佐賀女性7人連続殺人事件
1975年~1989年の13年間に、佐賀県で7人の女性が殺害された「佐賀女性7人連続殺人事件」。7人のうち6人が水曜日に失踪していることから「水曜日の絞殺魔事件」とも呼ばれる未解決事件である。
7件すべてが同一犯かどうか不明だが、3件については同じ場所で遺体が見つかっており、同一犯による「北方事件」とされている。この「北方事件」については容疑者が特定されて起訴までしたが、疑惑を残したまま無罪判決となっている。そのため、現在に至るまで未解決の”不気味な連続殺人事件”なのである。
事件データ
北方事件容疑者 | M氏(裁判で無罪) |
事件種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 1975年~1989年 |
場所 | 佐賀県 |
被害者数 | 7人死亡 |
キーワード | 水曜日の絞殺魔事件 |
事件の詳細
1975年~1989年の13年間に、佐賀県で7件の殺人事件が発生した。発生地域は佐賀県北方町、白石町、北茂安町、武雄市で、半径20キロ圏内で起きている。
このうち、前半4件については、犯人を特定できず公訴時効が成立。後半3件は起訴したものの、裁判で無罪が確定した。そのため、7件とも未解決事件のままである。
事件には以下の特徴がある。
- 7件のうち、6件が水曜日に失踪
- 7件のうち、5件の死因が絞殺(残り2件は白骨化のため死因不明)
- 7件すべてについて、夕方から夜にかけて失踪
- 7件すべてについて、被害者が女性
なお、北茂安町は中原町とともに2005年3月に三根町と合併し、みやき町となっている。
また、北方町も2006年3月に武雄市と合併(編入)している。
第1事件
1975年8月27日(水)
佐賀県北方町の中学1年生・山崎十三子さん(当時12)は、クラブKのホステスをしている母親と2人暮らしだった。1975年8月27日、十三子さんの母親は午後4時頃仕事に出かけ、十三子さんは近所の友だちを家に呼んで遊んでいる。
午後7時頃に友だちが帰り、その後は十三子さんはひとりで家にいたと思われる。午前0時30分頃、母親が帰宅した時、十三子さんの姿は見当たらなかった。家の中はテレビや電気がついていて、普段履いている靴も残されていた。室内に争った形跡がないことから、警察は顔見知りの人物によって連れ出された可能性を指摘していた。
その後、約5年もの間、十三子さんの消息はつかめずにいたが、1980年6月27日に白石町立須古小学校のプール横にあるトイレの便槽から白骨遺体で発見された。
第2事件
1980年4月12日(土)
佐賀県大町町に住んでいた百武律子さん(当時20)は、喫茶店のアルバイトを終えて午後11時30分頃、帰宅して以降の消息がわからなくなった。
律子さんは両親や姉妹たち家族と住んでいたが、この日はひとりだった。父親が怪我で入院中のため、母親は病院に泊まり込んでいた。さらに、姉妹たちも知人や友人宅に遊びに出かけていた。
律子さんは帰宅後、ネグリジェに着替えた痕跡があり、そのまま失踪したとみられた。しかし、室内で争った形跡がないことから、顔見知りの犯行が疑われた。
勤務態度は真面目で評判が良かった律子さんだったが、恋愛で悩んで自殺未遂をした過去があった。
失踪当時、律子さんは恋愛で悩んでいた。彼女は姉の同棲相手の男性Uと交際していたという。
Uは素行が悪く、家族は姉とUの結婚を反対するほどだった。また、Uは第1事件の被害者・十三子さんの母親の勤務する『クラブK』の客でもあった。
律子さんは約2か月後の1980年6月24日、白石町立須古小学校の北側校舎にあるトイレの便槽から全裸遺体で発見された。検死の結果、死因は首を絞められたことによる窒息死であり、性的暴行を受けた形跡などはなかった。
第1事件と同じ小学校で発見されたということで、同一人物の犯行が疑われた。
第3事件
1981年10月7日(水)
佐賀県白石町の縫製工場の工員・池上千鶴子さん(当時27)は、退社後の午後5時30分頃、近くのスーパーマーケットで買い物をしたあと、行方がわからなくなった。スーパーでは、車に乗った30代くらいの男と会話している姿が目撃されている。
千鶴子さんはその後、10月21日に佐賀県中原町の空き地で遺体で発見された。現場は柵が設置され、簡単には人が入れない場所だった。遺体は勤務先の制服を着用しており、首には電気コードが巻かれた状態だったという。死因は首を絞められたことによる窒息死で、性的暴行などの形跡はなかった。
