【死刑確定も!】警察官が起こした殺人事件【6選】

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悪徳警察官 事件まとめ

警察官は正義の味方

これは間違いありません。事件や事故の時、やはり頼りになるのは警察です。現在、警察官は全国に約25万人。全員が”正義の味方”であるのが理想ですが、人間である以上それは現実問題として難しいことです。ほんの一部の警官が犯罪に手を染め、中には殺人まで犯す者がいるのも事実です。

ここでは殺人という凶悪犯罪を犯した警察官についてまとめてみました。6人のうち4人は死刑判決を受けています。

1.中田充【福岡・小郡市母子殺害事件】

福岡・小郡市母子殺害事件
中田充
現役時代の勤務地福岡県警(本部・巡査部長)
判決死刑:収監中
被害者家族3人

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2017年6月6日、福岡県小郡市で、現職警察官による殺人事件が起きた。

被害者は福岡県警の中田充巡査部長(当時38歳)の家族で、妻・由紀子さん(38歳)と小学生の子ども2人。1階台所には燃えかけの練炭があり、当初は育児に悩んでいた妻による無理心中の可能性が強いと見て捜査が始まった。

母子3人の死因はいずれも窒息死。だが、それは練炭によるものではなかった。司法解剖の結果、3人の死因は「首を絞められたことによる窒息死」と判明したのだ。由紀子さんは首の骨にヒビが入るほど強く圧迫され、子ども2人はトレーニング用のゴムチューブで首を絞められたこともわかった。

また、由紀子さんの爪からは犯人のものと思われる皮膚片が見つかっていたが、これが夫の中田充巡査部長のDNAと一致。中田は、6月8日午後5時31分、母子殺害容疑で逮捕された。

なぜ警察官の犯罪がなくならないのか/飛松/五男

夫である中田充を犯人と断定した根拠は以下の通りである。

  • 現場にまかれた油と、中田の職場のロッカーのジッポーライターのオイルと同じものだった
  • 妻の爪に残された皮膚片と、中田のDNAが一致
  • 死亡推定時刻の午前0時~午前6時は、スマホの位置情報から中田も家に居たことが判明
  • 夫婦は不仲でケンカが絶えず、中田は同僚に「妻に死んでほしい」などと打ち明けていた

パチスロ狂いのトラブルメーカー

中田は警官時代、トラブルメーカーとして知られており、何度も左遷されていた。事件当時は福岡県警本部に転属していて本来ならこれは栄転であるが、彼の場合は「トラブルメーカーを、県警本部の監視下に置く」という意味合いが強かったという。

また、大学時代からパチスロにハマり過ぎて、そのせいで留年もしている。この悪いクセはその後も治らず、パチスロが原因の夫婦喧嘩が絶えなかったという。事件前夜のケンカも、そのせいだった可能性は高い。

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中田は取り調べ段階から一貫して犯行を否認。爪の皮膚片についても、前夜にケンカした時に搔きむしられたものと主張した。しかし裁判で下った判決は死刑。中田はこの判決を不服として控訴・上告するも、いずれも棄却となり死刑が確定した。

2.水内貴士【現役警官・交際女性殺害事件】

現役警官・交際女性殺害事件:水内貴士
警官時代の水内貴士
現役時代の勤務地大阪府警(阿倍野署・巡査長)
判決懲役18年
被害者不倫相手の女性

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大阪府警の巡査長・水内貴士は2013年4月、東日本大震災の被災地支援で宮城県警に出向した。それから間もない4月28日、水内は仙台市内で参加した「街コン」で、大学生の白田光さんと知り合う。

水内は身長183cm、体重89kgの逞しい体躯のイケメン。女性の扱いに慣れた水内を、最初は苦手に感じた白田さんだったが、何度か会ううちに好意を寄せるようになった。

だが、水内には白田さんに言えない秘密があった。それは「大阪に婚約者がいる」ということだった。彼にとって白田さんは単なる ”遊び相手”、悪くいえば「性欲のはけ口」だったのだ。

翌2014年春、出向期間を終えて水内は大阪に戻ってきた。同じ頃、白田さんも「がん治療の拠点病院」にソーシャルワーカーとして就職が決まり、大阪に移住した。宮城県にいる時から会う回数は次第に減っていたが、大阪では水内はほとんど白田さんに会おうとしなかった。

