中村橋派出所2警官殺人事件|拳銃を奪うため、警官2人を殺害

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中村橋派出所2警官殺人事件/柴嵜正一 日本の凶悪事件

「中村橋派出所2警官殺人事件」の概要

1989年5月16日深夜、東京都練馬区の中村橋派出所に勤務中の警察官2人が、何者かに刺殺されるというショッキングな事件が発生した。屈強な警察官を殺害した犯人は、華奢な体型の元自衛官・柴嵜正一(当時20歳)。動機は「銀行強盗で大金を得ようと考え、必要な拳銃を奪おうとした」というものだった。結局、拳銃は奪えず銀行強盗もできず、犯行から23日後、柴嵜は逮捕された。
柴嵜は現在、死刑確定囚として東京拘置所に収監されている。

事件データ

犯人柴嵜正一(当時20歳)
事件種別 強盗殺人事件(警官殺し)
発生日1989年5月16日
犯行場所東京都練馬区中村北4丁目2-4
「中村橋派出所」
被害者数警察官2人死亡
判決死刑:東京拘置所に収監中
動機銀行強盗に必要な拳銃を奪うため
キーワード元自衛官、「感情を消す」哲学

「中村橋派出所2警官殺人事件」の経緯

柴嵜正一が事件当時住んでいたアパート・中村橋派出所2警官殺人事件
柴嵜正一が事件当時住んでいたアパート

柴嵜正一は高校卒業後の1987年4月、陸上自衛隊に入隊した。静岡の駐屯地に配属され、射撃の腕を評価されていたが、2年間勤めたのち、1989年3月24日に自衛隊を除隊。
その後は東京に戻り、中野区上鷺宮のアパートで一人暮らしを始めた。

5月からは、杉並区荻窪のコーヒー豆挽き売り店でアルバイトを始めた。働きぶりはまじめで積極的、遅刻することもなかった。店長からは信頼され、鍵を任されるまでになっていた。しかし、かねてから「大金を手に入れたい」と考える柴嵜にとって、時給600円のアルバイトでは夢は叶いそうもなかった。

少年時代、柴嵜の生活は諍いや暴力に支配されていた。父親はギャンブルに狂い、両親は別居。その後、交際を始めた母親の内縁の夫は暴力的だった。母親はその暴力のせいでうつ病になり、やがて関係を解消していた。柴嵜は、恵まれない生活環境は ”すべて貧困のせい” と考えていた。

柴嵜は、大金を入手するためには銀行強盗などの違法な手段もいとわないつもりだった。最初は漠然としていたその考えは、次第に具体的になっていく。そして「計画には拳銃が必要だ。警察官を襲うしかない」と結論付ける。

5月11日頃、襲うなら自宅アパートから近く、犯行後の逃走が容易な中村橋派出所が最適と狙いをつけた。アパートと派出所は徒歩で7分ほどだった。
そして、「犯行は人通りの少ない深夜、警察官が派出所にひとりでいる隙を狙う。ナイフで警察官を背後から突き刺して殺し、拳銃を奪ってそのままアパートに逃げ帰る」という計画を立てた。

決行は、店の定休日(火曜日)の前日である5月15日夜~16日にかけて行うと決めた。凶器は2年前に東京・上野のモデルガンショップで購入したサバイバルナイフを使用することにした。

中村橋派出所を偵察

中村橋派出所2警官殺人事件
襲撃された中村橋派出所

1989年5月15日午後6時頃、柴嵜は中野区鷺宮でレンタカーを借りた。これは「中村橋派出所」を車内から見張るために必要だった。その後、池袋の「ビックカメラ本店」へ赴き、見張りに使う双眼鏡を購入し、アパートに戻った。

犯行時の服装は黒のスーツと決めていた。日付が16日に変わる頃、柴嵜はスーツに着替え、ビックカメラの手提げ紙袋にサバイバルナイフ・双眼鏡・軍手・タオルを入れた。
そして、その紙袋を持ってアパート前に駐車してあったレンタカーに乗り、中村橋派出所へ向かった。現場に到着すると、派出所の内部が見える「西友 中村橋店」の商品搬入口あたりに駐車した。

