「秋田児童連続殺害事件」の概要
2006年4月9日、秋田県で行方不明だった少女が、川で遺体となって発見された。母親の畠山鈴香(当時33歳)は「悲劇の母親」として全国の同情を集めたが、1か月後、さらに少女の友だちが行方不明になると、彼女に疑惑が集中することになった。
そして捜査の結果、鈴香がこの児童2人を殺害していたことが判明する。マスコミはこの事件を大きく報道、犯人の特異な人間性は、世間の注目の的となった。
また、某雑誌の写真には「亡くなったはずの男児が写っている」と話題になった
事件データ
犯人 | 畠山鈴香(逮捕時33歳) |
犯行種別 | 連続児童殺人事件 |
犯行日 | 2006年4月9日、5月17日 |
場所 | 秋田県山本郡藤里町 |
被害者数 | 2人死亡 |
判決 | 無期懲役(大阪拘置所に収監中) |
動機 | 娘が邪魔になった |
キーワード | 不可解行動、寄せ書き |
事件の経緯
2006年4月9日午後7時45分頃、秋田県藤里町の小学4年の娘が行方不明になったと、母親の畠山鈴香(当時33歳)から110番通報があった。翌10日、娘の彩香ちゃん(9歳)は、自宅から10キロ離れた藤琴川の中洲で水死体となって発見された。
警察は、彩香ちゃんの死因を、「足を滑らせて川に転落し数キロメートル流された事故死」と断定した。「検死した医師」と「司法解剖を行った秋田大学」ともに、”事件性なし” と断定していた。しかし、遺体には流された際にできる傷がなく、服装にも変化がないなどの疑問点があった。
この判断に対し、母親の鈴香は「事故だと断定した警察に不信感がある」として、自ら作成した彩香ちゃんの消息を求めるビラを付近に貼るなどした。母親の必死な姿はマスコミでも報道され、鈴香は全国から同情を集めることとなった。
県警が「事件ではなく、事故の可能性が高い」と判断し、捜査態勢を80人から20人に縮小したことは、のちに批判の対象となった。また、鈴香は「犯罪被害者給付金」目当てで、事故ではなく ”事件” にしたかったのでは?と噂された。
事件の流れが変わった
彩香ちゃんの死から約1ヶ月後(5月18日)、ジョギング中の男性が、川岸から離れた道路脇の草むらの中で男児の遺体を発見する。それは、前日から行方不明になっていた米山豪憲くん(7歳)だった。
豪憲くんは前日、友だちとの約束場所に時間になっても現れないことから、この友だちが豪憲くんの自宅に行ったところ、学校から帰宅していないことが判明。午後6時20分頃、家族が110番通報をし、警察などによる捜索が開始されていた。
秋田県警は、遺体に首を絞められたあとがあったことから殺人事件の可能性が高いとし、捜査本部を設置。司法解剖の結果、豪憲くんの死因は ”首を絞められたことによる窒息死” と判明した。
彩香ちゃんの遺体が川で発見された時、地元では「絶対、鈴香が犯人だ」との噂があったことを、豪憲くんの父親は著書に記している
豪憲くんと彩香ちゃんは、友だちで仲が良かった。鈴香は彩香ちゃんがいなくなった日、「豪憲くんに人形を見せに行ってくる、と言ったきり行方不明になった」と証言していた。
そして豪憲くんの自宅は、畠山鈴香宅の2件隣。絞殺された男の子の2件隣に、娘を疑惑の事故で亡くした母親が住んでいる・・・。
もし偶然なら、余りに奇遇なこの事実にマスコミは興味を抱いた。そして、もちろん警察も鈴香をマークした。
大衆は鈴香に釘付けとなった
18日午後から、捜査員2人が乗った警察の覆面車両が、鈴香の実家の敷地内に24時間態勢で置かれることになった。秋田県警は「マスコミと被害者間のトラブル防止のためで、被害者家族の要請」と説明したが、警察が常駐したことで、かえって多数の報道陣が集まった。
NHKさえもカメラを据えたことで、「何かある」という確信めいたものがマスコミの間にあったという。
しかし、”被害者側の要請” という説明とは裏腹に、鈴香はマスコミに対してだけでなく、警察がいることにも不満のようだった。マスコミに声を荒げるシーンがテレビでも流れていた。
