福山市女性強盗殺人事件|殺人事件の仮釈放中に、また殺人

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福山市女性強盗殺人事件/西山省三 日本の凶悪事件

「福山市女性強盗殺人事件」の概要

過去に「ギャンブルの借金が原因の殺人事件」で無期懲役を受けた西山省三。14年9か月の服役を経て、西山は仮釈放となる。この先、微罪でも犯せば刑務所に逆戻りだというのに、西山はなんと強盗殺人を計画する。
動機は前回と同じ、”ギャンブルの借金”。西山は共犯の黒山明とともに、老婦人を広島県福山市の山中で殺害して現金や通帳・印鑑を奪った。しかし事件は発覚、2人は逮捕となる。
裁判で西山は一審、二審と無期懲役判決だったが、最高裁はこれを破棄。審理は差し戻され、西山は逆転死刑判決となった。

事件データ

主犯西山省三(当時39歳)
死刑:広島拘置所に収監中
共犯黒山明(当時40歳)
無期懲役
犯行種別強盗殺人事件
犯行日1992年3月29日
犯行場所広島県福山市
殺害者数1人
西山は過去にも1人殺害
動機金品目当ての強盗
キーワード刑務所仲間

「福山市女性強盗殺人事件」の経緯

西山省三(当時39歳)は、1973年にギャンブルの借金が原因の殺人事件を起こして無期懲役となり、1989年7月の仮釈放まで岡山刑務所に服役した。出所後は義兄(姉の夫)の会社で配管工として働いたが、背徳行為をしたため1991年11月に解雇。別の会社で配管工として働き始めた。

翌年1月頃、岡山刑務所で親しくしていた元刑務所仲間の男性Aを通じて黒山明(当時40歳)と知り合う。黒山とAは1991年10月頃に宮崎県宮崎市で知り合い、2人で広島県広島市へ来て土木作業員として働いていた。

西山と黒山は気が合って、急速に親しくなる。西山は黒山とAにアパートを世話して、2人を自身と同じ会社に配管工として就職させた。だが、給料は貰っただけ使い切り、さらに消費者金融から約30万円の借金を抱え、金銭的に常に困窮していた。

1992年2月頃、西山と黒山は相次いで勤務先を退職したが、それ以降も行動を共にするようになった。2人は一緒に働ける職場を探したが、適当な就職先は見つからなかった。そのため黒山は3月中旬頃、茶の訪問販売を西山に提案して、2人はその仕事を始めた。

黒山の出生時、両親は茶の栽培を営んでおり、自身も高校卒業後に従事するようになっていた。

2人はそれぞれ母親らに無心して仕入れ資金を調達し、山梨県甲府市内で茶の訪問販売を試みるなどしたが、思うように売れなかったため、数日して福山市に戻った。

3月22日、2人は三原市在住の西山の姉から、近隣の住民を10人ほど紹介してもらう。その中の内藤ヤスノさん(当時87歳)が約2000円分の茶を買ってくれた。

この時、内藤さんから「明後日は病院に行く日だが、脚が悪いので通院が1日がかりになる」と聞かされたため、西山は自動車で送迎することを約束した。

強盗殺人の計画

西山は当時、約600万円の借金を抱えていたが、茶の訪問販売は思うように利益が上がらなかった。
1992年3月28日も福山市の明王台団地を訪問して回ったが、一向に売れなかった。

西山は何か儲ける方法はないかと黒山に相談すると、「盗みでもするか」と提案される。だが、西山は無期懲役の仮釈放中の身。もし犯行が発覚すれば仮釈放は取り消され、再び長期間の服役となってしまう。西山は「どうせやるなら、半端なことではダメだ。ドデカいことを一発やろう」と答えた。

黒山が標的として「ひとり暮らしの年寄り」を挙げると、西山は先日茶を買ってくれた内藤さんが思い浮かんだ。内藤さんなら金を貯めているかもしれないし、殺して死体をどこかに隠せば、身寄りもないからバレない、と考えた。

