大牟田4人殺害事件|世界でも類を見ない”家族全員死刑”

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大牟田4人殺害事件 日本の凶悪事件

大牟田4人殺害事件

2004年9月、福岡県大牟田市の暴力団「北村組」組長一家が、知人家族を殺害するという事件が起こった。動機は金、そして恨み。
母親・真美と次男・孝紘は起訴事実を認めて供述したのに対し、長男・は全面否認。そして父親・實雄はすべての罪をひとりで被ろうとした。
本来の標的はひとりの女性であったのに、まったく無関係の息子2人とその友人まで手にかけた非情な犯行に、下った判決は前代未聞の「家族全員死刑」だった。

事件データ

犯人1北村實雄じつお)(当時60歳・父親)
死刑:広島拘置所に収監中
犯人2北村真美まみ)(当時45歳・母親)
死刑:福岡拘置所に収監中
犯人3北村孝(当時23歳・長男)
死刑:大阪拘置所に収監中
犯人4北村孝紘たかひろ)(当時20歳・次男)
死刑:福岡拘置所に収監中
犯行種別強盗殺人事件、殺人事件
犯行日2004年9月16日~17日
犯行場所福岡県大牟田市
被害者数4人死亡
動機金銭
キーワード家族全員死刑

事件の経緯

福岡県大牟田市の北村家は、暴力団一家だった。
父親で組長の實雄(当時60)、母親の真美(当時45)、長男・(当時23)、次男・孝紘(当時20)の4人は「北村組」の構成員。息子2人は元力士であったが、大成することなく短期間で引退し、その後は父親の元で暴力団員として活動していた。

北村組は指定暴力団「道仁会」の三次団体で、組員は5、6人程度。そのため、金回りがいいとは言えなかった。主な収入源は、工事現場に作業員を派遣する「石橋建設」としての売り上げだった。

真美には、違法ヤミ貸金業を営む高見小夜子さん(58)という知人がいた。1995年のある日、2人で食事をしている時に、小夜子さんは借金の取り立て業務を真美に依頼する。真美はこれを承諾し、仕事で組むようになると2人は下の名前で呼び合う ”友人” といえる存在となっていった。

しかし、そんな良好な関係も2000年に起こった”出来事”をきっかけに崩れていくことになる。

崩れていく北村組

2000年6月、石橋建設に勤める18歳の少年が突然辞めたのに腹を立て、長男の孝は友人6人と制裁を加えた。殴る蹴るの暴行のあと、農業用水路に落ちた少年は、這い上がることができずに死亡してしまう。この事件で、孝は傷害致死で懲役3年6か月の判決を受け、刑に服した。

そして同じ年、實雄は組員の妻と肉体関係を持つという、組長として恥ずべき行為をしている。怒った真美が離婚を切り出すと、實雄は家にガソリンを撒いて暴れたという。結局、離婚はしなかったが、真美は睡眠薬なしで眠れなくなってしまった。

もともと財政の苦しい小さな組は、これらの事件でガタガタになり、上部団体への上納金や生活費などで6600万円以上の借金を抱えるようになっていた。
真美はクリーニング屋に文句をつけて代金を払わなかったり、實雄は車上荒らしで捕まるなど、みっともない振る舞いに ”破門” の危機さえあったという。

真美は小夜子さんに金を借りるようになり、その借金はたちまち数百万円にも膨れ上がっていく。返済が遅れたり、借金取り立て業務がうまくいかない時などは、小夜子さんは嫌味を言うようになった。

實雄が車上荒らしで逮捕されたことについても、真美に対しせせら笑うなど、立場は完全に逆転していた。また、真美は取り立てた金からネコババするなど、2人の間に金銭トラブルも発生するようになっていた。

友人を殺して大金を奪う計画

大牟田4人殺害事件

2004年6月下旬、真美は小夜子さん宅の改装工事を請け負ったが、小夜子さんは「貸している金と相殺する」と工事代金を支払わなかった。そんな態度が気に入らない真美は、7月頃には「いつか殺してやる」と言うのが口癖になっていた。

このように、真美の恨みの感情は相当強かったが、小夜子さんはそれに気づいていなかった。ある時、小夜子さんは真美に「1億円の資本で正式な許可を取って、貸金業を始める」という話をする。それを聞いた時、真美は彼女を殺して大金を奪うことを思いつく。
真美がこの考えを家族に話したところ、誰も反対する者はいなかった。

2004年9月9日、實雄は真美から「家の借金の実情」を打ち明けられると ”小夜子を殺して金を奪う” ことを真剣に検討するようになる。元からそのつもりの真美はこれに当然のごとく賛成。こうして草案だった話は具体性を帯びていき、「架空の不動産取引で金を用意させ、真美が小夜子さんを殺してそれを奪う」という計画ができあがった。

真美は小夜子さんに「實雄の紹介で安く買える土地がある」と嘘の商談を持ちかけた。疑いもしない彼女はこれに応じ、2600万円と改装工事代80万円を用意すると答えた。

その後、真美は小夜子さんが2680万円を用意しているのを確認。2004年9月16日の夜、2人は大牟田市内の三池公園前に停めた車の中で会った。近くの暗がりでは、實雄と孝が身を潜めて待機していた。

車内では、小夜子さんが恋人に関する悩みを打ち明け、真美に対し「いつまでも友だちでいて欲しい」と言ってきた。これから殺害しようとする相手に親愛の情を見せられ、真美は実行できずにいた。

兄弟の勝手な行動

馬沖橋・大牟田4人殺害事件
馬沖橋

いつまで経っても実行しない真美にしびれを切らした孝は、その場を離れて弟の孝紘を呼び出す。孝は、小夜子さん宅にあるはずの大金を奪いに行くことを提案し、2人は彼女の家に向かった。

兄弟は午後10時40分頃、大牟田市小浜町の小夜子さん宅に到着。家には次男の穣吏さん(15歳)がいた。高校1年生の穣吏さんは勉強中だったが、顔見知りの孝紘を家に入れてくれた。そして、パソコンの電源を落とそうとした時、孝紘は背後から首にタオルを巻き付け締め上げた。やがて穣吏さんが動かなくなると孝紘は孝を招き入れ、見つけた金庫を奪って穣吏さんを車のトランクに投げ入れた。

しばらく走行していると、トランクから物音がしてきた。死んだと思った穣吏さんは生きていたのだ。
2人は車を馬沖橋に停車させ、トランクを開けた。

午後11時45分頃、命乞いをする穣吏さんの首にロープを巻き付け、2人がかりで締め上げた。それから彼の体にブロックを3個括りつけ、橋から突き落とした。この時、孝紘は”人を殺している”ことに快感を覚えたという。

