山中湖連続殺人事件
警視庁警部・澤地和夫は警察を退職後、居酒屋経営に挑むもこれに失敗。1億5000万円の負債を抱えてしまう。その後は暴力団関係者と違法な会社を運営するなど、裏社会で生きていくようになった。
落ちるところまで落ちた彼は、最終的に「金持ちを殺して大金を奪う」ことを思いつく。そして裏社会で知り合った猪熊武夫ら共犯者とともに、標的を山中湖の別荘に誘い込み、2人の金持ちを殺害した。
「理想の警察官」とまでいわれた男は、なぜここまで転落してしまったのだろうか?
事件データ
犯人1 | 澤地和夫(当時45)判決:死刑 2008年12月16日 獄中死(69歳没) |
犯人2 | 猪熊武夫(当時35)判決:死刑 東京拘置所に拘留中 |
犯行種別 | 連続殺人事件 |
犯行日 | 1984年10月11日、10月25日 |
犯行場所 | 山梨県(山中湖の別荘地) |
被害者数 | 2人死亡 |
動機 | 借金 |
キーワード | 元警察官 |
事件の経緯
警視庁に勤める橋本和夫は、機動隊員などを経て警部に昇任していた。
しかし1980年1月、自分の店を持とうと考え40歳過ぎで退職。そして3カ月後、計画通り新宿駅西口の一等地に、居酒屋「橋長」を開業した。店は60席で宴会場もある中規模店、素人の彼には無謀ともいえる挑戦だった。
開業資金は保証協会から700万、国民金融公庫から2300万、サラ金から500万、信用金庫から500万を借り、総額4000万円だった。この額は彼の経済事情を考えれば、身の丈を超える額といえた。
「警察官が安心して飲める店」を目指し、当初はご祝儀的な来店も多かったため店は繁盛した。そのせいで彼は、すっかり気が緩んでしまう。気が大きくなり、元同僚には料金を格安にしたり、閉店後に従業員を引き連れて飲みに繰り出すなど、堅実な商売とはいえなかった。
そして、それに乗じて暮らしも贅沢なものになっていく。 しかしそれは、まだ借金の返済が始まっていないからこそできることだった。
開店から半年ほど経って返済が始まると、途端にやり繰りが苦しくなった。そのうち赤字が積りはじめると、高利子の消費者金融に手を出すようになる。元同僚の警察官にも金を借りたり、借金の保証人になってもらったりもした。
そんな時、店舗の入ったビルが倒産、保証金2500万円の権利を失ってしまう。暴力団関係者にその取り立てを依頼したが失敗、金策に走る日々が続いた末に閉店に追い込まれてしまう。 開店から3年後のことだった。
借金は1億5000万円、そのうち5000万円は元同僚警察官らから借りたものだった。彼は姓を変えることで借金返済を有利にするため、この時期「橋本和夫」から「澤地和夫」になっている。
落ちていく元警察官
澤地和夫に金銭的協力をした警察官は、20人を超えていた。その中には自宅を差し押さえられたり、生活に支障をきたすものまで出た。保証人となった警察官には、ノンバンクから所轄署などに督促の電報が届くようになっていた。
澤地は借金返済のため、ブローカーや金融屋などの良からぬ連中と関係を持つようになり、深みにはまっていく。暴力団関係者に誘われ、月50万円の報酬で裏ビデオを扱う会社の社長に就いたこともあった。これは当然まともな商売ではなく、取り込み詐欺が目的のペーパー会社。仕入れた商品を売りさばいた後、仕入れ代金を払わず倒産させるのだ。
ある時、澤地は暴力団関係者に手形の現金化を頼まれる。この件で澤地は現金化した100万円を借金返済に当ててしまい、小指を詰めさせられた。その後も再起をかけ、金融会社社長に借りた100万円で千葉県津田沼市で調査会社を立ち上げたが、仲介者に事務所の家賃を持ち逃げされた。
ここまで悪いことが続くと、這い上がることは不可能に思えた。
