「東電OL殺人事件」の概要
1997年3月19日、渋谷区のアパート空室で東京電力に勤める渡辺泰子さんの遺体が発見される。渡辺さんは女性管理職というエリートだったことが話題となったが、それ以上に世間が注目したのは、彼女が仕事のあと渋谷で売春していたことだった。
容疑者とされたのはネパール人のゴビンダさんで、一審無罪から一転して無期懲役が確定。だが事件から15年後、検察が重要な証拠を隠蔽していた事実が判明する。ゴビンダさんは再審を認められ、無罪を勝ち取った。検察は被害者の体内に残された証拠の存在を、鑑定人にさえ知らせていなかった。
事件データ
容疑者 | ゴビンダ・プラサド・マイナリさん(当時30歳) 2012年11月7日、無罪確定 |
真犯人 | 不明 |
犯行種別 | 強盗殺人事件 |
犯行日 | 1997年3月8日~9日 |
犯行場所 | 東京都渋谷区円山町16−8 「喜寿荘」101号室 |
被害者 | 1人死亡 |
キーワード | 東電社員が売春、冤罪 |
事件の経緯
1997年3月19日午後5時半頃、東京都渋谷区円山町のアパート「喜寿荘」の1階 101号室で、女性の遺体が発見される。アパートは木造2階建てのいわゆるボロアパートで、ラブホテル街のそばにあった。
発見したのはアパートのオーナーが経営する、ネパール料理店の店長だった。店長は前日にも女性が横たわっているのを窓から見たが、その時は寝ているものと思っていた。しかし、翌日も同じ姿勢だったことに違和感を持ち、警察に通報した。
遺体はちゃんと衣服を身につけていたが、頭や顔に打撲痕や擦過傷があった。死因は頸部圧迫による窒息死と推定され、首から鎖骨の辺りに圧迫された痕も確認された。
死亡推定時刻は8日深夜から9日未明、死後10日ほど経過していた。部屋のトイレには使用済みのコンドームが浮いていて、これは重要な証拠とみられた。ほかにも、部屋からは複数の体毛がみつかった。
遺体わきのバッグの中には名刺があり、身元はすぐに判明する。彼女は東京電力に勤める渡辺泰子さん(39歳)で、慶應大学経済学部を卒業後、1980年に ”東電初の女性総合職” として入社したエリートだった。このことは世間の興味を引いたが、事件の詳細がわかってくると、渡辺さんにはさらに驚くような私生活があったことが判明する。
それは、彼女が年収1000万円のエリートだったにもかかわらず、毎日のように売春をしていたという事実だった。
捜索願を出していた渡辺さんの母親は、以前から売春行為を知っていたと思われた。
事件当日の足取り
渡辺さんは、平日は朝7時に家を出て東京電力に出社。定時に退社すると、渋谷109のトイレで夜のメイクなどの準備をして円山町で客を取っていた。自ら課したノルマは1日に4人。客と夜を明かすことはなく、決まって最終電車で帰宅する生活を毎日欠かすことなく続けていた。
事件のあった3月8日は土曜日で、仕事は休みだった。この日の午前中、杉並区永福時の自宅を出た渡辺さんは、井の頭線・西永福寺駅を午前11時25分に入場し、電車に乗って渋谷で下車。デパ地下で買い物をしたあと、再び電車に乗って五反田へ向かった。
実は彼女は仕事のない土日祝日は、派遣型風俗店のSMクラブ「マゾッ娘宅配便」で働いていたのだ。昼の12時半に出勤した渡辺さんだったが、この日は客がつかなかったため午後5時に事務所を出た。
それから渋谷に戻り、午後6時40分に常連客と渋谷駅前で待ち合わせ。コンビニでおでんを買い、2人で円山町のラブホテルに入って3時間ほど滞在した。渡辺さんは行為のあと、シャワーを浴びたことがわかっている。
その後、事件現場の路上をひとりで歩く姿、続いて道玄坂で男性に声をかけているのを目撃された。そして午後11時25分頃には事件現場のアパート入口の短い階段(4段)を、「東南アジア風の男と上っていた」という証言もあった。午後11時45分頃には、アパート2階に住む女子高生が ”女性のあえぎ声” を聞いたが、午前0時半に再び通りかかった時には何も聞こえなかったという。
