名張毒ぶどう酒事件
1961年3月28日、三重県名張市でぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡する事件が起きた。
この事件で逮捕された奥西勝は、無罪を主張するも死刑が確定。
その後43年間にわたり、無罪を訴え再審請求を繰り返すも、2015年10月4日八王子医療刑務所にて死亡した。
限りなく冤罪の可能性が高い、と言われる事件である。
事件データ
犯人 | 奥西勝(当時35歳) |
犯行種別 | 殺人事件 |
事件発生日 | 1961年3月28日 |
犯行場所 | 三重県名張市葛尾 |
被害者数 | 5人死亡 |
判決 | 死刑 2015年10月4日、 八王子医療刑務所で死亡(享年89歳) |
動機 | 痴情のもつれ(本人は無罪を主張) |
キーワード | 冤罪疑惑 |
事件の経緯
1961年3月28日、三重県名張市葛尾の公民館で、村の生活改善クラブ「三奈の会」の総会が開かれた。
この会では月1回の定例会があり、1年の締めくくりとして年度末の回には、懇親会を兼ねた総会を開くことになっていた。
「三奈の会」という名称は、三重県名張市葛尾と奈良県山辺郡山添村にまたがっていたため、それぞれの頭一文字をとって名付けられたものである。
午後7時の開始のために、役員たちは数時間前から準備に取り掛かっていた。
今回の総会は、ほとんど宴会がメインで、食事や酒、食器の用意、会場の整備、それぞれが楽しみながら作業を分担した。
楽しいはずの宴会は大惨事に
午後7時過ぎ、総会が始まった。
まずはお決まりの会長挨拶や1年の活動・収支報告、そのあとに次年度の役員の選出が行われた。ひとしきりの行事が終わると、お待ちかねの懇親会が始まった。
女性陣は、年1回の総会に出されるぶどう酒を楽しみにしていた。しかし今年は予算的に厳しいということで、みんなあきらめていた。それが、急遽当日になって会長の奥西楢雄が自腹で購入することを決め、用意されたぶどう酒に女性たちは喜んだ。「去年は赤だったけど、今年は白」とはしゃぐ女性もいた。
男たちは日本酒、女性陣はぶどう酒を茶碗に注ぎ、「乾杯!」のかけ声ととも宴会が始まった。高価なぶどう酒だったが、一気に飲み干すもの、少し口をつけ楽しみをあとに取っておくもの、それぞれだった。まったく飲まなかったのは、女性20人のうち3人だけだった。
4~5分経って場の空気が華やかになった頃、ひとりの女性が「腹がキリキリ痛む」と訴えた。ほかにも座ろうとしてよろめいたり、立ち上がれなくなるものが続出した。
男性陣からは「もう酔ったんか」とひやかしの声が聞こえた。
しかし異変は続き、「酔った」程度ではないものが出てくる。嘔吐、手足の痙攣、意識がなくなる症状が出始めた時は、さすがの男たちもただ事ではないことを認識した。
男たちはあわてて医者や警察に連絡したが、ほとんどのものはなす術なく、オロオロするだけだった。医者は電話で「急性アルコール中毒か食中毒だろう」というので、警察もそのつもりでいた。しかし、現場に到着した彼らは、ひと目見ただけでそんな生易しいものではないことを理解する。
警察と医者が到着したのは、午後9時40分頃だった。その頃にはもう動かなくなっているものもいた。
医者がみたところ、すでに息をしていない数人は、顔色が黒褐色になっていた。医者はこれまでに何度か見てきた、農薬による死の症状と同じであることに気付いた。
当初は食中毒とみられた騒ぎは、事件の様相を呈してきた。そのため警察は応援を呼び、医師団の派遣も要請した。
そして午後11時過ぎに医師団が到着、奥西フミ子(30)、奥西チエ子(34)、北浦ヤス子(36)、中島登代子(36)、新矢好(25)の5人の死亡が確認された。ほかにも重症といえるものが7人ほどいた。
ぶどう酒の瓶にさわった3人
翌朝、現場は捜査陣や報道関係者でごった返していた。
症状はぶどう酒を飲んだ女性にだけ出ていることから、原因がぶどう酒であることは明確だった。そうなると、「どの時点で毒物が混入されたのか」が何より重要である。もしそれが、製造過程に混入したのなら、さらなる惨事が予想されるからだ。