その後、柴嵜は車内から双眼鏡で派出所の様子をうかがい、警察官がひとりになるのを待った。しかし、警察官は2人で見張り勤務に立っており、なかなか機会がとらえられなかった。

こうして、かなりの時間が経過したが、警察官がひとりになる気配はなかった。柴嵜は「派出所に近づいて、ひとりになる隙を見て襲うしかない」と判断。サバイバルナイフが入った手提げ紙袋を持って車を降りた。

柴嵜は派出所に向かって歩いて行ったが、襲撃できる雰囲気ではなかった。そのため、警察官に怪しまれないように派出所付近を行ったり来たりして機会をうかがった。

警察官2人を襲撃

中村橋派出所2警官殺人事件・事件発生時
事件発生直後の中村橋派出所(東京都練馬区)

5月16日午前2時50分頃、その時はやってきた。
70mほど離れた場所から派出所を見張っていた柴嵜は、ひとりの警察官が派出所前で一時保管していたオートバイを派出所裏手に移動しようとしているのを確認した。

作業していたのは、山崎達雄警部補(30歳)だったが、彼の背後はまったくの無防備だった。柴嵜にとってようやく訪れたこの機会、無駄にするはずはなかった。

柴嵜は電柱に身を隠し、サバイバルナイフを手に取った。そして小走りに警察官の背後に近づき、背中をサバイバルナイフで突き刺した。山崎警部補は驚いて振り向き、「やめろ」と言いながら両手で柴嵜の腕を掴み、その場に倒れ込む格好となった。

それでも山崎警部補は柴嵜の身体から手を放そうとしなかったため、柴嵜は胸などを力任せにサバイバルナイフで突き刺した。そして拳銃を奪おうとケースに手をかけたが、山崎警部補が抵抗したことに加え、柴嵜も慌てていたためケースカバーを外せず、拳銃を奪うことには失敗した。

この騒ぎに気付いたもうひとりの警察官・小林利明警部(35歳)が、派出所から出てきた。そして警棒を振り上げながら柴嵜に対し「おい!」と声をかけた。柴嵜はとっさに小林警部の腕を払いのけ、サバイバルナイフで小林警部の胸を力任せに刺した

それから小林警部の拳銃を奪おうとするも、激しく抵抗されこちらも失敗。柴嵜は逃走した。
小林警部は拳銃を抜いて3発の威嚇発射を行い、最後の力を振り絞って派出所へ戻り、事件発生を電話連絡した。

この様子は近くの蕎麦屋の店主(当時63歳)が目撃していた。柴嵜はジグザグに走って逃走していたが、軍隊の経験があるこの店主は、この時点で「これは軍隊の心得がある者だな」と思ったという。そして、この目撃情報は、犯人像の絞り込みに役立った。

柴嵜は自宅アパート方向に全力疾走し、途中のクリーニング店の水道で血を洗い流した。そして自宅アパートに逃げ帰った。アパート表入口の扉は、かなり大きな音を立てるので裏口から入った。部屋の照明は豆電球だけがついている状態だったが、柴嵜は灯りをつけると怪しまれると考え、そのままでジャケットを脱ぎ、ズボンについた血を拭った。

外からはパトカーのサイレンが聞こえてきた。その時、柴嵜は犯行道具を入れた紙袋を、現場に置き忘れてきたことに気付き、不安になり朝まで眠れなかった。

警察官2人は死亡

中村橋派出所2警官殺人事件/被害者の小林利明警部と山崎達雄警部補
殺害された小林利明警部(左)と山崎達雄警部補

柴嵜は早朝からコンビニに出かけ、店内のテレビで事件のニュースを見た。その後レンタカーをとりに戻り、しばらく当てもなく走り回った。この時、車を数カ所へこませる事故を起こしている。

