栃木・妻と知人殺人事件|虐待すること自体を愉しんだ死刑囚

スポンサーリンク
スポンサーリンク
長勝久/栃木・妻と知人殺人事件 日本の凶悪事件

「栃木・妻と知人殺人事件」の概要

執拗な虐待の果てに友人をなぶり殺しにした事件が、1989年11月、栃木県小山市で発生した。
犯人の長勝久(当時22歳)は、従順でなんでも言いなりの友人に、加虐の限りを尽くしていた。虐待すること自体を愉しみ、「パチンコが出ない」ということさえ、暴行の理由にした。

最期は ”棒が倒れるように” ダウンした友人は、そのまま息絶えてしまう。遺体は焼却され、骨まで粉砕したために ”証拠なき殺人” となった本事件。長は前年の妻殺しも発覚し、最高裁で死刑が確定した。

事件データ

犯人長勝久(当時22歳)
事件種別殺人事件
発生日妻殺害:1988年11月19日
和田さん殺害:1989年11月頃
犯行場所栃木県小山市
被害者数2人死亡
判決死刑:東京拘置所に収監中
動機妻殺害:復縁を断られカッとなった
和田さん殺害:単に虐待したい欲求
キーワード虐待

「栃木・妻と知人殺人事件」の経緯

栃木県栃木市の長勝久(当時22)は、小山市の千秋さん(当時18)と1988年5月に知り合った。その翌月から2人は同棲を始め、8月3日に結婚。長は8月末に会社を辞め、9月から千秋さんの実家が経営する土建業で働き始めるも、9月中旬には仕事に行かなくなった。

仕事でも私生活でも不誠実な長は、嫉妬心や独占欲が異常に強く千秋さんを束縛した。そのうえ、暴力的だったことから、千秋さんは11月上旬に小山市の実家へ逃げ帰った。よりを戻したい長は、何度も電話をしたが、千秋さんの気持ちは変わらず、千秋さんの父親からもけじめをつけるように言われたりした。

何度目かの電話で、長が「千秋さんが車の鍵と現金50万円を持って出たので困っている」と、無視できないようなことを言ってきたため、母親は千秋さんにきっちり別れ話をするように伝えた。

こうして1988年11月19日午後7時頃、長は千秋さんを連れ出すことに成功。車の中で復縁を求めたが、千秋さんは頑なにこれを拒否した。この時、長は「他に男ができた」と思い込んで逆上し、千秋さんの首を絞めて殺害してしまう。

千秋さんの母親によると、2人は近くの喫茶店で別れ話をすることになっていたという。出かける前、「話がつかないようだったら、お父さんに話して一緒に行ってもらうから。早く帰ってきなさい」などと声をかけたが、そのまま帰ることはなかった。

長は、千秋さんの遺体を「祖父の家の庭に埋めよう」と考え、家に戻って父親に相談。そして、父親と一緒に栃木市内の祖父宅を訪れ、祖父の許可を得て庭の花壇に埋めた。
それから、偽装のため妻の失踪届を2度にわたって提出した。

和田さんに日常的な虐待

長は、結婚した翌月(1988年9月)頃、栃木県小山市の工員・和田三喜男さん(当時26)と知り合っている。和田さんは長より3歳ほど年上であったが、従順でなんでも長のいいなりだった。長はそんな和田さんの性格に目をつけ、次第に虐待を加えるようになった。

長勝久は、「従順に従う者に対しては、日常的に虐待することに快楽を感じている」と、公判中にも指摘されている。

和田さんは東京本社から、1987年12月に栃木市内の電子部品会社へ配属されていた。ちょうど1年後の19888年12月、栃木市内の自動車部品製造会社に転職するも、翌年3月に退職。その後、1989年10月20日まで会社を転々とした。そのなかには、長と同じ仕事をしたこともあった。

一方、長は1989年2月頃、女性Aと知り合い交際を始めた。2人は同年7月頃にワンルームのアパートに転居した。

長は、何かと難癖をつけては和田さんに暴行を加えた。理由は「パチンコの玉の出が悪い」といった、和田さんにまったく責任のないものまであった。それでも和田さんは、長の部屋に頻繁に訪ねてきた。

