山口連続殺人放火事件
2013年7月21日、山口県周南市の限界集落で2件の火災が発生し、焼け跡から3人の焼死体が見つかった。遺体には殴られた跡があり、翌日にはさらに別の家からも2人の遺体が発見された。警察は行方をくらましていた保見光成(当時63歳)を捜索し、山中で逮捕した。
保見は犯行動機を「イジメの仕返しだった」と訴え、マスコミも村八分が背景にあったと報道した。しかし、裁判では「イジメは保見の妄想」と判断された。そんな保見に下された判決は、死刑だった。
事件データ
犯人 | 保見光成(当時63歳) 読み:ほみ こうせい |
犯行種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 2013年7月21日 |
犯行場所 | 山口県周南市金峰 |
被害者数 | 5人死亡 |
判決 | 死刑:広島拘置所に収監中 |
動機 | 近隣住民への復讐 |
キーワード | 村八分、限界集落 |
事件の経緯
1994年、保見光成(当時43)は高齢の両親の介護のため、当時住んでいた川崎市から実家の山口県周南市金峰に戻った。実家のある界隈は、わずか8世帯12人の”限界集落”だった。
保見は家をバリアフリーにするなどして、年老いた両親の面倒をみていた。当初はまだ比較的元気だった両親は、2002年末に母親が亡くなり、ほどなくして父親も亡くなった。
両親が生きていたころは、元の職業である左官などの技術を生かし、集落の家の修繕を引き受けたり、会合や旅行にも参加するなど周囲との交流を持っていた。家の一室を居酒屋風に改造し、誰でも気軽に立ち寄ってもらえるようにもしていた。保見は自分の家を拠点に、村に活気を取り戻す「村おこし」をしようと奮起したのだ。
しかし、高齢者が中心の限界集落では、突然都会から舞い戻ってきた男の ”やる気” に賛同する者は、ほとんどいなかった。それに保見の父親は、もともとこの地域では浮いた存在で、そんな事情も保見の考えが受け入れられなかった原因のひとつかもしれなかった。
彼の行動は空回りになってしまい、周囲との間に多少ならずとも溝のようなものができてしまった。それに加え、両親が他界したのをきっかけに、保見は次第にまわりから孤立していった。
この村にはうわさ話が好きな3人グループがいた。そのメンバーは、うわさ話を広める役割も果たしていて、話というのはほぼ悪口のようなものだった。そのせいか、ほかの集落からも「あそこは仲の悪い集落」といわれるほどだった。
都会の暮らしが長かった保見には、それが耐えられなかった。娯楽はテレビとラジオと ”うわさ話” という限界集落の空気に、合わせることも馴染むこともできなかったのだ。彼は少しずつ心を病み、おかしな行動にでるようになっていく。
深まっていく周囲との溝
村の人たちは、次第に保見のことを怖がるようになった。保見は、大柄な風体で黒いサングラスを常用し、大きな車に乗っていた。村人がそれを見ていると「ジロジロ見て何か用か」と言ってくる。黙っていたら「川に落としてやるぞ」とすごむ。「今度見たら血の海だ。地獄に落とすぞ」と怒鳴られた人もいた。住民が散歩中の犬のふんを処理するよう注意すると「血が見たいのか」と脅したこともあった。
また、河村聡子さん(当時73)たちが他の住民と立ち話しているところに犬を割り込ませ、驚いて手を上げた聡子さんに「俺の犬をたたき殺すのか」と言いがかりをつけたりもした。聡子さんが保見の家の前の田んぼで仕事をしていると、必ず脅かすような大音量でカラオケを始めた。これをやるのは妻の聡子さんの時だけで、夫の二次男さんにはやらなかった。気味が悪くなった河村夫婦は、そのせいで田んぼを手放した。
2003年1月3日、ちょっとした傷害事件が起こる。
母親が亡くなった時の香典返しのため、貞森さん宅を訪ねた時のことだ。家に上がって酒を飲むことになったのだが、まだ酔ってもいないのに台所から牛刀2本を出してきた貞森さんが「おまえケンカができるか」と聞いてきた。そして1本をアゴに、もう1本は左胸にあてられたので体をひねった。その時胸に牛刀が軽く刺さり、保見は頭にきて貞森さんを殴りつけたのだ。
翌朝受けた警察の取り調べでは、「相手も悪かったと言っている。これから地域の人とうまくやっていくためにも、大ごとにしないほうがいい」と言われた。軽傷だったこともあり、保見はおとなしく引き下がった。
しかし関係が改善されることはなく、被害妄想は膨らむばかりだった。2011年正月には「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われて困っている」と周南署に相談している。この時点で保見の妄想性障害は、相当進んでいた可能性があった。
保見がされたと主張する「イジメ」は以下のようなことである。
保見の主張するいじめ | 住民の証言 |
---|---|