その後、奪った金庫をこじ開けてみると中に入っていたのは現金ではなく、指輪などの貴金属だけだった。仕方なく質屋に持って行ったが、10万円程度にしかならなかった。

真美のほうも、この日は結局小夜子さんを殺害することが出来なかった。

小夜子さんを殺害

大牟田港緑地運動公園
大牟田港緑地運動公園

翌17日午後、穣吏さんが行方不明ということで、長男・龍幸さん(18)が友人6人とともに捜索を始めていた。

一方、殺害計画に気づきもしない小夜子さんは、次男を一緒に探してくれるということで、北村組事務所に来ていた。そんな彼女に、真美は睡眠薬入りの弁当を食べさせる。小夜子さんが眠ってしまうと、家族4人は彼女を殺害したあとのことについて話し合った。

その結果、遺体は小夜子さんの長男の車に乗せ、車ごと川に沈めることにした。そして車を使う以上、持ち主の長男も殺害する計画だった。

そうこうしてるうちに日付は変わり、18日になっていた。
真美は「これから次男を探しに行く」と騙して、まだ意識の朦朧としている小夜子さんを車に乗せた。そして「若い子がたむろしてる場所がある」と大牟田港緑地運動公園に車を走らせた。

公園に入ったあたりで、孝紘は小夜子さんの首にワイヤーを巻き付け全体重170kgをかけて締め付けた。小夜子さんは、ほどなくして息絶えた。彼女の死亡を確認すると、真美は財布をあさり、「26万円もあった」とはしゃいだ。

長男の殺害

大牟田4人殺害事件
工業団地「大牟田エコタウン」を抜けた大牟田川の河口あたり

小夜子さんの次は、長男の龍幸さんだった。
家族がとりあえず小夜子さん宅に行ってみると、しばらくして軽ワゴンに乗った龍幸さんが、次男の捜索を切り上げて帰ってきた。

孝紘は龍幸さんに声をかけ、自分たちも次男の行方を捜していると説明。そこで助手席に人が乗っているのに気づいたので誰か聞いてみると、龍幸さんの友人の原純一さん(17歳)で、以前会ったことがあるという。原さんも次男の捜索に参加していたのだ。

長男の龍幸さんが高校1年生の頃、一時不登校になり北村宅に約1カ月間預けられたことがあった。知人は読売新聞の取材に「龍幸は孝紘と年齢が近かったので、この時期に親しくなったのだろう」と話す。
しかし、龍幸さんの友人は週刊文春の取材に対し「龍幸と孝紘は”親しい間柄”とはとても言えず、実際は龍幸が北村兄弟の使い走りにされていただけで、兄弟からいじめを受けて泣くこともあった」と証言した。

”この友人をどうするか” で家族が話し合った結果、「一緒に殺すしかない」という結論になった。そして、實雄は持ってきていた拳銃を孝紘に手渡した。

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彼らは二手に分かれて ”探す” ことになり、孝と孝紘は龍幸さんの車に乗った。孝が運転、孝紘が助手席、龍幸さんと原さんは後部座席に乗り、ひとしきり探したが、”当然” 穣吏さんはみつからない。そこで、人気のないところにいるかもしれないと、車を海の方角に向けて走らせた。

途中、孝紘は2人の携帯電話(ガラケー)を取り上げ、2台ともへし折った。怪訝な表情の2人に、「新機種に変えるとバックマージンが貰えるから」と嘘の説明をした。このころには龍幸さんたちは何かおかしいことに気づき、恐怖心に囚われ始めていた。

車は工業団地「大牟田エコタウン」を抜けて大牟田川の河口あたりに停車させた。ここで孝紘は拳銃を取り出し、原さんに頭を出すよう言った。「モデルガンだから音が出るだけだ」という説明を信じたかどうかはわからないが、原さんは従った。孝紘は引鉄ひきがねを引き、ものすごい音とともに原さんは崩れ落ちた

ここで初めて孝紘は ”本当の話” をした。小夜子さんと次男はもう殺害したこと、目的は金であること。そして、その金はどこにあるかを龍幸さんに問いただしたが、彼は知らないという。それならばもう用はないと、龍幸さんの頭を拳銃で撃った

2人はまだ息があるようだったので、孝紘は胸部に拳銃を撃った。その後、實雄と真美の車と合流。原さんが息絶えていないことに気づき、アイスピックでとどめを刺した。

事件の発覚

北村一家は、龍幸さんの軽ワゴンに3人の遺体を乗せ、大牟田港緑地運動公園に向かった。そして午前3時半頃、馬沖橋近くの諏訪川左岸堤防道路に到着すると、遺体を乗せた軽ワゴンを川に沈めた。

それから小夜子さん宅に行き、家探しを開始。金庫が見つかったが、中から出てきたのは土地の権利書などの書類だけだった。仕方がないので、一家は何も盗らずに家に帰った。

翌日、北村兄弟が勝手に穣吏さんを殺害していたことを両親は知る。實雄は、ブロックを巻き付けただけでは遺体は浮かび上がってくると指摘、孝紘は遺体を沈めた場所を潜った。2度潜って遺体の発見はできたが、3日も経っていたため腐乱状態が激しく、どうすることもできなかった。

9月21日午前10時頃、案の定、穣吏さんの遺体が浮かび上がってきたのを通行人が発見する。
福岡県警は、小夜子さん親子の失踪に関して、親交のあった北村一家をマークしていた。そのため真美は参考人として事情聴取された。彼女は、捜査員から遺体が浮かんだ件を告げられると、観念したのか4人の殺害について自供を始めた

9月22日午前1時、北村真美を逮捕。午前9時過ぎ、それを聞きつけた實雄が警察署にやって来た。そして妻の逮捕に抗議し、自分の頭を拳銃で撃つという行動に出る。しかし弾丸は頭蓋骨沿いを半周して額で止まり、命に別状はなかった。

9月23日午後6時過ぎ、穣吏さんの遺体発見現場近くの川底から、長男の軽ワゴンを発見、車内から男女3人の遺体を収容した。

9月25日、孝紘を死体遺棄容疑で逮捕。
10月2日、を死体遺棄容疑で逮捕。
10月8日、回復した實雄を死体遺棄容疑で逮捕。

10月26日、小夜子さん強盗殺害容疑で4人を再逮捕。
11月17日、長男と友人の殺害容疑で4人を再逮捕。
12月7日、次男強盗殺害容疑で孝紘を再逮捕。

北村孝の逃走劇

2004年11月13日午前9時30分頃、被疑者・北村孝は拘置中の福岡県久留米警察署から福岡地検久留米支部に移送された。

当日の護送担当者

護送車の運転:大牟田署の刑事課・巡査長(当時27歳)
付き添い1:大牟田署の警備課・巡査部長(当時49歳)
付き添い2:大牟田署の警備課・巡査長(当時25歳)
*3人はいずれも留置管理担当者ではなかった