しかし、それは杞憂に終わった。捜査の結果、製造過程での混入はなく、そうなると酒店の中、または酒店で購入後に誰かが毒物を入れたことになる。
警察は、「三奈の会」関係者でぶどう酒の瓶に触れた3人を割り出し、事情聴取を行った。
まず1人目は「三奈の会」会長の奥西楢雄だった。彼の妻は、前夜ぶどう酒を飲んで死亡した5人のうちのひとりだった。彼は妻に頼まれて瓶の蓋を開けたが、王冠はすでになくコルク栓を抜いただけだと供述した。
2人目は、ぶどう酒を購入して会長宅まで届けた石原利一だった。彼は宴会が始まると、歯で王冠を開け、その辺りに捨てたと供述した。なぜ自分が開けたのかについては、奥西チエ子(事件で死亡)に頼まれたからだと話した。
3人目は、その奥西チエ子の夫である奥西勝(当時35)だった。彼は会長宅に寄った時、頼まれたので酒を会場に運んだと供述した。会場に着いた時は、誰もいなかったそうだ。
容疑者はひとりに絞られた
その後、午後8時30分から司法解剖が行われ、毒物はやはり農薬であることが判明した。さらに3月30日、その農薬はテップ剤で、ニッカリンTという名称で市販されていることがわかった。
これは、茶の栽培によく使われるものだった。
また、同じ酒店で同じぶどう酒を購入して飲んだ人に被害が出ていないこともわかり、犯人は「三奈の会」関係者の可能性が一段と高くなった。
入院していた人たちも次第に快方に向かい、事情聴取に応じるようになった。警察は、怨恨や痴情のもつれの線から捜査を進めた。
捜査の結果、この地区で農薬ニッカリンTを使用しているのは、奥西勝だけということが判明した。そして、この奥西勝に三角関係があることも明らかになった。さらに宴会時、妻が夫の勝から「今夜は酒を飲むな」と言われていたこともわかった。
こうして、奥西勝は第一容疑者となった。ぶどう酒で亡くなった北浦ヤス子と愛人関係だったことも、彼には不利となった。当初彼は三角関係について否定していたが、最終的には認め、「2月中旬、妻が北浦ヤス子を殺して自分も死ぬ、というようなことを言っていた」と供述した。さらに「2月20日頃には棚にあったニッカリンTが、25日にはなくなっていた。事件当日、役員選出中に席を立った妻を追いかけると、別室でぶどう酒に何か入れていた」と話した。
警察は、妻の奥西チエ子を犯人と断定し、家宅捜索を行うことにした。
しかし、このことに住民たちは一斉に異議を唱えた。チエ子は「利口で常識があり、気立てもいい」と、すこぶる評判が良かったのだ。勝の実父までが「絶対に信じられない」というほどだった。
警察はチエ子を犯人と断定したが、それを目撃した勝になぜ止めなかったのか、厳しく追及した。場合によっては殺人幇助にあたるからだった。
4月2日午後8時過ぎ、奥西勝は突然涙を流し、「申し訳ありません。実は自分がやりました」と自白した。殺人幇助について取り調べていた警察も、これには驚いた。
一転して取り調べは、「殺人幇助」から「殺人容疑」に変わった。4月3日午前3時10分、奥西勝は殺人および殺人未遂容疑で逮捕された。
この日の正午、現在では考えられない「容疑者による記者会見」が行われた。ここで勝は「(三角関係など)いろいろあったので・・・。ふっと思いついて、軽い気持ちでやった。」という内容のことを話している。
その後も捜査は続けられたが、有力な物証はないままに4月5日、奥西勝は殺人および殺人未遂容疑で送検された。
裁判
第一審:無罪
1961年6月16日、津地裁で初公判が行われた。
検察側は死刑を求刑、弁護側は無罪を主張した。被告の奥西勝も「自白は、警察に強要された」と訴えて否認を貫いた。
裁判長は、いくつかの疑問を持っていた。
ひとつは、当日までぶどう酒が出ることを知らなかった奥西勝が、前日夜に農薬ニッカリンTの準備をした、と供述している点だった。
もうひとつある。それは、ぶどう酒が会長宅に届いた時刻である。当初は、住人たちの証言により午後4時以前ということで矛盾はなかった。それが、ある時期を境に証言は一斉に変わり、午後5時10分となっているのだ。これによりニッカリンTを入れることができたのは奥西勝だけ、という結論に至ったのだ。