作り置きのカレーに何か毒物を入れられ、激しく嘔吐した | カレーを一度に1ヶ月分作る習慣のあった保見が、日にちの経った痛んだカレーを食べただけでは? |
バケツに毒物を入れられ、飲んだ飼い犬が死んだ | 河村さんは農薬を多く撒く人だったので、それが誤ってバケツに入ったのでは? |
あぜ道に置き忘れた草刈り機を燃やされた | 草刈り機なんて見たことない、本当にあったことかどうか知らない |
そして事件は起きた
2013年7月21日、この日は参議院選挙の投票日で、12人しかいない集落の人たちも、集会所で投票を済ませた。しかし、それ以外はいつもと変わらない日曜日だった。
しかし、夜になって異変は起こった。
午後8時59分、村人のひとりが貞森さんの家が燃えているのを目撃。あわてて119番したが、その直後にもう一軒燃えている家があることに気づいた。それは、山本さんの家だった。
消火活動により、火は午後10時14分に鎮火したが、この火災で貞森誠さん(当時71)・喜代子さん(当時72)夫婦と、保見の燐家の山本ミヤ子さん(当時79)が焼死体で発見された。村人たちは「これは放火に違いない」と考えた。なぜなら、燃えた2軒の家は70mほど離れていて、飛び火したとは考えられないからだった。
そんな不安をかかえたまま迎えた翌22日、昼頃になって河村聡子さん(当時73)が遺体で発見される。訪ねてきた娘が、2階で血まみれで倒れている河村さんをみつけたのだ。そしてもうひとり、連絡のつかない石村文人さん(当時80)宅を訪ねた警察が、彼を遺体で発見した。
これは5人が犠牲になった「連続殺人事件」だった。警察は集落に規制線を張り、唯一、居場所のわからなくなっている保見光成を探した。
事件から4日目に逮捕
司法解剖の結果、5人は頭部に殴打された跡があり、死因は撲殺だった。5人全員の頭部に陥没骨折がみられ、ほかの場所にも激しく殴られた跡が認められた。村人たちはこの非常事態に、身を守るため集会所に避難し、そこで寝泊りすることになった。村には各地からマスコミが押し寄せ、誰も知らない小さな集落は、一躍有名になってしまった。
マスコミは、容疑者・保見光成の家の窓の「つけびして 煙喜ぶ 田舎者」という貼り紙を大きく報道し、火災との関連を推測した。(この文言は本事件とは関係なく、もっと以前に別の家で起きたボヤ騒ぎのことを書いたことが、のちに判明している)
警察は保見の捜索を続けたが、3日間手がかりはなかった。しかし4日目(25日)になって、保見の携帯電話などの持ち物が山中で発見された。さらに翌26日朝、林道沿いで保見の身柄も警察によって確保、そして逮捕された。その時の保見は、Tシャツとパンツのみの姿で、靴も履いていなかったという。
その後、山中で保見のICレコーダーも発見された。これは、保見の遺書代わりの音声とみられる。
「ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。いい人間ばっかし思ったらダメよ……。
オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。
うわさ話ばっかし、うわさ話ばっかし。
田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。
お父さん、お母さん、ごめん。
お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。……さん、ごめんなさい……。
これから死にます。
犬のことは、大きな犬はオリーブです」
保見光成の生い立ち
保見光成は1949年12月、事件の舞台となった山口県周南市金峰の集落で生まれた。生まれた時の名前は、保見中であった。
地元の金峰小学校、鹿野中学校を出て、岩国市内で数年働いたのち上京。17歳でボクシングを始め、ジムに住み込んだり、パチンコ屋に住み込みで働いたこともあったという。
しかし上京後に、長兄と建築関係の仕事をしていたことから、そういった関係の仕事を多くしていた。裁判で仕事について聞かれた時は、「タイル貼り、セメント貼り、軽天など建築に関すること」と答えている。
村に戻る直前までは、神奈川県川崎市のアパートに住んでいた。川崎では行きつけの居酒屋があり、店主や常連と普通に親交を深めており、人付き合いに問題もなかった。事件を起こすような素振りもなかったという。
当時の保見を知る人たちは、みな口をそろえて「職人気質でまじめ」と評している。そして、よく話す明るい性格だったという。
両親の介護でUターン帰郷
1994年10月、父親からの希望もあり、両親の介護のため村に戻る。このUターン帰郷をきっかけに、名前を保見中から保見光成()と改名した。
当初は集落の旅行に参加したり、村おこしをしようと努力もした。しかし、集落で彼が受け入れられたとはいえなかった。あいさつができず、お礼も言えない彼の性格が、原因のひとつだったかもしれなかった。