3月12日午前には、巣鴨駅から約1kmの民家の庭から「渡辺さんの定期入れ」がみつかった。この定期入れには、4か月前に置き引き被害に遭った男性の定期券も入っていた。
容疑者を逮捕
捜査を進めるうちに、容疑者としてひとりの人物が浮上する。それは、現場アパートに隣接するビルで、ネパール人の仲間4人と共同生活をしていたゴビンダ・プラサド・マイナリさん(当時30歳)だった。
ゴビンダさんは妻と2人の子どもを国に残し、1994年2月28日に90日間の短期滞在ビザで来日。だが、ビザの失効後も不法残留して、事件当時はJR海浜幕張駅(千葉市)近くのインド料理店「幕張マハラジャ」で働いていた。
警察がゴビンダさんを疑ったのは、事件当時、彼が「101号室の鍵を持っていた」とみられたためだった。1996年暮れにゴビンダさんの姉が来日する計画があり、姉と一緒に暮らすため4人の同居人に「喜寿荘」101号室に移ってほしいと話をもちかけた。
ゴビンダさんは4人に室内を見せるため、管理人であるネパール料理店の店長から同室の鍵を借りていたのだ。しかし姉の来日は延期になり、4人の転居話もなくなったが、ゴビンダさんは鍵を返さず持っていた。
渡辺さんの死体が発見された3月19日の深夜、仕事から帰ったゴビンダさんは、自宅のあるビルに入るところを、刑事に呼び止められる。彼は職務質問を受け、自室まで調べられた。不法残留がバレることを怖れたゴビンダさんは、翌日このことを職場に連絡し、「警察から身を隠すためにしばらく休ませてほしい」と頼んだ。
しかし、渡辺さん殺害に関して警察が自分を探していると知り、3月22日、自ら警視庁渋谷警察署に出頭。翌23日、入管難民法違反(不法残留)で逮捕され、31日に起訴された。
5月20日、ゴビンダさんは懲役1年(執行猶予3年)の判決を受けた。そしてその日の午後、すぐに警視庁により渡辺さん殺害および現金4万円を奪った強盗殺人容疑で逮捕され、6月10日、東京地検に起訴された。
ゴビンダさんに無期懲役
事件当日、アパート101号室の鍵を持っていたとされたゴビンダさんだったが、「事件の3日前(3月5日)に、同居人を通じて管理人に返却した」と供述。同居人も「翌6日に管理人に返却した」と捜査の段階で供述していた。
しかし、警察は ”鍵を返却したのは3月10日” とみていた。連日連夜の取り調べで同居人は、”この供述が嘘だった” とする調書を作成されている。検察はこの調書を公判に提出し、「事件当日、ゴビンダさんは鍵を持っていた。返却したのは事件の2日後。よってゴビンダさんが犯人である」というストーリーを展開した。
ゴビンダさんは、取り調べから公判に至るまで一貫して黙秘した。だが、アパートのトイレに捨ててあったコンドームからは、ゴビンダさんのDNA型が検出され、部屋に落ちていた体毛の何本かは、ゴビンダさんのものだった。
1999年3月25日の公判で、ゴビンダさんは渡辺さんの売春客であることを認めた。そして、「渡辺さんと最後に会ったのは2月28日で、その時に101号室のトイレにコンドームを捨てた」と供述した。
だが、現場からはゴビンダさん以外の第三者の体毛も発見されており、第一審判決は「犯人であるとするには合理的な疑いが残る」として無罪。本来なら不法残留のゴビンダさんは、これで国外退去となるはずだった。ところが検察側の超法規的手段により、ゴビンダさんは再勾留となる。
その後の裁判は「結果ありき」のような展開をみせた。控訴審では一転して無期懲役となり、2003年10月、最高裁でこれが確定してしまう。
冤罪が晴れて無罪に
その後、横浜刑務所に収監されたゴビンダさんだが、2005年3月に再審請求。その6年後(2011年7月)には新証拠の開示により、再審が認められる公算が強くなった。
そして翌2012年6月7日、東京高裁はゴビンダさんの再審請求を認める決定をする。
再審請求後、検察側が「被害者の体内に残された精液」や「爪の付着物」といった新たな証拠を開示した。裁判所の要求を受け、検察官がDNA型鑑定を実施したところ、ゴビンダさんとは別のDNA型が見つかった。
