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大阪姉妹殺害事件|イケメン死刑囚は、性的サディストだった

山地悠紀夫/大阪姉妹殺害事件 日本の凶悪事件

「大阪姉妹殺害事件」の概要

2005年11月17日、大阪市浪速区のマンションで火災が発生した。部屋に突入した消防隊員は、住人である姉妹の刺殺体を発見、この火災が殺人の証拠隠滅のための放火であることが判明する。
犯人は数日前までこのマンションに住んでいた山地悠紀夫(当時22歳)だった。山地は16歳の時に実母を撲殺していたが、その際に性的に興奮したことを思い出し、再度の殺人に手を染めたのだ。
「死刑でいいです」と反省も後悔も示さず、弁護人権限の控訴も自ら取り下げ死刑が確定。そのわずか2年後、死刑は執行された。

事件データ

犯人山地悠紀夫(当時22歳)
事件種別強盗殺人事件
発生日2005年11月17日
場所大阪府浪速区塩草2丁目8
被害者数姉妹2人
判決死刑:大阪拘置所
2009年7月28日執行(25歳没)
動機快楽殺人
キーワードイケメン、性的サディズム

事件の経緯

大阪姉妹殺人事件・現場マンション

16歳で母親殺害の過去を持つ山地悠紀夫(当時22歳)は、2005年2月頃から福岡のパチスロのゴト師集団に所属し、ゴト行為をして生計を立てていた。だが翌月、岡山県のパチスロ店で不正行為をしようとした窃盗未遂容疑で逮捕・起訴猶予となる。

ゴト師とは?

ゴト師とはパチンコ・パチスロで意図的に不正手段を用い、不正に出玉を獲得する者のこと。山地の集団は体感器というものを使い、大当たりの周期を知る手段だった。

この時、捕まったのは山地だけだったが、仲間を売らなかったことでゴト師集団に復帰できた。だが、こうした不正行為も店側・警察の対策が進んでくると、儲けるのが難しくなる。集団はゴト行為が通用する地方を渡り歩いたが、11月11日から大阪市浪速区のマンション6階を拠点として、活動を開始した。

そんな中、山地の成績は安定しているように見えたが、実は消費者金融で借りた金をゴト行為で儲けたとみせかけて上納しているだけだった。だが借金が上限を超えるとそれもできなくなり、”稼げなくなった” 山地は元締めから怒鳴られてばかりになった。

我思うゆえに我あり 死刑囚・山地悠紀夫の二度の殺人

11月13日、ひどく罵倒された山地は腹を立て、拠点のマンションを飛び出した。その日は近所の公園で野宿し、翌日荷物を取りにマンションに戻った。そして元締めに辞めるあいさつをして公園に戻り、今後のことを考えた。

山地には ”守るもの” も ”失うもの” もなく、居場所さえなかった。やがて、そんな思いから「どうせなら、やりたいことをやってしまおう」と考えるようになる。

そして、「母親を撲殺したときに快感を覚えた」ことを思い起こして、”人を殺したい” という気持ちが高まってきた。山地は殺害行為を具体的に考えるようになり、「殺す相手が女性なら、強姦してしまおう。金を持っていたらそれも奪おう」と思った。

実行場所については、昨日飛び出してきた「ゴト師集団の拠点のマンション」を想定していた。ここなら勝手もわかるし、自分を罵った元締めに対する当てつけもできるとの考えだった。こうして、このマンションの住人を狙うことを決めた。

姉妹を殺害

2005年11月15日、山地は犯行に使うペティナイフをコンビニで購入。その日の夜から翌16日未明にかけ、マンションの階段や通路をうろつき、殺害する相手とその機会をうかがった。

結局、この日は実行には至らずマンションから立ち去ったが、午後7時頃、追加の凶器としてコンビニで金槌を購入した。

上原明日香さん・千妃路さん姉妹/大阪姉妹殺害事件

山地は野宿しながらマンション住民を観察して、ある姉妹をターゲットに決めていた。それは4階の一室で同居する上原明日香さん(27歳)と妹の千妃路さん(19歳)だった。

被害者姉妹について

姉の明日香さんは大阪府東大阪市生まれ、会社経営に苦心する両親をサポートするため弟や妹の面倒をよく見ていた。事件当時勤めていた飲食店の女性経営者は「面倒見のいい子で客の評判も良かった」と話した。経営者は、明日香さんとブライダル関係の会社を設立する予定だった。

奈良県で生まれた妹の千妃路さんは、別の飲食店で働きながら介護へルパーを目指していた。年明けに成人式を迎える予定で、事件前日に「お金がかかるから、成人式用の着物は要らないよ」と母親に話したのが最後の会話となってしまった。

