広島タクシー運転手連続殺人事件
1996年4月18日、タクシー運転手・日高広明は援助交際の少女を絞殺して現金を奪った。これに味をしめた日高は、約4か月後、売春婦を殺害してわずかな金を奪い取った。次第に殺すことに快感を覚えるようになった日高は、わずか5カ月で合計4人の売春婦たちを殺害していた。
「売春婦ならバレない」そう自信を深めていた日高だったが、最後の事件では目撃情報があり、容疑がかけられる。彼は逃亡を図るが、あえなく逮捕。裁判で死刑が確定した。
殺害を重ねるごとに、次第に ”殺人そのもの” に快楽を覚えるようになった、狂気の事件である。
事件データ
犯人 | 日高広明(当時34歳) |
事件種別 | 連続殺人事件 |
発生日 | 1996年4月18日~9月14日 |
発生場所 | 広島県内(広島市およびその近郊) |
被害者数 | 女性4人 |
判決 | 死刑 2006年12月25日執行(44歳) |
動機 | 金銭・快楽 |
キーワード | 売春・援助交際 |
事件の経緯
事件1:援助交際の少女
1996年4月18日午後8時頃、広島市内のタクシー運転手・日高広明(当時34歳)は、薬研堀にある新天地公園である少女に声をかけた。
少女は呉市の定時制高校1年の宮地里枝さん(16歳)で、当時流行した援助交際目的で客を探していた。彼女は、その界隈ではよく目撃されていた。
“商談” は2万円でまとまり、日高と里枝さんは広島駅付近のホテルへ入った。
援助交際のことを、当時は略して ”援交(えんこう)” と呼び、社会問題となっていた。現在はさらにソフトなイメージの ”パパ活” と呼び方が変わっているが、性行為を伴えば売春であり、立派な犯罪である。(パパ活で女性側も罪に問われる場合)
ホテルで里枝さんは「行方不明の父親の借金返済のため、大阪から広島まで働きに来た。あと10万円返せば完済できる、今日は最後の返済日なので10万円を持って呉駅に行く」と涙ながらに話した。それを聞いた日高は同情し、”行為” もせずに自分のタクシーで呉駅まで送って行くことにした。
呉市に向かう途中で、日高の心にひとつの邪念が生まれる。”この娘は返済用の10万円と自分が渡した2万円、合わせて12万円持っているはず…。”
サラ金に350万円の借金があった日高は、「12万円あれば、今月の借金が返済できる。身寄りが大阪にしかいないのなら、殺して山に隠せばバレない。もし発見されても自分とは接点がないから、疑われることはない」と考えたのだ。
初めての殺人
日高は、人気のない道でエンストを装い停車。それから「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから足元のシートをめくってくれ」と、里枝さんに声を掛けた。
午後10時50分、言われた通りにしようとする里枝さんの首に、日高はネクタイを巻き付けて力を込めた。やがて里枝さんは動かなくなり、日高は生まれて初めての殺人に手を染めた。
里枝さんの所持品を物色したところ、12万円あるはずの所持金は5万円しかなかった。日高は「嵌められた」と腹が立てたが、その5万円を奪った。その後、身元判明を防ぐために服を脱がせて、約25km離れた広島市安佐南区内の用水路土管内に遺体を投げた。
翌日午後4時30分頃、山菜取りをしていた近隣住民が、里枝さんの遺体を発見する。しかし、何も身につけていない状態のため手がかりは少なく、身元特定は難航した。
事件2:スナック勤めの女性
最初の事件から4か月経った。
里枝さんを殺害した時、日高は恐ろしいことに ”人の命を支配する快感” を感じていた。
捜査の手は、日高には及んでいなかった。彼はそのことに安心するとともに、根拠もなく自身の悪運の強さを信じた。そのうち「自分と接点のない売春婦なら犯行がバレない」と考えるようになっていた。
気持ちに余裕が出てくると、次のターゲットを探すようになる。日高は8月12日、新天地公園で客待ちをしていたスナック勤務の古月理江さん(23歳)に狙いを定めた。
理江さんに先に3万円を支払い、2人はホテルで行為におよんだ。その後タクシーで送る途中、最初の犯行と同じ手口でエンジントラブルを装い停車、 理江さんに足元のシートをめくるように頼んだ。