元力士で大柄な孝は、福岡県警から「特別要注意者」に指定され、機動隊員2人を大牟田署に派遣し、護送などの応援に当たらせていた。しかし、孝は機動隊員の同行を嫌がり、反抗することが多かったため護送担当の3人はこの日、機動隊員の同行を断っていた。

午後5時過ぎ、孝と大牟田署員3人は夕食を摂るため検察庁舎3階の同行室(被疑者の待機・休憩に使われる)に移動。この時、地検支部の事務官が同行室の鍵を開けたが、鍵は手渡されなかった。

孝は手錠を外されて正面奥に座り、その左隣に巡査部長が座った。そして巡査長2人は扉近くに座った。扉はオートロック式で、鍵がなければ中から開けることができない仕組み。そのため、扉が閉まらないように巡査長のひとりが室外に右足を出していた
*この時、孝の腰縄は誰も持っておらず、床に放置していた。

午後5時40分頃、4人は同行室にて夕食の弁当を食べ始めた。約10分後、署員より早く弁当を食べ終えた孝は「部屋が暑い。エアコンを調整したい」と言い、隣室にあるエアコンのリモコンを取りに行こうとしたため、署員のひとりが同行。リモコンを取って同行室近くに戻った時、孝は「自分でできる」と言い、操作を始めた。

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署員3人は部屋に閉じ込められた

この時、孝だけが同行室の外にいる状態だった。
孝は、足を出して扉が閉まらないようにしていた巡査長に「眼鏡を貸してくれ」と言った。巡査長が眼鏡を渡すと孝はそれを同行室内に投げ入れ、巡査長がとっさに足をひっこめた瞬間、同行室の扉を閉めた。こうして鍵を持っていない署員3人は、閉じ込められる格好となった。

福岡県警の規定によれば、食事をする間を含め同行室に被留置者を入れた際は、警察官は自動的に施錠される同行室の扉を閉め、誰かが隣の小部屋で待機して外から監視を続けることとなっていた。

しかし署員3人は鍵を持たず、室外で待機していた者もいなかった。そのうえ、同行室内で被疑者と一緒に食事を摂るという「内規違反に油断が重なる」事態が逃走につながった。

閉じ込められた署員3人はドア越しに説得したが、孝は腰縄を外しながら「担当者さん、悪い」「俺は(強盗殺人などを)やっていない。死刑になるかもしれないから逃げる」「3日経ったら戻ってくる」と言い残し、階段を降りて裸足で検察庁舎から逃走した。

警察官は携帯電話で110番通報し、孝が逃走したことを知らせた。

タクシーで逃走

大牟田4人殺害事件
逃走の末、北村孝が捕まった場所

約15分後の午後5時55分、孝は地検支部から南へ約800mあたりの場所で待機中のタクシーに乗り込んだ。タクシー運転手には「3日ほど暴力団に監禁されていて脱走してきた。金は知人に持ってこさせるから柳川市方面に行ってくれ」と指示。そして運転手に裏道を行くように頼み、携帯電話を借りて北村組組員に電話して金を持ってくるよう求めた。

タクシー運転手は孝が裸足だったので「ヤクザから逃げてきた」という言葉を信じたそうです。

この時の孝は「タクシー料金のみならず、途中に立ち寄ったコンビニエンスストアで運転手が購入したペットボトルのお茶代なども含めきちんと料金を払おうとしており、普通の客より丁寧な口ぶりだった」ということです。

逃走から約3時間後(午後8時50分頃)、孝を乗せたタクシーは、地検支部から南に約40kmほど離れた熊本県荒尾市上井手の駐車場にいた。この時点でタクシー料金は2万400円に達していたという。孝は車外に出て電話をかけた。

電話を終えて孝が車内に戻った時のことだった。突然、数人の警察官がタクシーを取り囲んだ。孝は後部座席でドアを開けさせまいと抵抗したが、そのうち観念した様子で車外に出て警察に取り押さえられた。

孝は2005年1月4日、大牟田署から単純逃走罪で福岡地検久留米支部へ書類送検され、2005年1月11日に福岡地検久留米支部からへ福岡地裁久留米支部に追起訴された

この件についての処分
  • 護送を担当した大牟田署員3人をいずれも減給(10分の1、期間:1か月から3か月)
  • 北村孝被告を留置していた久留米署留置管理課長に懲戒処分戒告
  • 大牟田署・久留米署の両署長、副署長ら計8人に本部長訓戒などの内部処分

北村一家について

我が一家全員死刑

父親・北村實雄

北村實雄・大牟田4人殺害事件

北村實雄大牟田市出身で、高校卒業後は福岡で和菓子職人として働いていた。20代半ばで大牟田に戻り、タクシー運転手になる。7、8年程度で退職して30代で暴力団幹部のお抱えの運転手となり、やがて覚醒剤を乱用するようになった。

そのまま自身も組員となり、1980年頃には真美と内縁関係になる。その後、覚せい剤取締法で逮捕され服役、真美とは別れた。服役している間に真美は別の男性と結婚したが、實雄が出所すると会いに行き同棲を始める。

1983年1月に真美は前夫と離婚、8月に實雄は真美と結婚する。そして1986年、指定暴力団道仁会系暴力団「北村組」組長となった。

本来の實雄は気が小さく穏和で優しい性格だが、若い衆には人一倍厳しかったため、北村組には人が居付かなかった。北村組は組員が5、6人の小さな組だったが、建設現場に作業員を派遣する「石橋建設」という会社を経営していて、それが主な収入源だった。

實雄は真美の3人目の夫で、彼の実子は次男・孝紘とその年子の三男の2人だけである。實雄は身長160cmと小柄で態度も小さかったが、15歳年下の妻・真美は身長170cm・体重100kgと大柄だったため、「ノミの夫婦」と言われていた。

事件少し前の2004年5月には車上荒らしで逮捕されたことから上部団体により「組長なのに恥さらしだ。破門にする」という話が出たが、一部の親分が「年も年だから勘弁してやってくれ」と仲裁したため破門は見送られた。しかし、事件後は「カタギを標的にした犯行」を起こしたとして、上部団体から事実上絶縁されている。