16日午前3時頃、姉妹の部屋の電気が配電盤トラブルで2回にわたって消えていた。点検した電力会社によると「姉妹の部屋のスイッチがいたずらされた形跡がある」とのことだった。このトラブルの最中、配電盤周辺で「眼鏡をかけリュックを背負った男(山地)」を姉が目撃し、勤務先の同僚や客に話していた。

また、その日の深夜(事件の4時間前)には姉妹の部屋にベランダ側から侵入しようと、隣接するビル伝いに配管をよじ登る姿が近隣住民に目撃されていた。

連続殺人犯/小野一光

11月17日午前2時半頃、姉の明日香さん(27歳)が飲食店の仕事を終えて帰宅した。明日香さんがドアを開けた瞬間、山地は背後から襲撃。明日香さんを室内に突き飛ばしてドアを施錠すると、ナイフで左頬を刺した。そして部屋の奥まで引きずると、幾度もナイフで刺し続けながら性的暴行を加えた。

その約10分後、玄関ドアを開錠する音に気付いた山地は死角に身を隠した。妹の千妃路さんが帰ってきたのだ。山地は千妃路さんが室内に入ると手で口を塞ぎ、いきなり胸にナイフを突き立てた。そして彼女を部屋の奥まで引きずると、執拗にナイフで切りつけながら性的暴行を加えた。

それからベランダで煙草を吸ったあと、姉妹の胸を再び突き刺して殺害。証拠を消すために室内に放火し、現金5000円や小銭入れ、500円玉貯金箱などを奪った。そして、みつけたカードキーで玄関を施錠すると階段で2階まで下り、隣接する会社ビルの敷地を伝って逃走した。

現場周辺で逮捕

山地悠紀夫/大阪姉妹殺害事件
実況見分する山地悠紀夫

放火したせいで、事件は間もなく発覚した。現場から発見された姉妹2人は病院に運ばれたが、搬送先で死亡が確認された

不審者の目撃証言もいくつかあった。事件直前の午前1時頃には、マンションを訪れた少女が、不審な男を目撃していた。眼鏡をかけカーキ色のジャンパーを着たその男は、近くの路上で自転車に乗ったままマンションを凝視していたという。そして少女をしばらく見たあと、走り去った。

その直後の午前1時半頃、マンションから外出した男子専門学校生も「前の道で、くすんだカーキ色のジャンパーを着た男が、こちらをじっと見ていた」と証言した。

マンションの住人であるゴト師集団の部屋にも、警察は聞き込みにきた。目撃された不審者の風貌は ”山地そのもの” で、元締めは驚き頭を抱えたという。

複数の近隣住民に目撃されていたうえに、山地の指紋は警察のデータベースに登録されていた。岡山県の窃盗未遂事件で逮捕された際、指紋と掌紋を採取されていたのだ。これが犯行現場から発見されたものと合致したことで、山地の名前はすぐに重要参考人として浮上した。

一方、山地は事件後、”事件の詳しい情報を得られる” 地元を離れず、現場からわずか200mの公園で寝泊まりしていた。そして事件発生から18日後となる12月5日、現場から1kmほどの銭湯を出てきた時点で捜査員に尾行され、その後100円ショップから出てきたところを逮捕された。

この時の逮捕容疑は「現場マンションに隣接するビルへの建造物侵入」だったが、刑事に対し「完全黙秘します」と山地は答えている。所持金は2万数千円で、姉妹の「500円玉貯金箱」から盗んだ500円玉40枚が含まれていた。

逮捕後、建造物侵入は認めた山地だったが、殺人については否認していた。だが12月18日、ようやく殺人を認めるに至り、凶器のナイフは供述どおり、マンションから約400m離れた神社敷地の2階建て倉庫で発見された。

「殺すのは誰でも良かった」と供述した山地だが、最初から姉妹を狙っていたと考えられている。”姉妹の部屋の配電盤をいじった” ことに加え、事件の4時間前には隣接するビル伝いに配管をよじ登る姿が近隣住民に目撃されていた。これはベランダ側から姉妹の部屋に侵入を試みたものと思われる。

「母親を殺したときのことが楽しくて、忘れられなかった」と快楽殺人を主張し、「死刑でいいです」と言い放った山地。送検される車内から報道陣のカメラに不敵な笑みを浮かべるなど、世間を騒然とさせた。

その後、山地は住居侵入・強盗殺人・強盗強姦・銃砲刀剣類所持等取締法違反・建造物侵入・非現住建造物等放火の罪で起訴された。

山地悠紀夫の生い立ち

山地悠紀夫/大阪姉妹殺害事件
中学時代の山地悠紀夫

山地悠紀夫は1983年8月21日、山口県で生まれた。

大工をしていた父親は、体を壊してパチンコ店に勤務、それも長続きせず辞めて酒浸りの生活を送っていた。酔って暴れることもしばしばで、ガラスを割ったり、箪笥をひっくり返したり、母親に手を上げることも多かった。

