社会的感情を殺し、人と人との間におけるいっさいの関係を破壊し去る。すべての人々により捨てられた人は、かかる境遇に彼を置き去りにせし人々に対しもはやなんらの感情ももち得ぬものである」を英語で暗唱した。

第14回公判(1970年8月14日)

永山は「貧乏が憎かったから東京プリンスホテルへ行ったら、偶然警備員Aが出てきてああいうことになった。それ以降は惰性でやった。死刑は怖くないし、情状してもらいたくはない。情状なんかしても被害者4人と(死刑になる)自分の命は帰らないが、あの事件を起こしたことで東拘大で勉強し、『なぜ自分のような者が生まれたのか』をわかることができたから、事件を起こして良かったと思う。自分は死刑になっても構わないが、自分のような輩を二度と出さないような社会にしてほしい」と陳述した。

第63回公判(1979年2月28日)

論告求刑が行われ、検察官は被告人・永山に死刑を求刑した。
永山は「国選弁護人は全く俺を弁護していない」と叫び、退廷を命じられた。

第66回公判(1979年5月4日)

弁護人による最終弁論が行われ、10年におよぶ公判は結審した。
第四次弁護団は弁論で「犯行当時、永山は心神喪失または心神耗弱状態だった」「永山の脳波には異常がある」と主張した。
永山は「今からこの法廷を人民法廷にする」と叫び、退廷を命じられた。

判決(1979年7月10日)

永山の逮捕から約10年3か月後のこの日、判決公判が開かれた。

東京地裁は検察官の求刑通り、永山に死刑判決を言い渡した。
弁護人は石川義博氏による精神鑑定結果などを基に「永山は犯行時、心神喪失か心神耗弱状態だった」と主張したが、東京地裁は「石川鑑定は永山の客観性のない供述を採用し、捜査官への客観性・合理性のある供述を採用しておらず、刑事裁判の鑑定結果として誤っており、脳波検査の方法も疑問だ。検察官側の『性格は偏っているが精神病ではない』とする鑑定結果などから、永山には完全な責任能力が認められる」と認定した。
そして「永山には不幸な生い立ちや事件当時の年齢など同情すべき点もあるが、自分の目的を遂げるため善良な市民を至近距離から狙撃するなど、殺害方法は冷酷無残だ。京都事件後には兄から自首を勧められても、それを拒否してさらに犯行を重ねている上、自己の犯罪を『貧困・無知を生み出した社会・国家のせいだ』としており反省の態度が見られない。国民に強い衝撃・不安を与えた事件で、あらゆる有利な事情を考えても死刑以外にない」と結論付けた。

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控訴審・東京高裁:無期懲役

控訴審では永山が事実関係を争わなかったため、情状面における審理が中心になった。

第2回公判では永山と獄中結婚した女性が情状証人として出廷し「永山と2人で罪を背負い、被害者遺族に許してもらえるよう償い続ける」と述べた。
永山は第一審公判中、ベストセラーとなった獄中記『無知の涙』を出版したが、第3回公判で元編集長は「永山はこの印税を、京都・名古屋両事件の遺族に支払うことで贖罪をしている」などと訴えた。

1981年8月21日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁は第一審・死刑判決を破棄して、被告人・永山を無期懲役に処する判決を言い渡した。
裁判長は「犯行の凶悪さや被害者の無念などを鑑みれば、東京地裁が死刑を選択したことも首肯できる」としたうえで、以下を理由として挙げた。

  • 本事件は永山が少年(19歳)の時に犯したものである。
  • 永山は人格形成に最も重要な幼少時から少年時にかけて、極めて劣悪な環境で育ち、精神的な成熟度が実質的に18歳未満の少年と同等
  • すべての責任を永山だけに負わせ、その生命で償わせることはあまりにも酷だ。
  • 獄中結婚で、人生で初めて誠実な愛情をもって接する人を持ち、心境の変化が著しく表れている。
  • 妻による贖罪の行動により、東京事件以外の3事件の遺族感情は当初に比べ、多少なりとも慰謝されているように認められる。
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上告審・最高裁:審理差し戻し

刑事訴訟法では上告理由が「控訴審判決に憲法違反判例違反があった場合のみ」と限定されており、量刑不当を理由とする上告は認められていない。

にもかかわらず、東京高検は9月4日、判例違反量刑不当を理由に最高裁への上告手続きを取った。
「控訴審判決は死刑制度を否定し、死刑制度を支持する国民大多数の正義感と相容れない。実際にこれ以降、世間は異常なまでの関心を示し、否定的・批判的意見が多数寄せられている。過度に寛大な刑罰は、過度に苛酷な刑罰と同じく不公正・不正義と国民には映る」とする上告趣意書を提出した。

一方、異例の上告に対し弁護団は「控訴審判決は慎重な審理・熟考の結果として下された判決で、その内容には普遍的な妥当性・真実が存在する。検察官の上告はこれを無視し、一時的な感情によって1人の人間の生死を左右しようとするもので、裁判制度の存在意義を逸脱させるものだ」と批判する声明を出した。