實雄は死刑確定直後の2011年末、福岡拘置所から広島拘置所へ移送され、現在は広島拘置所にへ収監されている。

母親・北村真美、波乱の人生

北村真美・大牟田4人殺害事件

北村真美は炭鉱夫からとび職になった父親と、美容師からセールスレディ―になった母親との間に4女として、1959年4月26日、福岡県大牟田市で生まれた。
毎晩家では花札賭博が行われており、主に母親がそれに参加していた。一家団欒のようなものとは縁遠い環境で真美は育った。

小学2年生の時、42歳の母親が病気で亡くなり、母方の祖母が同居するようになった。やがて父親と祖母は肉体関係となり、それを目撃した真美はショックを受け非行に走るようになる。中学の頃には喫煙や万引きが当たり前となっていた。

中学卒業後は、地元の縫製工場に就職。ここでヤクザの夫を持つ先輩と親しくなる。彼女の無断欠勤が続いた時、同僚と様子を見に行ったところ、先輩は夫のDVで体中負傷していた。彼女は、真美たちの訪問で隙が出来たのを幸いに逃亡、代わりに真美と同僚が監禁されてしまう。
2日後、隙を見て逃げ出すことに成功したが、怖くなったため大牟田を離れることにした。

大牟田をあとにした真美は、福岡市の布団縫製工場で働く同級生を頼り、同じ職場に勤めるようになった。ところが1か月半後、腎炎で入院することになり仕事を辞めた。この時点で中学卒業後、数カ月しか経っていない。

真美は病院で28歳のヤクザ者の男性Aと知り合い、付き合うようになる。Aは刺青を入れ、両方の小指がなかった。そして妻帯者であった。真美はAの妻の経営するスナックに住み込みで働くようになったが、2か月後、Aは ”男を磨くため” と言い残し、神戸へと旅立つ。真美は店から借りた20万円をAに渡し、戻ってくるのを信じて待った。

数か月経って連絡が途絶えたので、真美はAに会いに神戸に向かった。久しぶりの再会だったが、Aは真美を見るなり暴力を振るい、強引に体を求めてきた。彼女は別れを切り出し、スナックも辞めて中古車販売店で働き始めた。しかしAには別れる気はなく、真美を探し出して脅迫してきたので、彼女は大牟田の実家に戻った。

2週間ほどしてAの子を妊娠していることが判明。真美は中絶して姉の住む兵庫県姫路市に移り住んだ。

死刑囚 238人最期の言葉

まともな人生

姫路では姉夫婦の家に居候させてもらい、見習い看護婦として病院勤務を始めた。通信教育で准看護婦を目指し、真美は初めてまともな人生を歩み始めた。彼女は患者との何気ない触れ合いに喜びを感じ、患者の知人男性B(26歳)と付き合うようになる。

Bは優しい性格の会社員で、紹介された家族も彼女を温かく迎え入れてくれた。2人はアパートで同棲を始めたが、真美は最初の夜のことを「これまでの人生で一番大切に扱われた、一生忘れられない思い出」と後に語っている。

17歳を目前に、真美は妊娠に気付く。そんな彼女を気遣い、Bは仕事のあと飲みにも行かず帰ってくれた。休日には2人でベビー用品を見て回ったり、「普通の幸せな人生」が約束されたも同然だった。

ある日、Bは職場の花見のため久しぶりに飲み会に出かけた。そんなBの帰りを待つ真美の元に、一本の無情な電話がかかる。それは、Bが ”交通事故を起こして重体” という内容だった。泊まり込みで付き添う真美だったが、激しい腹痛に見舞われ意識を失ってしまう。そして数日後に目が覚めた時、真美はBとお腹の子どもの両方を失ったことを知らされた。

再び裏社会へ

やっと掴みかけた幸せは一瞬で崩れ落ち、失意の真美は姫路を離れる。1978年、19歳になった彼女は福岡でホステスとして働くようになり、そこで知り合った男性Cと結婚した。Cとはその年のうちに離婚となったが、長女が生まれている。

その後、暴力団員の北村實雄と知り合い、1980年頃には内縁関係となった。だが、實雄は覚せい剤取締法違反で逮捕されてしまう。

實雄の服役中、前夫Cとの子どもが生まれるが、それが長男・である。
真美は鹿児島に移り住み、ホステスをしながら實雄が服役する鹿児島刑務所に通った。やがて2人は別れることになり、真美は別の男性Dと知り合い、一緒に暮らすようになる。

Dとの間には次女が生まれ、真美が22歳の時に2人は結婚した。ところが、Dはパチンコに入り浸り家族に暴力を振るうようになる。そんな時、實雄の出所を知った真美は彼の元に駆け付け、一緒に暮らし始めた。翌1983年1月にDと離婚、8月には實雄と結婚した。

そして翌1984年、次男・孝紘が生まれた。實雄と真美の間にできた初めての子どもである。さらに翌年、三男が生まれている。(三男は2015年1月8日に自殺)

1986年、實雄は小さいながらも北村組の組長になった。しかし実入りは少なく、組はいつも火の車だった。組を仕切っていたのは、実質的に真美だったといわれている。事件2年前の2002年には、大牟田市内にスナック「ジュエリー」を開店したが、経営が成り立たず数カ月で閉店している。

刺青を入れ、気に入らないことがあるとすぐ激怒するなど、近隣住民の間では「暴力的な姐さん」として知られ、恐れられていた。激高して「死んでやる」と叫びながら運転中の車をガードレールにぶつけるなどの見境ない行動や、自殺未遂の癖もあったことから覚醒剤中毒の噂もあった。事件後、「あの家なら人を殺したって不思議じゃない」と言われるような存在だった。

やがて多額の借金を抱えるようになり、被害者・高見小夜子さんへの恨みも相まって、本事件を起こすに至った。裁判で死刑が確定し、現在は福岡拘置所に収監されている。

死刑囚200人 最後の言葉

三男が自殺

北村夫婦には、本事件には関与していない三男がいたが、2015年1月8日に自殺している。
家族4人が死刑確定となったのが、2011年10月。それから数えると3年と2か月ほど経っていた。

以下は、三男自殺を受けての母親・真美の手記である

北村真美の手記

2015年1月8日に外に残した息子が自殺して亡くなりました。
私たちのせいかと心を痛めました。遺書もなかった様子で本当の理由は分かりませんが、人間関係で悩んでいたということでした。
突然の知らせで、驚き、涙を流すことすら忘れたようになりました。初めはもう自殺するしかないと考えたときもありました。ですが長男、次男、夫、娘からの便りが届き、どうか頑張ってくれるようにと書いてくれたので、もう少ししっかり頑張って生きてみようと思いました。

