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警察庁広域重要指定115号事件|元警官が警察に復讐…!?

広田雅晴・警察庁広域重要指定115号事件日本の凶悪事件
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警察庁広域重要指定115号事件

1984年9月4日、元警察官の広田雅晴は、拳銃を奪うため京都府警の巡査を襲い、奪った拳銃で射殺した。
その3時間後、大阪に移動した広田は消費者金融に入り、男性従業員を射殺、店内にもうひとりいた女性従業員から現金約60万円を奪い逃走した。
翌日、実家のある千葉県であっけなく逮捕された広田。捜査段階では犯行を認めていたが、裁判では一転して否認、無罪を主張するも死刑が確定した。

 

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事件データ

犯人広田雅晴(当時41歳)
(現在は神宮雅晴)
犯行種別連続殺人事件
事件発生日1984年9月4日
犯行場所京都府京都市北区紫野北舟岡町
大阪府大阪市都島区東野田町
被害者数2人死亡
判決死刑:大阪拘置所に収監中
動機警察への逆恨み
キーワード元警官
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事件の経緯

広田雅晴(当時35歳)は、京都府で警察官をしていた1978年7月、署内から実包入り拳銃を盗み、これを使用して京都市南区の札の辻郵便局に強盗に入った。彼は逮捕され、1981年2月に大阪高等裁判所で懲役7年が確定、4月から加古川刑務所で服役することとなる。

1984年8月30日、仮出獄許可決定により加古川刑務所を出所、その日は家族と滋賀県大津市内のホテルで1泊した。翌31日、国鉄(現在のJR)京都駅で妻から20万円を受け取り、実母と新幹線で東京へ向かった。到着後は千葉保護観察所に出頭して、千葉県山武郡の実家で数日泊まった。

9月3日午前4時40分頃、広田は母親に「東京に仕事を探しに行く」と偽り実家を出た。しかし、本当の行き先は京都で、新幹線に乗って午前10時頃に京都駅に着いた。

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計画はことごとく失敗

広田は強盗目的で京都に来たのだった。午前10時半頃、金物店で包丁1本を購入し、少し離れた場所にある銃砲火薬店で、ボウガン1丁、矢6本、射撃用皮手袋とサングラスも購入した。

午後6時50分頃、京都市右京区嵐山の亀山公園に行き、近くの公衆電話から太秦警察署に「亀山公園に放置バイクがある。見に来てほしい」という内容の電話をかけた。広田は警察官をおびき出して、拳銃を奪おうと考えていたのだ。

広田は公園の入口付近で警察官を待ったが、結局警察官と会うことはできなかった。そのため場所を変え、再度警察官の呼び出しを試みる。

次は北区衣笠北荒見町の紙屋児童公園に、同じ手口で警察官をおびき出そうとした。しかし、これも失敗。警官が到着した午後9時頃には、広田はすでに公園を離れていた。

警察官の呼び出しに失敗した広田は、質屋に強盗に入ることを思いつく。この質屋は、警官時代に職務でよく出入りしていて、老夫婦が経営していることも知っていた。

午後10時頃、質屋の近くの公衆電話から警察を装って電話をかけ、店主に派出所まで来るように言ったが、これは断られてしまう。さらに20分後、今度は店主の妻に「今から行くので、店を開けておいてほしい」と電話したうえで店の入口に立つも、妻は怪訝な感じで店を開けなかったため、犯行を断念した。

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京都事件:最初の犠牲者は警察官

計画はことごとく失敗に終わったが、広田は犯行をあきらめなかった。この日は京都スポーツサウナに泊まり、翌日、警察官を殺害して拳銃を奪うことにした。

船岡山公園

9月4日午後0時40分頃、広田は西陣警察署十二坊派出所に電話。応対した鹿野巡査(当時30歳)を虚偽の申告で船岡山公園におびき出した。

約10分後、鹿野巡査がやってくると、広田は公園内の路上で鹿野巡査の右大腿部や右肩など数か所を包丁で刺し、巡査の携帯する拳銃を奪った。さらに、うつ伏せに倒れている鹿野巡査の背中を、奪った拳銃で1発打ち、失血により死亡させた。

奪った拳銃

警察用ニューナンブ回転弾倉式拳銃(口径9.6mm)*実包5発が装てんされていた

西陣大映→シネフレンズ西陣
「西陣大映」は1992年「シネ・フレンズ西陣」として再開したが、2005年5月31日に閉館した

その後、広田は公園近くの映画館「西陣大映」に入っている。慌てた様子で、入場券の半券を受け取らなかったという。彼は、売店で清涼飲料水「リアルゴールド」を買って場内に持ち込んだが、5分ぐらいしてすぐ出て行った。