生活費は母親がスーパーで働いて稼いだが、十分な収入とはいえず家は貧しかった。山地が小学5年の時、肝臓疾患を抱えていた父親が自宅で血を吐き、搬送先の病院で死亡。その後は母親と2人暮らしとなった。

好きだった父親の死がきっかけで、山地は学校での問題行動が多くなり、自分より弱い者に難癖をつけて殴ったり、校舎の窓を割ったりするようになった。

中学校に進学すると、今度は周囲と合わせられない山地へのイジメが始まった。同級生らから教室の外に締め出されるなどしたため、それに反発して2年の2学期から登校しなくなった。また、この頃の山地家は経済的に困窮していて、電気・ガスが止められたり、借金取りがやってくるようになった。

死刑囚の最期~葬られた心編

中学校卒業後、友人から誘われて16歳で新聞配達のアルバイトを開始。その給料で近所のおもちゃ屋で買い物をするようになった山地だが、この店の7歳上の女性店員(当時23歳)に恋心を抱いた。

彼女は恋人とうまくいってない様子で、思い切って告白すると、彼女は山地を部屋に招き入れてくれた。そして、2人は肉体関係を持った。その後、女性店員は恋人と山地を天秤にかけているようだった。

ある時、彼女の携帯電話に何度か無言電話があり、着信履歴から山地の母親がかけたものと判明。山地は母親が借金で自分を苦しめるだけでなく、恋愛まで邪魔しようとしていると思い込む。

2000年7月29日、帰宅してきた母親に借金のことや無言電話の件を問いつめた。母親は無言電話なんか知らないと、とぼけようとする態度だったが、これに山地の怒りが爆発。母親の顔を殴り背中を蹴り、近くにあった金属バットを手にすると、母親に向けて振りおろした。そして我に返った時、母親(当時50歳)は血まみれで息絶えていた。(山地は少年時代から母親のことを嫌いだったという。)

この一連の暴力行為の最中に、山地は「興奮を覚えて射精していた」ことが、のちの裁判で明らかになっている。

翌朝、山地はいつも通り新聞配達をしたあと、女性店員を誘って喫茶店でランチをした。夕方、自宅に戻った山地は母親の死体を毛布でくるみ、翌日「母親を殺した」と110番した。

死刑確定後、わずか2年で執行

山地悠紀夫/大阪姉妹殺害事件
山地悠紀夫

2000年9月、犯行時16歳の山地はこの母親撲殺事件により中等少年院送致の処分を受け、少年院に収容された。そして約3年後の2003年10月、20歳になった山地は少年院を仮退院し、山口県下関市内の更生保護施設に短期間入所した。その後、住み込みでパチンコ店の店員として働きだし、2004年3月末日に少年院を退院。保護観察も終了した。

山地は2005年1月頃まで2、3軒のパチンコ店で働いたが、2月頃に知人から俗にゴト師と呼ばれる集団の元締めを紹介され、ゴト師集団に加わった。だが2005年3月、岡山県のパチスロ店で不正行為をしようとした窃盗未遂容疑で山地はひとりだけ逮捕・起訴猶予となった。

この時、仲間を売らなかったことで再びゴト師集団に復帰することができた。だが店側も警察も、こうした不正行為への対策が進み、儲けるのは一段と難しくなってきた。そんな中、集団は11月11日から大阪市浪速区のマンションを拠点として活動するようになった。

山地は安定して稼いでいるかに見えたが、実は消費者金融で借りた金を納めているだけだった。やがて借金もできなくなると、上納もできず元締めは山地に怒鳴り散らすようになる。11月13日、たまりかねた山地は拠点のマンションを飛び出した。

近所の公園で野宿しながら今後の身の振り方を考えた山地だが、”守るものも失うものも、居場所もない” 現状に思い当たり、「やりたいことをやろう」と考えるに至った。そして、母親を撲殺したときに快感を覚えたことを思い出して人を殺したくなり、2005年11月17日、本事件を起こした。

裁判では第一審で死刑判決。本人に控訴の意志はなかったが、弁護人が「死刑は重い」として弁護人権限で控訴。しかし、山地自ら控訴を取り下げたため、2007年5月31日、死刑が確定する。

死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人

そして、確定からわずか2年後の2009年7月28日、収監されていた大阪拘置所にて死刑が執行された。(25歳没)