年報・死刑廃止より

長男・北村孝の生い立ち

北村孝・大牟田4人殺害事件

北村孝は1980年12月20日、福岡県大牟田市で生まれた。事件当時の父親・實雄とは血は繋がっていない。

孝は子ども時代から体格が大柄で、小学校卒業時の卒業文集に「好きな言葉は白星。好きな有名人は旭道山。将来の夢は相撲取り」と書いていた。その夢をかなえ、中学卒業後の1996年3月、日本相撲協会の大相撲新弟子検査に合格、憧れの旭道山が所属する大島部屋に入門した。

入門時の四股名は当時の姓と同じ「石橋」で身長180cm・体重115kgだった。その後1996年5月に「旭竜神」(きょくりゅうじん)に改名、同年5月場所(夏場所)で東序ノ口26枚目「旭竜神」として初土俵を踏んだ。この時、母親・真美が熊本県荒尾市内で開いた壮行パーティーで孝は「関取を目指します」と挨拶した。

しかし「旭竜神」が土俵を踏んだのはこの夏場所限りで、通算成績は2勝5敗。その後、「稽古場が燃えれば稽古をしなくて済む」という理由で稽古場のカーテンに放火。この時は天井に火が燃え移る前に兄弟子たちが気付いて消し止めた。

そして、7月場所(名古屋場所)を全休して夜逃げ同然に部屋を出た。部屋の女将も「残された衣類を洗って自宅に送ったのにお礼もなかった。掃除もちゃんこ鍋の用意も何もできなかった」と証言した。孝は周囲に「兄弟子たちからいじめを受け、耐えられなくなったのでやめた」と話している。

傷害致死の前科

大牟田に戻った孝は、母・真美が経営していた石橋建設を手伝っていたが、暴走族のリーダーとして弟・孝紘とともに暴力沙汰を度々起こし、地元の若者たちから恐れられていた。

2000年6月16日、石橋建設に少年E(当時18歳)が住み込みで働き始めた。しかし、Eは無断で出勤しなくなり、6月20日には寮からも逃げ出した。これに腹を立てた孝(当時19歳)は、Eに制裁を加えることにした。

2000年6月25日午前2時30分頃、Eの女友達を利用して福岡県三潴郡城島町江上本の大溝端橋にEをおびき出した。孝は不良仲間の少年計6人(当時16~17歳、うち2人は高校2年)とともに待ち構えていたが、Eは危険を察知して逃走。孝ら7人は約300m追いかけEを捕まえた。

そして、顔などを木刀で殴るなどの暴行を加え、深さ約3m、幅約20mの農業用クリーク(水路)に転落させた。孝たちは木刀を差し出して助けようとしたがうまくいかず、Eは死亡した。孝は事件後、共犯の少年たちに対し犯行を口止めしていた。

2000年6月28日午前5時40分頃、近隣住民がクリークの水門付近で少年Eの遺体を発見。検視の結果「死後3~4日経過、死因は水死」と判明したが、目立った外傷はなく、胃の内容物にも不審な点はなかった。また、Eは財布や携帯電話を身に着けたままで、付近にはEの車などはなく、自宅から約20km離れたこの場所に来た理由は不明だった。

少年Eは家族に行き先を告げずに自宅を出ていたが、自殺の動機は見当たらなかった。福岡県警は「現場に向かった経緯やクリークへの転落原因に不自然な点がある」として捜査を進めたところ、孝のグループの関与が判明、2000年10月30日に当時19歳の孝と少年6人を逮捕した。

主犯格の孝は「刑事処分相当」として起訴され、2001年6月26日に懲役3年6か月の実刑判決を受けた。

犯行を否認するも死刑確定

孝は2004年春に刑務所を出所、6月頃から実家を離れ大牟田市内のアパートで生活しながら組事務所にも出入りしていた。そして9月16日~17日に本事件を起こす。

犯行時には抜け目なく直接犯行に関わることを避けつつ、自分は無関係であるかのように装っていたため、弟・孝紘の怒りを買った。

裁判でも一貫して犯行を否認し、無罪を主張したが認められず判決は死刑
孝は死刑確定直後の2011年末に福岡拘置所から大阪拘置所へ移送され、現在は大阪拘置所に収監されている。

次男・北村孝紘の生い立ち

北村孝紘/大牟田4人殺人事件
北村孝紘

北村孝紘は1984年6月9日、福岡県大牟田市で生まれた。孝紘は實雄と真美の初めての子どもで、兄・孝とは異父兄弟である。両親との間にはさらに年子のがいたが、事件後自殺している。

孝紘は大牟田市立米生中学校在学時以来、「手が付けられないレベルの不良。ろくに字も読めず、学力は小学校1、2年生レベル」として悪名高かった。授業妨害・居眠り・テストの棄権などを日常茶飯事に行い、教師らに反抗することも多かった。

大牟田4人殺害事件「死刑囚」獄中手記

相撲界に入門

北村孝紘・大牟田4人殺害事件

2000年3月、中学卒業後は松ヶ根部屋に入門した。入門時は身長173cm、体重142kgだった。
当初の四股名は「石橋」、2000年夏場所にて、東序ノ口41段目で、初土俵を踏んだ。

その後2000年9月に四股名を地元の地名に由来した「三池山」(みいけざん)に改名し、西序ノ口1枚目で臨んだ秋場所以降「三池山」として土俵を踏んだ。

松ヶ根部屋の親方は元大関・若嶋津で、女将はその妻である元歌手・高田みづえだった。兄・孝が早々に廃業していたことから、高田が「お兄さんのようにならないでね」と励ますと、孝紘は「やめません」と答えた。母校・米生中学校の校長室には親方夫妻や部屋の力士たちとともに孝紘が写った写真が飾ってあったという。

三池山(孝紘)は2001年5月場所で序二段108枚目に番付を上げたが、それ以上は芽が出ず部屋関係者から「筋が良くない」と判断された。その後、2001年11月の九州場所を最後に引退、17歳で大牟田に戻った。孝紘自身は知人に対し「腰を痛めたから引退した」「親方の指導が鬱陶しい」と言っていた。

高田みづえの事件後のコメント

高田は事件直後、「週刊文春」の取材に対し「孝紘の家庭環境・引退後の近況については知らなかった。「もともと粗暴な性格で、相撲を辞めてからさらに粗暴になった」と言われればショックだが、そのような捉え方もあるのかもしれない」と答えた。
また、「毎日新聞」の取材に対し「上下関係・けいこの厳しさに耐えられずに辞めたのだろう。引き留めなかった」と語った。

