「ピアノ騒音殺人事件」の概要
高度成長期の昭和40年代、ピアノを持つことがひとつのステータスとされた。そんな1974年(昭和49年)8月28日、ピアノの騒音トラブルから殺人事件が起こる。神奈川県平塚市の県営団地で、階下の子供が弾くピアノの音に悩まされた大濱松三が、母娘3人を殺害したのだ。
大濱は音に対して ”異常に過敏” で、普通の人なら我慢できる程度の音でも苦痛だった。裁判では「これ以上、音に苦しんで生きたくない」と死刑を望み、それは叶えられた。しかし45年経った(2022年時点)今も執行されず、現在94歳。日本で最高齢の死刑囚となってしまった。
事件データ
犯人 | 大濱松三(当時46歳) |
事件種別 | 殺人事件 |
発生日 | 1974年8月28日 |
場所 | 神奈川県平塚市田村 「県営横内団地」 |
被害者 | 3人死亡 |
判決 | 死刑:東京拘置所に収監中 |
動機 | 騒音トラブル |
キーワード | 精神病質者 |
事件の経緯
1974年8月28日午前7時15分頃、大濱松三(当時46歳)は階下の奥村家の子供が弾くピアノの音で目が覚めた。普段、ピアノが響き出すのは午前9時過ぎだが、この日はそれより2時間も早く鳴り始めていた。これまでも大濱はピアノの音をとても迷惑に感じていて、さらに朝早く起こされたことに腹を立てていた。
大濱は聴覚過敏症だったと思われ、普通の人にとって何でもない音が ”大きく聴こえる”、”耳に響く” など、聴こえ方に障害が起こり、”音が耳に入ること” に苦痛や不快感を伴う病状があった。しかしこのころの大濱は、自分の耳に異常があるとは考えず、ピアノの音が異常に大きいのだと思い込んでいた。
大濱は過去によく吠える犬を殺して、警察に通報されたことがあったという。
前日、奥村家の隣に越してきた女性があいさつに来た際、奥村家の悪口を話したことを思い出し「自分への嫌がらせで、朝早くから子供にピアノを弾かせている」と邪推。奥村家への憤りを抑えることができなくなった大濱は、奥村八重子さん(33歳)、長女・まゆみさん(8歳)、次女・洋子さん(4歳)をこの際一気に殺害しようと決意する。
それから凶器の刺身包丁・さらし・ペンチなどを買い物用袋にまとめて入れ、殺害の準備を行った。刺身包丁は別の犯行に使うつもりで購入したもので、さらしは包丁で殺害しきれなかった場合の絞殺用に、ペンチは電話線を切断して警察への通報を妨害するために用意していた。
大濱は夫が不在のほうが犯行が容易だと考え、夫の出勤を待った。その後、ゴミ当番で八重子さんが室外に出るところを確認。この時、八重子さんは次女も一緒に連れて出ていて、家には長女ひとりになった。
午前9時10分頃、大濱は奥村さん宅の玄関口の電話線をペンチで切断してからドアを開けた。部屋に侵入すると、長女のまゆみさんが3畳間で立ったままピアノを弾いていた。大濱はまゆみさんを刺身包丁で襲い、左胸などを複数回突き刺して殺害した。
それから大濱は室内の襖のかげに身を潜め、八重子さんと次女が戻るのを待ち伏せた。すると次女だけが先に戻ってきたので、4畳半の部屋に入ってきたところを数回突き刺し、さらしで首を絞めて殺害した。
姉妹を殺害した直後、大濱は3畳間と4畳半の境の襖にマジックで、以下の恨みの言葉を書き残している。
「迷惑かけるんだからスミマセンの一言位言え、気分の問題だ。来た時アイサツにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」
大濱は、息絶えた姉妹の遺体にそばにあったタオルケットを掛けた。そうこうしていると八重子さんが戻ってきて、子どもの名を呼びながら3畳間に入室してきた。大濱は、すかさず八重子さんの首などを数回突き刺して殺害。3人の死因はいずれも失血死だった。
犯行後、バイクで逃走
