スポンサーリンク
スポンサーリンク

JT女性社員逆恨み殺人事件|理不尽すぎる復讐殺人

持田孝/JT女性社員逆恨み殺人事件 日本の凶悪事件

「JT女性社員逆恨み殺人事件」の概要

1997年4月18日、東京都江東区大島の団地で、ひとりの女性が刺殺された。容疑者として浮上したのは、7年半前この女性を強姦していた持田孝(当時54歳)だった。
自分に100%の非があるにもかかわらず、持田は「女性が通報したせいで懲役7年に処された」と、身勝手な恨みを抱いていた。裁判でも「女性が謝れば殺さないつもりだった」などと、あきれる供述をくり返した。
裁判では一審の無期懲役から、高裁では逆転死刑の判決。最高裁がこれを支持したことで、死刑確定となった。持田には過去に別の殺人前科もあった。

事件データ

犯人持田孝(当時54歳)
事件種別殺人事件
発生日1997年4月18日
場所東京都江東区大島
被害者数1人死亡
判決死刑:東京拘置所
2008年2月1日執行(65歳没)
動機身勝手な復讐
(強姦被害者の通報により、7年服役した)
キーワード逆恨み

事件の経緯

持田孝(当時47)は1989年12月19日午前1時頃、江東区大島六丁目のバス停付近でタクシーを待っていたところ、タクシーから下車する女性を見かけた。女性は日本たばこ産業(JT)の社員・鹿沼京子さん(当時37)で、酒に酔っているようだった。

持田が鹿沼さんを飲みに誘ってみると、彼女は酔った勢いなのかこれに応じ、2人は大島六丁目団地から徒歩2、3分の距離にある飲食店で酒を飲んだ。

持田はこの時の会話から、鹿沼さんの仕事や大島六丁目団地でひとり暮らししていることを知った。

日本の確定死刑囚 執行の時を待つ107人の犯行プロフィール

午前2時頃に店を出ると、持田は鹿沼さんをホテルに誘った。しかし彼女はこれを断りつつ、警戒して自宅とは別方向に歩いたが、持田はつきまといながらしつこく誘い続けた。そして、鹿沼さんが団地脇の暗がりに差し掛かったところで、突然抱きついてキスを迫った。

鹿沼さんは腕を振り払って逃げようとしたが、持田は首を両手で絞めつけて失神させた。さらに性的快感を高めるため、落ちていた電気コードで首を強く絞め、鹿沼さんを強姦した。この暴行で鹿沼さんは首に全治約2週間の怪我を負った。

鹿沼さんを襲ったあと、持田は彼女の財布などが入ったショルダーバッグを盗み、半裸で失神した状態の鹿沼さんをそのまま放置して逃走した。その後、鹿沼さんは現場で倒れているところを通行人に発見されたが、意識が回復してからも「自分が強姦されたかどうか」もわからない状態だった。

強姦致傷罪で服役

ショルダーバッグに入っていた手帳から鹿沼さんの電話番号を知った持田は、数日後、彼女に電話した。用件は、「強姦された」ことをネタに金を強請ることだった、「そっちの出方次第では、強姦されたことを会社の人にバラす」「警察に言えばどんな目に遭うかもしれないぞ」などと脅して10万円を要求、12月29日10時に大島駅(都営地下鉄新宿線)の改札口付近で現金を受け渡すよう指定した。

鹿沼さんは被害に遭ったことを家族にさえ打ち明けていなかったが、勇気を出して警視庁城東警察署に被害届を出した。持田は約束の日時に指定場所に現れたところを、張り込んでいた捜査員によって逮捕された。

この事件で強姦致傷・窃盗・恐喝未遂の罪に問われた持田は、1990年3月13日、東京地裁で懲役7年が言い渡され、同月28日付に確定。札幌刑務所に収容された。

死刑囚 238人最期の言葉

持田は逮捕されて以降、表面上は反省の態度を見せていたが、実際には逮捕直後から、「(鹿沼さんが)警察に届けないという約束を破ったせいで捕まった」と逆恨みしていた。そして鹿沼さんに激しい憤りを覚えるとともに、「自分の言葉が脅しではないことを思い知らせなければならない」と考え、出所したら鹿沼さんを殺害して恨みを晴らす決意した。

持田が恨みを増幅させたのは、判決直後に同房の未決囚から「(懲役7年は)普通より1、2年重い」と言われたことや、「7年もの長い年月を、気候の厳しい札幌刑務所で受けることになった」ことが原因だった。