千秋さん殺害の当日、長と和田さんが訪れたカツラ店の店員は、和田さんの右こめかみあたりに、殴られたような「握りこぶし大の腫れた傷跡」を見た。和田さんは、答えにくそうに「転んだ傷です」と言ったという。

日本の確定死刑囚 執行の時を待つ107人の犯行プロフィール

1989年8月28日、長が大金を置き引きされる事件が起こる。長が父親から借りた60万円入りのバッグを、職業安定所で盗まれたのだ。バッグは女性Aが持っていたが、さらにそれを和田さんにまかせていた。

女性Aは責任を取る意味で、長が寝てる間に和田さんに頼んで髪を坊主にしてもらった。このことが長の怒りをさらに増大させ、これ以降、和田さんに対する暴行は過激になっていく。

暴行は、主に浴室内(ユニットバス)で行われた。事あるごとにここに連れ込まれた和田さんは、この狭い浴室内で殴られ、壁には血痕の跡も確認された。

和田さんへの虐待
  • ベルトを鞭のように振り回して、頭を狙って叩いた
  • スプレー缶で頭を殴った
  • 浴室で、和田さんの肛門に棒を突き入れた
  • フライパンで底が盛り上がるほど頭を殴った(頭にかさぶたができていた)
  • 手足を使わずに押し入れの上段から下に尻から飛び降りさせた

和田三喜男さんが虐待死

長と和田さんは、1989年10月5日~20日、同じ深夜アルバイトをしたが、衰弱した和田さんは「重い荷物を持てない」などの理由で解雇され、長も同時に辞めている。

このころ、和田さんは足首が腫れ、足の甲が火傷の跡のように広く皮がむけていて、片足を引きずっていた。それでも、長はバイトを辞めざるを得なかったことが気に入らず、暴行を加えた。

和田さんは、やがてけんけんで歩くようになった。目は腫れ、顔にアザがあり、口も切れていた。耳も青黒く腫れて、穴が見えず餃子のような形になっていた。手のひらは火傷のように全体的にむけ、肘の内側にえぐれたような傷もあった。

このようなひどい状態になっても、長は和田さんを病院には連れて行かなかった。オキシドール・湿布・軟膏で軽い治療を施しただけで、あとは放置した。そして、長が外出する時は押し入れに閉じ込め、排泄はゴミ袋にさせたが、もれて汚れることから浴室で寝かせるようになった。

そんな凄惨な状態の中、11月未明に和田さんは熱を出した。そのため、寝場所を浴室から部屋に変えてもらえたが、しばらくは粥も食べられないほどだった。

2、3日して多少回復すると、長は和田さんに歩く練習をさせ、「壁に手をつくな」、「手を使って起きるな」「病気の振りをするな」などと言った。和田さんがふらつくと、最初からやり直させたり、浴室で折檻した。

そして数日後、いつものように浴室内での暴行中、和田さんは逃げるように浴室を出たかと思うと、棒が倒れるようにダウンしてしまう。和田さんの脈は、すでに止まっていた。
こうして、長期間にわたる虐待の末、長は和田さんを殺してしまった

事件発覚まで

栃木・妻と知人殺人事件

長は千秋さん殺害の時と同じように、父親に連絡して祖父宅の庭に遺体を埋めた。長は警察から和田さん失踪について追及を受けるも、完全に否認をしてやり過ごしている。1990年2月にはアパートを引き払い、長と女性Aは逃げるように栃木県各地・前橋市・札幌市・川崎市と転々とした。

1995年頃、長は川崎市で出張ヘルスマッサージ業を始めたが、従業員に対しひどい虐待を行っている。従業員は救出されて無事だったが、一時は起き上がることも寝返りもできない状況で、和田さんのようになる可能性もあった。

