
この記事では「若い男性クループ」による集団リンチ事件をまとめてみました。
残念なことに ”リンチ事件” 自体は全国に無数にあると思いますが、ここで紹介するのは殺人にまで発展した恐ろしいものです。
行き着くとこ(殺す)まで行った理由として「狂人的なリーダーに逆らえなかった」または、「”弱さ”を見せられず、暴行を競い合った」というのを色濃く感じます。やはり、どんな組織もトップの暴走を冷静にコントロールできる参謀役が必要なのです。これらの事件には、その役割を担う人が不在でした。
そして「後のことを何も考えていない」というのも特徴的です。どの事件もあっという間に捕まっています。おそらく逃げ切れるような賢さがあれば、そもそも人を殺したりしないのでしょう。
1.東大阪大生リンチ殺人事件
加害者数 | 10人 | 死亡者数 | 2人 |
事の発端は、女性をめぐるトラブルだった。
東大阪大学のサッカーサークルに所属する藤本翔士(21歳)には彼女がいたが、同じサークルの徳満優多(当時21歳)が横恋慕する。これに激怒した藤本が、岩上哲也(21歳)ら仲間数人を引き連れ、徳満と友人の佐藤勇樹(21歳)に暴行をくわえて慰謝料50万円を要求。この時、岩上が暴力団の名前をちらつかせて脅したことから、やられた側は反撃を決意する。
2006年6月19日夜、慰謝料受け渡しの名目で双方は落ち合い、「金は岡山で払う」という言葉を信じ、一同は岡山県に移動。しかし、そこで待ち受けていたのは、反撃のために集まった徳満の仲間7人だった。最初の女性トラブルでは ”加害者” だった側が、ここでは ”被害者” に立場が逆転する。
この時、被害者側3人に対して加害者側は9人。しかも殴るための武器を準備した加害者グループに、3人は太刀打ちできるはずもなかった。
この計画の首謀者で大阪府立大学3年・広畑智規(当時21歳)、実行犯のリーダー格の無職・小林竜司(当時21歳)が中心となり、3人のうち2人は執拗に暴行されたうえ生き埋めにされる。
残る1人は最初の暴行沙汰への「関与度が低い」として解放されたが、口封じのため無理やり暴行に加担させ、「口外したら家族を殺す」と脅されていた。
事件はすぐに発覚
6月22日、解放された被害者が、警察に駆け込んだことで事件は発覚する。
犯行グループは話し合った結果、メンバーのうち小林・佐藤、徳満、佐山大志(当時21歳)の4人が自首することに決め、6月24日から25日にかけて警察に出頭した。だが被害者の証言から、犯行メンバーは他にもいることは明らかになっており、8月10日までに加害者10人全員が逮捕となった。
裁判では実行のリーダー格の小林竜司に死刑、主犯の広畑智規は無期懲役が確定した。他のメンバーも懲役7年~18年の実刑判決となっている。
よくある「恋愛トラブル」から凄絶な「集団リンチ殺人事件」に発展してしまったこの事件。殺された2人と関係があったのは、徳満・佐藤の2人だけ(最初の暴行沙汰の被害者)。死刑判決を受けた小林を含め、他の8人は当日まで面識さえなかったのである。
”間違った友情” のため、前途ある若者たちは将来を棒に振ってしまった。
2.大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件
加害者数 | 10人 | 死亡者数 | 4人 |
小林正人(当時19歳)、小森淳(当時19歳)、芳我匡由(当時18歳)の3人は、大阪なんば界隈の暴力団構成員だった。彼らは繁華街で不良っぽい若者から恐喝することを主なシノギにしており、本事件もそんな恐喝事件から始まった。
1994年9月28日午前3時頃、道頓堀で拉致した男性(26歳)を、長時間の暴行のすえ殺害。3人はそのまま小林の地元である愛知県稲沢市に逃亡して身を潜めた。
だがここでも昔からの仲間の1人とトラブルになり、殺人事件を起こす。彼らは被害者にひどい暴行を加えて翌日まで連れ回し、愛知県尾西市の木曽川河川敷で犯行に及んだ。この時は、彼ら3人以外に仲間5人も犯行に加担した。
その後10月7日深夜、彼らは愛知県稲沢市のボウリング場で3人の若い男性グループとトラブルとなる。「自分たちの方を見て笑った」という、ほとんど因縁に近い理由からのトラブルだった。
この事件の犯行グループは6人、もちろん小林・小森・芳我の3人が中心だった。男性3人グループは車で連れ回された後、岐阜県安八郡輪之内町の長良川河川敷に連れて来られた。ここで小林ら犯行グループは、3人のうち2人を鉄パイプなどで殴って殺害した。