犯行を終え、奥村さん宅の出口を施錠しようとしていると、それを隣室の女性に目撃されてしまう。大濱は急いで4階の自室に戻り、犯行に使った道具や背広などを手提げ袋に入れ、手製の槍・釣り道具・リュックサックを持ってバイクで逃走した。
女性は午前9時15分頃、「(奥村宅で)男が暴れている」と神奈川県警察に110番通報していた。平塚警察署員が駆け付けたところ、6畳間で母娘3人が死亡しているのが確認された。
また、「大濱が血を浴びて奥村さんの部屋から逃げて、バイクで立ち去った」という証言から、平塚署は殺人事件とみて捜査を開始。大濱を犯人と断定して全国指名手配した。
捜査本部は、事件前に大濱が「海に行って死にたい」と知人に話したと聞き、海で自殺する可能性を考え、平塚市や大磯町などの相模湾沿いの海岸に捜査員200人を派遣した。また、警視庁や近隣県の警察署にも協力を要請した。
一方、バイクで逃走した大濱は、神奈川県高座郡寒川町まで移動し、バイクは相模線・宮山駅付近の農道に乗り捨てた。その後、タクシーで国鉄(現JR)・茅ケ崎駅へ向かい、バスを乗り継いで藤沢市内へ。清浄光寺(遊行寺)参道の小屋の裏側に刺身包丁や背広などを捨てた。
その後、バスや電車を乗り継いで上野駅から信越本線に乗り込み、横川駅(群馬県碓氷郡松井田町横川)で下車。この日は駅付近で野宿した。
翌8月29日は東京都内で過ごしてから国鉄・横浜線で橋本駅(神奈川県相模原市)に移動、路上駐車されていた車の中で就寝した。30日は再び東京へ行き、夜になって平塚市へ戻った。
そして翌31日(事件から3日後)午前0時15分、大濱は捜査本部のある平塚署に出頭し、殺人容疑で逮捕された。
別の殺人計画があった
取り調べにおいて、大濱は犯行を自供した。そして、供述通りの場所から ”凶器の刺身包丁” や、”逃走に使用したバイク” が発見された。大濱は「カッとなってやった。『(奥村家の)夫に襲われるかもしれない』と思い、その予防のつもりだった」と供述したほか、「被害者には申し訳ないと思う」と、反省・謝罪の弁も述べていた。
また、凶器の刺身包丁について「以前住んでいたアパートの隣人一家4人を殺すつもりで、8月20日に茅ヶ崎市内で購入した」と供述した。
大濱は、1959年から1963年まで八王子市並木町のアパートに住んでいたが、ここでも隣人とトラブルになっていた。今回、ピアノの音で奥村家と揉めたことがきっかけとなり、その一家に対しても再び憎しみが燃え上がったのだという。8月初めにはその一家の転居先を調べ上げ、2度も下見にも行っている。その際、殺害しようと考えたが「気付かれた」と勘違いして断念していた。
『中日新聞』は、「10年以上も前の些細なトラブルに執着する大濱の異常さを見せている」と報道した。
大濱は1974年9月20日、殺人・窃盗罪で起訴された。
大濱松三の生い立ち
大濱松三は1928年(昭和3年)6月4日、現在の東京都江東区亀戸の書店経営者の次男として生まれた。(当時の住所:東京府東京市亀戸町三丁目54番地)
子供の頃は明るく活発で、学業成績も良かった。しかし1938年(昭和13年)頃、近所の吃音症の子供のまねをしているうちに自らも吃音症を発症、以来無口で内向的になった。
その後、千代田区神田の旧制錦城中学校(旧制中学校)に進学。中学1年の時、国語の授業で教科書を読まされた際、途中でひらがなが読めず放棄するという屈辱的な体験をした。それ以降、大濱は強い劣等感を持つようになり、勉学への意欲も失って成績も落ちた。そして、次第に無口で暗い性格に変わっていった。
1945年(昭和20年)3月に旧制錦城中学校を卒業、終戦まで両親の疎開先だった山梨県北都留郡上野原町(現:上野原市)の軍需工場に勤務した。親元を離れて生計を立て、ほとんど音信不通となった。
1947年(昭和22年)5月には、国鉄(現・JR東日本)中央本線・国立駅職員となった。だが競輪にハマって切符の売上金を使い込むようになった。