これらの証拠については、捜査の初期段階からすでに収集していたにもかかわらず、それを被告側に一切開示せずに握りつぶしてきた事実が明らかになった。
検察側は一発逆転を狙って「被害者の爪の付着物」の鑑定を行った。しかし検出されたのは、ゴビンダさん以外の第三者のDNA型。2012年10月18日、検察は「無罪を求める意見書」を東京高裁に提出した。ゴリ押ししてきた ”ゴビンダ犯人説” をようやく諦め、検察側が無罪主張に転じるという異例の事態になった。
2012年11月7日、再審判決公判で東京高裁は、一審の無罪判決に対する ”12年前の検察側の控訴” を棄却。ゴビンダさんは事件発生から15年越しで、ついに無罪を勝ち取った。
弁護団は検察や裁判所に対し、第三者を交えて経緯を検証するよう求めたが、検察側は冤罪か否かについても明言を避け、裁判所側は「コメントは控える」とだけ述べた。
被害者・渡辺泰子さんの生い立ち
渡辺泰子さんは1957年6月7日、東京で生まれた。家族は両親と6歳下の妹の4人家族。
父親は東京大学工学部を出て東京電力に勤めていた。母親は有名国立大学の教授の娘で、この時代にはめずらしく大学(日本女子大)を出ている。渡辺さんは近所でも評判のお嬢様で、父親に溺愛されて育った。家庭内は「父親と渡辺さん」 VS 「母親と妹」の構図があったという。
1976年3月、慶応義塾女子高等学校を卒業し、慶応義塾大学経済学部に進学した。しかし大学2年になった1977年7月、父親はガンのため52歳で他界する。このショックで渡辺さんは拒食症になった。
その後、1980年に優秀な成績で大学を卒業すると、父親と同じ東京電力に ”女性初の総合職” として、鳴り物入りで就職した。
入社式で「亡き父の名を汚さぬようがんばります」と宣言し、東電初の女性総合職、父娘二代にわたる社員として、東電に勤めていることを ”異常なほど” 誇りに思っていたという。
父親は反原発派で、そのために出世の道を閉ざされたとの噂もあるが、娘の渡辺さんもその思想を受け継いだ。彼女は原子力発電の危険性を指摘して地熱発電に移行するように訴え、その類の報告書を書いていた。
所属していた企画部調査課では熱心にレポート・報告書を作成し、29歳の時には東洋経済新報社が主宰する「高橋亀吉記念賞」で佳作を受賞、高い評価を受けた。彼女の働きぶりは「がんばりすぎに見えた」と当時の上司は話している。
円山町で売春を始める
このように注目される存在だった渡辺さんだが、1985年、職場で「ハーバード大学留学」の選抜試験に落ち、ライバル的存在の東大卒の女性社員が選ばれた。このストレスのせいか、渡辺さんは再び拒食症を発症して入院する。
また1989年から3年間、民間のシンクタンクへの出向を命じられるが、これは出世コースからの脱落を意味するものだった。このころ、クラブホステスのアルバイトを始めている。
1993年、入社から13年目の渡辺さんは、東京電力初の女性管理職(経済調査会の副長)に抜擢される。退社後に円山町で売春するようになったのも、このころからである。
彼女は朝7時に家を出て東京電力に出社。定時に退社すると、渋谷109のトイレでメイクやウィッグなど、夜の準備をして円山町で客を取る。自ら課したノルマは1日4人。帰りは決まって最終電車で、この生活を毎日ルーティーンのように続けていた。
事件後、警察が押収したアドレス帳をもとに、連絡先が判明した顧客88人について警察は事情聴取を行った。その中には東電の常務2名の名前もあったが、「渡辺泰子のことは知らない」と頑なに聴取に応じなかった。
さらに仕事が休みの日は、五反田の派遣型風俗店「マゾッ娘宅配便」に所属して体を売っていた。当時の渡辺さんを知る人によると「服装が地味で、見た目で風俗嬢とはわからないタイプ」だったという。身長169cmに対して体重は44kg、30半ばの瘦せこけた彼女に客はつかず、店を辞めた。
また、渡辺さんはホテルや客とトラブルになることが多く、出入り禁止になったホテルもあったそうである。
心を病んでいた?