歯止め役のいない怖さ
翌10月8日早朝、現場付近でトラックの整備をしていた男性が2人の遺体を発見。警察に通報したことから事件は発覚した。
リーダー格の小林は、残る1人を小森と芳我に押し付けていた。2人はこの被害者を大阪に連れ帰ったものの、処遇に困り解放。被害者はすぐに警察に被害を届け、証言により犯人グループが特定される。そして、3人は指名手配となった。
10月12日、警察は別件で小森を逮捕、14日には小林が一宮署に出頭した。逃亡していた芳我は1995年1月18日、和歌山市内のラブホテルで女性と一緒のところを取り押さえられた。
その後、警察は犯行グループ全員を逮捕する。暴力団員(45歳)以外は20歳前後の若者ばかりで、最年長でも21歳、最年少は16歳の少女だった。
主犯:小林正人(19)、小森淳(19)、芳我匡由(18)
共犯:暴力団員(45)、暴力団員の少年(18)、無職の男1(21)、無職の男2(20)、少年(19)、少女1(18)、少女2(16)※ 10人中、7人が未成年
木曽川事件で少女(18)が暴行を止めようとした以外は、誰も歯止め役がいなかったという。少年たちにとって暴行に加わらないことは ”弱さ” であり、競うように犯行をエスカレートさせていった。
主犯の3人は当初、「未成年だから死刑にならない」と考えていた。しかし、裁判では3人ともに死刑が確定。世間でも賛否はあったものの、どちらかといえば判決を支持する意見が多かった。
現在は、小林が東京拘置所、小森と芳我は名古屋拘置所に収監されている。
3.東尋坊殺人事件
加害者数 | 7人 | 死亡者数 | 1人 |
2019年9月中旬、被害者の嶋田友輝さん(20歳)と少年A(当時19歳)は知り合い、Aの父方で同居して行動を共にするようになる。天真爛漫で憎めない性格の嶋田さんだが、口が悪い面もあり、相手によってはイラつかせることもあった。
やがて、友情はあっけなく崩れ去る。暴力団関係者や近所のブラジル人とのトラブルを通じ、Aは嶋田さんに強い不満を抱くようになったのだ。ある時、滋賀県内のカラオケ店で、Aはその不満を ”スパーリング” と称した暴行で嶋田さんにぶつけ始めた。
10月8日に始まった ”スパーリング” は、その後も仲間を増やして連日続き、エスカレートしていく。
しかし、14日にはAは交際女性に促され、嶋田さんを病院に連れて行く。嶋田さんは肋骨が折れていた。
こうして一旦は止んだ暴行だったが、嶋田さんの取ったある行動がAを激怒させ、再開されることになる。揉めていた暴力団関係者からの電話で、嶋田さんはAの居場所を教えてしまったのだ。
これ以降、暴行は以前とは比べものにならない凄惨なものとなる。Aとその仲間は、嶋田さんに拷問まがいの激しいリンチを始めるのだ。彼らは人気のない場所まで移動して、嶋田さんに暴行を続けた。
だが17日には、再び嶋田さんに助かるチャンスが訪れる。暴行のひどいありさまを見かねたAの知人が、警察に通報したのだ。しかし警察が駆け付けた時、嶋田さんは車に隔離されていて、警察はそれに気づかなかった。これで、嶋田さんが助かる見込みはなくなった。
嶋田さんを”消す”ことに…
警察が介入したことで、少年Aたちは焦り出した。これまでは単に暴行することだけを考えていたが、今後の嶋田さんの処置について検討するようになったのだ。だがこういう場合、リンチする側が被害者を解放することはあまりない。たいていの場合、証拠をすべて ”消滅” させようとするのだ。
そして、それは「被害者の死」を意味していた。
10月18日午後2時頃、滋賀県の多賀サービスエリアを出発した少年たちは、東尋坊に向かうことを決める。東尋坊は福井県有数の景勝地であるが、同時に「自殺の名所」としても有名だった。彼らは自殺に見せかけて、嶋田さんを消すことを考えていた。
連日の暴行により、嶋田さんには抵抗する気力も残っていなかった。結局、計画通り嶋田さんは殺害される。そして同日午後10時30分頃、多賀サービスエリアに戻ったAたちを滋賀県警が発見、逮捕となった。
犯行グループは全部で7人。その中にはひとりだけ成人である上田徳人(当時39歳)がいるが、それ以外の6人は未成年だった。(少年Aは19歳、残りは19歳が2人、17歳が3人)
裁判の結果、主犯の少年Aに懲役19年、上田徳人に懲役10年。その他の少年たちは5年~15年の間で、それぞれ期間は違うが不定期刑が言い渡されている。