そんな中、彩香ちゃんの四十九日にあたる5月27日、鈴香は突然約30人の報道陣を実家に招き入れ、会見を開いた。彼女は自分に対するネグレクト報道を否定し、豪憲くん殺害の2週間ほど前に、下校する子供たちを目で追っていた不審な車の男を目撃した、という話をした。
そんな中、鈴香は6月4日に秋田県警能代署から任意同行を求められる。そして鈴香の自宅からは血痕や、豪憲くんのものとみられる体液が発見された。
2006年6月4日午後11時、捜査本部は畠山鈴香を、米山豪憲くんの死体遺棄の疑いで逮捕した。
二転三転する供述
2006年6月6日、鈴香は豪憲くんの殺害をほのめかす供述を始めた。
鈴香は豪憲くんに「彩香の思い出に何か貰って欲しい」という口実で自宅に誘い出したという。その時「彩香がいないのに、なぜこの子はこんなに元気な顔をしているのか?」「彩香の死を事件と認めさせるなら今しかない」と突然思い立った鈴香は、豪憲くんの首を絞めて殺害した、と供述した。
そのため、6月25日、秋田県警能代署は、鈴香を豪憲くん殺害の疑いで再逮捕した。
2006年7月14日、彩香ちゃん水死事件に関して供述をひるがえし、「一緒に魚を見に行った際、橋から転落した。気が動転して助けを呼ばなかった」と話した。これまでは「豪憲君に人形を見せに行ったきり戻らない」と説明していたのとは、まったく違う内容だった。
翌15日になって、彩香ちゃんを ”橋からつき落とした” ことを認める供述をした。その内容は、「彩香がサクラマスを見たいと言い出したので、大沢橋に連れて行った。ところが日没を過ぎていて川面が見えなかったから『もう帰ろう』と言った。しかし、彩香が駄々をコネたので、ストレスとイライラが重なり、大沢橋の欄干から彩香を突き落とした。自由になって東京に行きたいという思いもあった」というものだった。
鈴香は、「自分が汗のかけない体質で、汗かきの彩香が急に迫ってくるのが怖かった感じです」という供述もしている。
2006年7月18日、鈴香を彩香ちゃん殺害の疑いで再逮捕。秋田地方検察庁は豪憲くん殺害容疑で起訴。
2006年8月9日、鈴香は「なんで私が犯人なの?」と、今までの自身の供述を真っ向から否定するような供述をした。2006年8月9日、彩香ちゃん殺害容疑で追起訴された。
犯人・畠山鈴香の生い立ち
畠山鈴香は1973年2月2日、秋田県能代市で生まれた。父親は地元で砂利運搬会社を経営し、成功を収めていた。
1979年、鈴香は地元の小学校に入学。彼女には ”空気を読まず自慢話を始める” ようなところがあり、イジメの対象だった。小学校高学年の頃、父親が糖尿病でED(性的不能)になったことをきっかけに家庭内暴力が始まった。
中学生の頃から父親の暴力が激しくなった。母親と鈴香はささいなことで暴力を振るわれ、母親の鼻が折れた時でも病院に行かせてもらえなかった。一方、学校でのイジメは中学になっても変わらなかった。
秋田県立二ツ井高校に入学すると、バドミントン部に入った。高校では不良生徒の取り巻きのような学生生活で、鈴香はパシリをさせられていた。時々、金回りがよくなって周りにおごっていたが、そんな時に限って部室から誰かの財布がなくなっていた。
高校時代の同級生によると、鈴香は自分から積極的に話しかけるなど、クラスに馴染もうと努力していたという。だが、話題は自分の話ばかりで、まわりから疎まれる存在だった。
高校2年の秋頃、鈴香はバドミントン部の合宿費用(十数万円)を盗んで無期停学になり、部活動も辞めた。しかし、約1ヶ月後に停学が解けると、何食わぬ顔で通学していた。
高校卒業時のクラスメイトからの寄せ書き
どこに行ってもトラブル
1991年、高校を卒業後、栃木県の温泉ホテルで仲居として働くが、1年8カ月後に仕事を辞めて地元に戻った。1993年夏には、結婚式場の喫茶店でアルバイトをしていた。
その後、クラブのホステスとして初めて水商売の世界に入った。しかし、気が利かないうえに接客態度が悪く、さらに客や店のボーイ約10人の男との体の関係がバレて3、4か月で店をクビになる。
1994年1月から、栃木県の川治温泉で住み込みのコンパニオンの仕事に就いた。ここでも、気が利かない、愛想が悪い、やる気もないとの評価。結局2週間でクビになるのだが、その直接の原因はシンナー吸引だった。問い詰めても認めなかったが、いつも薬品臭をさせていたそうだ。