そんな時、在日韓国人の朴竜珠(当時48歳)という男から、儲け話を持ち掛けられる。彼は違法ポーカーゲーム屋を開くに当たり、警察のガサ入れ情報を欲しがっていた。半年やれば1~2億円になるといわれその気になったが、彼に情報を取れる自信はなかった。
結局、この話は進まなかったので、澤地は「人を殺してでも金が欲しい」と朴に相談。すると、朴はある男を紹介するという。その男は不動産業者の猪熊武夫(当時35)で、7億円の負債を抱えて倒産し、「金になるなら少々ヤバイことでもやる」ということだった。
こうして澤地、朴、猪熊の3人は、ある宝石商をだまして金を奪う計画を立てる。
山中湖の別荘で
3人の ”計画” のターゲットは、宝石商の太田三起男さん(36歳)だった。彼は、安い宝石を高く売りつけることで儲けていた。
澤地は商談のため、太田さんを池袋のサンシャイン・プリンスホテルのバーに呼び出した。太田さんは首や腕に金ピカのアクセサリーを付け、手にはアタッシュケースを持って現れた。アタッシュケースの中には、見せ金の現金1000万円が入っているという話だった。
太田さんはサファイアの指輪を2個見せた。1個1000万円と言うが、せいぜい数百万円だろうと思った。澤地は「厚木市に住む大金持ちに話せば、指輪2個で6000万円になる」と持ちかけ、太田さんはこの話に乗った。
しかしそんな大金持ちなど存在していなかった。これは太田さんを嵌めるためのシナリオで、猪熊がその役をやることになっていたのだ。 1984年10月11日、澤地と朴は太田さんを車に乗せ、猪熊が所有する山中湖の別荘へ向かった。”厚木の大金持ち” 役の猪熊は、途中で合流した。
別荘に着くと太田さんは、金持ちのふりをした猪熊を相手に商談を始めた。嘘の交渉はしばらく続いたが、そのうち「芝居はもう終わりだ」と澤地が言い放った。太田さんは、はじめ事情を呑み込めなかったが、すぐに危険を察知した。
立ち上がろうとする太田さんを澤地が押さえつけ、太田さんも反撃した。そのまま乱闘になったが、訓練を受けた元警官に勝てるはずもなかった。太田さんは倒れ込み、澤地ら3人に殺害されてしまう。
3人は遺体を床下に埋め、現金と宝飾類を奪った。
指に付けていた指輪は取れなかったため、澤地は指ごと切断して持ち帰ったという。
こうして現金約720万円と株券など計約5400万円相当を奪うことに成功した。居酒屋を閉店して1年ほどで、澤地はここまで落ちていた。
第2の犯行
第2の犯行は、澤地と猪熊2人で行うことになった。朴は最初の犯行の後、韓国に逃亡していた。
次のターゲットは、金融業者の滝野光代さん(61歳)だった。
澤地は彼女から1000万円を借りていて、その中には澤地の警察官の息子名義で借りた分もあった。しかし返済が滞り、滝野さんは息子が勤務する神田署まで取り立てに行ったという。
澤地はこれに腹を立て、滝野さんを次のターゲットにしたのだった。
猪熊は「千葉県我孫子市の土地所有者」に扮し、土地を担保に滝野さんから3000万円の融資を受ける話を取り付けた。
10月25日午後1時頃、澤地は埼玉県上尾市のマンションへ滝野さんを迎えに行った。そして、彼女が助手席に乗り込むと車を走らせた。前回同様、土地所有者役の猪熊は途中で合流し、我孫子市へ向かった。
1時間ほど走ると、滝野さんがウトウトしはじめた。猪熊は、後部座席から白いロープで彼女の首を絞めた。澤地も左手で滝野さんを押さえて協力した。ロープを絞める手が疲れてくると、猪熊は 「代わってくれ」と言い、澤地が代わって左手で首を圧迫し、右手で鼻と口をふさいだ。滝野さんが動かなくなると、車のトランクに入れて山中湖の別荘へ向かった。
澤地らが車を走らせていると、かすかにうめき声が聞こえた。慌ててトランクを開けると、滝野さんが目を開き弱々しい声で「…何するの?」と言った。殺したと思っていた滝野さんは生きていたのだ。澤地は焦ったが、再び首を絞めて今度は確実に殺害した。2人は、現金2000万円と貴金属計約2800万円相当を奪い、遺体を前回と同じ場所に埋めた。