従業員が逃げたことで、長は1990年5月21日、逮捕されることとなる。5月28日、警察は女性Aを保護し、栃木県鹿沼市の実家に帰ることができた。これにより、警察は和田さん失踪についての供述を得ることになる。

そして、6月14日から長の父親の取り調べが始まり、その供述により「千秋さんと和田さんの遺体が、父親の実家(祖父宅)の家の庭に埋められている」ことが発覚する。

2人の遺体は1990年7月頃、父親と祖父が掘り起こし、祖父が焼却したことも判明した。焼却後、残った骨は砕き、近くの草むらに捨てていた。そのため、遺体捜索しても千秋さんはわずかの骨片と指輪しか発見できず、和田さんに至っては骨の一片すら発見できなかった。

7月4日には、長は和田さん殺害の容疑で再逮捕された。なお、父親は死体遺棄罪の公訴時効が3年のため、刑事訴追を受けなかった。また、祖父は1992年8月に死亡している。

事件の時系列

日付出来事
1988.5千秋さんが知り合う
1988.8千秋さんと結婚
1988.9和田さんと知り合う。当初から暴行・虐待
1989.11上旬千秋さん、実家に逃げ帰る
1988.11.19千秋さんを殺害、祖父宅に埋める。偽装の捜索願を提出
は警察の追及に完全否認
1989.2女性Aと知り合い交際へ
1989.7女性Aがアパートで同棲
1989.8.28置き引き被害。女性A、責任を感じる。
女性A、和田さんに頼んで坊主に。これ以降、虐待は悪化
1989.10.5~20和田さん、同じバイトをする。和田さん解雇、長も辞める
1989.11.1和田さんが母親に電話「長とはもう付き合わない」
1989.11未明和田さん発熱少し回復すると虐待再開
1989.11未明
発熱の約1週間後
虐待により、和田さん死亡。祖父宅に埋める
は警察の追及に完全否認
1990.2アパートを引き払う
1990.72人の遺体を掘り起こし焼却
1995.11~1996.5自身経営の出張ヘルス店員に暴行。、この件で逮捕
1996.5.28女性Aを保護
1996.6.14長の父親の供述から、2人の遺体発見
1996.7.4和田さん殺害で逮捕
2006.10.12長勝久、死刑確定

長勝久の生い立ち

長勝久/栃木・妻と知人殺人事件
長勝久

長勝久は1966年9月11日、長男として生まれた。母親は長が中学生の時に病死している。

長は小学生の頃から自分勝手で暴力的な性向を示し、暴力で他人を従わせることを覚えた。中学3年になると、その加虐的な暴力は父親をも怯えさせるほどに深刻化した。

1982年4月に県立高校に進学したものの、暴力的な性格が災いしてわずか4、5ヶ月で退学処分を受ける。その後、県立農業高校に入学したが、こちらも3、4ヶ月で退学処分となった。

2度の退学処分の後、長は道路交通法違反の非行により、1983年8月に保護観察処分を受けた。しかし、その保護観察中に毒物及び劇物取締法違反の非行を犯し、それにより1984年1月、再度の保護観察処分を受けた。

長は2度目の保護観察中である1984年9月26日、陸上自衛隊に入隊するも、性格的に合わないとして1985年1月26日付けで除隊。以降、トラック運転手・工員・店員などの職を転々としていた。

また、長は暴走族に加入し、たばこの火を爪・背中・首・頭・へそ・乳首・陰部などに押しつける悪質なリンチの方法を覚える。

死刑囚 238人最期の言葉

1986年には、長は立て続けに3件の事件を起こしている。

長の前歴1

1986年3月4日、運転中に前車を追い越そうとして対向車と衝突しそうになり、あわてて急ハンドルを切ったために道路左側にいた通行者に全治6ヶ月の傷害を負わせた。この時、速度は100kmも出しており、業務上過失傷害罪に問われた。

長の前歴2

保護観察期間終了後の1986年10月14日、走行中の車内で18歳の少年に対したばこの火を腕部に押しつけたり、フィルター素材を手の甲にのせ火を点け、全治3週間の傷害を負わせる事件を起こした。同じ日、長の自宅で別の19歳少年にたばこのフィルター素材を手の甲にのせ火を点けるという、全治3週間の傷害を負わせた。