その次は、同じ川治温泉内の置屋で働き始めるが、ここでの評判はさらにひどかった。嘘つきで怠け者、しょっちゅう仕事をドタキャンするので使い物にならず、半年足らずで辞めている。
川治温泉には交際していた男性と来ていた。鈴香の部屋はカップ麺の容器が山積みで、掃除した形跡もなかった。
秋田県に戻った鈴香と交際男性は、1994年6月に結婚。鈴香はスーパーのレジ打ちのアルバイトを始めるも長続きしなかった。このころ、事件当時に住んでいた町営住宅に引っ越し、夫婦ともにパチンコに明け暮れる生活を送っていた。
1996年11月に綾香ちゃんを出産したが、翌年のゴールデンウイーク前に離婚している。
究極の利己主義な人生
離婚する直前には、かつて勤めたクラブの元同僚宅で窃盗騒ぎを起こしている。
街中でバッタリ会ったのがきっかけで、鈴香は生まれたばかりの彩香ちゃんを連れて遊びに来たのだという。だが、お茶を入れようと席を外して戻ってくると、突然帰ってしまった。不審に感じたので部屋を調べると、2万円がなくなっていた。
元同僚が「カメラを仕掛けてあった」とカマをかけると、最初は否定していた鈴香はあっさり盗みを認めた。それから鈴香の実家で返してもらったが、鈴香も母親も憮然として謝罪の言葉もなかったという。
離婚後は生命保険のセールスレディ―を始めた。しかし、ここでも鈴香は問題を起こしている。先輩の客を奪おうと枕営業を仕掛け、トラブルになって1年経たずに辞めていった。その後は釣具店やパチンコ店で働いた。パチンコ店では同僚と交際を始め、事件を起こすまで関係は続いていた。
鈴香は2003年3月、借金が370万円にもなったことから自己破産している。そして生活保護を受けて生活するようになった。
2006年4月9日、彩香ちゃんを橋から突き落として殺害。翌5月17日、豪憲くんの首を絞めて殺害。そして、2006年6月4日、豪憲くん殺害の容疑で逮捕となる。
2008年3月19日、一審で無期懲役判決。弁護側・検察側が控訴したが、2009年3月25日に双方とも棄却された。弁護側は上告したが、2009年5月19日にこれを取り下げたため一審の無期懲役が確定した。
現在は福島刑務所にて服役中である。
畠山鈴香の不可解エピソード
鈴香は公判中、数々の不可解な発言をくり返している。
- 事故死扱いのままなら逮捕されないのに、娘は事故死ではないと主張してビラを配った
- 供述が二転三転する。遊びに行って戻らない→足を滑らせて落ちた→突き落とした
- 殺害を認めた後でも「なんで私が犯人なの?」と犯行を否定
- 7年交際していた男性は、公判で「金に汚く、身勝手」「彩香ちゃんを邪険にした」など不利な発言
- 「極刑でもいい、判決に従う」と言いながら、判決を不服として控訴した
留置場での係官との会話の記録
また、留置場での係官との会話においても、殺人事件の被告人とは思えない発言をしていた。
- 「午前中、眠くて検事さんの話を聞くのに必死だった」
- 「検事さんのネクタイが4日間同じで、笑いをこらえるのに必死だった」
- 「イライラしてきた。何にあたるか。とりあえず、帰ってから、調べの人にあたるか」
- 「昨日の調べの時、チョコレートケーキ食べたいと駄々をこねたら、調べ終わられちゃった」
遺族が「なんで怒っているのかわからない」
公判中、畠山鈴香は精神鑑定医に勧められ、日記をつけていた。そこには、自分がやったことを理解できていないと思われる文章が見受けられた。
「豪憲君に対して後悔とか反省はしているけれども悪い事をした、罪悪感というものが彩香に比べてほとんど無いのです。御両親にしても事故死扱いに腹を立てたように能代警察署に出向いては、壁を蹴り挙げるまでしている。なんでそんなに怒っているのかわからない。まだ2人も子供がいるじゃない。今でも何も無く幸せで生きて来てうらやましい。私とは正反対だ。よかれと思って何かしても裏目裏目に出てしまった。正反対の人生を歩いてうらやましい」
(2007年10月21日付)
解離性健忘の疑い?