黒山は殺害は想定外だったが、西山に「顔を知られているから殺すしかない」と言われて同意した。

2人は殺害方法について相談し、その結果、絞殺することに決めてそのための紐を自作した。さらに2人は内藤さん宅に上がり込む口実として、「カップラーメンを作る湯をもらう」ことにした。

2人はパチンコで時間をつぶし、午後7時頃にカップラーメン2個と凶器などを持って、内藤さん方を訪れた。

殺害場所を探してドライブ

西山は、内藤さんが大金を持っているかを確認したうえで実行しようと考え、内藤さんが席を外した合間に寝室などを物色して預金通帳を確かめた。だが、残高は思いのほか少なかった。

そこで、試しに内藤さんに借金を申し込んでみたところ、彼女は13万円を差し出してきた。このことから2人は、「(内藤さんは)大金を持っている」と確信して殺害を決意する。

西山はその場で実行しようと思ったが、黒山は「死体の処分に困る」と考え、家の中での殺害を躊躇。結局、内藤さんを外に連れ出して殺害することにした。
2人は内藤さんに「いい温泉がある」と言ってその気にさせ、西山の車の助手席に内藤さんを乗せて午後10時頃に家を出発した。

2人は殺害場所として適当な、人気のない場所を探した。まずは福山市方面へ向かい、次に瀬戸大橋を渡って香川県高松市の栗林公園まで行った。しかし栗林公園は市街地にあり、夜は門が閉まっていて入ることができなかった。周囲にも適当な場所はなく、高松市での犯行は断念する。

当初から殺害を想定していなかった黒山は、「ホテルに泊まっている間に、内藤さん宅に戻って金を取ればいい」と提案したが、西山は「この状況で泥棒が入れば、自分たちの仕業とバレる。殺すしかない」と反論した。

その後、3人は岡山県都窪郡の喫茶店で休憩。店を出ると空はすでに明るく、周囲に奥深い山もなかったため、西山はこの地でも実行をあきらめ、三原市方面へ向かった。

内藤さんを殺害

福山市女性強盗殺人事件・遺体発見場所
座標:34° 37′ 20″ N, 133° 22′ 15.4″ E

1992年3月29日、福山市内の国道2号を走行中、西山は「深安郡神辺町(現:福山市神辺町)方面なら、人目に付かない山があるのではないか」と考え、黒山にそれを伝えた。こうして車は山間部を目指して走行し、神辺町方面へ向かって北上を続けた。

すると途中で ”山野峡” と書かれた道路標識を発見。名前からして「人目に付かない場所だろう」と考えた2人は、その方面に向かうことにした。
午後2時頃、3人の乗った車は「第二櫛ヶ端山林道」を通り、広島県福山市山野町大字山野の林道に到着した。

西山と黒山は手順を相談した。そして、黒山が内藤さんに「植木を抜いていく」と説明している最中に、西山が石で内藤さんを襲うことに決めた。

2人は内藤さんを車から降ろした。それから林道の道端に連れて行き計画通りに実行、内藤さんは失神した。そして、準備した自作の紐で内藤さんを絞殺した。

その後、2人は遺体を崖下めがけて投げ捨てた。だが、遺体は林道の上から見える状態だったため、西山は崖を降りて見えない場所まで転げ落した。

2人は内藤さんのバッグから現金3千円と郵便貯金通帳、せとうち銀行の預金通帳、印鑑2個を奪った。さらに、午後9時頃には内藤さん宅に戻り、宅内を物色するも金品は発見できなかった。

事件後の動向

2人は事件後も行動を共にし、1992年4月2日頃に岡山市に住む西山の知人(元刑務所仲間)を訪ねた。西山はその知人に、内藤さん名義の郵便貯金通帳からの払戻しを頼んだが、手続きに手間取ったうえに代理人(西山)の署名を求められたため、これを断念した。

