福岡スナックママ保険金殺人事件|女王蜂さながらに男を利用

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高橋裕子/福岡スナックママ連続保険金殺人事件 日本の凶悪事件

「福岡スナックママ連続保険金殺人事件」の概要

裕福な家庭で甘やかされた「白雪姫」の本当の姿は「魔女」だった。
大人になっても高級車やブランド物などの贅沢から抜けきれなかった高橋裕子(逮捕時48歳)。年齢を感じさせない美貌を自覚し、経営するスナックでは身体を売る”枕営業”を続けていた。『女王蜂が働き蜂に命懸けの奉仕を求めるよう』に稼げなくなった2人の夫を殺害して多額の保険金を得た裕子に、裁判では無期懲役が確定。判決を受ける裕子は、まるで別人のように”しおれた女”だったという。

事件データ

犯人高橋裕子(逮捕時48歳)
犯行種別保険金殺人事件
犯行日1994年10月22日
2000年11月12日
犯行場所福岡県糟屋郡志免町
福岡県福岡市南区
被害者数2人死亡
判決無期懲役:麓刑務所
動機金銭目的
キーワードスナックママ、中洲、
「職なしは用なし」、

事件の経緯

1987年、高橋裕子(当時32)は家を新築した時の担当だった4つ年下の野本雄司さん(当時28)と再婚した。家は1985年に離婚した最初の夫と建てたもので、野本さんはメンテナンスで何度か訪れているうちに裕子と親しくなった。

当時、野本さんは既婚者だったが、3人目を妊娠中の妻を捨ててまで裕子と一緒になった。その後、野本さんは一級建築士を取得して独立を果たし、福岡市南区に建築設計事務所「司建築工房」を開業した。

やがて夫婦は、志免町の北部に事務所を兼ねた3階建ての豪邸を建てて移り住むのだが、そのタイミングで「司建築工房」は裕子が社長に就任。1992年には2人の間に女児が生まれ、その3年後には長男も誕生した。しかし、裕子はもともとの裕福な育ちも影響し、派手な散財を続けていた。

裕子は融資の相談なども行うなかで、銀行の担当者と不倫関係になった。この関係は、裕子が不倫をネタに金を強請るまで、10年以上も続いている。

連続殺人犯 (文春文庫) 

やがてバブル景気が陰りだすと「司建築工房」の経営も傾き始め、自転車操業をくり返すようになった。裕子は借金取りが来るのを恐れ、1994年5月に子供を連れて福岡市中央区の高級マンションに移り住んだ。そして、3月まで家政婦として雇っていた女性が経営する福岡市城南区のスナックに時給1000円で働かせてもらうようになった。

はじめて経験する水商売だったが、裕子(当時38)には向いていた。音大出身で歌がうまく、そのうえ美人で客あたりのいい裕子は人気があり、すぐに彼女目当ての客がついた。

夫に自殺を強要

高橋裕子/福岡スナックママ連続保険金殺人事件

会社はたちまち1億3千万円の負債を抱えてしまった。そんな状況でも生活レベルを落とすことのできない裕子は、「あんたが死ねば(保険金で)借金を返せる」と野本さんを連日のように激しく責め立てるようになっていた。

1994年9月上旬、取引先の倒産により入金されるはずの1600万円が焦げ付いたのが致命的となり、野本さんは車に排気ガスを引き込んで自殺を図る。しかし、この自殺は未遂に終わるのだが、一命をとりとめた野本さんに、裕子は「なんで死なんと?借金はどうやって返すの!」となおも責めた。9月末には2度目の不渡りを出したことから野本さんも再び自殺を図るが、これも未遂に終わった。

野本さんを精神的に追い詰めておきながら、裕子は長男の家庭教師として雇っていた九州大学院生と不倫関係になっていた。野本さんの死亡時保険金を手に入れたい裕子は、自分にぞっこんの大学院生に協力を仰いだ。頼られた大学院生は、惚れた相手のため『完全自殺マニュアル』を読み、野本さんを自殺に見せかけて殺害する策を練った。