日高は背後から理江さんに近づき、おもむろに首を絞めた。前回の教訓を踏まえ、今回は滑らないように軍手をはめてネクタイを締めた。理江さんは首を絞められながらも命乞いをしたが、日高は手を緩めなかった。
殺害後は所持金5万2千円を奪い、午前2時20分頃、遺体を安佐北区白木町小越の関川沿い斜面に遺棄した。
事件3:客待ちの中年女性
このころから、日高の心境にある変化が起きている。性行為と金銭が目的だった犯行が、”殺人そのもの” に快感を覚えるようになっていたのだ。
1996年9月7日午後11時頃、客待ちをしていた顔見知りの藤山万里子さん(45歳)に声をかけた。日高は「たまには車の中でしよう」と車中での行為を提案、万里子さんはこれを了承した。
日高は3万円を支払い、2人は車に乗り込む。それから遺棄現場として考えていた加計町方面へ向かった。この時、日高はなぜか万里子さんと ”行為” をする気にはならなかった。
午後11時50分頃、日高は暗い山道にタクシーを停車。そして言葉巧みに「後ろからしたいから」と言い、万里子さんはそれに従い後部座席で日高に背を向ける格好となった。日高はベルトを引き抜き、彼女の背後からゆっくり近寄る。そしてすばやくベルトを首に回した。万里子さんは激しく抵抗したが、男の力に敵うはずもなかった。
午前0時10分、万里子さんの財布から現金8万2千円を奪い、遺体を乗せたタクシーを発進させた。
1時間ほど車を走らせ、遺棄場所を探した。そして殺害現場から約10 km離れた、滝山川左岸の法面斜面に遺棄。発見を遅らせる工作として、近くの農家から盗んだ青いビニールシートで遺体を隠した。
事件4:最後の事件
最初の犯行の遺体はすぐ発見されたものの、それ以降は続報もなかった。さらに、第2・第3の事件についても発覚すらしていない。この状況に、日高は自信を高めていった。
1996年9月13日午後10時頃、何度か遊んだことのあるアイちゃん(ロマンス洋子さん)(32歳)に声をかけ、タクシーに誘い入れた。10分ほど話をしたあと、日高は缶ビールを買うため車を離れたが、戻った時アイちゃんはいなかった。
しかし2時間後、ホテルの前で再びアイちゃんを見かける。日高はもう一度彼女に声をかけ、4万円を提示するとアイちゃんは了承した。
日高は「今日は少し遠くでやろう」と車を走らせた。今回の殺害場所は、交通量がほとんどない佐伯区のダム付近と決めて、その近くのラブホテルに入った。日付が変わった午前1時50分頃、ホテルを出たふたりは廿日市市に向かった。
午前2時過ぎ、日高はいつもの手口で殺害しようと考え、エンジントラブルを装い人気のない田舎道にタクシーを停車した。それからアイちゃんに足元のシートをめくるように言ったが、彼女はそれをしなかった。彼女は何か得体のしれない怖さを感じたのだ。アイちゃんは「ひとりで帰る」と言い、タクシーを飛び出した。
日高は焦り、あわててタクシーで追いかける。その時アイちゃんが、売春代金4万円を投げ返してきたため、日高は逆上して車で逃げ道を塞いだ。
日高は用意していた果物ナイフでアイちゃんを脅し、後部座席に連れ込んだ。そして顔を何度も殴って失神させたあと、ネクタイで殺害。その後、投げ返された4万円とアイちゃんの所持金1万6千円、合計5万6千円を奪った。遺体は午前2時40分頃、広島市佐伯区湯来町の国道433号旧道沿い草むらに、投げ捨てるように遺棄した。
殺害後、会社に帰還
広島市東区内のタクシー会社へは、午前4時頃に戻った。日高は、殺害で汚れた後部座席のシーツを新品と交換した上で、古いシーツは自宅に持ち帰った。
そして翌日も普段通り出勤して、広島市内を中心に乗務していた。
事件発覚
1996年9月14日午前7時頃、アイちゃん殺害から5時間後のことだった。犬を散歩中の老女が、仰向けに倒れている女性の遺体を発見する。遺体には顔面の鬱血や首を絞められた跡が確認された。そのため、広島県警捜査一課は殺人・死体遺棄事件と断定、廿日市警察署に捜査本部を設置した。