渡辺さんに関するエピソードは、奇行といえるものが多い。その最たるものは ”金に困っていないのに売春で稼いでいる” ことだが、ほかにも「ホテルで用を足すのに、トイレではなく部屋の中でしていた」「道路で放尿していた」「2000円~3000円でも体を売り、外での行為も多かった」「コンビニでしょっちゅう弁当を万引きしていた」など、いろいろある。
そのため、渡辺さんは ”精神を病んでいた” との指摘がされている。ルーティーン化した行動が多く、これはアスペルガー症候群の特徴とも合致する。大きなショックがあると必ずといっていいほど拒食症を発症し、事件当時も169cmの高身長に対して体重は44kg。ゴビンダさんも「骨と皮だけのような肉体だった」と証言していた。
渡辺さんが利用していたコンビニの店員は「コンニャクなどの低カロリー具材に、大量の汁を注いだおでんを頻繁に購入していた」と話す。(大量の汁は、空腹を満たすためと思われる)
拒食症回数 | 発症年齢 | 発症の原因 |
---|---|---|
1回目 | 20~21歳 | 父親の死亡でショックを受けたのが原因と思われる |
2回目 | 28歳頃 | 職場で「ハーバード大学留学」の選抜試験に落ち、東大卒の女性社員が選ばれた |
3回目 | 38~39歳 | 原因は不明だが、売春客に「将来のことが心配」と言った |
恋人のような存在の男性
渡辺さんには、恋人のような存在の自営業の男性Mさん(当時57歳)がいた。馴れ初めは1992年10月31日、妻と別居中のMさんが渋谷で渡辺さん(当時35歳)に声をかけたのが始まりだった。
「一緒に食事でもしない?」というMさんの誘い文句に、渡辺さんは「ホテルのほうがいいと思いません?」と返したという。2人は週2回ほど会うようになり、その度にMさんは2万円を渡していた。
渋谷109前で待ち合わせをし、連れ立ってラブホテルに入る前に、渡辺さんは決まってビールを3本(ロング缶1本とレギュラー缶2本)とイカのくんせいを買った。最初の1時間ほどでそれを飲むと、行為の前にシャワーを浴びた。
渡辺さんは初老の母親を気遣い、一家の大黒柱となって働いているようにMさんには感じられた。服装は会社勤めのままの地味なスーツで、付けているアクセサリは金のネックレスのみ。下着も白やベージュのおとなしいものばかりで、流行りのファッションとは無縁な女性だった。
一度、Mさんが派手な下着をプレゼントすると、母親の反応や(干した時の)近所の目を想像してオロオロしていたそうである。
ホテルでは、彼女の専門分野である経済学を熱心に話し「会社では女の話なんて、真剣に聞いてくれない」と愚痴をこぼしていた。何でも話せる友達もいないようで、渡辺さんからは ”孤独” を感じた。
「そんな渡辺さんの孤独を埋めるのは、男性との性行為だけだった」という指摘が事件後にされている。Mさんが「今日は食事だけにしよう」と言った時は悲しそうな顔をし、「金抜きで付き合おう」と提案した時もやはり寂しそうに黙っていたという。
2人が別れたのは1994年9月11日。約2年間の付き合いだったが、その間、「2人の間には恋愛感情があった」とMさんは考えている。資金繰りに困った時などは、封筒に入った15万円を手渡されたり、誕生日プレゼントには「Mさんとお会いできて、私は幸運です」と書かれたカードが添えられていた。
別れた理由は、渡辺さんの売春を知ってしまったから。ある時、ひょんなことからそれに気づいたMさんは、わざと待ち合わせをすっぽかし、物陰から様子をみていた。すると、渡辺さんはMさんが来ないとわかると、知らない男に声をかけてホテルに入っていった。
Mさんが別れを告げた時、プライドの高い渡辺さんは理由も聞かず「わかったわ」とだけ答えたという。
冤罪を生んだ裁判
1997年10月14日、東京地裁で初公判が開かれた。ゴビンダさんは取り調べから公判に至るまで黙秘を貫き、犯行を認めてはいなかった。そして公判が始まっても「渡辺さんとは面識がない」と言い、無罪を主張した。
だが1999年3月25日の第25回公判で、「渡辺さんに路上で誘われて顔見知りになった」と証言し、4月26日の第26回公判では、渡辺さんと3回会って性行為したことを認めた。
1回目は、ゴビンダさんの記憶では1996年12月20日頃で、仕事から帰る途中、1回5000円ということで声をかけられた。ゴビンダさんが「ホテル代がない」と言うと、「どこでも構わない」と言うので自室に連れ込んだ。このときは同居人2人も渡辺さんの相手をした。
その後、年の暮れにも渡辺さんが突然訪れてきたが、このときは同居の2人が反対したため何もしなかった。さらに年明けの1997年1月末、路上で渡辺さんに声をかけられたゴビンダさんは、同居人が嫌がると考え、持っていた鍵を使って「喜寿荘」101号室で事に及んだ。
渡辺さんはたとえ1000円の客でも相手をし、客の所持金が少ない場合は外で行うことも多かった。犯行の前日も「喜寿荘」向かいの駐車場で中年客の相手をしていたことがわかっている。
ほかにも路地の物陰やビルの非常階段での ”行為” を、付近の住人などから目撃されていた。また、そうしたことが公判での客の証言からも明らかになっている。
3回目は2月25日から3月2日までのいずれかの日で、場所はやはり101号室。この時トイレに捨てたコンドームこそが、事件発覚後に押収されたものだった。
犯行現場・101号室の鍵について
ゴビンダさんは、”また渡辺さんとこの部屋を使うかもしれない” と考え、鍵をかけずに部屋を出た。そして、「それ以降は渡辺さんには会っていない」と証言している。実際、遺体発見の3月19日は鍵がかかっていなかった。
渡辺さんの手帳には次のような記載があった。
【1996年】
・12月12日<?外人3人(401)1.1万>
・12月16日<外人(401)0.3万>
【1997年】
・1月29日<?0.5万>
・2月28日<?外人0.2万>
※ 401はゴビンダさんの部屋番号、?の意味は不明。
ゴビンダさんは、「3月5日に同居人を通じて鍵を返した」と言い、同居人も「翌日(3月6日)に管理人に返却した」と捜査の段階で供述していた。しかし連日連夜の取り調べで、同居人は「3月6日に私が返したというのは嘘でした」という調書を作成された。
検察はこの調書を公判に提出し、「事件当日にはゴビンダさんが鍵を持っていた。だからゴビンダさんが犯人。実際に鍵を返却したのは、事件2日後の3月10日」というストーリーを主張した。
だが、いずれにせよ遺体の発見時「喜寿荘」101号室の鍵は開いていた。誰でも自由に出入りできる状態にあり、”鍵を持っていることが犯人である証拠” とはならないのだ。
何日前のDNAか?