この日は 自殺サイト殺人事件前上博死刑囚、川崎中国人6人殺傷事件陳徳通死刑囚も同時に死刑執行されている。

裁判

2006年5月1日、大阪地裁で初公判が行われた。

山地悠紀夫被告は、公判で起訴事実を全面的に認めた。弁護側は「被告は犯行時、心神耗弱状態だった。強盗の故意もなく、強盗殺人罪・強盗強姦罪は成立しない」と主張、”真の更生のため” に無期懲役を訴えていた。

この日、検察側が山地被告の供述を読み上げたが、その内容は「刺す度に性的興奮が訪れた」という衝撃的なものだった。

5月12日の第2回公判で、被告人質問において山地被告は「”人を殺すこと” と ”物を壊すこと” はまったく同じ」と述べた。母親殺害との関連性については「自分では判断できない」と答えた。

裁判長が精神鑑定の実施を決定したことで、6月9日から10月4日までは鑑定が行われた。その結果、「山地被告は人格障害であり、アスペルガー障害を含む広汎性発達障害には罹患していなかった」と診断。完全責任能力を認める精神鑑定書を証拠として採用した。

山地被告に認められる人格障害は、非社会性人格障害・統合失調症質人格障害・性的サディズムであった。

10月27日の第10回公判では、法廷に2万2796人分の「死刑を求める嘆願書」が提出された。このことについて検察官が「どう思うか?」と尋ねても、山地被告は「何も…」と答えるのみだった。

検察側は論告で、「犯行前は野宿生活を送るなど金銭に窮していた。供述からも、金品を奪う目的で押し入ったことは明らか」と指摘。「犯行時に意識障害があり、心神耗弱だった」との弁護側主張に対しては、完全責任能力を認めた精神鑑定結果を挙げ、「周到な計画性が認められるほか、犯行現場に放火して証拠隠滅工作するなど、合理的に物事を考え行動する能力があった」とした。

1990年7月(16歳の時)に母親を殺害していることにもふれ、「犯罪性向は強固で、改善更生の可能性はまったくない」と指摘。犯行動機についても、「母親殺害時に覚えた強い性的興奮を再び求めたもので、酌量の余地は皆無」と指弾した。

さらに、「性的サディズムによる犯行であり、人間性の一片も見いだすことができない。極刑を求める遺族の処罰感情は最大限反映されなければならない」と述べた。

犯行当時の心境や反省の念について、山地被告は「楽しくてワクワクした。ジェットコースターに乗っているような興奮を感じた」「反省しているかと言えば答えはノーです」と供述していた。

弁護側は最終弁論で、”責任能力を認めた鑑定結果” について「被告との面接回数が少なく供述調書に依存しており、信用性に疑問がある」と指摘。「山地被告は『殺害行為が許されない』という基本的な規範が理解できず、犯行時は自分の行動を制御することが著しく困難な状態だった」と述べた。

計画性については「姉妹が同居していることを知らず、事件後も大阪を離れようとしておらず、用意周到とは言えない」と主張。「命の大切さを十分に理解させ、一生かけて罪を償わせるためにも無期懲役が相当だ」と死刑回避を求めた。

裁判長から最終陳述を促された山地被告は「特に何もありません」とだけ述べ結審した。

控訴取り下げ、死刑確定

2006年12月13日の判決公判で、大阪地裁は山地被告に死刑判決を下した。その瞬間、山地被告はまっすぐ前を見据えたまま微動だにしなかった。

裁判長は、山地被告を人格の偏りが極端な人格障害としたが、「犯行は計画的に周到に実行された」と完全責任能力を認定。また、「主たる目的は殺人だが、強盗の故意を認めた被告の供述の信用性は高い」と強盗殺人罪などの成立を認め、弁護側の主張を退けた。

犯行については「生命への一片の畏敬の念すら感じられない」と厳しく批判。「被害者2人の夢や可能性は無惨に打ち砕かれ、愛する家族を失った遺族らの衝撃、憤りも察するに余りある」と述べた。

そして「史上まれにみる凶悪・冷酷・非道な犯行。被告は真摯に反省しておらず、矯正は不可能で極刑以外の選択肢はない。被告がまだ若いことを考慮しても、死刑が相当」と結論付けた。

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自ら控訴取り下げ

山地被告は「控訴する考えはない」と弁護人に話していたが、12月26日、弁護人権限で控訴する。その後、2007年5月31日付で山地本人が収監先に控訴取り下げ書を提出、死刑判決が確定した。

山地被告は自分の存在について、弁護人が差し入れたノートに「何のために生まれてきたのか、答えが見つからない。人を殺すため。もっとしっくりくる答えがあるのだろうか。漠然と人を殺したい」と記していた。また、被害者や遺族には「何もありません」とだけ述べたという。

2009年7月28日、大阪拘置所にて山地悠紀夫の死刑が執行された。(享年25歳)

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