広島大学医学部で司法解剖した結果、死因は「首の圧迫による窒息死」、死亡推定時刻は「14日午前4時頃」とされた。また、着衣の乱れが少なく、死亡推定時刻から遺体発見時刻の間隔が短いため、捜査本部は「女性は広島市かその周辺で殺害されて、車で現場へ運ばれた可能性が高い」「14日未明から早朝に遺棄された可能性がある」と推測した。
犯人像は「地元の地理に詳しい人物で、発見現場付近で殺害した可能性がある」と推測、現場周辺での聞き込みなどに全力を挙げた。
家族から失踪の相談
同日午後8時頃、アイちゃんの長女から「母親と連絡が取れない」と110番通報があった。警察は指紋照合や、親類による身元確認を行った結果、遺体の身元はアイちゃんと判明した。
また、身元特定が難航していた宮地里枝さんのほうは、遺体発見から1週間後の1996年5月13日になって母親を名乗る女性から広島北署捜査本部に「娘がいなくなっている」と電話があった。
その後の調査で、血液型(O型)・身に着けていた装飾品(ネックレス・ピアスなど)が里枝さんの特徴と酷似していたことが判明。その他、指紋・髪、虫垂炎の手術痕・胸のX線写真などから、遺体の身元は里枝さんと断定された。
しかし、日高と里枝さんを結び付ける証拠は何もなく、捜査は迷宮入り寸前だった。
ついに逮捕
アイちゃんの身元が判明した直後の捜査で、「被害者と日高を、遺体発見現場の付近で見かけた」という目撃証言や、「2人が佐伯区内のホテルを利用した」「ホテルを出たあと、日高のタクシーで帰って行った」ことなどが判明した。
- 被害者は、行方不明になる直前に日高と一緒にいた
- 遺体発見現場から日高宅は直線距離で5km
- 日高には土地勘がある
- 事件発覚後に日高の行方がわからなくなっている
以上の点から、アイちゃん殺害を日高の犯行と断定、1996年9月18日に殺人・死体遺棄容疑で逮捕状を請求した。
逃走を試みるが・・・
一方、日高は15日までは勤務していたが、16日には捜査が間近に迫ったことを察知し、出身地である九州方面への逃亡を開始。タクシー会社はその翌日に解雇されている。
日高は九州各地を転々としたあと、20日にいったん帰宅しようとした。しかし警察が張り込みをしていたため断念、盗んだ車で再び九州への逃亡を目論んだ。
翌日の早朝4時30分頃、日高は山口県防府市の国道2号を走行中、交通検問に出くわした。日高はこれを強行突破しようとして追われ、身柄を確保される。乗っていた車は盗難車だったが、それが判明したため日高は逮捕された。日高はこの逮捕後、妻と離婚している。
その後、アイちゃん殺害についての取り調べにおいて、日高は他の3人の殺害についても自供をしている。
この時点で他の3人の殺害について、日高に嫌疑はかけられていなかった。「他に隠していることはないか」と聴かれた日高は、「警察は全部知っている」と勘違いしてすべて自供したのだ。
犯人・日高広明の生い立ち
日高広明は1962年4月、3人兄弟の末っ子(三男)として宮崎県宮崎市で生まれた。実家は多くの山林を持つ、地元有数の資産家だった。
小中学校時代はソフトボール部・野球部で活躍し、中学時代には野球部の主将を務めた。高校は県内トップの進学校に進んだ。
日本史が得意で、高校ではクラスの上位15番以内に入る成績を維持、高校時代まで地元では「スポーツ万能の優等生」として名を知られていた。
両親は子供に甘く、特に日高は末っ子だったため、小遣いを欲しがるだけもらえるような家庭環境で育った。
自惚れで落ち目に
1981年3月に高校を卒業。教師か公務員になるのを夢に、筑波大学の推薦入試に臨むも不合格となった。そのため、滑り止めの福岡大学法学部に入学。このことで彼は大きな挫折感を味わい、高校時代までの友人たちとも音信不通になっていった。
大学では「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と同級生を見下しつつ、授業にほとんど出席せず飲酒・ギャンブルにのめり込んでいた。4年になり同級生が国家公務員・県職員として就職を決める一方で、自身は留年が確実となり、強い挫折感の中、授業料滞納を理由に大学を中退した。