7年間の服役中、持田は計13回の懲罰を受け、服役中の大半を独居房で過ごした。その辛さもあってか、”鹿沼さんを殺害する決意” は、出所まで一貫して持ち続けた。

お礼参り殺人

1997年2月21日、持田は札幌刑務所を満期出所となった。同日中に札幌駅から上野駅行きの夜行列車に乗り、翌22日朝に上野駅に到着。その日のうちに母親の住む、船橋市内の県営住宅に身を寄せた。

翌23日、事件の夜に鹿沼さんから聞き出した言葉を頼りに大島六丁目団地へ出向いた。持田は怪しまれないよう1日1棟に限定し、大島六丁目団地の7棟すべて(2000戸以上)の集合郵便受けの名前を調べ始めた。

一方24日以降は、かつて勤務していた東京都墨田区錦糸の設備会社で作業員として働くようになり、3月1日には作業現場付近のディスカウントショップで、殺害用の凶器として包丁1本とペット用ロープ2本を購入した。ロープは絞殺することになった時のために買った。

その後、持田は設備会社を辞め、3月14日以降は江戸川区内の建設会社で社員寮に住み込みながら、建設作業員として働き始めた。16日頃からは、仕事の休みを利用して再び大島六丁目団地の調査を再開。そして4月7日、1号棟410号室でついに鹿沼さんの名前を発見する。

「5月の大型連休になれば、どこかへ出かけて不在かもしれない」と考えた持田は、連休前に殺害を決行することにし、その日を4月18日と決めた。殺害方法は、彼女が出勤または帰宅する時を狙い、「約束を破って警察に届け出た恨みを晴らしに来た」ことを伝えたうえで包丁で刺殺するというものだった。

4月13日頃から、持田は殺害の準備を始めた。包丁の柄に滑り止めのためのビニールテープを巻き付けたり、持ち運ぶ際に包丁だとわからないように生活情報誌を使って包丁の鞘を作った。また、犯行後は社員寮を引き払うことを考え、衣類の一部を手提げ袋の中に入れ、本八幡駅(千葉県市川市)のコインロッカーに預けた。

出勤時の襲撃は失敗

決行日の4月18日午前6時45分頃、持田は凶器の包丁を持って社員寮を出た。目的の大島六丁目団地1号棟には午前7時30分頃に到着。玄関の表札から、鹿沼さんの部屋であることを確認した。

室内には明かりが点いていたことから、鹿沼さんは部屋にいるようだった。持田は人目につかないよう、部屋から10数メートル離れた北側の非常階段の踊り場で待機し、鹿沼さんが部屋から出てきたところを狙うことにした。

午前8時頃、鹿沼さんが部屋から出てきた。持田は彼女の後を追いかけ、背後数メートルまで迫った時、階段を降りてくる人の足音が聞こえた。それに一瞬怯んで立ち止まったところ、鹿沼さんはエレベーターに乗って下りてしまい、そのままタクシーで団地をあとにした。

仕方がないので持田は計画を変更し、鹿沼さんの帰宅時を狙うことにした。着ていたセーターを脱いで包丁を包み、鹿沼さんの部屋の玄関脇のメーターボックスの中に隠した。その後、付近の酒屋で酒を買って飲んだり、社員寮に帰って昼寝をしたりして時間を潰し、午後7時過ぎ、再び鹿沼さんの部屋の前に戻ってきた。

ついに殺害

室内の様子から、鹿沼さんはまだ帰宅していないようだった。持田はメーターボックスの中から包丁を取り出し、南側の非常階段の踊り場で鹿沼さんの帰宅を待った。

一方、鹿沼さんは午後6時10分に渋谷区南平台の勤務先を退社したあと、港区で開かれた「女性問題フォーラム」に知人女性たちと参加。午後8時50分頃、営団地下鉄(現・東京メトロ)永田町駅で友人と別れた。

午後9時過ぎ、持田(当時54)は1号棟に向かって歩いてくる鹿沼さん(当時44)の姿を見つけた。持田はエレベーターで1階に下りると、開いたドアの先に鹿沼さんが立っていた。持田は絶好のチャンスだと考え、黙って鹿沼さんが乗り込むのを待った。鹿沼さんは持田に気付いていなかった。

エレベーターに乗った鹿沼さんに「何階ですか」と声をかけ、返答に応じて4階のボタンを押した。エレベーターが上昇を始めると、持田は「鹿沼さんですか」と尋ね、彼女が肯定するのを確認すると「俺のこと覚えてるか」と話しかけた。