そんなことから白田さんは何度か別れ話を持ちかけたが、そのたびに水内は「「俺のこと好きやろ。別れられないやろ」といって引き留めていた。

だが2015年1月12日、白田さんはすべてを知ってしまう
水内の知人のFacebookから、「水内の結婚式の写真」を見つけてしまったのだ。水内は前年8月に婚約者と式を挙げていた。

白田さんを殺害

1月21日夜、白田さんは「社会的制裁を受けてもらう」と書き込む。それを知った水内はようやく事の重大さに気付いた。「職場や妻に暴露されたら自分は終わってしまう」、水内はそう考えた。

1月24日朝、水内は白田さんのマンションを訪れ、白田さんをベルトで絞殺。のちの供述で「白田さんに『奥さんや警察に言う』と言われてカッとなり殺した」と話している。

殺害後は白田さんのスマホを壊すなどの証拠隠滅工作を行い、午前9時30分頃から阿倍野署の道場で剣道の練習に参加、凶器のベルトは道場のゴミ箱に捨てた。
だが証拠隠滅の甲斐もなく、水内は同日夕方には任意同行を求められ、翌25日に逮捕となっている。白田さん周辺の証言やマンションの防犯カメラ映像から、重要参考人として水内が浮上したのだ。

【一瞬で見抜ける! “クズ男”図鑑】

2015年10月6日、大阪地裁で水内貴士被告に懲役18年が言い渡された。水内は控訴せず、そのまま刑が確定している。

「現役警官・交際女性殺害事件」事件の詳細はこちら →

早期解決できたのは白田さんの勤勉さのおかげだった。白田さんはいつも始業45分前には出勤していて、「連絡無しに無断欠勤はおかしい」と思った職場の人が、すぐにマンション管理会社を通じて東住吉署に通報。東住吉署員が、水を張った浴槽内で服を着たまま亡くなっている白田さんを発見した。

3.広田雅晴【警察庁広域重要指定115号事件】

警察庁広域重要指定115号事件
広田雅晴
現役時代の勤務地京都府警(西陣警察署・巡査部長)
判決死刑:大阪拘置所に収監中
被害者京都府警の警官、消費者金融の男性

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1978年7月、京都府警の警察官・広田雅晴(当時35歳)は、署内から実包入り拳銃を盗み出し、これを使って京都市南区の郵便局に強盗に入った。しかし、これは失敗に終わり広田は逮捕。懲戒免職処分を受け、裁判で懲役7年に処せられる。動機は「上司が私の悪口を言っており、拳銃を盗めば困るだろうと思った」というあきれたものだった。

1984年8月30日、加古川刑務所を仮出獄により出所した広田(当時41歳)は、今度はより重大で凶悪な犯罪を起こす。出所から5日後、広田は虚偽の申告で京都の船岡山公園に警察官をおびき出し、包丁で刺して拳銃を奪う。そして奪った拳銃でこの警察官を撃って殺害した。
その後、広田は大阪に移動。消費者金融店舗で金を奪うため男性店員を射殺、もうひとりの女性店員から現金約60万円を受け取って逃走した。

警察は2件の事件の目撃情報から犯人を広田と断定、警察庁広域重要指定115号事件に指定して行方を追った。

自ら居場所を知らせる

翌5日午前8時前、広田は西陣署に電話をかけ「署長を出せ、お前らが捜している広田や」などと挑発。そして、京都ではなく実家のある千葉にいることを明かした。彼は実家の母親にも電話していたが、これを逆探知した結果、千葉市内にいることは間違いなかった。

その後、不審な男を乗せた個人タクシーを、千葉県警捜査一課が発見。追跡の結果、タクシーは広田の実家前で止まった。降りた男に職務質問したところ、広田に間違いなかったため、警察は任意同行を求めた。その後27日に大阪府警により逮捕され、起訴されるに至った。

【結局、自分のことしか考えない人たち】

捜査段階では犯行を認めていた広田だが、公判では全面否認、無罪を主張した。凶器の拳銃、包丁などは見つからなかった。しかし2件の犯行には多数の目撃証言があり、大阪地裁はこれを信用性が高いと判断して広田に死刑を言い渡した。この判決は、控訴審・上告審ともに支持され、広田の死刑が確定した。