また、地域の掃除などを熱心にやらなかったり、車1台がやっとの道を大きな乗用車で通り、対向車が来ても決して譲らず相手を睨むなど、評判を下げる行動も多かった。大柄でいつも黒いサングラスをかけていた点も、周囲には怖い人と写ったようだった。
父親は村で浮いた存在だった
昔を知る人によると、父親の友一(ともいち)さんは、田畑を持たず定職に就いている様子もなかったという。父親は、植林の仕事を受けたり、竹細工職人の作った籠を町に売りに行ったりしていたが、まじめに働くといった感じではなかったらしい。
悪い噂もあった。米やカボチャ、洗濯した衣類などを盗んでいたというのだ。盗んだ服をそのまま着たりするので、すぐにバレたという証言もある。ほかにも、来客に出した酒の代金を高く請求したり、自慢話が多いなど、まわりから白い目で見られる存在だった。
そんな男の息子が、都会から戻ってきた。かと思うと突然「村おこし」という名のもと、はしゃいで面倒なことを始めようとしている。集落の人たちは、そんなふうに見ていたそうだ。
うわさ話に気を病んでいった
娯楽が少ない田舎では、必然的に住民についてのうわさ話が多くなる。ただ、この集落の場合は、特定の3人グループが流す、悪口のようなものばかりだった。浮いた存在の保見一家は、ネタにされることが多かったという。都会で暮らしてきた保見には、そういったことが我慢できなかった。
また、ものが失くなったりボヤ騒ぎが起きるなど、不穏な出来事も多かった。河村さん宅で風呂場が燃やされる騒ぎが起こった時、保見が「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という貼り紙をしたのも、この集落に対する揶揄や抗議だったと思われている。
保見の住んでいた金峰集落は、昔からいじめやうわさ話が絶えず、近隣の集落から「あそこは、みんな仲が悪い」といわれていた。何か決めごとをする時も、それぞれの主張が強く、結局まとまらず決められなかったという。
「犯罪が起こりやすい土地柄。あそこに住むのは、それなりの覚悟がいる」という証言もあった。
やがて、保見は妄想性障害を患うようになる。彼は妄想のせいで『周囲からいじめられ、村八分にされている』と思い込んだ。そして、2013年7月21日、”報復のため” 本事件を起こしてしまう。
裁判期間中、保見とやり取りをした記者によると、彼の妄想性障害は相当進行しており、取材にならないほどだったという。面会でも手紙でも、いきなり取り付かれたように冤罪主張を始め、相当病んでいる印象だったそうだ。
しかし、裁判では罪を免れるほどの障害とは認められず、刑事責任能力ありと判断された。その結果、死刑が確定、現在は広島拘置所に収監されている。
裁判員裁判
山口地検が起訴前に実施した精神鑑定では、保見光成被告は思い込みやすい性格を持つ「被害念慮」と判断された。しかし、地裁が起訴後に実施した精神鑑定では、精神障害の「妄想性障害」と診断されている。
第一審判決は死刑
初公判:2015年6月25日
2015年6月25日、山口地裁で初公判が開かれた。
逮捕直後は犯行を認めていた保見被告だったが、公判では供述を一転、「火をつけていないし、頭を殴ってもいない」と犯行を否認し、無罪を主張した。
検察側は冒頭陳述で、以下の法医学者の証言などから、保見が犯人であると説明した。
- 事件後に被告が逃げ込んだ山中で、凶器の木の棒が発見された
- 棒に巻かれたビニールテープから血液反応があり、被告の指紋が付着していた
- ひとりの被害者宅から被告のDNA型が採取された
動機については、集落で孤立した保見被告が「住民に悪い噂や意地悪をされたと思い込み、トラブルを起こした」と主張。また、仕事がなく生活費が底をつき、自殺を決意した上で「どうせ死ぬなら住民に報復してやろう」と考えたと説明した。
精神鑑定で「妄想性障害」と診断されたことについては、「責任能力がない、または著しく低下していた、とはいえず、妄想性障害が犯行に与えた影響は少ない」と主張した。
一方弁護側は、「被害者5人のうち、4人の足や腰を木の棒で殴ったのは間違いないが、頭は殴っていない。もう1人は叩いた記憶もない。頭を殴った証拠が無く、有罪にできない」と訴えた。DNA鑑定などについても直接犯行を裏付けるものではないと反論した。
さらに、起訴後の精神鑑定で診断された「妄想性障害」について、「刑事責任能力に影響はない」とする検察側に対し、「刑を軽くすべき心神耗弱か、無罪を言い渡すべき心神喪失だった」とした。
第3回公判(6月29日):自然発火ではない
検察側は、保見被告が逃げ込んだ山中で見つかったICレコーダーを再生した。
それには「これから自殺する。周囲の人間から意地悪ばかりされた。田舎に娯楽はない。飼い犬を頼む」などの言葉が記録されていた。