1950年9月には分納金39000円を持ち逃げして、向島の娼婦のところで1ヶ月で遣い果たした。そして10月頃、金に困って定期券売り場で現金(2千円)をひったくろうとしたところを警察に逮捕。大濱は台東簡易裁判所で懲役1年(執行猶予3年)の判決を受けた。
こうして退職を余儀なくされた大濱だが、それ以降は東京都内・神奈川県内で職場を転々とした。山梨の実家で農作業や山仕事を手伝ったり、旋盤工場で勤務したりしたが、やがて就労意欲を失う。
1953年(昭和28年)頃、自宅でぶらぶらしているのを兄にとがめられたことから、家を出て新橋界隈で約1年間ホームレス生活を送った。
大濱は東京都内で勤務していた1953年(昭和28年)頃から、神経性の頭痛持ちになっている。
音に対して”病的に敏感”に
1959年(昭和34年)5月、結婚して婿養子となる。だが、翌年4月には妻からの申し立てにより、大濱が3万円を受け取ることで11月に離婚調停が成立した。
この1959年頃から、東京都八王子市並木町のアパートに住むようになり、1963年頃には日野自動車に2交替制で勤務して早朝に就寝することが多かった。このころ、隣人一家から「ステレオの音がうるさい」と苦情を受ける。それ以降、物音に対して ”病的に敏感” になり、1965年(昭和40年)頃には神経過敏になって早朝のスズメのさえずりさえ、うるさく感じるようになった。
神奈川県内の親戚が経営する鉄工所に勤務中だった1965年4月、知人の紹介を受けて再婚する。しかし夫婦仲は悪く、結婚当初から些細なことで殴る・小突くなどのDVを加えていたため、妻は何度も離婚を考えた。
1967年(昭和42年)頃からは夫婦で八王子市内の社員寮に住み込み、大濱は会社のボイラーマン、妻は寮の管理人としてそれぞれ勤務した。大濱は夜間の寮生の話し声・麻雀の音等に対し過敏になって何度も大声で注意した。最終的に寮生らと激しい口論をして翌1968年(昭和43年)に退職した。
1969年(昭和44年)5月から翌年7月にかけ、平塚市内の小松電子金属(現:SUMCO TECHXIV)に勤務。内向的で口数も少なく、目立たない存在だった。その後の1970年4月、事件現場となった神奈川県営「横内団地」34棟に転居した。
1973年7月、勤務していた平塚市内の車体部品製造会社を「仕事に飽きた」と退社。以降は無職となり、失業保険給付金などで暮らしていた。そして1974年8月28日、本事件を起こす。事件発生までの約3か月間、月7千円の家賃を滞納するほど生活に困窮していた。
裁判では第一審で死刑判決。大濱の意に反して弁護人が控訴するも、大濱は自らこれを取り下げた。死刑確定までにはひと悶着あったが、大濱は「”音に異常に敏感” なまま、これ以上生きるのが苦痛」として、死刑を強く希望。弁護人の異議申し立ても棄却され、1977年4月16日、正式に死刑が確定した。
自ら極刑になった恰好の大濱死刑囚だが、希望に反して未だ死刑を執行されていない。再審請求も起こしていない。死刑確定から45年が経過した2022年時点で94歳。これは死刑囚として、日本最高齢である。
被害者一家との関係
大濱が1970年4月に神奈川県営「横内団地」に転居した2か月後、真下の部屋に被害者の奥村一家が引っ越してきた。その際、あいさつがなかったことから、「礼儀作法をわきまえない、非常識な家族だ」と思い込んだ。
その後、間もなく奥村家では日曜大工を始め、金槌の音が響くようになった。また、ベランダのサッシ・玄関ドア・トイレ・風呂場の扉の開閉音といった物音を気にしだし、金槌の音に我慢できず階下に向けて「うるさい」と怒鳴ったことがあった。
さらに大濱は「団地の住人が、自分に冷たい態度を取っている」と感じるようになる。被害者の八重子さんは社交的な人だったが、外で会ってもあいさつされないことがあった。これには「奥村の妻が、自分の悪口を言いふらしている」と被害妄想のように思い込み、次第に八重子さんへの憎しみを募らせるようになった。