長の前歴3

同日、長の自宅で19歳少年にたばこのフィルター素材を手の甲にのせ火を点けるという、全治3週間の傷害を負わせた。

長はこれら3件の事件により、1987年2月3日に宇都宮地方裁判所で懲役1年6月(3年間の保護観察付き執行猶予)に処せられた。本事件を起こしたのは、その執行猶予中である。

  • 1988年11月19日、妻の千秋さんを殺害
  • 1989年11月頃、知人の和田三喜男さんを殺害

2006年10月12日、最高裁で死刑が確定。長は法廷でも暴れたり、黙秘するなど、反省することがなかった。現在は東京拘置所に収監されている。

事件後も従業員に虐待

長は逃亡生活を送る中、神奈川県川崎市川崎区で出張ヘルスマッサージ業を営んでいる。彼は連続殺人を後悔も反省もすることなく、従業員らに対しても嗜虐性を露わにした。

1995年から1996年にかけて、長は従業員男性B(当時25歳)に対し、数々の虐待を行っている。結果的には同僚によって救出されたが、それがなければ和田さん同様、殺されていた可能性があった。

虐待・拷問の数々
  • 長が「絶対」と声を掛ければ、「服従」と言葉を返すよう強要
  • 「爪ジュー」、「背ジュー」などと称して、手の爪や裸の背中に、たばこを吹かしながら火を押しつける
  • 手や腕に、たばこのフィルターをほぐしたものを「癸」という漢字を模して乗せて火をつけ燃え尽きるまで置く
  • ライターの火で両乳首、両脇の下など外皮のうち敏感な部分までを焼く
  • 浴槽の中に潜らせ従業員Bが苦しくなって顔を出すと沸騰させた熱湯を頭からかける
  • 長に命じられ、従業員Cの指の爪に煙草の火を押しつけたり、背中に火のついた煙草の先の部分を置かせた

長は、これらの暴行・虐待を平然と加え、時には「俺は熱いのが好きなんだ」と大笑いすることもあった。別の従業員男性C(当時29歳)が従業員Bの治療をすると、余計なことをするなと言って、包帯をはぎ取ったりした。

これらの暴行・虐待により、従業員Bは熱傷の傷害(全治不詳)を負い、起き上がることも寝返りもできない状況に追い込まれた。しかし、寒気がして震えが止まらないような状況のなか、従業員Bは同僚によって救出された。

また、従業員Cも、長の事務所から逃走できたことにより、左手中指・薬指および背部熱傷等の傷害(全治約5か月)を負うにとどまった。

長勝久が獄中で描いた絵

長勝久が獄中で描いた絵
長勝久の作品(2006年)
長勝久が獄中で描いた絵
長勝久の作品(2006年)
長勝久が描いたイラスト・栃木・妻と知人殺人事件
長勝久死刑囚が機関紙に投稿したイラスト

長勝久死刑囚が、2006年に獄中で描いた絵である。(「極限芸術 死刑囚は描く」より)

犯した殺害行為からは、想像がつかないような、ほのぼのした内容の絵ですね。
二度と手に入れられない「幸せ」への憧れなのでしょうか?

「絵の内容」と「やったこと(殺害)」が、かけ離れ過ぎていて、見ていて逆にゾッとします。

死刑囚200人 最後の言葉

死刑囚アンケートの回答

死刑囚を対象としたアンケートで、長勝久死刑囚以下のように回答している。

長勝久「一日でも速く危険な残虐な死刑制度は廃止していただきたい。国の殺人行為を法的に示していただきたい」

彼の口から「残虐な行為をやめろ」という内容の言葉を聞くとは思いませんでした。本当に反省してないというか、”自分を客観視できない人” なのだということがわかりますね。