引退後は帰郷して組員に

大牟田に帰郷してからは母親経営の「石橋建設」で作業員として働いたが、首や腰を痛めたことや、オートバイの運転免許を取得するため仕事を辞めている。

その後、被害者・龍幸さんらとともに暴走族「族・神鬼狼」を結成、愚連隊のように過ごしていた。孝紘は、仲間を率いて暴走・窃盗・薬物・輪姦などの犯罪行為を繰り返しており、近隣住民からは「暴力団とのつながりが深く、不良グループのリーダー格」と映っていた。

事件の約1年前、被害者の龍幸さん・原純一さんと親しいグループにいた少女が、孝・孝紘兄弟周辺のグループに輪姦された事件がきっかけで、彼らと近しいグループとは対立関係になっていた。

その後、浮ついた生活態度を改めようと、父が組長である北村組の準構成員となる。しかし、「わがままな性格」や「遊び癖が抜けない」中途半端な態度に父は堪忍袋の緒が切れ、他組織の幹部に部屋住みとして預けられた。

それから約1年後には北村組に戻り、2002年頃には18歳の若さで北村組および上部組織の本部当直、総長宅の本家当直を務めるようになった。その当時、表向きのシノギとして賭博・中古車販売・違法売買などをしていた。しかし父にも内緒で、組織内で禁止の覚醒剤などの違法薬物の密売買もしており、こちらのほうが儲かったという。

カタギの生活を考えたが・・・

北村孝紘

このころ「初めて心から惚れた女性」ができたことから、孝紘は暴力団から足を洗い、その女性と真面目に暮らすことを考えた。ところが福岡県警の家宅捜索で、組関係者のところから覚醒剤などが見つかったため、「ジギリ出頭」として身代わりになることになった。

孝紘は「出頭前にひと暴れしてやろう」と、仲間と一晩で大牟田市近辺の交番など49軒を襲撃し、自転車の通行人をひき逃げするなどの犯罪行為を起こした。そのため、19歳になる直前の2003年春頃に逮捕され、大分県豊後大野市の大分少年院で約1年半を過ごしている。

交際相手の女性とは別れることになり、荒れた孝紘は窓ガラスを叩き割ったり、職員をガラスの破片で切りつけるなど、手が付けられない暴力行為をくり返し、常に単独室で処遇されていた。

2004年5月6日に少年院を出たあとは、兄・孝のアパートで暮らすことが多かった。やがて年下の若い女性と交際するようになり、「シノギ3:遊び7」の生活を送っていた。

本事件を起こしたのは、少年院を出てわずか4か月後だった。事件では4人すべての殺害の実行役で、裁判では他の3人と同様に死刑が確定した。

孝紘の性格について

近所の男性店員

「とにかく態度が横柄で、買い物に来ても何かと注文を付けるから関わり合いになりたくなかった」

孝紘を幼少期から知る男性

「母親が逮捕されたあと、自分に『おじちゃん、迷惑かけてごめんな』と頭を下げてきた」

毎日新聞記者・岸達也

「違う環境で生まれ育っていたらこんな事件は起こさなかったかもしれない、という思いがふと頭をかすめた」

孝紘の手記「我が一家全員死刑」を出版した作家・鈴木智彦

「当初は『極悪非道な殺人鬼』という印象を抱いていたが、実際に接見を重ねるにつれて印象が変わり、殺人犯であるという事実を忘れそうになった。案外まともな人間であることがわかった」

「孝紘は、”殺人に快楽を覚える” 感性を告白してはいるが、それを完全には肯定できておらず、自らを『鬼畜』と居直る割には自らの行為に疑問を持っている。どれだけ粋がっても ”素直な子供の部分” を隠しきれていないことから手記は『狂人の妄想』とは思えなかった」

「家族が生きるためなら他人の生命さえ奪っても構わない、とする社会性のなさ以外、我々と変わらぬ人間らしい感情はふんだんに持っている」

「被害者に対する謝罪はないのか?」と鈴木が問いただすと、孝紘は「(被害者たちを)可哀想とは思いますが、申し訳ないとは思ってないです。殺されたのも運命、私が死刑になるのも運命。それに私はヤクザです。親分の命令は絶対なんです」と語り、反省・謝罪の念を示さなかった。

我が一家全員死刑
家族思いの一面も?

孝紘は自分自身について「甘えた我がまま性」「完全な悪」と形容している。被害者4人を殺害する行為は残忍ではある反面、”家族思い” な一面も併せ持つ。家族が上部団体から絶縁される中、犯行に関する手記を発表し、それで得た収入で家族の拘置所内の生活費を分け与えている。

孝紘は現在、母親・真美と同じ福岡拘置所に収監中である。2013年には支援者女性と獄中結婚して、名前が「北村孝紘」から「井上孝紘」に変わっている。

裁判は分離公判に

北村實雄被告は一審初公判で単独犯行を主張。北村孝被告は地検支部から逃走した以外の罪を全面否認した。北村真美被告と北村孝紘被告は起訴事実を認めている。

論告で検察は、すべての事件で自らの単独犯行を主張する實雄被告を「家族に刑事責任を免れさせようとする独善的な発想」と批判。事件への関与を否認する孝被告については「卑劣な人間性が際立っており、邪悪としか言いようがない」と非難した。

2005年4月12日に第2回公判が開かれ、起訴事実をすべて認めた真美被告・孝紘被告と単独犯を主張した實雄被告・逃走以外の罪を全面否認した孝被告はそれぞれ「真美・孝紘」「實雄・孝」の2組に分かれて分離公判で審理されることとなった。

真美・孝紘の裁判

北村真美・北村孝紘
母親・真美(左)と次男・孝紘(右)

2005年6月21日の公判で、長男・被告が検察側証人として出廷した。

被告は4人の殺害についていずれも「やっていない」と全面的に起訴事実を否認した一方、福岡地検久留米支部からの逃走事件について「逃走前夜に留置されていた久留米署で自殺を図ったが、死にきれなかったため死のうと思って逃げた」「親父(實雄被告)の近くで死のうと思い大牟田に向かった」「裁判所宛に『全部1人でやった』と遺書を書けば弟(孝紘被告)が助かると思った」と述べた。

しかし閉廷後、被告は起訴事実を認めていた弟・孝紘被告から「あんたの意見に同意してやる。生きられるか試してみろ」と言い放たれたことに激昂して孝紘被告に殴りかかろうとした。

2005年10月11日の公判でも、孝被告が再び検察側証人として出廷した。弁護人は被害者の龍幸さん・原純一さんの殺害について「長男・孝も銃を何発か撃ったのではないかと思う」とする真美被告の供述調書を読み上げ、「親に疑われてどう思うか」と尋ねた。

孝被告は「(真美被告のことは)実の親とも身内とも思っていない」と答えたところ、被告人席の弟・孝紘被告が「アホか!殺すぞ」などと叫んで孝被告に殴りかかろうとするなど、兄弟は口論になった。

