堺夫婦殺人事件の概要
1997年10月30日、大阪府堺市の60代夫婦が、顔見知りの江東恒(当時55歳)に殺害された。夫婦は阪神淡路大震災で被害に遭い、兵庫県内から堺市に移り住んでいた。両者はカラオケ喫茶で知り合っただけの間柄で、トラブルも何もなかった。「夫婦は自宅に多額の現金を置いている」という噂だけで、江東は凶行におよんでいた。
共犯者3人のうち、2人は犯行直前に西成区の路上で声をかけた労務者だった。この2人は事件後逃走したが、うち1人が7年後に自首する。理由は「殺した夫婦が夢枕に立つから」というゾッとするものだった。
事件データ
犯人 | 江東恒(当時55歳) 読み:えとう ひさし |
事件種別 | 強盗殺人事件 |
発生日 | 1997年10月30日 |
犯行場所 | 大阪府堺市 |
被害者数 | 2人死亡 |
判決 | 死刑:大阪拘置所に収監中 |
動機 | 金銭目的 |
キーワード | 西成のドヤ街 |
堺夫婦殺人事件の経緯
1997年、元運転手の江東恒(当時55歳)は、カラオケ喫茶でたまたま居合わせた夫婦と顔見知りになった。この夫婦は阪神大震災で被災したため、兵庫県内から堺市に転居してきた石綿製造業・高木基雄さん(当時67歳)と妻の弘子さん(当時65歳)だった。
当時の江東は、内妻から多額の借金をして遊興費に充てていた。しかし、返金を求められても約束通りに返すことができず、さらに遊ぶ金が欲しいと考えた江東は、高木夫婦の資産を奪うことを思いつく。高級住宅地に住む高木夫婦が、「多額の現金を自宅に置いている」という噂を聞いたのだ。
江東は実弟らを仲間に引き入れ、包丁などを準備して高木夫婦宅まで出向いたが、この時は来客中だったようで犯行を断念した。だが、江東はこれであきらめることなく、再度の犯行を計画。知人1人と西成区のドヤ街で声をかけた労務者2人、計3人の協力者を集めた。
1997年10月30日午後8時頃、犯行グループ4人は高木夫婦の家を訪れた。夫婦は、顔見知りの江東が家を訪ねてきたと思い歓迎したが、江東は仲間に合図していきなり夫婦を襲わせた。
こうして夫婦をビニールロープ等で縛り上げ、抵抗できない状態にすると、仲間3人を家から退去させた。そして妻に江東あての委任状と借用証書を作成させたあと、首を絞めて2人を窒息死させた。その後、現金約15万円やハンドバッグ、山林の権利証などを奪った。
犯行のあいだ、江東は夫婦が経営する工場のシャッターに、留守を装う張り紙をしていた。
夫婦2人の遺体は、翌日、車で河内長野市内の休耕田に運んだ。それからパワーショベルで休耕田に遺体を埋めようとしたところ、江東は所有者に見つかってしまう。所有者は警察に通報、江東はあっという間に逮捕となった。
夫婦が共犯者の夢枕に…
その後、裁判の一審・二審で江東は死刑判決を受け、残すは最高裁判決だけとなった。そんな2004年7月14日、行方のわからなかった共犯者のひとりが、西成署に自首してきた。
この男は大阪市西成区の無職・中平慎二郎(当時65歳)で、事件当日は犯行の1時間ほど前に、西成の路上で江東から声をかけられて犯行に加担していた。互いに名前すら知らず、警察も身元を特定できなかったため、7年間も捜査の手を逃れていた。
ところが、犯行から月日がたつにつれ、中平の脳裏では夫婦のもがき苦しむ姿が逆に鮮明になり、やがて毎晩のように夢枕に立つようになったという。悪夢にうなされて眠れなくなり、日雇いの仕事もままならずホームレスとなってしまった。
そして、事件から7年後の2004年夏。酷暑でダウンしそうになった中平は、7月14日、西成署に駆け込んだ。同署には、夏になると多くのホームレスが熱中症で駆け込むため、中平もその1人と思った署員は入院手続きを取った。だが病院に向かう直前、「殺した夫婦が夢に出てくる。金をもらって手足を押さえ、ひもで縛った」と告白した。
手当を受けて回復した中平は、退院した2004年8月9日、大阪府警捜査一課により強盗殺人容疑で逮捕された。供述では、「借金取り立てで、相手を縛ってくれたら5万円払う」との約束で犯行に加わったが、実際に受け取ったのは2000円のみだったという。
中平は2005年2月22日、裁判で懲役8年が言い渡された。残る2人のうち1人(江東の知人)は強盗致死で懲役10年が確定、最後の1人は誰も素性を知らず、現在も逃亡中である。
主犯・江東恒について
江東恒は、1942年7月21日生まれ。
少年時代は恵まれない境遇にあった。そのためか、「逮捕されるまで読み書きができなかった」と本人が語っている。
死刑確定の前年の2005年には、独房で描いた絵を発表している。(「極限芸術 死刑囚は描く」より)
私は今 勉強を覚えて三年です
もっと勉強をしたら もっとうまくなると思います 済みません
やはり勉強のできない人間は絵もへたです
もっと勉強します
(自画像らしきイラストの吹き出し)「私はひげを少しのばしています。私の絵はあきまへんね」
また、江東は2006年9月7日に確定死刑囚となったのち、福島瑞穂が行った「死刑囚を対象としたアンケート」に、以下のように回答している。
江東恒「私のいる舎房は今の所は何も有りません。でも独房の鉄のとびらを急にあけたり、しめたりますので、鉄のどびらですので大きな音がして、自分の番がきたと思って、脅えるので有ります」(原文ママ 修正文:私のいる舎房は、今のところは何もありません。でも、独房の鉄の扉を急に開けたり、閉めたりしますので、鉄の扉ですので大きな音がして、自分の番が来たと思って、脅えるのであります)
死刑執行の事前通知について「死刑執行するのなら事前通知はいらない。してほしくない」
現在、江東恒死刑囚は、大阪拘置所に収監されている。
江東恒の裁判(死刑確定)
江東恒被告は、強盗の事実を認めたが、殺意は否認していた。弁護側は心神耗弱状態であったことを主張した。
2001年3月22日、一審判決公判で大阪地裁は、江東被告に死刑を言い渡した。
裁判長は「土地建物を処理するための委任状を犯行現場で書かせており、夫婦が生きていては邪魔になると考え、江東被告ひとりで殺害を実行した」と認定した。
さらに、江東被告が事前に夫婦の経営する工場のシャッターに ”留守を装う張り紙” をしたことについては、「計画的かつ確定的な殺意を強く推認させる」とした。そして「遊興費などに困っての短絡的な犯行で、人間として良心のかけらも見られず、極刑は免れない」と非難した。
控訴審で江東被告は、「夫婦を黙らせるために縛っただけで、殺すつもりはなかった」と主張した。
2003年1月20日、判決で裁判長は「確定的殺意が認められなくても、江東被告には『殺しても仕方がない』という認識があった」として退けた。
そして「金欲しさに、親しくしていた夫婦2人の命を奪った身勝手で冷酷な犯行。死刑以外で償わせる方法は考えられない」と述べた。
控訴は棄却となり、江東被告側は上告していた。しかし2006年9月7日、最高裁は上告を棄却、江東被告の死刑が確定となった。
裁判長は「金銭欲に駆られた利己的な動機に酌量の余地はなく、縛り上げて首を絞めた犯行は冷酷残虐。全く落ち度のない2人の命を奪った結果は極めて重大で、死刑はやむを得ない」と判決理由を述べた。