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現在、広田は大阪拘置所に収監中である。

4.澤地和夫【山中湖連続殺人事件】

山中湖連続殺人事件
澤地和夫
現役時代の勤務地警視庁(警部)
判決死刑
2008年12月16日獄中死(69歳没)
被害者宝石商男性、金融会社の女性

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警視庁に勤める澤地和夫(当時45歳)は、機動隊員などを経て警部に昇任していたが、1980年1月、自分の店を持とうと考え40歳過ぎで退職する。そして3カ月後、かねてから計画していた居酒屋「橋長」を、新宿駅西口の一等地に開業した。

この時、4000万円もの借金を抱えてしまったが、居酒屋の経営はうまくいかず3年後に倒産。その頃には借金は1億5千万円にも膨らんでいた。そのうちの約5000万円は、かつての同僚の警察官らから借りたものだった。

澤地は借金返済のため、裏社会の人間と手を組むようになり、深みにはまっていく。仕入れた商品の代金を支払わず、売りさばいたあと倒産させる違法な会社の社長に就いたりもした。そのうち暴力団関係者とのトラブルで、小指を詰めさせられている。
しかし借金は減らず、澤地はとうとう重犯罪に手を染めることになる。

裏社会の人脈の中に、ひとりの在日韓国人の朴竜珠(当時48歳)がいた。彼に儲け話を打診したところ、ある宝石商をだまして金を奪う計画を聞かされる。澤地はこの話に乗り、紹介された猪熊武夫(当時35歳)とともに犯行を実行することになる。彼は不動産業者だったが、7億円の負債を抱えて倒産していた。

元警官の正義感はどこへ・・・

1984年10月11日、澤地、猪熊、朴の3人は宝石商の太田三起男さん(36歳)を車に乗せ、猪熊が所有する山中湖の別荘へ向かった。太田さんは澤地・朴と組んで「厚木市に住む金持ちを騙して、宝石を法外な値段で売り付ける」という計画を信じていた。しかし実際は太田さん自身が標的で、厚木の金持ち役は猪熊が演じていた。3人は別荘で太田さんを殺害、床下に埋めて金品約5400万円相当を奪った。

10月25日には金融業者の滝野光代さん(61歳)を標的にして、土地を担保に3000万円の融資話を持ち掛けた。この偽の儲け話に乗ってきた滝野さんを、別荘に向かう車中で殺害、やはり別荘の床下に埋めた。この犯行では現金2000万円と貴金属計約2800万円相当を手にしている。

【警察組織解体新書】

最初の事件の被害者・太田さんは、澤地と商談に出かけることを内縁のに伝えていた。そのことから澤地は重要参考人として事情聴取されることになる。彼は黙秘を貫こうとしたが取調官のほうが一枚上手で、結局は自供に追い込まれた。澤地と猪熊には死刑、朴は無期懲役が確定した。

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澤地は死刑確定囚として収監中の2007年10月、胃がんが判明。切除ができず投薬治療していたが、翌年12月16日に多臓器不全のため東京拘置所で死亡した。(享年69歳)猪熊は東京拘置所に収監中である。

5.松山純弘【制服警官女子大生殺人事件】

現役時代の勤務地警視庁(北沢署・巡査)
判決無期懲役
被害者女子大生

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松山純弘(当時20歳)は、1年間の警察学校を終え、警視庁北沢署に配属された新米巡査だった。1977年夏、松山巡査はパトロール中、偶然見かけた女子大生(22歳)に好意を寄せるようになる。その女子大生は、東京・世田谷区のアパートで一人暮らしをしていた。

翌年1月8日、松山巡査はポルノ映画を見た興奮から、女子大生と ”行為” を望む気持ちが強くなってしまう。その気持ちは「自身が警官である」という理性を大きく超えるものだった。

松山巡査は「制服姿なら信用される」という考えのもと、1月10日午後、女子大生のアパートを訪問する。アパートに到着すると、まず両隣の部屋が留守であることを確認、それから巡回連絡を装ってドアをノックした。

【昭和の凶悪殺人事件】

女子大生は、松山巡査が自分の部屋を覗き見していることを、以前から気付いていた。しかし、警官に対して居留守などするはずもなく、彼女はドアを開けた。

松山巡査は、話をしながら彼女がひとりであることを見極めると、突然部屋に押し入り内側から鍵をかけた。そして強姦しようと襲いかかるも、女子大生は必死に抵抗。その手が窓ガラスが割り、大きな音がした。