2005年11月15日の公判で被告人質問が行われ、真美被告は被害者・小夜子さんを殺害した経緯について「約6000万円の借金を抱えて生活が苦しかったが、夫婦2人で古くから計画を練っていたわけでも親子4人で計画したわけでもない。その時だけ何かに取り憑かれたように『小夜子を殺害して金銭を奪おう』という話になった」と説明した。

一審判決は死刑

2006年5月2日、論告求刑公判が開かれ、検察側は両被告人にいずれも死刑を求刑した。

真美被告の弁護人は「事件を主導したのは夫・實雄被告で真美被告の関与は従属的だった」と述べたうえで「真美被告は事件の内容を真摯に語っていることから、再犯の可能性はない」と主張。

孝紘被告の弁護人は「事件当時、精神的に未熟だった。矯正の可能性がないと決めつけるべきではない」と訴えた。

最終意見陳述で真美被告は「重ねてお詫びすること以外、何もない」と、孝紘被告は「本当に申し訳ない。判決は素直に受け入れたい」と、それぞれ謝罪の弁を述べた。

真美・孝紘ともに死刑

2006年10月17日に判決公判が開かれ、福岡地裁は母親・真美被告、次男・孝紘被告に対し、いずれも求刑通り死刑判決を言い渡した。

判決理由では、すべて検察側の主張通りに事実認定し、殺害動機について「真美被告が生活難・資金難を打開するべく、高見小夜子さんが所持していた多額の現金を奪おうとしたものだ」と指摘した。そのうえで次男・穣吏さんを除く3人の殺害に関与した真美被告を「動機面での中心的存在であり、『関与は従属的』とする弁護側の主張は認められない」とした。

そして4人殺害を実行した孝紘被告に対しては「小夜子さんを殺害する際タバコを吸ったり、遺体の上に寝そべるなど、人間の生命の尊厳を軽視する態度が著しい」と断じた。

また、孝紘被告は公判中「親に人殺しをさせるくらいなら自分が殺した方がマシだ。後悔していない」「また同じ状況になれば人を殺す」などと発言したり、被害者遺族に暴言を吐くなどしていた。

これらの態度に関して「暴力団組長の父親の下で、人命を軽視し両親の支持であれば殺人も厭わないなど、暴力団特有の反社会的な美意識を強く持っており矯正は困難」と認定した。

この日、孝紘被告は判決を不服として福岡高等裁判所に控訴、真美被告も10月26日付で控訴した。

真美・孝紘の控訴審

2007年6月5日、控訴審初公判が福岡高等裁判所で開かれた。

弁護側は両被告について「従属的な立場だった」とし、死刑判決を破棄し無期懲役を適用するよう主張した。
検察側は「第一審の死刑判決は妥当である」と主張し、両被告人・弁護人側の控訴をいずれも棄却するよう求めた。

2007年12月25日に判決公判が開かれ、福岡高裁は控訴をいずれも棄却、一審の死刑判決を支持する判決をそれぞれ言い渡した。

福岡高裁は冒頭で控訴棄却の主文を読み上げてから判決理由の朗読に入り、「被害者・高見小夜子への憤りを晴らし生活苦を一気に解消しようとそれぞれ重要な役割を果たした」「人命軽視の態度が甚だしく死刑が重すぎて不当とは言えない」と事実認定した。

閉廷後、孝紘被告は弁護人に対し突然「先生、メリークリスマス!」と叫び退廷した。

孝紘被告は12月27日付で最高裁判所に上告、真美被告も28日付で上告した。

最高裁:真美・孝紘は死刑確定

最高裁では、弁護側は死刑回避を主張し、検察側は上告棄却を求めた。

  • 母親・真美被告側の主張:「殺害行為には直接関与しておらず、他の共犯者と同じ死刑は量刑不当。首謀者ではなく、犯行で果たした役割も小さい」
  • 次男・孝紘被告側の主張:「事件当時、20歳で未熟だった。現在は矯正の余地が見込める。事件と向き合わせ、生きて罪を償わせるべきだ」

2011年10月3日、最高裁の判決公判が開かれた。
裁判長は、一審・控訴審の死刑判決を支持して上告を棄却。これにより、真美被告・孝紘被告ともに死刑確定となった。

孝紘は判決後、朝日新聞記者・小野一光に対し「死刑確定はわかっていたことではあるが、やはりいろいろ複雑だ。今は死刑確定の実感がまだないが、自分がこの手で4人を殺害したのは事実だから死刑確定は相応だと思う。殺害した被害者4人の冥福を祈りたい」と記した手紙を送ったほか、2011年10月11日には福岡拘置所で小野と面会して「勾留された最初の年は暴れて6回ぐらいは懲罰房に入れられたが、この7年で人間が丸くなったとは思う。しかし最初のころと心境は変わらない」と述べた。
これに加えて孝紘は死刑確定直前の2011年10月に福岡拘置所で毎日新聞記者・岸達也と面会し「被害者には謝罪の気持ちを抱いている」「現在も父親・實雄を尊敬している」などと述べた。

實雄・孝の公判

北村實雄・北村孝
父親・實雄(左)と長男・孝(右)

2005年4月26日、實雄被告、被告について第3回公判が開かれた。

この日は、分離公判となった真美被告が、検察側の証人として出廷して「被害者・小夜子さんの殺害は両被告人と共謀して殺害した。当初は實雄被告とともに計画したが、自分が実行を躊躇っていたところ孝被告が『自分が殺してもいい』と持ち掛けた」「高見龍幸さんの殺害は次男・孝紘被告を含め4人全員で決めた」と証言した。

2005年5月5日午前8時頃、被告は拘置先の福岡刑務所にて、体調を崩しているところを巡回の刑務官が発見。医務官から応急措置を受けた後、病院に搬送された。そのため福岡地裁は2005年5月10日予定の第4回公判を中止した。

公判再開後、2005年7月27日になって福岡矯正管区はこの体調不良について「被告が2005年1月以降に服用していた不眠症の薬(向精神薬)の副作用が原因だ」と発表。
被告自身は「自殺未遂ではない。薬の効き目を高めるため刑務官の目をごまかし、1回か2回、薬を飲むふりをしてから吐き出しては一度に飲んでいたかもしれない」と話した。

2005年6月7日に第4回公判が開かれ、検察側証人として出廷した真美被告は「次男・孝紘被告が被害者・高見小夜子を絞殺した際の状況」について「一緒にいた長男・孝被告が『しっかり首を絞めろ。人は息を吹き返すぞ』と自分に話しかけてきた」と証言した。

