今市4人殺傷事件|昭和にもあったストーカー殺人事件!

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藤波芳夫 日本の凶悪事件

今市4人殺傷事件

1981年3月29日、栃木県で元妻の親族2人を殺害する事件が発生した。
犯人の藤波芳夫(当時49歳)は、自身の暴力などが原因で妻と離婚していた。しかし、別れた元妻をあきらめられず、執拗に居場所を探ろうとする。しかし、頑として居場所を教えない親族に、藤波は腹を立て、酔った勢いで2人を殺害、2人を負傷させた。
ストーカー” という言葉もなかった昭和に起きた、ストーカー殺人事件

事件データ

犯人藤波芳夫(当時49歳)
事件種別強盗殺人事件
発生日1981年3月29日
場所栃木県今市市大室(現:日光市大室)
被害者数2人殺害、2人負傷
判決死刑
2006年12月25日執行(75歳没)
動機前妻の居場所を教えないことへの恨み
キーワード先妻への執着、覚せい剤

事件の詳細

1974年、藤波芳夫(当時43歳)は、女性A(当時32歳)と結婚し、その後は足利市内のパチンコ店に勤務していた。そのころ、覚せい剤に手を出すようになり、長野県など各地を転々としたのち、栃木県内で逮捕された。

この時は懲役刑となり、1979年2月に刑務所を出所。出所後の藤波は、時折「人形販売関係」の仕事をする程度で、親戚・知人からの借金や無心を繰り返す毎日だった。

藤波は、妻に日常的に暴力をふるっていたが、それ以外にも妻に対する ”妄想からくる嫉妬” がひどかった。これに耐えられなくなった妻は、1980年6月、協議にて離婚した。

妄想は、覚せい剤の影響と考えられている。事件後、藤波は手記に「幻聴・幻覚があった」と記している。

だが藤波には未練があり、元妻をあきらめきれなかった。よりを戻そうとしたものの元妻は拒否、元妻の親族からも非難の目でみられていた。

藤波は、何度も元妻方に脅迫じみた電話をかけ、1981年1月には、元義兄(当時38歳)宅を訪れて居場所を探ろうとしたこともあった。しかし当然ながら、元義兄は教えることはなかった。

酔った勢いで凶行へ

1981年3月29日午後3時30分頃、頑として居場所を教えないことに怒った藤波は、酔った勢いで元妻の実家に押しかけた。ところが元義兄は、春休み中の2人の息子を連れて神奈川県藤沢市の親類の家へ行っていて不在だった。

家に残って留守番をしていた元義兄の妻は、”ひとりでは寂しいから” と近所に住む姪2人(16歳と10歳)を家に呼んでいた。藤波はいきなり上がり込み、テレビを見ていた姪2人に対し登山ナイフで切りつけた

16歳の姪は左胸部などを刺され重傷、10歳の姪も背中に1か月の怪我を負った。

その後、藤波は乗ってきた車で同家に突っ込み、駆け付けた元義兄の妻と言い争いになった。そこへ16歳の姪から電話連絡を受けた親類の男性(当時56歳)とその息子(当時34歳)も駆け付けた。

すると、藤波は元義兄の妻と親類の男性に襲い掛かり、ナイフで2人の胸や腹などを刺して失血死させた。

騒ぎを聞いて、現場には近所の人が集まってきた。そのうちのひとりが、庭の小鳥小屋の脇のオレンジ色の農業用ビニールシートから人の足が出ているのを発見。めくってみると、そこには背中から血を流している親類の男性の遺体があった。

さらに5mほど離れた場所の、農機具小屋脇の青いビニールシートの下から、倒れている元義兄の妻の遺体を発見した。

逮捕までの流れ

連絡を受けた今市警察署は、藤波の行方を追った。そして犯行から1時間後(午後5時頃)、現場から約6km離れた道路を運転している藤波を、検問中の今市署員が発見した。

職務質問を受けた藤波は、持っていた刃物で左手首を切って自殺しようとしたが、これは未遂に終わっている。藤波の身柄は確保され、警察署で取り調べが始まった。
当初、藤波は犯行を否認していたが、午後7時過ぎになって認めたため緊急逮捕となった。