自殺未遂を図ったことから、野本さんは福岡市内の病院に入院した。母親が駆けつけると、病室にはまったく心配する様子のない裕子と大学院生がいたという。

野本雄司さんを殺害

野本雄司さん/福岡スナックママ連続保険金殺人事件
最初の被害者・野本雄司さん

大学院生は『ベンジンを混ぜたウイスキーを飲ませて殺害する』方法を提案したが、臭いがきつく飲ませるのは難しかった。すると、次に伝えてきたのは「腹部を刃物で深く突き刺して動脈を傷つけ、すぐに刃物を抜く」というものだった。

1994年10月22日、裕子はウイスキーと睡眠導入剤を野本さん(当時34)に飲ませて眠らせた。それから手に軍手をはめ、腹と腰に包丁を突き刺した。その後、大学院生を呼び出し、死亡の確認や後始末などを手伝わせた。

野本さんは、借用書が散乱する自宅1階の和室で切腹したように亡くなっていた。刺し傷は背中まで貫通していたうえに、ためらい傷もなかったことで他殺の疑いもあった。しかし、過去2回も自殺未遂をくり返していたことや、遺書(過去に書いたもの)もみつかったことから、『借金苦による自殺』と判断された。

こうして裕子は、保険金1億6千万円を得た。自宅も約5千万円で売却し、借金を返済しても手元には1億円近くが残った。

野本さんの母親宅の留守番電話には、「サ・サ・レ・タ……」という野本さんの声が残されていたという。

枕営業と恐喝

スナック「フリージア」があった中州第一ビル/福岡スナックママ連続保険金殺人事件
スナック「フリージア」があった中州第一ビル

一方、スナック勤めをはじめた裕子は、方々で金の無心をするようになっていた。その中には裕子に惚れた大学院生も含まれており、若い彼からも数十万円を借りていた。そんなことから、裕子は自身の ”女としての価値” を自覚するようになる。そして、それを武器にするため、勤め始めて3ヶ月後には「中洲で働く」と言って店を辞めた。野本さん殺害は、その後まもなくのことである。

中洲ではクラブのホステスをしながら、自分の店を出す準備をしていた。そして40歳でスナック「フリージア」を開店。裕子は手っ取り早く ”身体” を使って商売した。裕子は客に「初恋の人にそっくり」などと気があるような振りをして、相手が乗ってくれば「私、こう見えて床上手なのよ」と誘いをかけていた。その甲斐あって、当初は年配の客が列をなす勢いだったが、そのやり方がいつまでも通用するはずはなかった。

やがて裕子は情夫である青木文雄と共謀して、肉体関係を持った客を相手に「家族にバラす」と金を脅し取るようになる。青木は1996年1月にはじめて「フリージア」に来店したのだが、その際、かつて早稲田大学生だった頃にキャンパスで見かけて憧れた女性が、なんと目の前にいる裕子であることが判明。その奇跡的な再会に舞い上がった青木は、裕子と肉体関係を持つまでになる。

しかし、青木自身も過去に同様の手口で裕子に金を脅し取られていた。それでも惚れた弱みか、「経営が苦しい」と泣きつかれて援助したものまで含めると、総額2800万円を裕子に手渡していた。

3度目の結婚…そして殺害

高橋裕子/福岡スナックママ連続保険金殺人事件

裕子はスナック「フリージア」の常連客である9歳年上の天野隆之さんとの再婚を考えていた。デベロッパー会社に勤める天野さんは十数年も単身赴任をしていて、当時は青森の有名旅館の総支配人をしていた。その頃、福岡に出張に来て「フリージア」を訪れたのだ。

天野さんは東京に妻子があったが、27年も連れ添った妻を捨ててまで1999年6月に裕子との結婚に踏み切った。その際、以前からの不倫相手と裕子が揉めたことが原因で、天野さんは広島県福山市のホテルに飛ばされた。