さらに、検察が動機と主張する「三角関係のもつれ」についても、疑問を持たざるを得なかった。なぜなら3人の関係は、それほど緊迫しているようには思えなかったからだ。
3人は同じ石切り場で働き、職場にチエ子(妻)とヤス子(愛人)は一緒に通っていた。2人は一緒に写真を撮ったり、仕事のない日にみんなで一緒に映画を見に行ったりしている。
事件の数日前に勝はコンドームを買っており、事前前日もヤス子にパラソルを贈るなど、とても三角関係を清算しようという空気感はなかった。
1964年12月23日、3年半18回にわたる公判は、判決を迎えた。
裁判長は「証拠不十分により、無罪」を言い渡した。理由として、自白の信憑性や検察が立証した犯行時刻などについて疑問があるとした。裁判長は、村の住人が証言を変えたのは警察の誘導による、と考えていたのだ。
この3日後、津地検は「事実誤認」の理由で名古屋高裁に控訴した。
控訴審:逆転死刑
控訴審の第1回公判は、1965年11月20日に名古屋高裁で開かれた。
公判は15回におよび、4年9カ月を費やした。
控訴審においても、明確な物証は提示されなかった。そのため審理は、村の住人による証言などに重点がおかれた。
そしてこの証言内容は、なぜか第一審の時とは違っていて、奥西勝に不利なものばかりであった。
1969年9月10日、判決公判で裁判長は、原判決を破棄し死刑を言い渡す。ぶどう酒瓶の王冠についた歯形は、奥西勝のものと断定されたのだった。
無罪からの死刑判決は戦後初であり、現在においてもこの一例のみという、きわめて異例の判決であった。
奥西勝は、この判決を不服として上告を行った。
しかし、1972年6月15日、最高裁は二審の死刑判決を支持し、上告を棄却した。
これにより、奥西勝の死刑が確定することとなった。
再審請求も虚しく死亡
死刑が確定した後、奥西勝は8回の再審請求をしている。4回目までは支援者もなく、たったひとりで再審請求をしていた。
そんな1987年のある日、ひとりの男性が奥西勝に面会にやってきた。彼は市民団体・国民救援会のメンバーの川村富左吉氏だった。川村氏はこの事件を調べているうちに「冤罪」であることを確信し、彼に支援を申し出たのだった。
こうして孤立無援だった奥西勝に、支援団体がつくことになった。
その後は、川村氏らとともに再審請求するも第6回までは棄却されている。
期待された第7次再審請求
2005年4月、高裁で第7次再審請求が認められた。犯行に使われた毒物がニッカリンTではないことを実証した鑑定が認められ、再審開始を決定したのだ。しかし、これは名古屋高検による異議が認められ、あえなく取り消されてしまう。
その後、2010年4月には最高裁がこの異議審決定を取り消し、高裁に差し戻した。ところが2012年5月、これも高裁によって取り消され、結局のところ再審開始とはならなかった。
この一連の流れに気落ちしたのか、奥西勝は体調を崩し八王子医療刑務所へ移された。発熱や肺炎症状があった。
2014年5月、第8次再審請求を高裁はあっさり棄却。
第9次再審請求中の2015年10月4日、奥西勝は八王子医療刑務所で死亡した。享年89歳だった。
裁判は、妹の岡美代子さんが引き継ぐことになった。
その後も続く再審請求
10回目の再審請求は、2017年12月に棄却されたが、岡さんはこの直後に異議審を申し立てている。
2020年3月、高裁の要請で検察側が約15年ぶりに新たな証拠を開示した。ぶどう酒の瓶は、「蓋とつなぐように貼られた封緘紙で、封がされていた」と証言した3人分の供述調書の存在が明らかになった。
裁判では、「事件当日、参加者が来る前に瓶の蓋を外して毒物を入れた際に、封緘紙が破れた」という奥西勝の自白を認定して死刑が確定したが、目撃証言はこれと矛盾する。
さらに弁護団は2020年10月、封緘紙からぶどう酒製造時とは異なるノリの成分が、検出されたとする鑑定結果も提出した。これは、「別の人物が毒物を混入させ、いったん封を元に戻した可能性がある」としている。
ニッカリンTとは違う?