その後、澤地は奪った預金通帳から、106万円を引き出している。
そして逮捕
最初の被害者の太田さんには内妻がいた。彼女は太田さんの失踪後、「澤地と会うと言って出かけたきり、帰ってこない」と捜索願を提出していた。
警察が捜査を始めると、太田さんの赤い車は西武デパート近くの駐車場に放置されているのが発見された。駐車記録を調べると、澤地と会った日から車はずっと止められたままだった。
さらに調べを進めると、澤地が「暴力団員に宝石を売ろうとしている」ことが判明。そのため11月23日、警察は澤地を任意同行で事情聴取した。
当初、澤地は黙秘を貫き、罪を逃れようと考えていた。しかし、取調官の巧みな話術により犯行を自供してしまう。澤地は逮捕され、彼の供述により朴も逮捕された。
自供から数日後、警察は山中湖の別荘で現場検証を行った。ところが床下をいくら掘り起こしても遺体は出てこなかった。ただし血痕・毛髪や腐敗臭などから、ここに遺体が埋まっていたことは間違いなかった。
一方、猪熊は24日に澤地の逮捕を知ると、知人を連れて山中湖の別荘へ向かった。そして床下を掘り返し、2人の遺体をそれぞれ布団袋に入れて麻縄で縛り、約50キロ離れた秦野市の山林に埋めていたのだ。澤地がくり返し言っていた「死体さえ見つからなければ有罪にならない」という言葉を信じたうえでの行動だった。
しかし猪熊は10日後、友人の家に隠れているところを逮捕される。そして猪熊の供述に基づき、秦野市の山林から2人の遺体を収容した。供述なしではわからないほど、巧妙に埋められていたという。
主犯・澤地和夫について
出生から警視庁を退職するまで、澤地の名前は橋本和夫だった。
橋本和夫は1939年4月生まれ。1958年9月、高校卒業後に警視庁巡査として採用された。
警察学校卒業後、大森署巡査部長に配属されたが、その後、機動隊に転属される。
60年安保では、デモ警備を担当。橋本巡査部長を縮めた愛称、“橋長(ハシチョウ)”と呼ばれ部下・同僚から信頼されていた。元同僚によると、現役時代の澤地は周囲から尊敬される“理想の警察官”だったという。
1980年1月、東村山警察署警備係長警部補を退職、その際階級が上がり「警部」となる。
そして新宿駅西口の一等地に居酒屋「橋長」を開業。40代で退官し事業を始め、”華麗なる転身” と周囲から思われていた。
しかし実情は、経営は火の車だった。ある警察官によると、澤地は元同僚たちにタダで酒を飲ませ、後で借金を申し込むことをくり返していたようだ。
1億5000万円の負債を抱え店が倒産すると、自己破産などの正当な手続きを取ることなく転落人生を歩んでいく。このころ改姓して「澤地和夫」と名乗るようになった。
1984年10月11日、金銭目的で宝石商の男性を殺害する。さらに10月25日、金融業者の女性も殺害、その後11月23日に逮捕される。
1987年10月30日、第一審で死刑を宣告され、控訴するも1989年3月31日に棄却。すぐに上告したが、1993年7月7日に上告を取り下げ、死刑が確定した。
2007年10月に胃ガンが判明し、11月に手術したが切除できなかった。その後は抗ガン剤治療などを拒んでいた。そして2008年12月16日午前1時47分、多臓器不全のため東京拘置所で死亡。享年69歳だった。
この事件では2人を殺害したが、遺体を埋めるための穴は3人分あったという。これは、共犯の猪熊を殺して埋めるためと供述している。そうすれば「犯行が露見することはない」と考えたのだ。
また、神田署に勤務していた澤地の息子は事件後、依願退職を薦められ警察官を辞することになった。
澤地は獄中で3冊の本を出版している。
- 「殺意の時」彩流社:事件の詳細を明かした手記