鹿沼さんは、首を傾げながら持田の顔を見ていた。持田はすかさず、「7年前の事件は覚えているか」と低い声で脅し、包丁を取り出した。それを見た鹿沼さんは、悲鳴を上げながら持田に飛びかかり、持田から包丁を奪い取った。

エレベーターが4階に着くと、鹿沼さんは奪い取った包丁を手にしたままエレベーターから降り、「助けて、殺される」と大声で叫びながら、北側の壁際まで後ずさりした。思わぬ抵抗に動揺した持田だったが、「殺すなら今しかない。少しくらい怪我をしても殺害しよう」と考え、自分を近づけまいと包丁を向ける鹿沼さんに飛びついた。そして壁に抑えて蹴りを入れ、包丁を奪い返すと鹿沼さんの腹や胸を何度も突き刺した。

心臓に達する致命傷を負わせたことを確認した持田は、鹿沼さんのハンドバッグを盗んで階段を駆け降りた。そして大島駅付近から約3 km離れた船堀駅(都営地下鉄新宿線)付近までタクシーに乗って逃走。料金は鹿沼さんから盗んだ金で支払った。

すぐに容疑者として浮上

午後9時20分頃、鹿沼さんの悲鳴を聞いた4階の住人が110番通報した。この住人は、大量出血して倒れている鹿沼さんに「大丈夫ですか」と声をかけたが返事はなかった。鹿沼さんは午後10時39分頃、搬送先の東京都立墨東病院で死亡が確認された。死因は失血死だった。

警視庁捜査一課と城東警察署は、殺人事件と断定して特別捜査本部を設置した。現場の状況から、被害者はエレベーターから降りた直後、待ち伏せしていた犯人に襲われたものとみられた。また傷が心臓まで達していたことから、動機は怨恨とみて捜査を進めたところ、捜査線上に持田が浮上した。

事件直後、船堀駅付近までタクシーに乗った不審な男は、運転手の証言から持田に似ていることが判明。タクシー内から検出された血痕は、殺害現場に遺されていた血痕と同一人物のもので、それは持田と同じ血液型だった。現場に残された掌紋も、持田のものとみて間違いなかった。

これらのことから、特捜本部は持田を容疑者とみて行方を追った。そして4月26日午後、持田は船橋市の自宅に戻ったところを、張り込んでいた捜査員によって発見され、同日夜に殺人容疑で逮捕された。東京地検は5月16日、持田を殺人罪で起訴した。

持田は取り調べに対し、「7年前の事件のことを謝ろうと思って待ち伏せしたが、騒がれたので殺した」「ビルの一部解体の作業中、現場で凶器に使った包丁を見つけた」などと供述した。しかし「”謝罪に行く” のに包丁を所持していた」ことや「犯行の1週間前から被害者宅を下見していた」など、不自然な点が多かった。

特捜本部は「以前の強姦致傷事件で被害者から告訴され、それを逆恨みして殺害した」とみて追及。その結果、持田は「被害者のせいで刑務所暮らしになり、恨みを晴らすためにやった」と認める供述をした。

持田は検察官の取り調べに対して、一貫して「強姦致傷で逮捕された時から、約束を破った仕返しに必ず殺すという決意があった」「警察に訴えないと約束したのに、通報して逮捕させたことが許せなかった」などと、心情を交えて具体的に供述していた。

持田孝の生い立ち

持田孝/JT女性社員逆恨み殺人事件

持田孝は1942年5月15日、当時日本統治下にあった朝鮮の京城府で、5人兄弟姉妹の次男として生まれた。終戦後、家族とともに日本に引き揚げ、1947年(昭和22年)頃から福岡県戸畑市(現:北九州市)に住むようになり、1958年(昭和33年)3月に戸畑市立の中学校を卒業した。

その後、九州などで映写技師見習い、塗装店や映画館の従業員などの職を転々とした。1976年(昭和51年)8月、後述する「女子高生殺人事件」を起こしたが、それまでにも山口県下関市内で窃盗の前歴が2回あった。

殺人で懲役10年となり、岡山刑務所に服役したが、1984年(昭和59年)12月20日に仮出所となった。出所後は船橋市咲が丘4丁目に転居していた両親のもとに身を寄せ、地元の映画館で映写技師として働いたり、東京都内で住み込みの建設作業員などをしていた。