天野隆之さんは裕子の籍に入ったため、戸籍上は ”高橋隆之” となっている。

結婚を機に「フリージア」を閉めた裕子だったが、降格された天野さんが慣れない環境や仕事のストレスで退職してしまう。仕方がないので天野さんに物件を契約させ、彼がマスターを努める「フリージア」を再開させた。しかし、裕子がいくら色気を売ろうが、同じ空間に夫がいる店が流行るはずがなかった。

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派手な暮らしをやめられない裕子は、再び保険金を手に入れることをたくらむようになる。彼女は天野さんを「職なしは用なし、金を作ってこい」と精神的に追い詰め、時には暴力を振るって自殺するように追い込んだ。こうして天野さんは、結婚から1年半も経たずに福岡市南区の自宅の浴槽で死亡(死亡時54歳)することになる。

2000年11月12日午前4時頃、天野さんはビールやウイスキーとともに、2種類の睡眠導入剤を飲んで浴槽に入った。裕子はそんな意識が朦朧としている天野さんの両肩を押さえ、溺死させたのだ。天野さんは当時、病院で睡眠導入剤を処方されていたことから、警察は他殺を疑わなかった。

死の1か月前、天野さんには1億3800万円の保険がかけられていたが、持病の糖尿病を事前告知していなかったために保険会社が支払いを拒否。結局、手にしたのは郵便局の簡易保険2740万円だけだった。

その後、「フリージア」に ”身体で商売をする店” 、”関係を持つと金を脅し取られる” などの悪い噂が広まり、店は閉めるほかなくなった。

スナック「フリージア」は約6年間営業し、天野隆之さんの死亡から9ヶ月後に閉店した。

高橋裕子、ついに逮捕

高橋裕子逮捕/福岡スナックママ連続保険金殺人事件
恐喝容疑で逮捕された高橋裕子

店を閉めてもなお派手な生活を続ける裕子は、生活に窮するようになる。裕子は福岡地裁に対し、保険会社を相手に未払いの保険金8千万円の支払いを求めて提訴するも、これは棄却されてしまう。

残された手は肉体関係を持った客への恐喝であるが、脅す手口は「不倫関係を奥さんにバラす」といった単純なものから、「あなたの子供を堕ろして心身ともにボロボロになった」という嘘までついた。こうして脅し取った金は、ホストクラブやパチンコで湯水のように使っていた。

金額も百万単位の高額なもので、払っても次から次へと要求され、「キリがない」と弁護士に相談した被害者もいた。また、裕子は「司建築工房」時代から不倫していた銀行員(当時46)までも標的にしている。

そんな裕子に警察は疑いの目を向けるようになる。2003年の秋ごろ、福岡県警・捜査一課の捜査員が過去の変死事案を再調査していたところ、『2人の夫が連続して死亡し、保険金を受け取っていた女性(裕子)の存在』が浮上したのだ。2004年前半には中洲の歓楽街で ”保険金目当てで夫を殺したスナックママの噂” を捜査員が聞いてまわってもいた。

そして2004年7月22日、こうした内偵の結果、当時48歳の裕子は恐喝容疑で逮捕された。だが、この逮捕の本当の目的は、”元夫2人を保険金目当てで殺害した殺人容疑” であった。取り調べにはポリグラフ(嘘発見器)が使用され、裕子は2人の死亡について、自分が関わっていたことを認めた。

高橋裕子の生い立ち

高橋裕子/福岡スナックママ連続保険金殺人事件
学生時代の高橋裕子

高橋裕子は1955年、石炭の街として栄えていた福岡県糟屋郡志免町で生まれた。大正町商店街で「ダイマル靴店」を営んでいた両親は商売上手で、そのうえ地主でもあったため、裕福な家で裕子は何不自由ない少女時代を送った。

母親は、炭鉱の街に似合わぬ垢抜けた女性だった。そして、その娘である裕子も白い肌に大きな目の可愛い女の子で、「白雪姫」と呼ばれて甘やかされた。彼女には弟がいたが、何でも裕子が優先だった。裕子は高級子ども服メーカーの服で着飾られ、小学4年からはピアノを習うようになった。その後、中高一貫の名門ミッションスクール「福岡女学院」へ進学。高校生になると、月に何度か東京にピアノのレッスンにも通った。