裁判

長勝久被告は、私選弁護人を選任し、従業員男性2人に対する傷害罪についてはほぼ認めた。しかし、千秋さん殺害については殺害行為を否認、和田さん殺害については暴行・殺意・因果関係を争った。

1996年12月20日、私選弁護人全員が辞任した。そして、1997年3月4日に国選弁護人3名が選任された。その間、長被告が国選弁護人全員に対する懲戒を申し立てるとともに解任も求めたため、国選弁護人らは解任を求めたが、宇都宮地裁は解任しなかった。

長被告は第32回公判において、弁護側による被告人質問に黙秘。第35回、第36回公判では、弁護側の被告人質問に応じたが、第37回、第38回公判は被告人質問に応じる意思のないことを明確にした。

第42回公判が終了して裁判官退席後、法廷出口のガラスを破損。第43回公判でも、検察側による質問中、法廷の窓ガラスを損壊して、退廷命令を受けた。

2001年6月28日の論告求刑で検察側は、「長被告が千秋さん・和田さんを殺害したとする関係者(父親や交際女性Aなど)の証言は信用性が高い」とした上で、「2件の殺人とも確定的殺意に基づくもので非人間的で凶悪。もはや矯正の可能性は全くない」と断罪し、長被告に対して死刑を求刑した。

9月25日の最終弁論で弁護側は、千秋さん殺害について「動機が明らかにされていない」と強調。「よりを戻そうとしたが断られたため殺害に及んだ」との検察側の主張に対しては、「2人は入籍したばかり。長被告が強引に復縁を迫った証拠もなく、関係が破たんしていたとは考えられない」と反論した。

また、千秋さんの死体を遺棄したことについて「それ自体が、殺人の直接証拠になるわけではない」と指摘した。和田さん殺害についても ”殺害の具体的な方法” や ”動機が十分に立証されていない” ことなどを挙げ、和田さんの死亡直後、長被告が狼狽していた点を指摘。

「死を予期していなかったことが明らかであり、殺意がなかったことの表われだ」と主張した。さらに「死因も分かっておらず、起訴事実は全く成立しない」と指摘。そして「殺意の立証が不十分。『疑わしきは罰せず』の原則に従えば、有罪になるだけの証拠が少なすぎる」として無罪を主張した。

長勝久に死刑確定

12月18日の判決公判で、宇都宮地裁は長被告に死刑判決を言い渡した。

裁判長は、「千秋さん殺害の態様は冷酷非情」「和田さん殺害は人間の尊厳を踏みにじる残虐な犯行で、異常で残虐なものだ」と指弾。そして「千秋さん殺害事件は確定的殺意、和田さん殺害事件は未必の殺意に基づくものだが、和田さん殺害事件の方が犯情が重い」「凶悪な殺人罪を2件も犯しながら否認を続け、全く反省しない態度は、再犯の恐れがあり、矯正はもはや不可能」と強く非難した。

そして、「保護観察付き執行猶予中に2人を殺害し、その数年後には反省することなく、従業員2人に対し熱傷などの傷害を負わせた。凶悪重大な犯罪であり、被告の犯罪性行は根深く、殺人事件2件に関して反省の態度を全く示していないことなどに照らすと、死刑をもって臨むほかない」と述べた。

長は判決を不服として控訴。しかし2003年9月10日、東京高裁は一審の死刑判決を支持する判決を言い渡した。長被告は上告するも、2006年10月12日、最高裁は一、二審の死刑判決を支持し、長被告の上告を棄却する判決を言い渡した。

これにより、長被告の死刑が確定した。

裁判長は、「長被告と別れたがっていた妻・千秋さんに加え、服従させていた和田さんも虐待の末になぶり殺した。2人の尊い生命を奪った結果は、非人間的で責任は極めて重大。遺族の被害感情も厳しい。その後も同様の傷害事件を重ねており、生命に対する尊重を欠く傾向は根深く、犯行当時若年だったことなどを考慮しても死刑はやむを得ない」と判決理由を述べた。

現在、長勝久は死刑囚として東京拘置所に収監されている。

タイトルとURLをコピーしました