その後、自責の念に駆られた黒山が「自分ひとりで罪をかぶって自首する」と言い出す。西山は「自首すれば自分のことも隠し通せるはずはない」と考え、黒山を説得して自首を思いとどまらせた。そして、黒山を郷里の静岡県へ帰らせた。

その後、西山は事件が発覚する危険性を承知しながらも、以下の詐欺事件を起こしている。

  • 4月9日午前10時頃、「せとうち銀行・福山南支店」で内藤さんの代理人を装って預金5万7千円を下ろした
  • 4月9日午後2時46分頃、福山新涯郵便局で内藤さんの代理人を装って預金4万9千円を下ろした
  • 4月27日午前10時40分頃、パチンコ店で知り合った女性と共謀し、福山郵便局で内藤さんの代理人を装って定額貯金を解約、20万9791円を下ろした

西山は、この女性とその内縁の夫の下でしばらくの間、ワックスの訪問販売の仕事をしたが、6月頃にはやる気をなくして真面目に働かなくなった。

この年(1992年)の11月、西山の妻は自宅にいられなくなり、長女と岡山県内の実家へ戻っている。また、西山も借金の取り立てを免れるため、三原市内の実家に身を寄せた。

事件発覚

1992年4月6日、内藤さんの不在を不審に思った民生委員が、三原市福祉事務所に連絡。同事務所が広島県警・三原警察署に捜索願を提出した。

また、内藤さんの次男が内藤さんの預貯金を調べたところ、行方不明になって以降、内藤さんの口座から現金が引き出されていたことが判明した。

三原署は「内藤さんは、何らかの事件に巻き込まれた可能性がある」として捜査を開始。その結果、西山の関与が判明する。西山は4月9日に郵便局で内藤さんの預金を下した際、求められて運転免許証を提示していたのだった。
ほかにも、払戻金受領書からは西山の指紋が検出された。

1993年4月26日、西山は重要参考人として三原署で取り調べを受けた。出頭した当初、「通帳と印鑑は内藤さんからもらった」と虚偽の説明をしていたが、取り調べ官に追及されて盗んだことを認めた。
翌27日、西山は有印私文書偽造・同行使・詐欺の容疑で逮捕となる。

さらに、5月1日には「黒山と共謀して強盗殺人をやった」と自供。これを受け、警察が山野峡(福山市山野町)一帯を捜索したところ、供述の場所付近で白骨死体を発見する。

鑑定の結果、身元は内藤さんとほぼ断定されたため、三原署は5月6日、強盗殺人・死体遺棄容疑で西山を再逮捕した。

西山は本事件により、前の殺人事件の無期懲役刑の仮釈放を取り消され、1993年6月以降は再び無期懲役刑の執行を受けている。

一方、共犯の黒山は、西山が強盗殺人罪で起訴された時点では「指名手配中」だったが、その後逮捕・起訴されている。

西山省三の生い立ち

西山省三は1953年(昭和28年)1月13日、山口県宇部市で生まれた。第5子で長男の西山は、待望の男の子ということで甘やかされて育った。

1969年3月に中学校を卒業。当時、炭鉱夫の父親は病気療養中だったため、高校進学を断念した。そして山口県立の職業訓練所で、大工の技術を学んだ。

1年後、大工見習いとして工務店で働き始める。だが、親方の妻と喧嘩して約5か月で退職。そのため運輸会社でフォークリフト運転手として働くようになったが、1972年8月頃に下請会社の従業員更衣室からカメラを盗んで逮捕され、退職した。

その後、別の運輸会社に転職して両親を扶養していたが、1972年1月頃からオートレースやボートレースを始める。ある時大当たりを経験したことから、ギャンブルに熱中するようになり、知人などからの借金を重ねていく。