当時の同級生は「成績で目立つことはなかったが、美人で華やかだったから学校でも有名だった。他校の男子からラブレターをもらったり告白されることもよくあった」と話している。

連続殺人犯 (文春文庫) 

高校卒業後は武蔵野音楽大学に進学。当初は器楽学科(ピアノ専攻)だったが、小学4年からのスタートでは遅すぎるとの先生のアドバイスに従い、また、自身でも限界を感じていたため声楽学科に転科した。

裕子は「パーティー好き」として音大仲間に知れていたほど、こまめに学生同士のパーティーに参加した。だが条件を決めていて、参加するのは相手が慶応か早稲田の場合のみ。裕子はそういった場でかなりモテていた。

最初の結婚

高橋裕子/福岡スナックママ連続保険金殺人事件
音大に通っていた頃の髙橋裕子

大学2年の時、裕子は早稲田大学が主催した銀座でのダンスパーティに参加した。清楚でひときわ目立っていた裕子は、1歳年上の慶應義塾大学商学部の男子学生に一目惚れされ、猛アタックを受けて交際するようになる。男子学生は裕子にプロポーズするも断られるが、1年かけて説得を続けた。そして1979年、両家の反対も押し切り結婚にこぎつけた。

男子学生は福島県郡山市の資産家の長男で、結婚式には300人以上が出席。媒酌人は商工会議所の会頭がつとめる大規模なものだった。こうして夫の実家の裏のマンションで新婚生活が始まり、裕子は近所の子供を相手にピアノ教室を開いた。

翌1980年2月には長女も誕生したが、「ズーズー弁が移る」と祖父母に会わせるのを嫌がった。親戚付き合いを避け、理由をつけては何度も引っ越しをくり返した。裕子は何かと福岡に帰省するようになり、結婚から2年後には夫に包丁を突きつけ「この結婚は失敗だった」と福岡に帰ってしまう。

夫は裕子のあとを追い、2年間の期限付きで裕子の実家で暮らすことにした。裕子は高級ブランドの服や家具を欲しがるため、夫の実家は50万円単位で何度も援助した。1983年9月には長男が誕生するが、夫は慣れない福岡での暮らしのストレスからか、生活が荒れていく。競艇やポーカーゲームにのめり込んだり中洲を飲み歩くなどして、1984年3月には360万円の借金が発覚。この時は、裕子の父親が返済した。

だが、同年8月には会社の金を着服したことが発覚し、今度は夫の父親が返済した。1985年には、裕子の父親が頭金200万円を出すということで近くに家を購入したが、夫の2度目の着服が明らかになり、会社は解雇となる。これを機に、1985年10月に夫婦は離婚した。

2度目の結婚

それから2年後、裕子は住宅販売メーカーに勤務していた4つ年下の野本雄司さんと再婚する。野本さんは、家を建てた時の住宅会社の担当で、1985年6月に知り合った。最初の夫と離婚後、家には裕子と子供2人が住み続けていたが、家のメンテナンスで何度か訪れるうちに2人は親しくなった。当時、野本さんは既婚者で子供も2人いたが、周囲の反対を押し切ってまで3人目を妊娠中の妻と離婚したのだ。

野本さんは高校を出たあと、建築関係の専門学校を卒業。住宅会社に勤めていたが、裕子との結婚後に一級建築士を取得して独立し、福岡市南区に建築設計事務所「司建築工房」を立ち上げた。そして裕子も、自宅で5年間続けていたピアノ教室を閉めた。

やがて夫婦は、志免町の北部に事務所を兼ねた3階建ての豪邸を建てて移り住むのだが、そのタイミングで「司建築工房」は裕子が社長に就任。そして融資の相談なども行うなかで、担当の銀行員と不倫関係になった。この関係は、裕子が不倫をネタに銀行員を強請るまで、10年以上も続いている。