犯行時、広田の左腕や額にはがついてしまった。それで目立ったためか、現場から映画館まで11人の目撃証言があった。ほとんどの証言が広田の特徴を捉えており、小脇には紙袋を抱えていたという。

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大阪事件:消費者金融の店員

警察庁広域重要指定115号事件
事件の現場 広田は大胆にも派出所のほぼ正面のビルで事件を起こした

次に、広田は金融業者から金を強奪しようと考え、京阪電車で京都から大阪に移動した。

午後4時より少し前、広田は京阪京橋駅北側の飲食店に入ってレモンのかき氷を注文、5~10分ほどで店を出た。

午後4時頃、大阪市都島区東野田町のビル2階にある消費者金融「ローンズ・タカラ京橋店」に広田は現れた。そして、カウンター内で新聞を読んでいた店員・鈴木隆さん(当時23歳)に拳銃を突きつけ、「金を出せ」と脅した。しかし鈴木さんはこれを冗談と受け取って本気にせず、要求に応じなかった。

広田は店員を射殺して金を奪おうと考え、拳銃で鈴木さんの胸に弾丸1発を発射。彼は間もなく失血により死亡した。鈴木さんのそばには、怯え切っている女性従業員(当時26歳)がいたが、広田は彼女に金を要求。それに応じた彼女から、現金約60万円を受け取って逃走した。

警察は京都の目撃証言と女性従業員の証言から、同一犯による連続殺人と断定した。両事件の犯人の人相、弾丸の線状痕、持っていた紙袋の絵柄 ”金閣寺の絵とKYOTOのロゴ” が一致していた。

広田は襲撃後、現場から東約200m先の「ピンクサロン」や「ソープランド」に入っている。ピンクサロンでは、逃走用の旅行かばんや下着をホステスに買いに行かせた。

その後、タクシーを使って京都に戻った。当初、広田は京都で第3の犯行を計画していたが、京都の厳重な警戒をみて思いとどまり、新幹線で東京へ向かった。

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あっけなく逮捕

新幹線で護送される広田雅晴
逮捕された広田は、新幹線で千葉から京都へ護送された

広田は4日深夜から5日早朝までの間に、東京都江戸川区の江戸川に血の付いた衣服を流し、河川敷に旅行カバンを捨てている。そして、総武線平井駅で手提げカバンと帽子を買った。

翌5日の午前7時47分頃、広田は西陣署に電話をかけ「署長を出せ、お前らが捜している広田や」などと挑発。そして「京都にはおらん。千葉におるんや」と居場所を明かした。
彼は千葉県成東町の母親にも電話していたが、これを逆探知した結果、千葉市内にいることは間違いなかった。

警察庁は、この事件を広域重要115号事件に指定した。
広田が船岡山公園近くの映画館で買った、清涼飲料水の瓶に付いていた指紋、京阪京橋駅の飲食店で注文したかき氷の容器に付いた指紋ともに、広田の指紋と一致することが判明した。

その後、不審な男を乗せた個人タクシーを千葉県警捜査一課が見つける。警察が追跡したところ、午後3時45分頃、タクシーは広田の実家前で止まった。降りた男に職務質問したところ、広田に間違いなかったため、警察は任意同行を求めた。
警察は、広田の性格を見抜いていた。必ず母親がいる実家に帰る、と踏んでいたのだ。

午後5時30分頃、令状が執行され広田は逮捕された。千葉から京都へ新幹線で護送される途中、「なぜあっさり捕ったのか?」との報道陣の質問に、広田は「京都府警にヘタうたせても、千葉県警にヘタうたすわけにはいかんのや」と答えた。
それだけ京都府警に対する恨みは根深かったのだ。

京都地検は犯行を裏付けられず27日、処分保留で釈放したが、同日、大阪府警が再逮捕
大阪地検は10月19日、京都・大阪の両事件で一括起訴した。

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広田雅晴の生い立ち

元警官連続強盗殺人事件・広田雅晴

広田雅晴は1943年1月5日、大阪市で生まれた。兄弟は5人で広田は第3子(次男)である。(元々の姓は神宮で、結婚した時に広田姓になった)
1歳の頃、家族は千葉県山武郡成東町に転居し、両親は農業を営んだ。