千鶴子さんは行方不明になる前に4日間、無断欠勤をしていた。会社には「母親の看病のため」と説明している。
第4事件
1982年2月17日(水)
佐賀県北茂安町の小学生Nさん(当時11)は学校からの帰宅中に行方不明になった。
1982年2月17日午後4時20分頃、下校していたNさんは、学校近くの道路で友達2人と別れたあと、消息がわからなくなったという。
失踪翌日の年2月18日、北茂安中学校近くのミカン畑で、Nさんは遺体で発見された。遺体は赤いランドセルを背負ったままで下半身は裸、首にはストッキングが巻かれた状態だった。死因は首を絞められたことによる窒息死だったが、性的暴行された形跡がある点が過去の3件とは違っていた。
事件当日、現場周辺では白い車に乗り、女性や女子中学生に声をかけるなどしていた不審者が目撃されたが、警察はその男の足取りを追うことができなかった。
- 北茂安町の国道沿いのバス停で、白い車に乗った30~40代の男が主婦にしつこく声をかけてきたが、「警察を呼びますよ」と言うと、男は睨みつけながら車に戻っていった。
- 午後2時半頃、神埼郡三田川町の小学校近くに停車した白い車の中年男が、下校中の女児をトイレに連れ込もうとしたが、女児は大声で泣いたため、何もせずに逃走した。
- 午後3時10分頃、下校中の北茂安中学校の女子生徒2人にしつこく話しかけ、午後3時半頃には小学2年の女児3人に家まで送ってやると声をかけている。
- 午後4時頃、Nさんが姿を消した。
- 午後4時半ごろ、遺体発見現場付近に白い車が停めてあったのを主婦が目撃。この白い車に乗った中年男が犯人という線がかなり濃厚だった。
翌2月19日には、「北茂安町」「学校」「保健所」宛てに、「誘拐して(金を)要求するつもりだった。しかし本人が騒いだので殺した」と書かれた葉書が届いた。
第5事件:北方事件①
1987年7月8日(水)
佐賀県武雄市の藤瀬澄子さん(当時48)は、近所の料亭で仲居の仕事をしていた。澄子さんはこの日、仕事帰りに同僚女性と武雄温泉街にあるスナックで飲んだ。午後9時35分頃、同僚女性と西浦通で別れたあと、行方不明となっている。
この場所から自宅までは約1kmだった。日付が変わっても帰らない澄子さんを心配して、夫は方々に電話したり、実際に歩いて探したが見つからなかった。そのため、夫は警察に捜索願を出した。
その後の1989年1月27日、澄子さんは佐賀県北方町志久大峠の雑木林で、白骨死体で発見された。
この事件のあと、別の2人の女性が事件の被害者となっているが、澄子さんの遺体はこの2人と一緒に発見されている。この3人の事件を「北方事件」と呼ぶ。
第6事件:北方事件②
1988年12月7日(水)
佐賀県北方町の主婦・中島清美さん(当時50)は、所属しているミニバレーチームの練習に徒歩で出かけた。北方スポーツセンターにある練習場は、自宅から700m程度で、普段は練習仲間と2人で通っていた。しかし、この日は練習仲間が都合で休んだため、1人で出かけた。
午後10時50分頃、次女が仕事を終えて帰宅したとき、清美さんはまだ帰っていなかった。いくら待っても帰らない清美さんを心配して、次女がミニバレーの関係者に電話をしたところ、清美さんは練習に来ていないことが判明した。
その後、帰宅した清美さんの夫が、北方スポーツセンターまでの道を捜してみたが、清美さんの姿は見当たらなかった。そのため午前2時過ぎ、佐賀県警大町警察署に捜索願を提出した。
清美さんの遺体は、1989年1月27日、佐賀県北方町志久大峠の雑木林にて発見された。死因はやはり首を絞められたことによる窒息死で、第5事件、第7事件の被害者と一緒に発見されている。
第7事件:北方事件③
1989年1月25日(水)
佐賀県北方町の吉野タツ代さん(当時37)は、夕食中に出かけたまま帰らぬ人となった。当時、タツ代さんは夫と別居中で、小学生の息子を連れて実家で暮らしていた。そして、北方町にある縫製工場で働いていた。
1989年1月25日、タツ代さんが仕事から帰宅したのは午後7時15分頃、そのまま家族と夕食の席についた。食べ始めてすぐの午後7時25分頃、かかってきた電話に出て20秒ほど会話している。タツ代さんは「友達の車がパンクしたから山内町まで送ってくる」と言い残して車で外出した。