この音でまわりに気付かれたと思った松山巡査は、あろうことか口封じを企てる。彼はストッキングで女子大生の首を絞めて、殺害してしまうのだ。そして強盗に見せかけるために部屋を荒らし、財布から金を盗んだ。

警視庁始まって以来の汚点

案の定、ガラスの割れた音に反応して、大家が様子を見に部屋の前に来ていた。そこで松山巡査の取った行動は、第1発見者を装うことだった。

松山巡査は、「女性が死んでいるから110番するように」と大家に依頼。その後、現場を離れて勤務する派出所に戻った。だがこの行動は警察官として、何とも腑に落ちない行動だった。なぜなら死体発見の報告を民間人に依頼して、通常勤務に戻るなどあり得ないからだ。

何食わぬ顔で捜査に参加していた松山巡査だったが、このおかしな行動が発覚したことにより、取り調べを受けることになる。彼は当初こそ否定していたものの、数々の不審点を指摘されると犯行を認める供述を始めた。さらに、パトロール中に留守宅から窃盗するなどの余罪も発覚した。

「制服警官女子大生殺人事件」の詳細はこちら →

その後の裁判で、松山巡査には無期懲役が確定している。
この事件は「警視庁始まって以来の汚点」とされ、当時の警視総監が引責辞任する一大警察不祥事に発展した。

6.岡﨑茂男ら【警察庁広域重要指定118号事件】

岡﨑茂男/警察庁広域重要指定118号事件
現役時代の勤務地岩手県警(刑事)
判決死刑
2014年6月26日獄中死(60歳没)
被害者金融業男性、塗装会社社長

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元岩手県警警察官岡﨑茂男ら犯行グループは、身代金などの金銭目的で誘拐事件を3件起こし、そのうち2件では被害者を殺害していた

最初の事件は、1986年7月15日。岡﨑ら犯行グループは、岩手県盛岡市の金融業男性(41歳)を誘拐して現金や土地登記済権利証・外車を強奪。その後、山林に生き埋めにして殺害した。

その3年後の1989年7月20日には、郡山市の塗装会社社長(48歳)を仕事と偽って呼び出し猪苗代町の貸別荘に拉致・監禁。家族や社員に現金1700万円を準備させ、これを奪ったうえで殺害していた。

そして1991年5月1日、千葉県市原市の塗装業男性(52歳)を誘拐・監禁し、男性の妻から身代金2000万円を奪った。この事件では、被害者は2日後に栃木県で解放されている

本事件は、警察庁広域重要指定118号事件に指定された。
捜査に加わった福島県警の当時の捜査1課長は、事件の端々から「(犯人は)警察の知識を持っている」と推測できたという。

死刑確定3人が全員病死

塗装業男性は警察に被害届を出し、捜査で監禁場所を栃木県那須塩原の貸別荘と断定。そして、この貸別荘の借主が被害者と顔見知りであることがわかり、警察は容疑者グループを特定することができた。

その後、5月16日までに岡﨑を除く全員が逮捕され、岡﨑も10月31日に逮捕となった。

裁判では、犯行グループ8人のうち、岡﨑を含む ”主導的立場と認定された3人” に死刑が言い渡された。3人は最高裁まで争うも減刑とはならず、そのまま死刑が確定する。

従属的とみなされた3人には無期懲役、殺人に加担していない1人に懲役6年が確定。残る1人は公判中に病死したため、控訴棄却となっている。

なぜ警察官の犯罪がなくならないのか/飛松/五男

この時点で病死したのは1人だが、このあと、病死者は増えることになる。
2011年から2014年の約3年半の間に、なんと死刑確定した3人全員が獄中で病死するのだ。

死因は「肺塞栓症」、「急性肺炎」、岡﨑は「急性呼吸不全」と、3人とも呼吸器系が原因だった。
被害者を生き埋めにしたり、首を絞めて殺害したとされるこの事件。その犯人たちが、”突然、胸の苦しみを訴えて意識を失う” など、全員が呼吸関係で死亡した。

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何か、因縁めいたものを感じざるを得ない事件である。

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