アパートに戻った時、同じアパートに住む男子大学生(当時24歳)に話しかけられた。話題はもちろん近所で起こった「警官殺し」についてだった。

大学生は柴嵜とは部屋で酒を飲む間柄で、いつもならいるはずの早朝に柴嵜がいなかったことが気になっていた。(ひょっとしたら犯人かも?という考えが頭をよぎった)
それについてはあえて話さなかったが、逮捕後のインタビューで「いろいろ詮索しなくてよかった」と話している。

午前8時頃、レンタカーを返却。店員に「何箇所かぶつけてしまった」と申告すると、保険請求手続きのため警察に届けるように求められた。柴嵜はそれに応じ、野方署鷺宮駅前派出所へ出頭した。
警官を伴ってレンタカー会社へ一緒に戻り、車を見せながら事情を詳しく説明した。

この一連の行動は「犯行をカモフラージュするための偽装工作だったのではないか」という見方もされた。

一方、襲撃された2人の警察官は、すぐに病院に搬送されたが死亡が確認されている。死因は刺されたことによる失血死。捜査員が駆け付けた時、現場は血の海だった。

体格が良く、武道の達人でもあった2人の警察官が殺害されたことに、警視庁首脳部は衝撃を受けた。そのため、捜査本部は通常の2倍以上となる200人以上の大規模な陣営となった。

小林警部・山崎警部補ともそれぞれ2階級特進、警察庁も両被害者の遺族に警察勲功章を贈った。

中村橋派出所2警官殺人事件/凶器を捨てた武蔵関公園
凶器を捨てた富士見池(武蔵関公園)

事件から2~3日後の午後9時頃、柴嵜は凶器のサバイバルナイフや犯行時に着ていた衣服・靴・軍手などを紙袋に入れ、武蔵関公園の富士見池に投棄して罪証隠滅工作を図った。

捜査

柴嵜が現場に置き忘れた紙袋には、さまざまな遺留品が入っていたが、どれも犯人を特定するには至らなかった。ただ、紙袋からは数個の指紋が検出されていた。

目撃証言から浮かび上がった犯人像は「黒っぽい服を着た20歳前後の男性。身長は168cmくらい」。走って逃げる際、狙撃を回避するための軍人行動である ”ジグザク走行” をしていたことから「自衛隊関係者の可能性が高い」とみられていた。

捜査本部は、「犯人は現場付近に居住、または土地勘のある者」と考えていたため、柴嵜も事件直後にアパートを訪れた捜査員に聞き込みを受けていた。この時、柴嵜は極めて協力的な態度で対応し、「大変な事件が起きて、本当にごくろうさまです」と、ねぎらいの言葉までかけていて、「事件とは無関係」という印象だったという。

遺留品の緑色の軍手/中村橋派出所2警官殺人事件
自衛隊で販売されていた緑色の軍手

現場である派出所から約200m西方の十字路まで、約3m間隔で血痕が残されていたほか、柴嵜が血を洗ったクリーニング店の水道や、逃走中に一時身を隠した工場社員寮の門からも血痕が検出された。さらに5月21日には、武蔵関公園の富士見池から柴嵜が捨てたサバイバルナイフや衣類などが発見された。

この中には緑色の軍手もあったが、この軍手は「ほとんどが自衛隊駐屯地内の売店で販売されていた」という事実も判明。”ジグザグ走行”に加え、遺留品の軍手が駐屯地で販売されていたことは、犯人が自衛隊関係者である可能性をより濃くするものとなった。

逮捕まで

柴嵜が利用していたレンタルビデオ店にも、捜査員が聞き込みに訪れた。この地域は捜査範囲の中でも現場から一番遠く、有力な証言はなかった。そのため、最終的にやってきたのがこのビデオ店だった。