最初の殺人

やがてひとりの知人から借金返済を強く迫られ、西山は「ギャンブルで大穴を当てて、全額返済しよう」と思い立つ。1973年10月、その資金として別の知人から借金し、さらに以前から家族ぐるみで付き合いのあった近所の知人女性からも金を借りた。

西山は借りた金でオートレースなどに臨むも、そのほとんどを使い果たしてしまう。西山は、「こうなった以上、知人女性を殺害して金を奪ってやろう」と考え、1973年10月25日午後4時30分頃、知人女性宅を訪れた。

西山はしばらくは犯行を躊躇していたものの、午後5時頃になって計画の実行を決意。台所にあった包丁を女性に突き付け、金を出すよう脅迫する。女性が現金5万3千円を差し出すと、犯行の隠ぺいのために殺害しようと包丁で刺した。

西山は、現金や預金通帳・印鑑などが入った手提げカバンなどを強奪して逃走したが、この時点では知人女性はまだ息があった。彼女は死亡する直前「犯人は2年前に自分が住んでいた町で、近所の顔見知りの西山だ」と証言する。西山は、山口県警・宇部警察署により指名手配された。

無期懲役となる

だが、宇部署は市外に緊急配備を敷かなかったこともあり、西山は逃亡に成功。全国各地を転々と逃走生活を送っていた。

その後、西山は同年12月16日に事件のことが気になって三原市内の姉夫婦宅を訪れたところ、同居中の両親らから自首するよう説得される。西山は宇部署に出頭、強盗殺人容疑で逮捕となる。

1974年4月10日、西山は山口地裁で無期懲役判決を受け、広島高等裁判所へ控訴。9月26日に広島高裁で控訴棄却の判決を受け、10月12日付で確定した。そして仮釈放まで3つの刑務所で、約14年9か月間服役した。

西山は服役中の態度が真面目で、姉の夫義兄)が身元引受人になったため、1989年7月20日付で仮釈放となって岡山刑務所を出所。約1か月間は岡山市内の更生保護施設で過ごしたが、その間は知人の飲食店を数日間手伝っただけで定職には就かず、散財したり、パチンコをしたりする生活だった。

このころ、服役中に失効した運転免許を取り直すため試験場に通った際、ある女性と知り合い結婚を前提に交際するようになった。

1989年8月20日頃、西山は家財道具をトラックに積んで福山市内の姉夫婦宅へ赴き、頼んで保証人になってもらいアパートも探してもらった。そして、義兄が経営する会社に配管工として就職した。

再びギャンブルにハマる

間もなく交際女性との同居生活を始め、1990年4月に結婚する。西山はしばらくは真面目に勤務していたが、やがて自分の判断で仕事を進めたり、自動車を購入したりするようになる。仕事後や休日はパチンコ店へ通うようになり、次第に熱中するようになった。

1990年9月下旬には消費者金融から借金するようになったが、パチンコの負けを取り戻そうと、西山はさらに金をつぎ込むようになった。妻や母親からやめるように注意されてもパチンコ漬けの生活を改めなかったため、生活費などが足りない状態が続いていた。同年11月には長女が誕生している。

西山は、母親に何度も金を無心したほか、生活費までパチンコにつぎ込むようになった。それでも足りず消費者金融から借りて、数百万円に上る借金を抱えるようになる。そのうち約100万円は母親に返済してもらった。

そんな時、会社が「今は忙しいから、後日工事を行う」といったん断ったはずの工事を義兄に無断で(義兄の次男)とともに受注、利益を2人で折半した。だが、それが雇用主の義兄に発覚、1991年11月20日に会社を解雇された。