トイレから押収されたコンドーム内の精液は、DNA鑑定でゴビンダさんのものと一致した。そうなると、これが「いつの時点のものか」ということが重要になってくる。
これを調べたのは、帝京大学医学部講師の押尾茂氏で、「押収されたもの(精子)と同じ状態まで崩壊するのに要する日数」を実験した。その結果、「経過日数は20日」ということがわかった。
このことからわかるのは、ゴビンダさんが渡辺さんと最後に関係を持ったのは2月の終わり頃ということ。これは、殺害される1週間以上も前である。これなら弁護側の主張が正しいことになり、ゴビンダさんの供述とも一致する。
しかし、押尾講師は「自分の実験は清潔な環境でやったからこうなった。現場のトイレは不潔だろうから、10日で同じ状態になっても不思議はない」という趣旨の意見をまとめた。経過日数が10日だとすれば、ちょうど渡辺さんが殺害された3月8日頃となり、検察側の主張にぴったり合う。
だが、「不潔な環境だと精子の崩壊が早い」という意見は仮説に過ぎず、科学的合理性のない結論だった。
時間的に犯行が可能か
「時間的な面からゴビンダさんに犯行が可能かどうか」も争点のひとつになっていた。
勤務先のインド料理店「幕張マハラジャ」のタイムカード記録によれば、渡辺さん殺害の3月8日、ゴビンダさんは午後10時少し過ぎに退店。その後、午後11時25分頃に「現場アパート入口の階段を上る、男女2人を見た」という証言がある。
2人は同じぐらいの身長の男女で、男の方は東南アジア風だったという。
店から海浜幕張駅は、急いで歩いても5分。それから電車を乗り継いで渋谷へ行き、さらに徒歩で自宅近くに午後11時25分に到着できるかどうか?東京行きの京葉線は、午後10時台は7分・22分・37分・52分の4本である。ゴビンダさんは「午後10時22分発の電車に乗った」と証言していた。
渋谷署の警察官が実際に移動して調べたところ、7分発に乗れば最短距離を歩いてなんとかギリギリ間に合い、22分発では間に合わないという結果だった。ただし、7分発で間に合うといっても、これには渡辺さんとの売春の交渉をした時間が含まれていない。
警察はこの目撃証言をのちに「午後11時25分」から「午後11時25分以降」と訂正、初公判の検察の冒頭陳述では「幕張マハラジャ」を退店したのは、同店のタイムレコーダーが2分40秒進んでいたとして、「午後9時57分頃」としている。
検察側は「7分発の電車に乗車した」と主張、弁護側は「7分発の電車に乗るのは無理があり、22分発に乗車した」と主張した。
その他の証拠
現場から採取された体毛は全部で16本あった。うち12本はDNA鑑定の結果、渡辺さんとゴビンダ被告のものと判明。残り4本のうち3本は、最後まで誰のものかわからなかった。このことは、「犯行当日、部屋にはゴビンダさん以外の第三者がいた」との可能性が考えられた。
しかし、検察は「前の住人のものの可能性がある」としてこれを重要視せず、あくまでゴビンダさんを犯人と見立てていた。
巣鴨の民家の庭先で見つかった渡辺さんの定期入れについては、ゴビンダ被告の指紋は検出されなかった。彼にとって巣鴨は友人や職場の同僚がいるわけではなく、まったく土地勘のない場所だった。この件は謎のまま放置されていた。
現場にあった渡辺さんのショルダーバッグの取っ手からは、渡辺さんのDNA型が圧倒的に多く検出された。また、ゴビンダさんと同じB型の血液型物質も検出されていた。(渡辺さんはO型)
結論としては、ゴビンダさんと同じ型のDNAがあったとは認定されなかった。
第一審判決は無罪
1999年12月17日の求刑公判で、検察側は無期懲役を求刑。弁護側は2000年1月24日の最終弁論で、「ゴビンダ被告には動機がなく、犯人と断定すると矛盾する証拠もある。ほかに犯人がいる可能性が高い」として無罪を主張した。
4月14日の判決公判で、東京地裁はゴビンダ被告に無罪を言い渡した。
裁判長は「犯行との結びつきを推認させる状況証拠は、いずれも反対解釈の余地が残って不十分であり、ゴビンダ被告を犯人と認めるには疑問が残る」と判断。「被告以外の者が犯行時、アパートにいた可能性が払拭できない。また被告を犯人とすると、矛盾したり、合理的に説明できない事実も存在する」と説明した。
押尾講師による精子の鑑定結果については、「数字を根拠にする限り、『放置期間は(20日間よりも)10日間の可能性が高い』と断定できないことは、言うまでもない」と述べた。