その後、タツ代さんは自宅から3㎞ほどのボウリング場の駐車場で目撃されている。ここで自分の車を降り、ある男の車の助手席に乗り込んでいた。
その2日後となる1月27日、タツ代さんは第6事件、第7事件の被害者と一緒に佐賀県北方町志久大峠の雑木林で遺体で発見されている。 死因は過去の事件同様、首を絞められたことによる窒息死であった。
北方事件の容疑者
北方事件の被害者3人の遺体は、1989年1月27日に発見された。この日の午後5時頃、佐賀県杵島郡北方町大峠の山林近くをドライブ中の夫婦が、崖下に女性の遺体を発見したため警察に通報した。
遺体の身元は、飲食店従業員の藤瀬澄子さん(第5事件)、主婦の中島清美さん(第6事件)、会社員・吉野タツ代さん(第7事件)と判明。被害者のものと思われる遺留品が、遺体発見現場の周囲2キロ圏内に点々と捨てられていた。
この3人の事件は『北方事件』と呼ばれ、容疑者が逮捕された。逮捕されたのは、吉野タツ代さんの交際相手の男性・松江輝彦(当時26)で、1989年10月に覚せい剤取締法違反で別件逮捕された。
松江は警察の事情聴取にて、いったんは「車の中で女友達の写真を見つけられ、口論となりタツ代さんを殺害した」と自供したが、のちに否認に転じた。この時は決定的な物証もなかったため、警察は立件を見送った。
ところが2002年6月11日、警察は窃盗未遂罪で服役中の松江を再逮捕し、7月7日に3件の殺害容疑で起訴に踏み切った。これには藤瀬澄子さん事件の公訴時効が間近だったことが関係していると思われる。起訴した時間は、公訴時効成立の6時間前だったのだ。松江はもともと素行が悪かったのは事実だが、物的証拠は乏しく、検察は状況証拠のみで裁判に臨んだ。
- 駐車場で吉野タツ代が乗った車が、松江の車と同じ車種だった
- 吉野タツ代さんの遺体に松江の唾液が付着していた
- 吉野タツ代さんの遺体に失禁跡があり、松江の車の助手席からも人間の尿が検出された
容疑者は無罪
検察は死刑を求刑したが、松江は第一審で無罪判決となっている。これは物証の乏しさに加え、限度を越えた取り調べの中で、『供述は捜査員の誘導により作成された』と認定されたからである。実際、佐賀県警は松江に対して1日12時間半の取調べを17日間行い、強引に自白をさせたという。
だが、松江は2012年に窃盗と覚せい剤取締法違反で逮捕されている。
謎がからみあう不思議な事件
佐賀女性7人連続殺人事件は本当に謎だらけの事件である。まず、7つの事件の犯人が”同一人物なのかどうか”さえわかっていない。
ただ、限られた情報ではあるが、以下の推測が成り立つ。
- 第1事件、第2事件 → 犯人A
- 第3事件、第5事件、第6事件、第7事件 → 犯人B
- 第4事件 → 犯人C
理由は、第5~7事件の3つ(北方事件)は、同じ場所から遺体がみつかっているので同一犯で間違いない。さらに、第7事件と第3事件の被害者は、同じ縫製工場勤務だったことから、関連がある可能性がある。
そして第1事件と第2事件も、同じ小学校から遺体が見つかっているので、同一犯の可能性が高い。しかも、第2事件の被害者の交際相手は、第1事件の被害者の母親が勤めるクラブの客であった。
残る第4事件だけは異質で、性的暴行が確認されたり、白い車の中年男があちこちで目撃されるなど、犯人と思われる男の行動が大胆である。犯行場所も手口も明らかに違うのだが、佐賀県警はなぜかこれを一連の犯罪のひとつとしている。共通しているのは「水曜日」と「首を絞めて殺害」の2点だけである。
佐賀県警は大丈夫なのか?
佐賀県警は本当に駄目ですね。
「太宰府主婦暴行死事件」でも「助けを求めた主婦を見殺しにした」と批判を浴びているようです。実際、この主婦は本当に悲惨な死に方をしました。この時、佐賀県警は言い訳に終始して、記者会見でも「事実関係の確認中」としか言いませんでした。
杉内由美子本部長などは最後まで一言も発することはありませんでした。結局彼女は更迭されて、長官官房付に異動になりました。東大を出てるエリートではありますが、役職に見合う仕事をしたかというと少し疑問が残ります。
1992年に起こった長崎・佐賀父子連続保険金殺人事件では、被害者の死亡状況が怪しさ満点なのに事故死と断定し、司法解剖を行いませんでした。そのため、犯人2人は野放しになり、翌1993年、男子高校生を殺害しています。司法解剖さえしていれば、睡眠導入剤が検出され、犯人2人は逮捕されたはずです。犯人のひとりは殺された男子高校生の母親でした。