また1973年(昭和48年)11月には、奥村家がピアノを購入し、長女がこれを弾くようになった。大濱はその音を ”異常に” 気にするようになり、1974年4月頃には一度だけ「自分が在宅しているときはピアノを弾かないで欲しい」と申し出たこともあった。奥村家も ”普通の感覚で” 気を付けていたというが、音を過敏に感じる大濱が納得できるレベルではなく、次第に「ピアノを弾くのは自分への嫌がらせ」と思い込むようになった。
事件後『毎日新聞』では「なるべく大濱が留守の時間帯にピアノの稽古をさせており、音もひどく迷惑をかけるほどうるさいものではなかった」「大濱は、被害者宅からピアノの音が聞こえると『うるさい』と大声で怒鳴り込み、時には自分の妻に八つ当たりで暴力を振るうことがあった」と報道されている。
1973年7月頃から持病の片頭痛が再発。耳鳴りがするなど就労意欲もなくなり、生活に困窮して自暴自棄になりだした。やがて奥村家の部屋の玄関前を通るたびに「奥村の夫が包丁を持って、自分を刺しに来るのではないか?」と被害妄想を募らせるようになった。
そんな勝手な思い込みから、7月10日頃、”鉄棒に出刃包丁を取り付けた槍” を作った。8月には「一家がピアノをやめないなら、妻と子供2人を殺害しよう」と考えるまでになった。
事件の頃、大濱の妻は離婚の相談のため八王子市内の実家に帰っていた。このころ大濱は、八王子市でかつてトラブルになった近隣住民を殺害するため、その転居先を探し当てていた。そして外から様子をうかがったが、標的の女性が自転車で外出したため「自分に気づいて交番に行った」と誤解して殺害を断念した。
その後は、奥村一家への犯行に注力するようになった。事件前日には、奥村家の隣に越してきた女性が大濱にもあいさつに来たが、その女性に八重子さんの悪口を言った。事件当日、普段より早い時間からピアノが鳴り響いたのは「悪口を言ったから、嫌がらせをしている」のだと思い込み、腹を立てていた。
事件の反響
高度経済成長で暮らしが豊かになった昭和40年代は、ピアノを購入することがステータスのひとつになった。だが、日本の狭い住宅事情に合わないことは言うまでもなく、各地で騒音トラブルが問題化していた。そんな中で起きた本事件では、「集合住宅の騒音問題」が大きくクローズアップされた。ピアノ以外にも、犬の鳴き声が発端で殺人事件に発展したケースもあった。
「騒音被害者の会」会長・佐野芳子は、事件当日の『読売新聞』夕刊にて「殺人は否定するが、これからは同種の殺人事件が続発することを懸念している。社会生活が豊かになり、ピアノを購入する家庭が多くなっているが、社会全体のルールとして『音は自分の家の中だけ』という認識を明確に確立せねばならない」と述べた。
そんな騒音問題に悩む人が多かったせいか、事件直後から大濱に同情する意見が多数寄せられた。一方で、「音が原因で殺人を犯すことは許されない」という意見も、もちろんあった。
- 犯人の気持ちもわかる
- 被害者には気の毒だが、犯人にも同情すべき面がある
- ピアノを弾く隣人に殺意を抱いていた。犯人は自分たちの代わりにやってくれた
- 「隣室でピアノを弾く子供は交通事故で死ねばいい」と願わない日はない
その後、「騒音被害者の会」は大濱の裁判を支援することを決め、計100通近くの嘆願書を集めて提出したが、これは大濱自身が証拠採用を拒否した。(大濱は減刑ではなく、死刑を希望していた)
現場の「横内団地」はコスト削減のため、床の厚さは12cmだったが、事件後は15cmに増やした。また、作曲家の團伊玖磨らが「満足に防音ができていない日本の家庭には、ピアノは不向きだ」と指摘、ピアノ製造業者に対し「音量の小さなピアノの開発」や「防音装置とのセット販売」を訴えた。