- 「死刑囚物語」彩流社:死刑囚の生活を書いている
- 「なぜ 死刑なのですか」つげ書房新社:死刑制度を問う内容
猪熊武夫の獄中活動
猪熊武夫は東京拘置所内で、自らが中心となって「死刑囚による死刑囚のための機関紙」を発行するなどの活動を開始した。機関紙の名前はユニテ通信「希望」という。
拘置所内で発刊作業はできないので、投稿文を弁護士らに渡し、これを外部の協力者が編集しているらしい。
内容は、「再審請求や恩赦についての説明」などの記事や、死刑囚らが作成した「絵」や「川柳」「詩」「手記」など多岐にわたる。インターネット上でも第62回(2010年9月号)~第79回(2016年5月号)が閲覧できる。(上記リンクより)
ユニテ通信「希望」は、社会と断絶された死刑囚の動向を垣間見れる、数少ない貴重な資料であるが、2016年5月号以降はネットでは見つからない。そのあたりに関しての、詳しい事情は不明である。
猪熊武夫が獄中で描いた絵
猪熊武夫:1949年7月2日生まれ
猪熊は1995年7月3日に最高裁で死刑が確定して以降、現在まで東京拘置所に収監されている。
また、猪熊は機関紙「ユニテ通信 希望」内の記事で、再審請求・恩赦・国賠訴訟などの説明を、積極的に行っている。「死刑囚でも国民としての権利がある」というスタンスが感じられる。
文章だけ読んでいると死刑囚であることを忘れ、普通の常識人にさえ思えてくる。それが、かえって恐ろしい気がする。(以下は文章の一部)
『国賠訴訟学習会』 〈第一回〉 責任者(東拘)猪熊 武夫
みな様、いかがお過ごしでしょうか。さて早速で御ざいますが、「小役人共らの浅知恵」にはホトホト困ったものであり、その点ほとんどの場合が「おそれ」に対する拡大解釈、運用にあろうかと思われます。
そこで「再審学習会」に次いで、かつ皆様方の要望に応え「国賠訴訟学習会」を開催することに致しました。
(以下省略)
裁判
1987年10月30日、東京地裁は澤地和夫、猪熊武夫両被告に死刑、朴竜珠被告に無期懲役の判決を言い渡した。3人は、それぞれ控訴した。
猪熊被告の弁護人は「2つの事件は澤地被告らが準備・計画したもので、猪熊被告は追随したにすぎない。死刑の量刑は甚だしく不当」と主張していた。
1989年3月31日、東京高裁は控訴を棄却、一審の死刑判決を支持した。
澤地、猪熊両被告はともに上告。しかし1993年7月7日、澤地は上告を取り下げ、死刑が確定する。
上告を取り下げた理由については「後藤田正晴法相が3年4カ月ぶりに死刑執行の命令書に署名した」ことへの抗議と主張していた。しかし澤地は弁護士に「最高裁まで争わないほうが、死刑を執行されにくい」と話したともいわれており、それが本当の理由である可能性もある。
1995年7月3日、最高裁は猪熊被告の上告を棄却、死刑が確定した。
朴被告については、控訴・上告とも棄却され、無期懲役が確定している。
死刑確定後の澤地の動き
一方、自ら死刑を選んだ澤地死刑囚だったが、2000年3月28日に恩赦出願している。しかし、これは10月16日に却下され、その日のうちに再審請求を提出している。
澤地は「犯罪事実のうち有印私文書偽造・同行使・詐欺(第2事件で現金106万円を引き出した件)については、強盗殺人とは無関係の友人が行ったものである」として無罪を主張。死刑の情状についても、誤認があるとしていた。
だが東京地裁は2003年3月、「証拠に新規性や明白性がない」として再審請求を棄却。その後の即時抗告も、東京高裁は2007年1月22日に棄却した。そのため澤地被告は、最高裁に特別抗告を申し立てた。
そんな中、澤地は2007年10月に胃ガンであることが判明、手術で切除ができなかった。その後は抗ガン剤治療などを拒み、2008年12月16日に多臓器不全のため死亡した。(69歳没)