1992年には野本さんとの間に女児が生まれ、その3年後には長男も誕生したが、裕子はもともとの裕福な育ちも影響し、派手な散財が止むことはなかった。

1993年12月頃から、裕子は家政婦を雇っている。この家政婦の女性は、夜は福岡市城南区の住宅街でスナックを経営していて、のちに裕子はこのスナックに時給1000円で雇ってもらった。

2人の夫を殺害

スナック「フリージア」があった中州第一ビルの中

バブルが崩壊すると「司建築工房」も経営が苦しくなり、自転車操業に陥っていた。すると裕子は死亡時保険金を目当てに、野本さんに自殺を迫るようになる。追い詰められた野本さんは、2度にわたって自殺を試みるがいずれも未遂。裕子はそんな夫に多額の保険金をかけてうえで殺害した。

その後、裕子はスナック「フリージア」の常連客である天野隆之さんと3度目の結婚をするが、天野さんが仕事を辞めて収入がなくなると、睡眠導入剤を飲んで意識が朦朧とした彼を浴槽で溺死させた

さらに、裕子は青木文雄と共謀して、裕子と関係を持った常連客を脅して金を巻き上げていた。そんな悪事をくり返す裕子は、いつしか警察に目を付けられるようになる。福岡県警が内偵を続けた結果、裕子は2004年7月22日に恐喝容疑で逮捕となり、その後、2人の元夫を保険金目当てで殺害した殺人容疑でも逮捕となった。

裁判では、2011年4月26日に最高裁で無期懲役が確定している。(麓刑務所にて服役中)

恐喝の被害者は9人で、被害額は1000万円強にのぼる。

裁判で無期懲役に

高橋裕子被告(当時49)の初公判が始まる2週間前、客を強請って分け前を得ていた青木文雄被告(当時48)に、懲役2年(執行猶予3年)の有罪判決が下された。青木被告は不動産会社に勤めていたが、事件を受けて懲戒免職になっている。

そして2004年12月13日、福岡地裁で裕子と元九州大学院生の初公判が開かれた。2件の恐喝、2件の殺人、死亡時保険金を騙し取った3件の詐欺、1件の詐欺未遂で起訴された裕子被告は、「罪はすべて認めている。死刑になっても構わない」といった趣旨の言葉を涙ながらに述べた。

だが、2か月後の第2回公判では供述をひるがえし、「共犯者(元大学院生)から『任せてください』と言われた。自分から殺害を依頼していない」と、野本雄司さん殺害を元大学院生になすりつけようとした。

初公判で犯行を認めた理由について、裕子被告は「警察に誘導されたから」と述べている。

元大学院生は無罪

そんな裕子被告に、検察側は「女王蜂が働き蜂に命懸けの奉仕を求めるように、2人が自分のために死ぬのを当然と考えた」と批判し、無期懲役を求刑。2007年7月19日、福岡地裁において求刑通り無期懲役が言い渡された。天野(高橋)隆之さん殺害については、『自殺して保険金を裕子に与える意志』が本人にあったことが認められ、嘱託殺人罪が適用された。

裁判長は「裕子被告の供述の変遷は、自身の責任を軽減し、恋愛感情を抱く元大学院生に責任を押し付ける姿勢が見えるため、信用するには疑問が残る」と強く断じた。さらに、2度の自殺に失敗した野本さんを、最後には自ら殺害したことについて、「あまりにも身勝手かつ自己中心的。酌量の余地はまったくない」と非難した。

裕子側は控訴していたが、同年12月18日、福岡高裁がこれを棄却。さらに2011年4月26日、最高裁が上告も棄却し、高橋裕子被告(当時55歳)の無期懲役が確定した。現在は九州唯一の女子を収容する施設である麓刑務所にて服役している。

共犯とされた元九州大学院生(裁判時33)は、6歳年上の妻と2人の子供とともに神戸で暮らしていた。彼には一審で、殺人ほう助罪で懲役3年6月(求刑懲役12年)が下っていたが、2008年4月22日の控訴審で、福岡高裁は「証拠がない」として逆転無罪の判決となった。(検察側が上告せず確定)

 

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