限界を超えるようなにつらいことが起こった時、人間の脳は「その事実を認識しない」という働きをするそうだ。これを解離性健忘という。鈴香は子ども時代に父親から耐えがたい虐待を受け、この解離性健忘がしばしば起こっていた可能性が指摘されている。
取り調べや公判中の供述が、コロコロ変わるのはそのせいだという意見もある。記憶にないことを無理に話すため、供述に一貫性がないのだ。
のちに鈴香自身が「記憶にないことでも、調書に書いてある通りに答えていた」と話している。特に、彩香ちゃん事件についての ”記憶がない” というのは事実のようだ、と専門家は判断している。
しかし、これは裁判では認められず「鈴香が橋の欄干から突き落とした」事件と認定されている。
心霊写真?豪憲くんが写り込んだ写真
鈴香が逮捕され、事件が解決をみせたころ、某雑誌に掲載された写真に「豪憲くんが写っている」と話題になった。
この写真が撮影されたのは6月10日午後4時頃、鈴香が逮捕された6日後のこと。この時、家の周辺には警察の黄色いテープが張り巡らされ、外から人が立ち入れる状態ではなかった。
豪憲くんの父親はこの写真を見た時、「これは豪憲です。間違いない」と言ったそうだ。
外部の人の写り込みでは? という意見もあるが、実際そんな感じには見えず、家の中から子供が外を見ているとしか思えない。
裁判
2007年9月12日、秋田地裁で畠山鈴香被告の初公判が開かれた。争点となったのは、殺意の有無と、被告の殺害時の責任能力の判定だった。
鈴香被告は、豪憲くん殺害は認めたものの、彩香ちゃんへの殺意を否認した。また、豪憲くん殺害についても殺害当時の自分の精神状態が「正常であったか」について自信がないと述べた。
また、鈴香被告は「1年半前は嘘つきで卑怯でした。どう変わったか見てほしい」「極刑にしてほしい」と述べている。
検察側は「真摯な反省は期待できず、矯正は不可能」として死刑を求刑。初公判での真摯な態度とうらはらに、審理の期間中、都合の悪い質問には黙秘を繰り返し、公判中に書いた日記には「罪悪感はほとんどない」との記述もみられた。
弁護側は「更生の可能性は失われていない」として有期の懲役刑を求めた。彩香ちゃん事件について、橋の欄干で「お母さん、怖い」と急に抱き付いてきた彩香ちゃんを ”払いのけたための転落” として、過失を主張。ショックで転落時の記憶を失っていたとし、自白は「検察官の強力な誘導」と反論した。
豪憲くん殺害についても、”娘を亡くした喪失感” による衝動的な殺害として偶発性を訴え、事件当時は心神耗弱状態だったと主張した。
2008年3月19日、判決公判が開かれ、秋田地裁は無期懲役を言い渡した。
裁判長は、2件の事件ともに計画性を否定。「彩香ちゃんの駄々に鈴香被告はいらだち、愛せずに悩み、新しい生活への足かせと感じていた彩香ちゃんが消えてくれるのではと思い、とっさに橋から落とした」と判断された。
また、彩香ちゃんを欄干に乗せた後、怖がって抱き付かれるまで突き落としていないことから、積極的な殺意があったとはいえないと認定。豪憲くんについては、「彩香ちゃんの死は事件」だとする自分の主張に目を向けさせるための、とっさの殺害と判断。計画性はなかったとし、検察側の「彩香ちゃん事件への疑いの目をそらすため」との主張は退けた。
続けて裁判長は「死刑の適用も十分考えられるが、酌量すべき点も少なからず認められる」と述べたが、「内省が表面的にとどまる」との判断を加え、仮釈放は慎重にするよう求めた。
弁護側はこの判決を不服として、即日控訴した。
鈴香被告は閉廷間際、裁判長に許可を得て米山豪憲君の両親に謝罪した。傍聴席を向き、サンダルをぬいで膝をついて土下座、「大事なお子さんを奪ってしまって申し訳ありませんでした」と述べ、泣きながら頭を下げた。豪憲君の父親・勝弘さんは表情を変えず、母親・真智子さんは目を閉じて涙をこらえていた。
2009年3月25日、控訴審判決が仙台高裁で開かれ、弁護側・検察側双方の控訴を棄却。弁護側のみ上告した。その後、2009年5月19日 、弁護側が上告を取り下げたため、地裁が下した無期懲役が確定した。