事件の凶器がサバイバルナイフだったことから、捜査員は犯人が「戦争もの」や「アクションもの」を好んで見ているかもしれない、と考えていた。当初、プライバシーの問題から顧客情報は開示できないとしていた店側だったが、何度も顔を合わせるうち「顧客リストは渡せないが、怪しい客の情報なら教えてもいい」と協力的になってきた。

捜査員が ”想定している犯人像” を説明すると、店長が「合致する客がいる」と言う。自衛官で戦争映画「プラトーン」を借りていたその男は、柴嵜だった。

6月6日、捜査員が柴嵜のアパートを訪れた。柴嵜の対応は落ち着いていた。署で話を聞きたいと言うと「(バイクの)教習所に行くから夕方に出向く」と答え、その通りに練馬署に姿を現した。
事情聴取に応じる柴嵜は堂々としていて、警察は彼が犯人かどうか、判断がつきかねていた。

翌日、指紋の採取を依頼した時も、柴嵜は動じる様子はなかった。
柴嵜の指紋と遺留品の指紋を照合した結果、6つの特徴点が一致、判定を甘くしても8点がやっとだった。これは遺留品の指紋が不完全なためで、個人を特定できる12点一致には及ばなかった。
しかし、逆に ”一致しない特徴点” もみつからなかった。これが強みとなり、逮捕状や捜索令状を請求することが決定した。

特捜本部は6月8日早朝、柴嵜のアパートに出向いて任意同行を求めた。部屋からは、遺留品の2種類の軍手のそれぞれ片方ずつがみつかった。

取り調べにおいて、柴嵜は当初、「なんのことかわからない」と犯行を否認していた。しかし話題が被害者の遺族のことにおよぶと、柴嵜は涙を浮かべ、最後には泣いて犯行を認める供述をした。
こうして犯行から23日経った6月8日、柴嵜は逮捕となった。

そして1989年6月29日、東京地検は柴嵜を強盗殺人・公務執行妨害・銃刀法違反の罪で東京地裁へ起訴した。

柴嵜正一の生い立ち

中村橋派出所2警官殺人事件|柴嵜正一
高校時代の柴嵜正一

柴嵜正一は1969年(昭和44年)1月1日、東京都板橋区で生まれた。家族は両親と妹の4人。

父親はモデルガンなどの型を作るプラスチック加工会社に勤めていたが、競艇などのギャンブルにはまり、子供の貯金箱の中身も使うほどだった。
母親はポーラ化粧品株式会社・志村橋営業所の所長を務めていたため、仕事上のストレスが多かった。柴嵜はそんな両親のせいで、諍いの絶えない家庭で育った。

1975年4月に板橋区立志村第六小学校に入学。1977年頃に両親は別居し、柴嵜は妹とともに母親の会社の部屋で母子3人の生活を始めた。やがて母親に交際相手ができ、内縁関係となる。母子3人は埼玉県戸田市内の相手男性のアパートに引っ越し、学校も戸田市立喜沢小学校に転校した。

母親は、少年時代の柴嵜のことを「本や映画の好きな子だった」と話している。成績は上位で理数系に強く、体育は苦手でスポーツとは無縁だったという。

不遇な学生時代

学生時代の柴嵜正一死刑囚

この内縁の男性には、柴嵜と同い年の息子がいた。男性は母親と自身の息子に対し、日常的に暴力を振るっていた。また、柴嵜はこの息子によくいじめられていた。
柴嵜が14歳の時、母親は暴力や仕事の悩みが重なったことからうつ病になり、仕事はおろか家事さえもできずに家に閉じこもるようになってしまった。

高校は浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)に進学した。1986年11月、高校3年の時に母親が内縁関係を解消、8年におよぶ暴力に満ちた生活は終わった。

柴嵜は、この特異な生活で不安や怒りを感じていたが、その不快な気持ちを言葉で説明しようとしてもできなかった。説明できないのなら、「『不快』自体が存在しない」と考えるようになり、憎しみなどの感情を消すことができるようになっていた。
しかし、そのせいで元来は明るい性格だったのが、神経質で自閉的になり、友だちも減っていった。