ゴビンダさんは入管難民法違反で有罪判決が確定(1997年5月)していることから、刑事訴訟法345条にのっとり、入管当局に収容されたあと国外退去の手続きに入った。
2000年4月18日、検察側は無罪判決を不服として控訴。そして「国外に出ると控訴審が実質上、不可能になる」として、東京地裁に勾留への職権発動を要請した。
弁護側は「ゴビンダさんは、控訴審の文書の送達先としてネパール大使館を指定しており、帰国しても審理を進めることは可能」と主張、勾留に反対する意見書を東京地裁に提出していた。
4月19日、東京地裁は勾留しないことを決め、弁護側・検察側の双方に通知。勾留は「罪を犯したと疑うに足りる、相当な理由がある場合に認められる(刑事訴訟法60条)」と規定されており、無罪となったゴビンダさんの場合、勾留される理由はなかった。
すると、検察側は一転して東京高裁へ勾留の要請を行う。4月20日、東京高裁第5特別部は裁判官3人で協議した結果、検察側の要請を退け、勾留の職権発動をしない決定を出した。裁判長は「一審判決の訴訟記録が届いていない段階では、高裁は勾留する権限をもっていない」という判断を示した。
強引な手段で勾留を決定
2000年5月1日、控訴審の担当部が東京高裁「第5特別部」から「第4刑事部」に変更となった。
東京高検は今度は職権で勾留するよう、東京高裁第4刑事部に再勾留を要請。5月2日、第4刑事部は「5月8日に勾留質問をする」と宣言した。これは勾留前に被告人の弁解を聞く手続きであり、勾留することを前提としたもの。だが3年に及ぶ裁判の記録をたった1日で読んで精査したとは思えず、記録を読む前から勾留に前向きだったと思われた。
東京高裁第4刑事部(高木俊夫部長)は1999年7月8日、狭山事件での第2次再審請求を棄却した部局である
5月8日、東京高裁第4刑事部の高木俊夫判事は「犯罪を疑う相当な理由がある」と判断して勾留を決定。ゴビンダさんは入管施設から東京拘置所に移送された。弁護側は決定を不服として勾留理由の開示を東京高裁に求めた。
5月12日、東京高裁は弁護団に対し、「一審記録を慎重に検討した結果、罪を犯したと疑う相当な理由があると判断した。また、強制退去手続き中で日本に定まった住居がなく、証拠隠滅や逃亡のおそれもある」と答えた。
これに対し弁護団は「勾留は逆転有罪を想定した『刑の執行の確保』が目的で、勾留制度の濫用だ」と厳しく批判。5月15日、東京高裁に異議を申し立てた。
5月19日、東京高裁第5刑事部(前述の「第5特別部」とは別の部局)は3人の裁判官で協議した結果、弁護側の申し立てを棄却した。その理由を「被告人が本件強盗殺人の罪を犯したことを疑うに足りる、相当な理由があることは明らかである」のひと言で済ませた。
裁判官を児童買春で逮捕・罷免
勾留を決めた3人の裁判官の中に、1か月前 ”再勾留しない決定” をした東京高裁「第5特別部」3人のうちのひとりがいた。この裁判官の名前は村木保裕といい、わずか1ヶ月の間に正反対の判断を下したことになる。
この裁判官・村木保裕は4月から東京高裁に赴任したばかりの判事で、2001年5月19日に14歳の少女に現金を渡してみだらな行為をしたとして児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで警視庁に逮捕された。
その後、8月27日に東京地裁で懲役2年(執行猶予5年)の判決。11月28日、裁判官弾劾裁判所では罷免を言い渡され、不服申し立てができず罷免が確定している。
- 2000年5月23日、弁護側は最高裁に特別抗告 → 6月27日に棄却
- 7月31日、弁護側は東京高裁に再度「勾留取り消し」を請求 → 8月7日に棄却
- 弁護側は異議申し立て → 8月10日、異議申し立てを棄却
- 8月14日、弁護側は「勾留の理由が示されていない」と、最高裁に特別抗告
控訴審で逆転・無期懲役
2000年8月24日、東京高裁で控訴審初公判が開かれた。裁判長は、再勾留を決定した「東京高裁第4刑事部」部長・高木俊夫だった。
弁護側は「コンドーム内の精液が『いつのものか』について、(押尾実験で終わらせずに)裁判所できちんと鑑定してほしい」と申請したが、却下された。
12月22日の控訴審の判決公判で、東京高裁は一審判決を破棄し、ゴビンダ被告に無期懲役を言い渡した。