その後、別の会社に配管工として入社。1992年1月頃、岡山刑務所時代の仲間の男性Aのツテで本事件の共犯者・黒山明と知り合う。

そして1992年3月29日、本事件を起こした

裁判では一審・控訴審で無期懲役判決だったが、上告審で高裁に差し戻される。差戻控訴審で死刑、2007年4月10日、2度目の上告審(最高裁)で死刑が確定した。

現在は、広島拘置所に収監中である。

西山省三が獄中で描いた絵

西山省三死刑囚が描いた絵
「神の愛」2007年・西山省三死刑囚

西山省三死刑囚が、2007年に獄中で描いた絵である。
この絵は、「極限芸術 ~死刑囚は描く~」(2017年)に出展された。

2007年というと死刑が確定した年なので、その前後に描かれたということになります。

タイトルは「神の愛」。被害者に向けての”神の愛”なのか、自身を救ってほしい気持ちなのかは定かではありませんが、死刑確定前後に描いたということで、後者のような気がしますね。

共犯者・黒山明の生い立ち

共犯・黒山明は1951年(昭和26年)8月19日、静岡県藤枝市で茶の栽培を営む夫婦の長男として生まれた。しかし、出生直後に両親は離婚、母親に引き取られる。その後ほどなくして母親が再婚した。高校卒業後には祖父の指導を受けて、家業の茶栽培に従事した。

1974年6月に結婚、2児に恵まれた。やがて祖父や継父が亡くなると、それ以降は自身が家業の茶農家を営むようになる。ところが大豆の先物取引で損したほか、残留農薬のため茶の出荷ができなくなったために約3千万円の負債を抱えてしまう。そしてその返済のため、財産の大半を処分せざるを得なくなった。

やがて家出を繰り返し、すさんだ生活を送るようになり、1978年6月には妻と離婚。静岡県・愛知県・鹿児島県などを転々として窃盗や詐欺を繰り返し、9年余りを刑務所で過ごした。

黒山明は無期懲役

1991年3月27日に仮釈放となり、宮崎刑務所を出所。同年7月頃に山口県防府市の会社に就職して配管作業などに従事した。その後、黒山は1991年10月頃に赴いた宮崎県宮崎市で男性Aと知り合い、2人で広島県広島市に移って土木作業員として働くようになった。

Aは本事件の主犯・西山省三と岡山刑務所時代の仲間で、その縁で黒山と西川は知り合うことになる。

その後、黒山は西山と「茶の訪問販売」を始めるも一向に売れなかった。ある時、西山から他に儲かる方法はないかと相談を受け、黒山は窃盗を提案するが、西山は話を強盗殺人まで膨らませてしまう。

西山に説得されて同意した黒山だったが、計画実行中も殺害を避ける提案をしたり、殺害後は自首すると言い出すも、西山に説得されていた。その後、西山が逮捕されて犯行を自供、黒山も逮捕される。

裁判では一審、二審とも求刑通り無期懲役判決を受け、最高裁に上告するも棄却。その後、無期懲役が確定した。

裁判

公判西山被告黒山被告
一審無期懲役無期懲役
控訴審(二審)無期懲役無期懲役
上告審(最高裁)二審判決破棄
高裁差し戻し
無期懲役確定
差戻控訴審死刑
上告審(最高裁)死刑確定

西山省三被告の公判では、一審・二審と無期懲役判決だったが、最高裁で破棄されて高裁に差し戻される事態となっている。そして差戻控訴審では一転して死刑判決、2度目の上告審(最高裁)でも死刑判決となり、確定した。

この「最高裁で無期懲役が破棄され、差戻控訴審で死刑判決が言い渡された」事例は、永山則夫連続射殺事件の控訴審判決(1987年3月18日・東京高裁)以来で、戦後2件目だった。

第一審:無期懲役

西山省三被告の弁護人は「西山被告らが内藤さんを殺害後、宅内を物色した行為は強盗殺人には包括されず、別罪の窃盗未遂に留まる」と主張した。

しかし広島地裁はこれを退け、「両被告とも最初から被害者を殺害してから宅内の金品を奪う計画で犯行に及んでおり、『殺害行為』と『物色行為』は一連の行為である。一個の強盗殺人罪として評価するのが相当」と事実認定した。