これに対し、ピアノ製造業者側は「問題は利用者側にある」との姿勢だったが、結局はアップライトピアノに弱音装置が取りつけられるようになり、1977年頃からは電子ピアノ(音量調整機能があり、ヘッドホンも使用できる)を製造・販売するようになった。
また本事件を題材としたノンフィクション『狂気 ピアノ殺人事件(上前淳一郎・著 )』が発表され、これを原作として制作されたテレビドラマ「ピアノ殺人事件」(テレビ朝日系列)が放送された。犯人役に泉谷しげる、弁護士役を高橋英樹が演じた。
また、事件の背景に「コミュニケーション不足」があったことも指摘され、今後、同様の事件が増えることを懸念する意見もあった。
”死刑を望んだ” 裁判
1974年10月28日、横浜地裁で第一審初公判が開かれ、大濱松三被告は「殺すつもりまではなかった」と殺意を否認した。
1975年2月24日の第4回公判では、「大濱被告の部屋の騒音」を計測した平塚市職員が証人として出廷し、「9月2日と6日の2回にわたり、階下のピアノがどの程度響くかを測定した」と話した。
- PM2:00|中央値44ホン|階下のピアノ音は周囲の喧騒音にかき消されて測定できず
- PM7:30|上限値44ホン|窓を開けた状態でも上限値は44ホン
うるささ | 身体・生活への影響 | 騒音値 | 大きさの目安 |
---|---|---|---|
普通 | 大きく聞こえる、通常の会話は可能 | 50db | ・静かな事務所 ・家庭用クーラー(室外機) ・換気扇(1m) |
普通 | 聞こえるが、会話には支障なし | 40db | ・市内の深夜 ・図書館 ・静かな住宅地の昼 |
静か | 非常に小さく聞こえる | 30db | ・郊外の深夜 ・ささやき声 |
測定時、ピアノは平塚署の関係者が弾き、時間もわずか15分。「不正とまでは言えないが、不公平と言われてもやむを得ない」「公平な第三者により、あらゆる弾き方で強弱全ての音を記録すべきだった」という意見が挙がった。
1975年3月17日の第5回公判では、精神鑑定を依頼されていた小田原医院院長・八幡衡平が証人として出廷。「大濱被告は精神病質者(サイコパス)だが、犯行時に心神耗弱状態だったとは認められない」とする鑑定結果を示した。また、「責任能力はある」としたが、弁護側の「罪は軽減されるべき」という趣旨を含んだ質問にも肯定的な答えを返した。
1975年4月14日の第6回公判では、被害者遺族(八重子さんの夫と兄)が検察側証人として出廷し、死刑を求めた。
5月12日の第7回公判では大濱被告の元妻(事件後に離婚)が出廷。「大濱は音に対し異常に神経質だったが、ピアノの音は自分にも度が過ぎて聞こえていた」と証言した。
6月2日の第8回公判で、被告人質問が行われた。大濱被告は捜査段階から一転して「死刑になりたくてやった。被害者に対する謝意は本心ではなく、事件を起こした後悔や反省はしていない」と証言した。
8月11日の論告求刑公判で、検察側は死刑を求刑。「ピアノ・日曜大工の音は近隣者に不快を与えるほどのものではなかった。大濱被告の行為は反社会的・自己中心的で死刑が相当」と主張した。
1975年10月20日、判決公判が開かれ、横浜地裁は求刑通り大濱被告に死刑判決を言い渡した。判決理由の要旨は以下の通り。
- 被告が「”精神病質者” かつ ”音に対する過敏症”」だった点は認められるものの、周到な準備のうえ夫の出勤後に犯行におよんだ。娘2人の殺害直後、襖に「犯行を正当化するメッセージ」を書き残すなど、冷徹に遂行している
- 騒音は「睡眠を妨げられ、病気の人は寝ていられない」というレベル。ただし早朝や深夜には発されておらず、被害者宅の真下の住人は「不快感を与えるほどの音とは感じられなかった」と証言