高木俊夫裁判長が主文を読み上げ、ネパール語に翻訳され始めたとき、ゴビンダさんは日本語で突然、「神様、やっていない」「神様、助けてください」と裁判長に向かって叫び、傍聴席を振り向いてもう一度、「やってない」と叫んだ。
検察側は ”決定的証拠を何ひとつ提出できなかった” にもかかわらず、高木俊夫裁判長は「ゴビンダ被告が犯行に及んだことは充分に証明されており、合理的な疑いを生じない」と述べた。
弁護側は即日上告した。
最高裁で無期懲役が確定
2001年2月、上告審において弁護側は、日本大学医学部法医学教室の押田茂實(しげみ)教授に鑑定を依頼する。それは、「事件と同じ時期である2月下旬に、本物の便器内の汚水による ”精子の崩壊” を観察する」というものだった。
その結果、崩壊の程度は ”10日間の放置では約40%” に留まった。これは帝京大学医学部の押尾茂講師の実験とほぼ同じ結果で、「不潔な水だと崩壊が早い」という押尾講師の意見が正しくないということを証明するものであった。(20日間放置の結果も、押尾実験と同様に80~90%が崩壊)
3月25日、市民団体「無実のゴビンダさんを支える会」の結成集会が都内で開かれ、日本ネパール協会関係者ら約150人が集まった。
7月5日、弁護側が「現場に残されたゴビンダ被告の精液は、事件当日のものでない可能性が高い」とする新たな鑑定書を添えて、上告趣意書を最高裁に提出した。
2003年10月20日、最高裁判決で藤田宙靖(ときやす)裁判長は無期懲役とした2審判決を支持して被告側の上告を棄却する決定を出した。最高裁は、「記録を精査しても2審判決に重大な事実誤認は見当たらない」と判断した。
10月23日、弁護団は最高裁決定に対し異議を申し立て、「記録を精査すれば、ゴビンダ被告の無罪は明らか。二審判決には重大な事実誤認があり、破棄しなければ著しく正義に反する」と指摘した。
しかし11月4日、藤田裁判長は異議申し立てを退け、ゴビンダ被告の無期懲役が確定。弁護側は冤罪を主張し、再審を求める方針を明らかにした。
第三者の関与が判明
無期懲役となったゴビンダさんは、収監された横浜刑務所で2005年3月24日、東京高裁に再審を請求した。
請求から約6年後の2011年7月21日、検察側から新たな証拠が開示される。それは、東京高検が「渡辺さんの体内から採取された精液」のDNA型鑑定を行った結果、殺害現場に残された体毛のDNAと一致したというもの。ゴビンダさんとは別人の第三者のもので、警察庁のDNA型データベースに照会しても一致する人物はいなかった。
このことから「被害者が第三者と現場の部屋に行った可能性」が浮上し、再審が開始される公算が出てきた。
これらの証拠については、捜査の初期段階からすでに収集していたにもかかわらず、それを被告側に一切開示せずに握りつぶしてきた事実が明らかになった。
9月16日、東京高検が ”事件当日の殺害現場で、第三者が渡辺さんと接触した可能性” を示すDNA型鑑定結果に対する意見書を東京高裁と弁護団に提出。
11月1日、弁護団が「遺体の胸や下腹部周辺の付着物から、第三者のDNA型が検出された」とする鑑定書を新証拠として東京高裁に提出。
2012年1月20日、「渡辺さんの下着の15点の付着物から、ゴビンダ被告のDNA型は検出されなかった」という結果が、東京高検から開示された。これらは、”事件に関与した可能性のある第三者” のDNA型と一致していた。(「渡辺さんの体内の精液」や「現場に落ちていた体毛」のDNA型と一致)
2月7日、東京高裁が ”鑑定は不要” とした残りの27点(被害者の手や着衣などの付着物)について、東京高検は独自に鑑定を実施する方針を固めた。そして4月26日、「DNA型の確定や個人の特定は不可能または困難」という結果を開示。これを踏まえて5月22日、東京高検は「有罪判決に誤りはない」とする最終意見書を東京高裁に提出した。
検察が異例の”無罪主張”
2012年6月7日、東京高裁はゴビンダさんの再審請求を認め、刑の執行を停止する決定を出した。
最大の焦点だった「再審請求審での新たなDNA型鑑定結果」について、裁判長は「公判で証拠提出されていれば有罪認定できなかったと思われ、無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」と評価。「ゴビンダ受刑者以外の男が、被害女性と性的関係を持ったあとに殺害した疑いを生じさせている」と指摘し、無期懲役の確定判決を強く疑問視した。