地元の小・中学校を経て、1961年3月に千葉県立春野高等学校普通科を卒業。家は貧しく、高校まで進学したのは、広田だけだったという。成績は学年で4、5位という優秀なものだった。
卒業後は、東京都内で電気溶接工や司法書士事務所の事務員として勤務した。その後、関西に行き京都府で警察官になる。警察官としての活動は、以下の表の通りである。

1964年京都府警察官採用試験に合格
1964年10月1日京都府巡査に採用される
1965年9月京都府警察学校を終了
九条警察署警ら課に配置、下殿田派出所に勤務
1972年3月巡査部長に昇任
峰山警察署外勤課に配置
1974年3月西陣警察署外勤課に配置
1977年3月十二坊派出所に勤務
1978年7月24日札の辻郵便局で強盗懲戒免職処分となる

1977年3月、広田は西陣署勤務から十二坊派出所勤務に異動通知を受けている。彼はこれを屈辱的な左遷と受けとめた。これ以降、西陣署長を恨むようになる。そして、自暴自棄になった広田はギャンブルにはまり、消費者金融に多額の借金を作った。

その後の1978年7月24日、署内から実包入り拳銃を盗み出し、これを使って京都市南区の札の辻郵便局強盗に入る。強盗は失敗に終わったが、窃盗・銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬類取締法違反・強盗傷人・強盗未遂で逮捕された。

広田は、動機について「上司が私の病気休暇について悪口を言っており、拳銃を盗めば困るだろうと思い、やった」と供述した。しかし、公判では犯行を否認している。

7月24日、懲戒免職処分を受け、1981年2月に大阪高等裁判所で懲役7年に処せられる。広田は、4月から加古川刑務所で服役、1984年8月30日、仮出獄許可決定により同刑務所を出所した。

そして、出所から5日後に本事件を起こした。
裁判では、無罪を主張するも1997年12月19日、死刑が確定。現在は大阪拘置所に収監中である。

2011年1月24日、第9次再審請求をしている。

裁判

広田雅晴

広田雅晴被告は、捜査段階では犯行を認めていたが公判では全面否認、無罪を主張した。拳銃、包丁などの直接証拠は見つかっていない。

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【第一審】大阪地裁:死刑

1989年7月12日の論告求刑で、検察側は「広田被告の捜査段階の自供には、虚偽の供述も含まれており、その真偽を厳重に区別する必要がある」とした。そしてその供述を、多くの目撃証言、血液、指紋などの鑑定結果で精査、以下のような理由から「広田被告の犯行であることは明白」とした。

京都事件について】

  1. 犯行現場近くで、午後0時7分頃~午後1時30分頃にかけて、断続的に「腕に血をつけた広田被告を見た」という多数の証言がある
  2. 事件後、犯人らしき男を乗せたタクシーのシートから巡査の血(A型)を検出
  3. 犯人は映画館の自動販売機で清涼飲料水を買うのを目撃され、その空瓶から広田被告の指紋が検出された
  4. 広田被告が事件前日に購入した包丁と鹿野巡査の刺し傷が完全に一致

大阪事件について】

  1. 犯人を見た消費者金融の女性従業員が「広田被告と酷似」と証言
  2. すぐ近くの飲食店で、かき氷の容器から広田被告の指紋を検出
  3. 襲われた消費者金融会社と同じビル内で、別の会社社長が広田被告の姿を目撃
  4. 消費者金融会社から奪われた60万円が「10万円ずつの束」になっていた事実と、広田被告が立ち寄ったピンクサロンでホステスが受け取った「10万円の束ね方」が同じで、強奪した金の一部が使われたのは間違いない

検察側は動機について「仮出所の3日後に犯行を計画し、翌日、千葉県の実家から京都に出て包丁などを準備しており、強盗でまとまった金を手に入れようとしたもの」と述べた。

9月8日の最終弁論で、弁護側は以下のような理由から、無罪を主張した。

  1. 自白はタバコの火を手に押しあてる拷問などの暴行によるもので、任意性がない
  2. 目撃証言は、マスコミ報道を見て”思いこんだ”可能性が高い
  3. 犯行で使われた拳銃が同一であるという鑑定結果は信用できない

10月25日の判決裁判長は、弁護側の「自白は拷問によるもの」という主張に対し、「やけどなどの傷は、接見した弁護人にも訴えておらず、自分で傷つけたとみるのが自然。広田被告の供述の任意性を疑う事情はない」と、その証拠能力を認めた。