- 「被告が ”音に対する極度の神経過敏症” なうえに異常性格者」だったことが事件の要因のひとつだが、コミュニケーション不足もあり、被害者がそれを知るすべはなかった
- 犯行は残虐極まりないもので、被告は法廷でも罪に対する悔悟の情を示していない
大濱被告は死刑を望んで控訴しようとしなかったため、1975年11月1日付で弁護人が控訴した。
自ら控訴を取り下げ
1976年5月11日、東京高裁にて控訴審初公判が開かれた。
裁判長は、東京医科歯科大学教授・中田修に大濱被告の精神鑑定実施を依頼。これを受けて中田が6月30日~10月5日までの間、計10回にわたり大濱被告の心身状態を検査した。その結果、「大濱被告は犯行当時パラノイア(偏執症)に罹患しており、殺人行為は妄想の影響で実行したもの」とされた。
この鑑定結果は「大濱被告にとって有利な鑑定結果」とされ、場合によっては死刑を免れる可能性もあった。しかし死刑を望む大濱は「鑑定結果次第では減軽か無罪になるかもしれない」と恐れ、検査への協力を拒否するようになっていた。また、鑑定人や東京拘置所職員に対し「控訴を取り下げたい」と漏らすこともあった。
大濱被告は鑑定最終日である10月5日付で、周囲の説得を無視して控訴取り下げの手続きを取ったため、死刑判決が確定することとなった。
しかし「被告人自ら控訴を取り下げ、死刑が確定したケース」は、当時は極めて稀だった。大濱は弁護人に「自分は(通常では考えられないほど)音に対して病的に敏感だ。これ以上音の苦しみには耐えられない。”無期懲役” か ”死刑” なら死刑がいい。好んで死ぬわけではないが、生き続けることに耐えきれない」と述べている。
これに対し、弁護人は「控訴取り下げは、正常ではない精神状態の下で行われており無効だ」と上申書を提出。東京高裁は12月16日付で、弁護人の申し立てを棄却する決定を出した。
その理由として、「大濱被告は ”音に対する苦しみ” から今後の人生を苦痛と考え、『死刑になって一刻も早くこの世を去りたい』と、自らの意思で控訴を取り下げた。被告には訴訟能力があり、有効である」と説明した。
弁護人がこの高裁決定を不服として異議申し立てを行い、1976年末に事実上の死刑執行停止となった。そのうえで「一審以降の全記録の審査」を行い、1977年2月9日には被告人質問を行ったが、その際に大濱被告は「自分こそ(騒音公害の)被害者だ」と反省の情を示さず、改めて「死刑になりたい」と意思表示した。
- 控訴は自分の意思に反して弁護人が行った。自分が「控訴取り下げ」をすれば済むと思っている
- 逃げ場のない刑務所で隣房者の発する騒音に耐えることは苦痛。死刑か無期懲役しかないなら、死刑になる方がいい
- 精神鑑定の結果「無罪」になったとしても、精神病院で一生暮らさなければならない。精神病院も刑務所と同じで大変だと思うから無罪になりたくない
1977年4月11日付で東京高裁は、弁護人による異議申し立てを棄却。「大濱被告は、死刑を免れたとしても騒音過敏症などにより、長い拘禁生活の苦痛に耐えられない。死刑になって人生から逃避したいと考え、控訴を取り下げた。これは異例で人命にかかわることだが、訴訟能力を持つ被告人が出した結論であり、法的に有効」と結論付けた。
その後、大濱被告は弁護人に「もうこれ以上(裁判で)争わず死なせてほしい」と希望したため、弁護人は特別抗告を断念、抗告期限が切れる1977年4月16日をもって正式に死刑が確定した。
自ら控訴を取り下げた大濱被告を、『中日新聞』(1977年4月12日朝刊)はアメリカの殺人犯・ゲイリー・ギルモアにたとえて「日本版ギルモア」と表現した。
死刑執行人の歌〈上〉―殺人者ゲイリー・ギルモアの物語
死刑執行人の歌〈下〉―殺人者ゲイリー・ギルモアの物語
※ゲイリー・ギルモア:1976年7月、ストレスからガソリンスタンドやモーテルの従業員を射殺。弁護士を通じて死刑を要求し、1977年1月17日、希望通り処刑された。