最高裁判所は上告理由のうち、判例違反については「前提を欠き、実質的には量刑不当の主張である。刑事訴訟法の適法な上告理由ではない」と判断した。
しかし、最高裁判所調査官が9月以降半年以上を費やした調査官報告書によると「強盗殺人罪で死刑が適用される場合は『殺害された被害者の数』が重要な因子になっている。 『1人の場合は無期懲役以下、複数であれば死刑が適用される』傾向にある」と結論付けた。
また、過去の重大な少年事件における死刑や無期懲役の適用事例について検討し、「19歳以上の年長少年が犯した強盗殺人事件で複数の被害者が存在する場合、死刑確定が11人、無期懲役が4人。被害者の数が3人の場合はすべて死刑が適用されている」という結果を導き出した。控訴審判決が示した『精神的な成熟度は実質的に18歳未満の少年と同等』とする事実を裏付ける明らかな証拠を見出すことはできなかった。

永山基準

この調査官報告書では、被害者数と量刑の相関について言及している。
これにより死刑適用基準について初めて詳細に明示したわけだが、この際の基準は後に「永山基準」と呼ばれ、後の刑事裁判でも死刑選択基準として採用されている


1983年7月8日に上告審判決公判が開かれ、最高裁は控訴審の無期懲役判決を破棄し、審理を東京高裁へ差し戻す判決を言い渡した。最高裁が量刑不当を理由に被告人にとって不利益な方向で控訴審判決を破棄し、高裁への差し戻し(控訴審のやり直し)を命じた事例は戦後の刑事裁判史上初めてだった。

「永山は極めて不遇な家庭環境で生育したが、精神状態を18歳未満の少年と同視することは困難である。そのため『犯行は一過性のもので、精神的成熟度は18歳未満』など、証拠上明らかではない事実を前提とした控訴審の無期懲役判決は、甚だしく量刑を誤ったもので、破棄しなければ正義に反する」と判断したのだった。

差し戻し控訴審・東京高裁:死刑確定

1984年(昭和59年)12月19日に東京高裁で初公判が開かれた。

差し戻し控訴審における争点は、量刑判断に絞られた。
弁護側は「上告審判決は『差し戻し前の控訴審判決と同じ理由で無期懲役にしてはならない』とするものにすぎない。また量刑判断の前提となる事実を誤認しており、証拠調べも不十分だ。死刑適用基準についても固定化することは危険」と上告審の破棄差し戻し判決を批判した。

1987年3月18日に差戻控訴審の判決公判が開かれ、東京高裁は差し戻し前の第一審(東京地裁)・死刑判決を支持して被告人・永山側の控訴を棄却する判決を言い渡した。
東京高裁は起訴事実すべてを認め、上告審判決で示された死刑適用基準に沿う形で「永山の不幸な生い立ちや精神的未熟度・少年犯罪だった点など、永山にとって有利な情状を最大限に考慮しても、わずか1か月足らずの間に市民4人を次々と射殺した冷酷・非情で残虐なまれにみる重大事件だ。その犯行の重大性にかんがみると、死刑を言い渡した一審判決の量刑は不当に重すぎるとは言えない」と指摘した。

永山は判決宣告後に「それじゃ、戦争になりますよ」と叫び、刑務官たちにより退廷させられる際も「爆弾闘争による死刑廃止を!」と叫んだ。その後、同日中に判決を不服として上告し、10月22日には最高裁に「上告趣意書」を提出した。

差し戻し上告審:死刑確定

1990年2月6日に最高裁差し戻し上告審口頭弁論公判が開かれた。
弁護人は「死刑は憲法違反、心神喪失や心神耗弱を認定しなかった点は事実誤認、 犯行時の精神年齢は18歳未満の少年と同一で、死刑を適用すべきではない」といった理由から死刑判決破棄・無期懲役への減軽を求めた。また被告人は、著書の印税を遺族に支払ったり、獄中で勉学に励むなど反省している、と主張した。
一方、検察官は上告棄却を求めた。


1990年4月17日、最高裁は永山の上告を棄却する判決を言い渡した。
弁護人は4月23日に「判決訂正の申立書」を郵送したが、申し立ては棄却された。
そして1990年5月9日、棄却決定が永山へ通達され、永山則夫の死刑判決が確定した。

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刑の執行

死刑確定から約7年後の1997年8月1日、永山は東京拘置所にて死刑を執行された。(48歳没)
8時25分、永山は”面会”と言われ独房から出されたが、廊下で多数の刑務官に取り囲まれた。刑場に連行されることを悟った永山は、激しく暴れたという。しかし刑務官たちに制圧され、刑は執行された。
遺骨は本人の遺志でオホーツク海(永山の故郷・北海道網走沖)に散骨された。

死刑囚の多くは、死刑執行を先送りにする目的で再審請求を行うことが多いが、永山は死刑執行まで1度も再審請求しなかった。

なお、この日は夕張保険金殺人事件日高安政・信子夫婦も死刑が執行されている。

【凶悪過ぎ】未成年でも死刑になった事件【4選】

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