しかし、1987年末から1988年初めにかけ、盗んだ自動車を無免許で運転したとして、1988年3月10日、東京地裁で懲役1年2月に処され、府中刑務所で服役した。1989年2月15日に府中刑務所を仮出所して以降、東京都江東区内の建設会社で建設作業員として働いた。

その年の12月19日、本事件の布石となる強姦致傷事件を起こした。被害者が警察に届け出たことから逮捕され、札幌刑務所で懲役7年の服役となった。被害者は脅されて「警察に言わない」と約束していたが、持田は ”通報は裏切り” と身勝手に恨みを募らせた。

死刑囚200人 最後の言葉

1997年2月21日に札幌刑務所を満期出所すると、持田は理不尽な復讐殺人に向けて行動を開始する。被害者の住む団地を探し当てた持田は、1997年4月18日、本事件を起こした。裁判では2004年10月13日、最高裁で死刑が確定。そして2008年2月1日、東京拘置所で死刑を執行となった。(65歳没)

徳之島兄家族殺傷事件の名古圭志死刑囚、主婦連続強盗殺人事件の松原正彦死刑囚も、この日同時に死刑執行されている。

殺人の前科

持田は1976年8月、広島県広島市で女子高生(当時16歳)を殺害して懲役10年に処された前科があった。

1976年8月6日、下関市内のストリップ劇場で照明係として働いていた持田(当時34歳)は、下関市内の喫茶店で、家出中の女子高生と偶然知り合い、肉体関係を持った。持田は勤務先のストリップ劇場に雇ってくれと女子高生を紹介したが、未成年であることを理由に断られた。

8月10日、持田は女子高生と広島市内に来て、広島市田中町(現:広島市中区田中町)のホテルに宿泊したが、市内での職探しはうまくいかなかった。

8月12日、持田はホテルで「一緒に大阪に行こう」と女子高生を説得するも、両親のもとに帰る気になっていた女子高生はこれを拒否。その冷たい態度に持田は腹を立て、愛情が憎悪に変わってしまった。また、思い通りにならない苛立ちも加わったことから、持田は彼女の首に浴衣の腰紐を巻き付け、強く絞めつけて殺害した。

その後、ホテルから逃走した持田は、大阪市港区市岡2丁目の簡易宿泊所に偽名で宿泊していた。しかし、広島県警によって指名手配され、8月25日に簡易宿泊所で逮捕された。その際の所持金は、わずか300円だった。

1977年(昭和52年)1月29日、持田に懲役10年が確定し、岡山刑務所に服役した。その後、1984年(昭和59年)12月20日に仮出所となった。

裁判

初公判は1998年7月3日に東京地裁で開かれ、罪状認否で持田孝被告は起訴事実を全面的に認めた。

弁護側は「持田被告は ”報復” に囚われすぎて、精神病様の状態だった」として、事件当時は完全な責任能力がなかったと主張。「殺意の存在」そのものは争わなかったが、「殺意の形成過程」や「責任能力」を争点とした。

弁護側は「被害者と対面するまで持田被告は殺害を迷っており、被害者が包丁を奪い取るなどの予想外の行動に出たことから、パニック状態に陥って殺害を決意した」と主張した。

また、その際、右手人差指に切り傷を負ったことで逆上・激昂し、「善悪の弁別能力や自己制御能力が喪失していたか著しく減退していた。本件殺人は正当防衛・誤想防衛・過剰防衛のいずれかに該当し、また持田被告は犯行時、心神喪失か心神耗弱の状態にあった」と述べた。

12月4日、弁護側の被告人質問で、持田被告は「被害者が警察に通報したことを『悪かった』と言えば殺さなかった」「(殺意は)直前まで五分五分だった」と供べ、確定的な殺意を否定した。

裁判長から「被害者が『申し訳ないことをした』と言うと思ったのか」「警察に届け出た被害者が間違っていると思うのか」などと強い口調で質問されると、持田被告は答えられない場面もあった。

また持田被告は、表面上は遺族に謝罪の意を示していたが、強姦致傷事件について「彼女にも落ち度があったと思う。見知らぬ男から声をかけられれば注意するのが普通だと思う」と供述していた。

その後、弁護側から精神鑑定が申請され、東京地裁はこれを認めた。そして精神鑑定が行われたが、その結果について東京地裁は疑問を呈した。なぜなら鑑定の前提となる持田被告の供述が、取り調べ時と鑑定時とでは異なる内容だったためである。