また検察側の証人として出廷した諏訪東京理科大の須川修身教授は、火災の検証結果について自然発火は考えにくいと証言した。
第4回公判(6月30日):凶器について
第4回公判では、凶器についての証言があった。
3人の遺体を解剖した男性教授は、凶器について「検察側が主張する木の棒でも矛盾はない」と証言。3人とも頭部などに致命傷を受ける前に、足や顔面を打撃された痕跡があり「目的を持って殺害した可能性が高い」と述べた。
残る2人を担当した女性准教授は、「外傷の一部は、遺体付近で見つかった金づちが使われた可能性がある」と指摘した。
第6回公判(7月3日):責任能力について
検察側は保見被告の責任能力についての見解を述べた。「保見被告には、集落の住民に噂や挑発をされているとの妄想はあったが、報復は自分の意思で決意した」として「完全責任能力があった」と主張した。
一方、弁護側は「実際には存在しない嫌がらせを妄想し、正しい事実認識ができなかった」として、妄想性障害による心神喪失で無罪を主張した。
また保見被告は「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という貼り紙について真意を説明した。
「火のないところに煙は立たぬ」という言葉から、「田舎の人たちが自分のうわさをして喜ぶ、という意味だった」とし、「貼り紙に気づいた誰かから、うわさの内容を聞き出せると思った」と話した。
第8回公判(7月7日):精神科医の見解
第8回公判では、精神鑑定を行った医師2人への尋問が行われた。
・起訴前に鑑定を行った医師
起訴前後で鑑定結果が異なることについて、「鑑定の時期によって、被告の話す内容も変わっている」と説明。そのうえで「妄想性障害という診断も妥当。思い込みのとらえ方は全く一緒」と述べた。
・起訴後に妄想性障害と診断した医師
「自分の考えにとらわれやすい性格」と「集落になじめなかった」ことから、悪い噂を流されているという強固な思い込みをしたと解説。「妄想に基づき、報復したい気持ちが高まり、犯行の意思が形成された」と証言した。殺害方法は「本人の価値観で決めた」と指摘した。
供述が変遷している点については「嘘をつこうとしているのではなく、今の”思い込み”で話している」と説明した。
論告公判(7月10日)
論告公判では、検察側と弁護側がそれぞれの主張をした。
検察側の主張:死刑を求刑
- 当初は犯行を認めて、動作も交えて説明していた
- 事件後、逃走し自殺を図った
- 凶器の木の棒から、被告の指紋が検出された
- 放火について、自然発火を疑わせる跡はない
- 周囲から噂や挑発されていると思い込み、被害者らとトラブルを抱えたのが動機
- 骨折するほどたたき、木の棒を口に強く押し込むなど、なぶり殺しとも言うべき凄惨な手口
- 荒唐無稽な弁解に終始し、謝罪もしておらず、更生の余地はない
- 5人の尊い命が奪われた結果は、極めて重大
- 妄想性障害は重いものではなく、善悪の判断ができ、完全責任能力が認められる
弁護側の主張:死刑回避
- 木の棒に付いていた血は、だれのものか特定されていない
- 妄想性障害は重く、事件当時は判断能力がほとんどないに等しい状態だった
また、遺族の代理人が、厳罰を求める遺族の思いを訴えた。
保見被告は、最終意見陳述で「私は無実です」と述べた。
そして判決
裁判長は、検察側の主張を認め、保見被告に死刑を言い渡した。
現場は農山村地域で、”被告が叩いた直後に、別の第三者が殺害する” 可能性は考えられない。死亡後に出火しており、失火の可能性もない、と指摘した。
また、妄想性障害の発症は認めたうえで、「動機に影響はしたが、犯行を選択したのは被告の性格によるもので、妄想の影響ではない」として完全責任能力を認めた。
最後に、「どの被害者にも殺害されるような落ち度がなく、被告に前科がないことなどを考慮しても罪責はあまりに重大。極刑は免れない」とした。
弁護側は、即日控訴した。
控訴・上告ともに棄却
2016年7月25日、控訴審初公判が開かれた。
弁護側は無罪を主張し、追加の立証や精神鑑定の申請をしたが、裁判長はこれらを却下した。
検察側は「被告の犯行と責任能力は、すでに証明されている」と反論、控訴棄却を求め、即日結審した。
判決で裁判長は、「妄想が犯行に一定の影響を与えたことを考慮しても、被害者が5人に上るなど刑事責任は誠に重大。死刑はやむを得ず、重すぎて不当とは言えない」と述べ、控訴を棄却した。
2019年6月17日には上告も棄却となり、保見の死刑が確定した。
再審請求も棄却
2019年11月12日、山口地裁へ再審請求。
弁護団は、新たな証拠として、刑事責任能力に関する精神科医の意見書など約30点を提出したが、2021年3月22日付で棄却されている。弁護団は、25日付で即時抗告した。
現在、保見光成死刑囚は広島拘置所に収監中である。