また、両被告の弁護人とも、「被害者の死因は窒息死ではない」と主張していたが、これについても「犯行の状況や供述から検討すれば、死因が窒息死であることに合理的な疑いを入れる余地がない」とした。

1994年6月28日、論告求刑公判が開かれ、検察側は西山被告に死刑を、黒山被告に無期懲役をそれぞれ求刑した。論告要旨は以下の通り。

  • 何の罪もない被害者を騙して殺害した犯行は、周到に計画された冷酷・残忍なもの。独居老人が犯罪被害に遭う危険性が増大している中、社会に与えた影響は重大で、厳罰を加える必要がある
  • 西山被告は犯行の主導的な役割を果たしているほか、過去に起こした強盗殺人で無期懲役刑に処されたにも拘らず、仮出獄中に再び強盗殺人を繰り返すなど、更生は不可能

第9回公判の最終意見陳述で、西山被告は「自分は前回も長い懲役刑を務めたのに、再びこのような事件を犯した。死をもって罪を償いたい」と述べ、反省・謝罪の情を表した。

1994年9月30日の判決で、広島地裁は両被告にそれぞれ無期懲役を言い渡した。

判決理由は「死刑は最も厳しい科刑であって、あらゆる面からみて死刑を選択するほかないという場合にのみ科せられるべきものである。本件では『計画性が低い』、『強盗殺人を進んで自供した』、『服役態度は真面目だった』、『改善更生の余地が残っている』、『犯行の悪質さが低い』ことを考慮。仮出所の取り消しによる服役10年以上と本件で20年以上と合計30年以上の服役となるため、贖罪を科すには十分である」と説明した。

検察側は、地裁の30年量刑論について「裁判所の権限逸脱。仮出獄を許さない終身刑を定めなかった現行刑法の趣旨に反する」として控訴した。

控訴審:無期懲役

1995年12月8日に広島高等裁判所で控訴審初公判が開かれた。

検察側黒山被告の弁護人がそれぞれ量刑不当を主張し、検察側は西山被告への死刑適用を求めた一方、弁護人は「黒山被告の無期懲役判決は重すぎる」と主張した。

検察側による控訴趣意書の要旨

一審判決の「無期懲役ならば最低30年は服役するはず」という判断は根拠がなく、仮出獄制度の運用を裁判所の判断に沿うよう更生保護委員会へ求めることは職権逸脱だ。
ただ長期間服役すればいいという判断は、刑法の趣旨からは許されない。過去に強盗殺人を犯して無期懲役に処されたにもかかわらず、その仮釈放中に再び強盗殺人を犯した西山被告には、無期懲役は軽すぎる。死刑を適用すべきだ

黒山被告の弁護人による控訴趣意書の要旨

黒山被告の役割は西山被告の補助的役割に過ぎず、強盗殺人未遂罪が相当。
黒山被告に対し無期懲役は重すぎて量刑不当であり、有期懲役刑を適用すべき。

1997年2月4日、判決で裁判長は一審判決を支持し、両被告に無期懲役を言い渡した。
「一審判決は、現行刑法の趣旨に反するとはいえない」と判断。裁判長は一審の「量刑論」を容認したうえで「極刑にするにはやむを得ない理由が必要だが、西山被告は犯行を素直に認めるなど情状酌量の余地がある」と述べた。

検察側は量刑不当として最高裁に上告。「2度も計画的な強盗殺人を犯した西山被告に対し、死刑でなく無期懲役を科すのは、判例に違反するのみならず、国民の健全な正義感に著しく背くと思われるので、その是正を図るため」とした。

上告審:二審判決を破棄

1999年11月15日の口頭弁論で、検察側は「死刑にするかどうかの判断は、犯行自体の悪質さが主眼となるべきで、反省や更生の可能性は重視すべきでない。西山被告の行為が死刑にならなければ国民の正義感情にそぐわない」と指摘。「なお一片の人間性が残っている」とした一、二審の判断を批判した。