1999年2月12日の論告求刑で、検察側は持田被告に死刑を求刑した。犯行動機について「犯罪被害者が警察に被害を届けるのは当然の権利」としたうえで、「それを逆恨みして報復するのは言語道断。刑事司法に真っ向から挑戦するに等しい反社会性の強い犯行だ」と批判した。

さらに、持田被告に殺人前科があることなどを挙げ、「人命を軽視する持田被告の自己中心的で冷酷かつ非情な反社会的性格は顕著で、年齢(当時56歳)を考えれば改善を期待することは不可能」と結論づけた。

3月16日の最終弁論で、弁護側は「深夜に偶然出会った男(持田被告)と2人で飲酒し、店を出てからも一緒に夜道を歩いたのは被害者の重大な落ち度だ」「その落ち度が強姦事件に直結し、最終的に7年半後に刺し殺される羽目になった」という内容の弁論を行い、傍聴席から怒号が飛ぶ事態となった。

1999年5月27日の判決公判で、東京地裁は持田被告に無期懲役の判決を言い渡した。裁判長は殺意について、以下の理由から「札幌刑務所を出所した時点で、被害者に対して確定的な殺意を抱いていた」と認定した。

  • 出所からわずか2日後に、団地で被害者の居室を探し始めた
  • 居室を特定する前に凶器の包丁などを購入している
  • 犯行直前、包丁の柄に滑り止めのビニールテープを巻きつけた
  • 被害者を待ち伏せ、『7年前の事件のことを覚えているか』と脅している

量刑については「本件は誠に悪質な事案であって、被告人の刑事責任は重いが、極刑がやむを得ない事案であるとまでいうことはできず、被告人に対しては無期懲役刑をもって臨むのが相当であると考えられる」と結論づけた。検察側は、量刑不当を理由に6月4日付で控訴した。

高裁で逆転死刑

控訴審でも持田被告は、「被害者が警察に届け出たことを謝罪すれば、殺害するつもりはなかった」との主張を維持した。

2000年2月28日の控訴審判決で、東京高裁は原判決を破棄自判し、持田被告を死刑とする判決を言い渡した。犯行動機については「理不尽、身勝手、短絡的で、酌量の余地がない」と指摘したうえで、「持田被告が強姦致傷事件で逮捕されてから、一貫して被害者の殺害を考え続けており、出所後に計画を具体化させて実行した」とする原判決の判断を追認した。

また、凶器として「包丁だけでなく、絞殺も想定してロープ2本を用意していた」点など、「いずれも被告人が持つ危険な犯罪性行というべきである」と指摘した。また、過去の殺人前科で出所してから本件発生まで10年あまりしか経過しておらず、その間にも強姦致傷事件を含めて2回服役したにもかかわらず、札幌刑務所を出所してからわずか2か月弱で犯行におよんだ点から、「被告人の犯罪性行は相当に深化しているものと評価しなければならない」と述べた。

弁護側は判決を不服として、3月8日付で最高裁に上告した。

判決における事実認定が同一にもかかわらず、第一審判決の無期懲役が控訴審で破棄され、逆転死刑判決が言い渡された事例は、当時としては異例だった。

最高裁で死刑確定

2004年7月16日に上告審の公判が開かれ、上告審は結審した。弁護側は計画性や強固な殺意を否定したうえで、「動機は単なる恨みであり、利欲的な動機はない」として、死刑判決を破棄するよう求めた。

一方、検察側は「強固な殺意は明らかで、被害者1人で死刑が確定した他の事案と比べても、勝るとも劣らない非道な犯行」「報復殺人は犯罪を助長させ、治安の根幹を揺るがせかねない」と主張し、上告棄却を求めた。

裁判長は「持田被告を目の前でよく見ている1審の判断は重い」と感じ、「死刑以外の選択肢はないのか」とも考えていたが、最終的には上告棄却の結論を出し、「もう後戻りできない」と考えながらも判決文に署名した。

10月13日の上告審判決で、最高裁は持田被告側の上告を棄却する判決を言い渡した。これにより、持田被告の死刑が確定した。

裁判長は「動機の悪質性」や、「高度な計画性・強固な殺意に基づく犯行である」ことなどを理由に、「被告人の罪責は誠に重大であり、一審判決(無期懲役)を破棄して死刑に処した高裁の判断は、やむを得ないものとして是認せざるを得ない」と結論づけた。

タイトルとURLをコピーしました