周囲からみた性格

柴嵜の人物像は周囲から見ると「真面目で温厚だが、無口で感情を表さず、暗い感じの孤独を好むタイプ」と受け取られていた。

事件は自衛隊を辞めた2か月後

高校卒業後は、陸上自衛隊に就職。静岡県御殿場市の滝ヶ原駐屯地の普通科教導連隊に教育入隊し、約4か月後に第二中隊に小銃手として配置された。1988年1月1日(当時19歳)には一等陸士に昇進、さらに1年後の1989年1月1日には陸士長へ昇進した。
射撃能力を評価されていて、同期30人の中でもトップクラスだったという。

1988年から東京都中野区上鷺宮3丁目に家賃1万円のアパートを借り、月に1~2回外泊許可をもらって泊まるようになった。アパートでは読書することが多かったが、向かいの部屋の男子大学生(24歳)を招いて酒を飲むこともあった。その時の会話では自衛隊という組織に対して批判的だったが、「戦闘訓練は本当に楽しい。いいストレスの解消になる」と目を輝かせていたという。

1989年3月頃、自衛隊を除隊し、東京に借りていたアパートに転居した。そして自動車免許を取り、5月からは杉並区荻窪のコーヒー豆挽き売り店でアルバイトを始めた。働きぶりはまじめで積極的、遅刻することもなかった。店長からは信頼され、鍵を任されるまでになっていた。

柴嵜の少年時代の生活は、諍いや暴力に支配されていた。彼はそれを貧困のせいと考え、「大金を手に入れたい」という願望を持ち続けていた。漠然としていたその思いは、次第に具体的な考えに変わっていく。

柴嵜は、大金を入手するためには銀行強盗などの違法な手段もいとわないつもりだった。そして「そのためには拳銃が必要。警察官を襲うしかない」と考え、具体的な計画を立てるようになる。

そして1989年5月16日、本事件を起こした。体格の良い警察官2人をサバイバルナイフで殺害したが、当時の柴嵜は身長167cm、体重60kgの華奢な体型。思わぬところで自衛隊時代の戦闘訓練が役に立ってしまった。結局、拳銃を奪うこともできず、銀行強盗もしていない。

裁判では一審から最高裁まですべて死刑判決。1998年9月17日に死刑確定後は、東京拘置所に収監されている。

現在は重度の統合失調症

日弁連が2014年3月17日と7月11日に、柴嵜正一死刑囚に面会を実施した。特に7月11日の面会には精神科医も同行している。しかし柴嵜は、他人との言語的疎通がまったく不可能な状態だったという。

柴嵜は言葉を話さず、口から奇妙な音を発するのみであったというのだ。彼は自己の世界に没入し、外界との交流をほとんど遮断している状態だった。これまでの経過や面会から、柴嵜が「統合失調症に罹患していることは確実」という所見が示されている。

発病は中学高学年ないし高校在学中と推定され、その後も病状は進行している。そして現在は意思の疎通が不可能となり、幻覚・妄想など統合失調症の程度は重度であるとされている。

発病推定時期はちょうど、母親の内縁の夫と同居していた時期である。(同居は8年間続いた)
この男は母親に暴力を振るい、母親はうつ病を発症。柴嵜自身も同い年の男の息子に日常的にいじめられていて、この時期に「自分の感情を消す」ことをおぼえたという。
柴嵜は公判で、「同居は恐怖だった。自分の方が折れて我慢し、ストレスが続いた」と話していた。

柴嵜本人は現在、自身の置かれた状況を判断できず、刑罰の意味も理解できず、弁護人に意志を伝える能力にも欠けているとのことである。

裁判

1989年10月18日、東京地裁にて柴嵜正一被告の初公判が開かれた。

傍聴したノンフィクション作家・犯罪評論家の朝倉喬司は、その時の柴嵜から表情の乏しさを感じたという。そして、それは顔だけでなく、”体全体から” 感じるものだった。

罪状認否で柴嵜被告は「殺すつもりはなかった。警官のどこを刺したかもわからない」と被害者への殺意を否認。そのうえで、重大な事件を起こしたことに対し、反省の弁を語った。