これらの決定について、検察側は異議を申し立て、釈放手続きの停止も申し立てた。
しかし6月11日、入管当局がゴビンダさんに対し強制退去命令を出した。ゴビンダさん(当時45歳)は6月15日、妻(当時42歳)・長女(当時20歳)・次女(18歳)とともに母国ネパールに向けて出国した。
ゴビンダさんが帰国した時、ネパールでは数百人の報道陣が詰めかけた。これは、2008年にネパールが民主化を達成した時より多かったという。
7月31日、検察側の異議申し立てが退けられる。そして8月2日、検察側は ”再審を認めた東京高裁の決定” について不服申し立てをしないことを決め、裁判のやり直しが確定する。
10月10日、検察側が追加実施した鑑定の結果、渡辺さんの爪の付着物から「(ゴビンダさんとは別人の)第三者のDNA型」が検出されたことがわかった。検察側は10月18日、「ゴビンダさんを犯人とするには合理的な疑いが生じた」として無罪を求める意見書を東京高裁に提出した。
爪の付着物のDNA型鑑定は、形勢不利に傾いていた検察側が ”一発逆転を狙って” 実施したものだったが、結果は「ゴビンダさんとは別人の第三者のもの」で、あえなく撃沈した。
弁護団は10月19日、検察側が無罪主張に転じたことを受けて「極めて当然。控訴の判断自体が誤り。ゴビンダさんの無実は一審無罪判決の段階で明らかだった」とする意見書を東京高裁に提出した。
ゴビンダさんの無罪が確定
10月29日、東京高裁で再審第1回公判が開かれ、検察側が異例の無罪主張をして、即日結審。
2012年11月7日、東京高裁で再審判決公判が開かれ、一審無罪判決(2000年4月14日)に対する当時の検察側控訴を棄却し、ゴビンダさんを無罪とした。
裁判長は「本件強盗殺人はゴビンダ被告以外の者が犯人である疑いが強く、被告を犯人とするには合理的な疑いがある」と述べた。
「渡辺さんの体内の精液」や「爪の付着物」を早い段階で開示していれば、ゴビンダさんの有罪はあり得なかった。警察と検察は、当初から ”第三者の痕跡” を把握していたにもかかわらず、「重要な証拠ではない」と鑑定も開示もしなかった。このことは、「証拠を隠蔽した」と世間からの強い非難を浴びた。
当時、警視庁から依頼されてDNA鑑定を実施した帝京大の石山昱夫名誉教授は、「被害者の体内に残留した精液があることは知らされておらず、本当に驚いている」とコメントした。
2013年、不当に勾留されたとして刑事補償請求を行ったゴビンダさんに、補償額上限の約6800万円(1日当たり1万2500円)が国から支払われた。これは、当時のネパールの平均年収のおよそ1000年分だという。
ゴビンダさんはこの中から「第二東京弁護士会・刑事弁護援助基金」に300万円を寄付している。裁判中、この基金から100万円を援助されたことに対する感謝の気持ちだという。(参考:ゴビンダさんが二弁に来ました/2017年11月)
ゴビンダさんのその後
無罪を勝ち取ったゴビンダさんは、ネパールに帰国して首都カトマンズの中心から少し離れた場所に、3階建ての家を建てた。そしてトヨタのランドクルーザーを購入。悪路の多いネパールでは、四輪駆動はとても重宝しているという。
2017年11月、51歳になったゴビンダさんが、妻とともに5年ぶりに来日した。この時、ゴビンダさんは取材に対し「刑務所のことやひどい人間のことを今でも夢に見る」と話した。眠れない夜が多く、寝ても嫌な夢で起きてしまうそうだ。
15年間のブランクはあまりにも大きく、ネパールでも仕事はないという。補償金で生活はできるが、ゴビンダさんは、心に埋めきれないものを抱えてしまった。日本政府や関係者には「これから自分はどうすればいいか教えてほしい。人生の大切な15年間、お金で買えない」と訴えた。
2019年にゴビンダさんを取材した作家によると、長女はオーストリアで結婚してザルツブルク暮らし、孫も誕生したという。次女もネパール人と結婚して、オーストリアで働いている。
日本の警察に対しては「未だに真犯人が見つかっていないことには、怒りを覚える。あの時、私の話を信じていれば、犯人を捕まえられたかもしれない。結果的に警察のミスで取り逃がしてしまったのだと思う」と話した。