また、拳銃についても「銃弾の線条痕が一致し、奪われた巡査の拳銃であることは明白」とした鑑定を採用、同一人物による犯行と認定した。

さらに裁判長は、両事件ともに検察側の主張を認めたうえで、「間接事実だけでも、犯人が広田被告であるとの心証を得られる」とした。それから「自白のうち、これら間接事実に裏付けられた部分は信用性があり、広田被告を両事件の犯人と認定するのに、合理的疑いを差しはさむ余地はない」と言い切った。
そしてアリバイを主張し、目撃証言を信用できないとする弁護側主張を退けた。

最後に遺族の被害感情や社会的影響の大きさにも触れ、「広田被告の刑事責任は、極めて重大であり、死刑をもって臨むほかない」と指弾した。

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【控訴審】大阪高裁:死刑

1991年1月25日の控訴審初公判で、弁護側は「犯行の物証がなく、自白は警官の暴行で強要されたもの」として無罪を主張した。

対する検察側は「自白を強要されたというのは虚偽で、市民約30人による目撃証言の信用性は十分。事件の重大性からみて死刑を適用しなければ、他の事件との間に著しい不均衡が生じる」と反論した。

1993年2月10日の最終弁論で、弁護側は、改めて無罪を主張。広田被告と被害者2人には何ら関係がなく、殺害の動機がないと訴えた。

目撃証言についても「食い違いが多く、信用性に欠ける」と指摘。また、「拳銃を発射した時の硝煙反応が広田被告から出ておらず、弾丸の線条痕鑑定も推測にすぎない」としていた。
また量刑について「仮に有罪としても、動機などが解明されておらず、死刑適用は不当」と訴えていた。

弁護側が裁判所に提出した最終弁論要旨2通のうち、ひとつは広田自身が拘置所でほぼすべてを書き上げたものだという。
内容は「警察は犯人をデッチ上げ、検察は警察の御用機関になり下がった」など激しい言葉が並び、全争点について検察側の主張を批判して「冤罪」を訴えている。

銃弾の鑑定について、広田被告は弁護人から銃弾の拡大写真約45枚を差し入れてもらい、細かく検討。線条痕の特徴が鑑定結果と合わない個所を発見、弁護側の主張に採り入れさせた。

4月30日の判決で、裁判長は「犯行は冷酷、残虐。社会的影響も重大で、罪刑の均衡、一般予防の見地から極刑をもって臨むのはやむをえない」として、一審判決を支持、被告側の控訴を棄却した。

裁判長は、広田被告が取り調べで「拷問で自白を強要された」との主張に対し、「広田被告の両手の傷は、広田が警察官のネクタイを引っ張るなど暴れた際にできた」と認定。さらに当時は弁護人にも暴行を訴えていなかったことなどを指摘、「自白任意性を疑うべき理由はない」と述べた。

続いて拳銃の同一性については「弾丸鑑定は十分に科学的、合理的」と評価して、弁護側の主張を退け、目撃証言についても、事件発生直後の証言であり、信用性が高いとした。

さらに大阪事件では、事件前に犯人が食べたかき氷の容器から、広田被告の指紋が検出されたことを指摘、「現場に来たのは事件発生後という被告の公判供述は信用できない」と述べた。

京都事件でも、「タクシーに残された血痕は、被害者の警官の血液型と一致している」ことや、「犯行前に包丁を購入した男の年齢や身長が被告と酷似」、「警官の遺体の傷跡から、この包丁が凶器とみられる」ことなどをあげ、「両事件とも、広田被告の単独犯行」と断じた。

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【最高裁」上告審:死刑確定

1997年11月14日の最高裁口頭弁論で、弁護側は、現場周辺で被告を見たという11人の目撃証言について「主要な点で食い違いが目立ち、証拠としての価値に乏しい」などと主張した。広田被告は提出した陳述書で、「真犯人は別におり、罠にはめられた」と新たな主張を展開した。

検察側は、「自白には虚実が入り交じっているが、自分ひとりでやったという骨格部分は信用できる。目撃証言にも矛盾はない」としたうえ、「広田被告は何の反省も示さず、むしろ他人に罪を押しつけようとする。その反社会性は改善しようもない」とする書面を提出した。

1997年12月19日、判決裁判長は、広田被告側の「無罪主張・真犯人説」などを、「いずれも適法な上告理由に当たらない」と退けた。そして「極めて悪質で、動機に酌量の余地はない。社会に与えた影響などに照らすと刑事責任は重く、死刑判決はやむを得ない」と述べた。

これにより、上告は棄却され、広田雅晴被告の死刑が確定した。

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