2005年6月14日に第5回公判が開かれ、孝被告の弁護人は「孝被告は4人の殺害現場に居合わせた事実はなく、母・真美被告らとの謀議もなかったが、弟・孝紘被告が死刑になるのを防ぐため、實雄被告を除く母子3人で『も計画に加わったことにする』物語を作り上げた」と述べて無罪を主張した。

2005年8月23日の公判で、次男・孝紘被告が初めて証人出廷し、検察官から穣吏さん殺害について質問を受けた。孝紘被告は「兄の孝から、穣吏を殺害して高見宅の金を奪う計画を持ち掛けられた」「殺害を2人で実行し『このことは両親にも言うな。もし警察にばれたらお前が自首して「全部自分1人でやった」と言え』と言われた」と証言した。

2005年9月27日の公判で、検察側証人として再び出廷した孝紘被告は「一連の犯行は、家族4人全員で計画して行った。亡くなった被害者4人に申し訳ない」と謝罪の言葉を述べ、遺棄した遺体の発見を遅らせるため川に潜って遺体を探したことなどを証言した。

父・實雄被告に対しては「息子であることを誇りに思うが、正しいことを話してほしい」、兄・被告に対しては「両親を踏み台にして、自分だけ責任逃れしようとは人間失格だ。最後くらいはきちんとするのが社会に対してのけじめだ」と述べた。

實雄・孝への被告人質問

實雄被告への被告人質問

2006年4月18日、實雄被告に対し被告人質問が行われた。

實雄被告は弁護人の質問に対し、家族との共謀を否定した上で「全てひとりでやった」と従来通りの主張をくり返した。分離公判中の「妻と次男」が起訴事実を認めている点について「(2人は)自分を庇って、やったと言っている。息子が人を殺すわけがない」と話した。

4月25日の公判では、「小夜子の態度が気に入らず殺した。金品を奪う目的はなかった」と話した。

孝被告への被告人質問

2006年5月16日、被告に対し被告人質問が行われた。

被告は小夜子さんを「自分が殺す」と語ったことについて「母親の真美を本気にさせようとしただけ」と述べ、改めて共謀を否定した。

5月30日には「2004年9月18日未明、家族3人が小夜子殺害について話し合っていた際、自分は部屋の外で仕事の電話をかけていた」としてアリバイを主張したほか、殺害時についても「弁当屋・ファミリーレストランに行った後、実家でビデオを見ていた。3人が何をしているのか知らなかった」などと述べ、改めて関与を否定した。

6月27日、孝被告は裁判長から「死刑を求刑された真美被告、孝紘被告はともに『孝も共犯』と証言している。2人は極刑を受ける可能性があるあなたの立場もわかっているはずだが、なぜあなたの言う事実と違うことを言うのか」と質問されると、「自分は正直に言っているだけだ。母親(真美)と弟(孝紘)は、犯行に私を含めることで無期懲役になると思っているのではないか」と話した。

9月19日の公判で被害者遺族2人が意見陳述し、それぞれ両被告人の極刑を求めた。

一審は實雄・孝ともに死刑

2006年10月24日、論告求刑公判が開かれ、福岡地検は両被告人に死刑を求刑した。そして11月28日の第32回公判で、2人の弁護人がそれぞれ死刑回避を求め結審した。

最終弁論で、孝被告は泣きながら「天地神明に誓って事件に関与していません」と述べた。

2007年2月27日、判決公判が開かれ、福岡地裁は父親・實雄被告、長男・被告に対し、求刑通り死刑を言い渡した。福岡地裁は一連の犯行を「人命を軽視した冷酷・残忍な犯行で、極刑をもって臨むほかない」と非難した。

分離公判になったことにより、2006年10月17日の真美被告・孝紘被告の一審判決で、2人にはすでに死刑が言い渡されていた。これにより、犯行に関与した一家4人全員が死刑判決を受ける、前代未聞の事態となった。

父・實雄被告は判決を不服として同日付で福岡高裁に控訴。長男・孝被告も2007年3月1日付で控訴した。

實雄・孝の控訴審

2007年10月11日、控訴審初公判が福岡高裁で開かれた。

第一審で単独犯行を主張していた實雄被告は、一転して他の3人との共謀関係を認めた。そのうえで「金品を奪うつもりはなかった。死刑は相当ではない」として、強盗目的を認定した一審判決の事実誤認を主張、死刑判決を破棄し無期懲役刑を適用するよう訴えた。被告は「有罪と認定するには証拠不十分」として、一審同様に無罪を主張した。

検察側は「第一審・死刑判決は妥当である」として、両被告人の控訴をいずれも棄却するよう求めた。

2007年12月20日に控訴審第4回公判が開かれ、孝被告の弁護人は「孝被告にはアリバイがあり、犯行への関与は不可能」として、一連の殺害行為についていずれも無罪を主張した。

2008年3月27日に判決公判が開かれ、福岡高裁は一審・死刑判決を支持して實雄被告、孝被告の控訴をいずれも棄却した。

裁判長は、實雄被告について、「真美被告に指示して孝被告らを犯行に引き入れ、殺害方法も示唆した」とし、「殺害行為こそ担当しなかったが、北村家の中心または暴力団組長として各犯罪の遂行に向け主導的な役割を果たした」と認定した。

被告に対しては、「実行役を孝紘被告に押し付け、自分は脇役を装うなどできるだけ自分の手を汚さずに済まそうとし、自己中心的」とした。そして「利欲的で人命軽視も甚だしく、死刑はやむを得ない」と述べた。

實雄被告は同日に最高裁へ上告、孝被告も3月31日付で上告した。

一家4人全員死刑確定

最高裁では、弁護側は死刑回避を主張し、検察側は上告棄却を求めた。

  • 父親・實雄被告側の主張:「動機を金銭目的と事実認定した一審・控訴審判決は事実誤認。實雄被告は心から反省しており、死刑は重すぎる」
  • 長男・被告側の主張:「殺害には関与しておらず強盗殺人・殺人罪に関しては無罪。仮に共謀が成立しても犯行に消極的であり極刑は重すぎる」

2011年10月17日、最高裁の判決公判が開かれた。
裁判長は、一審・控訴審の死刑判決を支持して上告を棄却。これにより、實雄被告、被告ともに死刑確定となった。

10月3日には真美被告・孝紘被告がすでに死刑確定しており、これにより、犯罪に携わった一家4人全員に対し死刑が確定することとなった。これは、世界的にもまれなことだった。

収監先

父親・北村實雄:広島拘置所
母親・北村真美:福岡拘置所
長男・北村孝:大阪拘置所
次男・北村孝紘:福岡拘置所

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