2021年11月30日、弁護団が新たな証拠を裁判所に提出した。提出されたのは、事件に使われた農薬が、奥西元死刑囚が「自白」した「ニッカリンT」とは別である可能性を示す意見書である。
弁護団によると、当時の調書では、ぶどう酒を飲んだ女性12人のうち9人が「石油の臭いがした」という内容の供述をしているが、「ニッカリンT」からはそうした臭いはしないことなどが示されたという。
再審認めず【2022年3月3日】
しかし2022年3月3日、名古屋高裁は、奥西勝元死刑囚の妹である岡さんに対し、再審を認めない決定を下した。裁判長は、弁護団が提出した鑑定結果について「科学的根拠を有する合理的なものということができない。無罪を言い渡す明らかな証拠に当たらない」と説明した。
妹の岡美代子さん(92歳)は「本当に無念です。残念です。裁判長、裁判官に怒りをもって『何故に』と問い、抗議したいです。私の命あるかぎり、兄の名誉を回復するために頑張りたい」とコメントしている。
奥西勝の生い立ち
奥西勝は、1926年に名張市葛尾地区で生まれた。
尋常高等小学校(現在の中学校)を卒業後、約2年間両親の農業の手伝いをした。その後1942年12月頃、参宮急行鉄道に就職し、車両の電気関係の修理工として働く。
戦争が始まると軍務に服し、終戦により修理工として復職した。その頃、近鉄名張駅で働いていたチエ子と恋仲となる。
1947年2月頃、チエ子と結婚、一男一女に恵まれた。この結婚は一部の親族から反対されたが、それを押し切って結婚している。
1958年7~8月頃、夜這いという当時の風習で、北浦ヤス子宅にしばしば出入りするようになる。1959年7月、ヤス子の夫が死亡すると愛人関係となり、村で噂されるようになった。
彼は今でいうイケメンで、村でも大変モテたという。
三角関係が動機とされたが・・・
この三角関係については、本来なら愛憎劇となるところで、裁判ではそれが動機とされている。だが、実際の行動だけを見ると、少し違和感があるのだ。
奥西夫婦と愛人・ヤス子は同じ石切り場で働いており、女性2人は仕事場に行くのも一緒だった。休みの日には3人は他のメンバーと一緒に映画を見に行ったり、花見の計画を立てるなどしている。花見は事件の5日後に予定しており、メンバーはそれを楽しみにしていたという。
事件の動機といわれている「三角関係のどろどろした雰囲気」は感じられない。
しかし、控訴審では1960年1月20日頃、妻に逢引きを目撃されたことをきっかけに、夫婦仲は悪くなったとされる。そして事件のあった1961年3月には、妻のチエ子は離婚も考えていたとしている。
愛人のヤス子も「噂話をする近隣と口論していた」など、三角関係のもめ事があった前提で裁判は進められた。
時代背景を考えると、一時のお楽しみである「夜這い」なら容認されていた可能性はある。しかし、その後配偶者が他界して、特別な関係になると話は変わってくる。
妻のチエ子に嫉妬心が生まれるのは当然で、家の中では夫婦仲が険悪でも、まわりには平常を装っていたのかもしれない。
奥西勝は集落の生贄だった?

この「名張毒ぶどう酒事件」で一番不可解なのは、村人たちの証言が、ある時期から一斉に変わったことです。
当初は各人の証言をもとに「ぶどう酒が会長宅に届いたのは午後4時前」ということで矛盾はなかったのです。それが証言が変わったことにより午後5時10分に変更されました。
午後4時前なら容疑者は数人いることになります。しかし、午後5時10分だと奥西勝しかいないのです。彼がぶどう酒を会場に運び、みんなが集まってくるまでの「空白の10分」しか犯行は行えない、という結論です。
この証言が変わった原因について2つの説があります。
ひとつ目はお決まりの「警察が誘導した」説。冤罪のほとんどは警察の不正が原因で、袴田事件でもその疑いは濃厚です。実際に第一審では、裁判長はそれを疑い、無罪判決を出しました。
当時の警察は一部に「犯人は作ってでも逮捕しろ」という空気があり、自白の強要や証拠の捏造は実際にありました。この事件では、犯人に仕立て上げるのに奥西勝はちょうどよかった、という説です。
もうひとつは「村人による生贄」説で、奥西勝は村人の総意で犯人に仕立て上げられた、とする説です。本当は別に犯人がいて村人たちはそれに薄々気付いている、しかしその人を犯人とは言えないので奥西を生贄のように差し出した、というわけです。
この場合、犯人として考えられるのは「村の有力者」です。こういう山奥の小さな集落で生きていくには、有力者に逆らうのはタブーです。もし逆らえば村八分にされ、生きていけなくなります。「正義よりも大事なこと」が小さな社会にはあり、これが「集落の闇」といわれる部分です。
この事件では、会長の身内が「時間に関する証言」を変えたのを機に、村人たちもそれに沿うように証言を変更しています。それによって「ぶどう酒が届いた時間」は変更され、容疑者は奥西勝ひとりに絞られました。
会長宅では嫁姑問題が深刻な状態で、夫婦仲も最悪だったといわれています。会長の妻・フミ子はぶどう酒で死亡しましたが、会長は事件後すぐに再婚したそうです。
もし仮に、生贄を差し出した集落の思惑に、警察が乗っかったのだとしたら、これは恐ろしいことです。片方なら崩せても、集落と警察の両方を崩すのは容易ではないでしょう。
ネットでは他にも「会長と愛人の取り合いになって恨まれた」とか、「イケメンでモテたから、まわりから妬まれていた」などいわれていますが、定かではありません。
奥西勝はもう亡くなってしまいましたが、もし冤罪なら罪を晴らしてあげてほしいと思います。