藤波の車からは、元義兄の妻の指輪や真珠のネックレス、カメラなどが出てきたため、翌30日、容疑は強盗殺人に切り替えられた。

犯人・藤波芳夫の生い立ち

藤波芳夫は1931年5月15日、埼玉県北足立郡鴻巣町逆川(現:鴻巣市逆川)に生まれた。

父親は老舗の醸造業の生まれで、慶応大卒の温厚な人物だった。しかし母親はその逆で、部落で一番貧乏な家に生まれて小学校もろくに通えず、奉公先の息子(藤波の父親)に気に入られて結婚に至ったという。

藤波は事情があって祖母に育てられたのだが、当時の祖母は岡田末吉という内縁の男と同棲していた。岡田は賭博打ちで気性の荒い乱暴者で、藤波はこの男に暴力を受けて育った。

尋常高等小学校を卒業後、暴力に耐えかねた藤波は、14歳で家を出た。

高等小学校とは、現在でいえば中学校の第1学年・第2学年に相当する。

東京の鶯谷にいる母の妹を頼ろうと探すもみつからず、仕方なく他人の家から盗んだ食べ物でなんとか暮らしていた。そのうち、ひったくりもするようになった。

このころはまだ戦争中で、1945年3月9日深夜、東京は大空襲を受けて火の海となる。藤波も命からがら大宮方面に逃げた。大勢の人が亡くなる中、藤波は助かったが、翌日辿り着いた大宮駅で盗みを働き、人生初の逮捕となった。

18歳の時、岡田(祖母の内縁の夫)の息子の窃盗団に加わるようになったが、そのせいで19歳で初めて刑務所に入った。

本事件で死刑確定

その後も藤波は、1950年~1979年にかけ、賭博・窃盗・暴行・風俗営業取締法違反・恐喝・覚せい剤取締法違反・傷害・わいせつ文書等所持など、あらゆる罪で捕まり、前科11犯(うち累犯前科2犯)を重ねている。

1974年に結婚しているが、暴力や ”妄想による嫉妬” に耐えかねた妻に逃げられ離婚。そして1981年3月29日(藤波は49歳)に本事件を起こして逮捕となり、1993年9月9日に最高裁で死刑が確定した。

死刑囚となった藤波は、獄中でキリスト教に入信し、敬虔な信者になっている。また、同じ死刑囚である宮﨑知子富山・長野連続女性誘拐殺人事件)と死刑囚同士で養子縁組した。

やがて藤波は、ひどい腰痛などで自力で歩くことができなくなり、移動には車椅子が必要になっていた。そんな藤波にも、最期の時がやってくる。2006年12月25日、収監先の東京拘置所で死刑執行となったのだ。享年75歳だった。

この日は、他に広島タクシー運転手連続殺人事件日高広明など3人の死刑が同時に執行されている。4人同時の死刑執行は1997年8月以来のことだった。

死刑執行当日の藤波芳夫

執行を告げられた藤波死刑囚は、午前9時20分、笑顔を浮べながら車椅子で礼拝所へ入ってきたという。

藤波は教誨師(黒木安信)に対し「先生、わたしは大丈夫ですから…。わたしはイエスのもとに還るのですから」と、かえって気遣っていたという。そして教誨師が聖書を読み、ともに祈った。(この間、15分間)

その後、手錠を掛けられ目隠しをされた藤波は、「わたしは取り返しのつかないことをしてしまいました。被害者にお詫びします。キリストに出会えて本当によかったと思います」と言い、さらに教誨師のほうを向いて、「イエスさまにお会いしたら、先生がいつまでも牧師の務めを果たせるようにお伝えします」と言った。

そして車椅子から降ろされ、看守に両脇を支えられて処刑された。

教誨師は看守たちに「処刑は国家の罪」と述べ、検察官・矯正局長・拘置所長に向って「12月25日の処刑はキリスト教を馬鹿にしている」「75歳の老人を何故このような仕方で殺すのか。病気で自然に死なせてあげればいいではないか」と抗議した。

藤波芳夫の遺書

藤波は、遺書を残している。

遺書は、「死刑執行の告知がありました。これも神の御配慮と思い、心を確かに身を慎んで神の国とその喜びの中に入る事が出来るよう、導いて下さると信じております」と書き出されていた。