弁護側は「犯行後の情状を軽視すべき理由はない。刑罰の主な目的は教育、改善であり、二審判決は妥当」と上告棄却を求めた。

1999年12月10日の判決公判で、最高裁は検察側の上告を認めて「二審の無期懲役判決」を破棄審理を高裁に差し戻す判決を言い渡した。

判決理由で「本事件は、計画性が低かったとはいえない。冷酷、残虐な行為であり、強盗殺人の無期懲役刑の仮釈放中に類似の犯行に及んだ点は非常に悪質。殺害者数は1人だが、特に酌量すべき事情がない限り死刑はやむを得ない」とした。
そして一審、二審の無期懲役判決について「量刑判断を誤った破棄しなければ著しく正義に反する」と指摘した。

差戻控訴審:死刑判決

西山被告の弁護人は「生育環境が西山被告自身に与えた影響を調べるため、心理学専門家による精神鑑定を実施すべき」と請求、これを受けた広島高裁は2002年12月10日の公判で、鑑定実施を決めた。

2003年9月9日の公判で、鑑定を実施した医師は「西山被告は非社会性人格障害および自己愛的人格障害だ。幼少期に甘やかされて生育したため、欲求不満への耐性が乏しく、経済的理由から高校に通えなかった影響で、劣等感を抱いて育った。犯行後も自分の行動を正当化するなど、刑罰による学習効果はあまり期待できない」という見解を示した。

2004年1月16日の最終弁論で、検察側は第一審の無期懲役判決を破棄して死刑適用を求め、弁護側は検察側の控訴棄却を求めた。

検察側は「西山被告は、仮釈放中は格段に法規範を守るべき立場にも拘らず、さらなる凶悪犯罪を犯した。酌むべき事情は見当たらず、上告審の意を酌み、死刑を適用するほかない」と訴えた。

弁護側は「14年9か月間受刑しても実社会に適応できなかった理由は、刑務所の矯正機能に問題があったからだ」と述べ、「西山被告は死刑を覚悟しており、贖罪のため臓器提供の意思もある。その『贖罪の自由』を奪う刑罰である死刑は憲法違反だ」と主張した。

覆った判決

2004年4月23日に差戻控訴審の判決公判が開かれ、広島高裁は無期懲役とした一審判決を破棄し、西山被告に死刑判決を言い渡した

裁判長は「前回の犯行と顕著な類似性がある。遺体を崖に落とすなどの隠ぺい工作もしており、犯情は前回以上に悪質」と指摘。「殺害したのは1人だが、無期懲役刑の仮釈放中に再び強盗殺人に及んでおり、非常に悪質な犯行。更生は著しく困難であり、罪責は誠に重大で極刑を選択するほかない」と結論づけた。

2度目の上告審:死刑確定

弁護側は「西山被告の人格障害に視点を置いた事実認定が必要で、死刑は重い」「計画性はなく、死刑は重過ぎる」と述べ、死刑判決の破棄を求めた。

検察側は「類似性のある強盗殺人事件を2度も引き起こしており、更生は事実上不可能」と指摘、被告側の上告棄却を求めた。

2007年4月10日、2度目の上告審判決公判が開かれ、最高裁判は差戻控訴審の死刑判決を支持し、西山被告側の上告を棄却。西山被告の死刑が確定した

裁判長は「仮釈放後2年余の事件で、西山被告の反社会性、犯罪性は顕著。刑事責任は極めて重い」と述べた。「パチンコに熱中し、金融業者から借金を重ね、返済に窮して犯行に及んでおり、動機に酌量すべき点はまったくない」と指摘。西山被告が事件の全般にわたって、主導的役割を果たしたと述べた。

最高裁が控訴審の無期懲役判決を破棄して高裁へ差し戻し、後に死刑が確定した事例は永山則夫連続射殺事件以来2件目だったが、一審・二審とも無期懲役判決だった被告人については、本事件が初だった。

 

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