柴嵜被告は、大金を得たいと考えたことについて「ぜいたくな生活のためではなく、大金を持つことは、”人生における勝利のシンボル” と思った」と説明した。

また、柴嵜被告は犯行に至った経緯の説明として、独自の人生哲学を述べた。

柴嵜正一の「感情を消す哲学」

子供時代に同居した母親の内縁の夫は母親に暴力をふるい、自身も彼の長男からいじめられていた。この親子に対して憎しみや不快感を募らせていたが、なぜ不快になるのか言葉で説明できなかった。説明できない以上、「不快の根拠はないとの結論に達した。そうしたら憎い気持ちがなくなり、感情を消すことができた。それからは不快な時、そのように考える癖がついた」と述べた。

警官を刺した時も「ためらいを感じたが、その気持ちを自分で消した」のだという。

事件については「このままだと、屈辱感を解消しないまま一生を終えると焦りを感じ、犯行を計画した」とも述べ、この哲学については「いまでは間違った哲学だったと思う」と振り返った。

弁護側は、「殺意はなかった」として傷害致死罪の成立を主張。動機については理解困難で「生育の経緯・心理構造の解明が必要だ」と述べた。一方、検察側は論告求刑公判(1991年2月15日)で柴嵜被告に死刑を求刑した。

第一審:死刑判決

1991年5月27日、判決公判が開かれ、東京地裁は柴嵜被告に死刑判決を言い渡した。

弁護側の「殺意はなく、犯行当時は心神喪失ないし心神耗弱状態だった」とする主張は退けられた。裁判長は、「捜査段階における『殺意を持って計画的にやった』という供述は十分信用できる。周到な罪証隠滅工作を行っていることから行動統御能力に異常は認められず、刑事責任能力に問題はない」と事実認定した。

柴嵜被告の生い立ちについては「同情を禁じ得ない」としたうえで、「犯行時には不遇な環境から離脱し、被告人なりに経済的・精神的な面で安定していた」と、不遇な生育環境ゆえの犯行であるとばかり強調することは許されないとした。

量刑についても「社会の秩序維持のために勤務中の警察官2人の生命が奪われた。法治国家における反逆・挑戦ともいうべき事件だ」と指摘。さらに「柴嵜被告は、自衛隊で国の安全を守る教育訓練を受けたにもかかわらず、除隊後わずか2か月で『拳銃を奪い強盗を行う』ために犯行におよんでおり、酌量の余地はない。社会に与えた衝撃の大きさや被害者の無念・遺族の峻烈な処罰感情などを考慮すれば極刑をもって臨むほかない」と結論付けた。

弁護側は判決を不服として東京高裁へ即日控訴した。

死刑確定

控訴審で弁護側は、「柴嵜被告は犯行当時、精神障害で心神喪失の状態だった」と主張。しかし、東京高裁は1994年2月24日、控訴審判決公判で第一審判決を支持して柴嵜被告の控訴を棄却する判決を言い渡した。

判決理由で裁判長は「柴嵜被告は、恵まれない環境で育ったために人格の偏向があることはうかがえるが、精神障害は認められない」と認定、量刑についても「拳銃を奪う目的のために警察官を犠牲にすることもいとわず、他人の生命に対する一片の配慮もうかがえない非情な犯行に及んだ。被害者遺族の被害感情も考慮すれば、極刑もやむを得ない」と結論付けた。

弁護側は最高裁判所へ上告した。
上告審で弁護側は、「犯行当時の責任能力には疑問があり、再度の精神鑑定が必要だ」と主張したが、1998年9月17日、最高裁は上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持。上告は棄却され、柴嵜被告の死刑が確定した。

現在は東京拘置所に収監中である。

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