そして、「人を赦す度量の欠けている者は、愛する力にも欠けていると思う。(中略)殺人という大罪を犯した人間には矯正不可能とか反省をしてないと言うが、何を根拠とするものだろう。不可能か可能かは生かして見なければわからないと思う。大罪を犯した人間程、罪に苦しみ後悔と懺悔の日々を送っている、と私は思っている。私も尊いかけがえのないお2人の命を奪ってしまい、その苦しみが故に神の愛を求めた」と死刑を非難する文章が続いた。

末尾の部分には「法相に抗議 被告人は立つ事も出来ず一歩も歩く事が出来ず 病舎処遇だからです」と書き記されていた。

その他のストーカー殺人事件

本事件は、”ストーカー” という言葉さえなかった昭和に起きているが、犯行自体はストーカー殺人そのものである。

ストーカーについては、1999年の 桶川ストーカー殺人事件猪野詩織さんが犠牲になるまで、当事者以外はその恐ろしさに気付いていなかった。実際、捜査する警察でさえ「痴話喧嘩」程度の認識で、そのせいで被害者が死に至った事件が多いのである。

また、一命は取りとめたものの一時は意識不明に陥らせ、相手女性の顔に深刻な傷を負わせた 小金井ストーカー殺人未遂事件 のような悲惨な事件もある。

裁判

弁護側は「藤波被告は、犯行の2日前まで覚せい剤を常用しており、犯行直前に飲んだ酒とパトカーのサイレンを聞いたことから覚せい剤の再燃現象が起こり、頭がしびれたような状態だった。犯行後、我にかえったものの、殺意・強盗の意思はなかった。犯行はすべて覚せい剤によるもので、覚せい剤の再燃現象がなければ事件は起きなかった」と主張していた。

1982年2月19日、判決公判が宇都宮地方裁判所で開かれた。
裁判長は判決の言い渡し前に「長くなるので」と藤波を座らせたうえで、まず藤波の生い立ちに言及した。

少年のころから常に覚せい剤が付きまとい、ギャンブルや盗みなどで11回の有罪判決を受けたこと、覚せい剤の生んだ妄想から、妻に浮気の疑いをかけて責め抜いたこと、離婚後は「親族が2人の間を裂こうとしている、と思い込んで逆恨みする」という犯行までの態度を、「反社会的、反倫理的」と指摘した。

弁護側の「覚せい剤中毒の再燃現象下にあった」との主張については、それを認めたうえで「被告人は事件を良く記憶しており、逃走しやすいように車の向きをかえたり、刺殺した2人の上にシートをかぶせるなどしており、仮に再燃現象下でも善悪を判断する能力はあった」と退けた。

覚せい剤中毒の再燃現象

覚せい剤の乱用をやめ、普通の生活に戻ったようでも、不眠やほんの小さなストレスがきっかけで突然、幻覚被害妄想などの症状が再燃することがある。
これを「フラッシュバック自然再燃)」 現象と言い、覚せい剤でよくみられる症状である。
治療して治ったようにみえても「フラッシュバック」は起こる。

また、判決に至るまでの判断材料も、以下のように説明した。

  • 十数年前から覚せい剤の慢性中毒でも、このような凶行はなかった
  • 覚せい剤自体、社会的に非難されるべきもの
  • これまでに、覚せい剤を断ち切る機会は十分あった
  • 覚せい剤のために事件を起こしたことが、被告人に有利な材料として到底考慮できない

そして「被告人の逆恨みから、別れた妻の親類を皆殺しにしようと企て、さらに金品を強取した行為は、冷酷で悪質極まりない」、「凄惨で残虐非道、凶悪極まりない犯行で同情すべき余地は全くない」と非難した。

さらに、「被害者・被告人双方の生命の尊厳について、あらゆる角度から慎重に検討したが、極刑をもって罪を償うのが相当である」と述べ、藤波に死刑を言い渡した

死刑宣告の瞬間、傍聴席の遺族からは小さく拍手が起き、藤波の顔は震えていたという。

藤波は控訴したが、1987年11月11日に東京高裁はこれを棄却、1993年9月9日には最高裁が上告を棄却したため、藤波の死刑が確定した。

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