大学中退後は実家に連れ戻され、宮崎市役所の臨時職員として働くも酒・女遊びの荒れた生活を続け、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された。その後も遊ぶ金欲しさにひったくりをくり返し、1986年6月には強盗事件で懲役2年の実刑判決を受けた。
出所後は宮崎を離れ、それ以降実家に帰ることはなかった。1989年4月には広島市内の叔父宅に身を寄せ、タクシー会社に運転手として就職。日高は一からやり直す覚悟で仕事に臨み、この時期は真面目に働いていた。
しかし、大企業のエリートたちを乗せる毎日の中で、彼のコンプレックスは大きく膨らむばかりだった。そして給料の大半を酒・女遊びに浪費し、不足分を消費者金融(サラ金)から借金していた。
結婚生活とその破綻
29歳の時に、叔父の紹介でひとつ年上の女性と結婚した。借金は約500万円になっていたが、家を買う時に住宅ローンを400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して合計500万円を作ることで借金を完済した。
1993年4月には長女が誕生して1児の父親になった。家を持ち子供もできたことで、日高は自信を取り戻し始めたが、長女誕生から2日後に産褥期の妻が精神疾患を発症して入院。娘は妻の実家に預けられた。
その後、再び遊興に明け暮れるようになり、1994年末には200万円の借金を実家の兄に肩代わりさせた。生活は荒れていく一方で、その後も借金をくり返していた。
そして事件を起こす
被害者を物色していた流川地区には事件の3、4年ほど前から毎晩のように訪れ、「タクシーの男」として知られていた。しかし1996年になってからは、遊ぶ金が尽きたため冷やかしだけで帰るようになっていた。
1996年4月18日、最初の事件を起こす。このころ日高は約350万円の借金を抱え、月々15万円を返済していた。彼は「いざとなれば自殺して、生命保険の保険金で返済すればいい」と自暴自棄な考えも抱いたが、結局は自殺すらできず「己の不運は全て周囲のせい」にしていた。
1996年4月18日~9月14日の約5か月間に4人の売春婦を殺害した日高だったが、2000年2月9日、第一審で死刑判決。日高は控訴しなかったため、そのまま死刑が確定した。
死刑が執行されたのは2006年12月25日、享年44歳だった。この日は、今市4人殺傷事件の藤波芳夫も同時に死刑執行されている。
日高広明の人柄について
日高について、職場の上司・同僚らは以下のような証言をしている。
- あまり付き合いは良くないが真面目な人間だった
- 酒に酔うと服を脱ぐなど人格が変わった
- 理由もなく突然怒り出すことがあった
- タクシーを泥酔状態で運転したり、シートにビールの缶が転がっていることもあった
その一方、彼は草野球チームに助っ人参加したり、町内会に積極的に参加するなど、周辺には温厚な印象を与えていた。
日高広明 最後の言葉
1999年11月の弁護側の最終弁論のあと、日高は涙ながらに被害者に謝罪し、そして以下のような言葉を残している。
「私は許されるなら、今すぐ死んでお詫びしたいと思いますが、それだけではとても罪の償いには足りません。刑が執行されるまで死の恐怖と向かい合い、惨めな姿を晒してのたうち回り、被害者の味わった死の恐怖、その苦痛の何分の一かを味わうことができたら初めてひとつの償いになると思います」
「願わくば、一日も早く被害者のもとへ行き、謝りたいと思います。自分はいったい、何のためにこの世に生まれたのか、どのような生き方をしてきたのか、それを考えるとつらく、悲しい気持ちでいっぱいです」
裁判:死刑判決
初公判は1997年2月10日、広島地方裁判所にて開かれ、日高広明被告は罪状認否で「間違いありません」と起訴事実を全面的に認めた。
冒頭陳述で検察側は「町で声をかけた女性を殺しても自分は疑われないと思い、2人目以降は殺すことに快感を覚えるようになった」という日高被告の心理に言及した。
弁護側は、「正常な人間なら、数万円のために殺人を4回も犯さない」と主張。そして、責任能力の有無を問うための精神鑑定を請求し、裁判長はこれを認めた。
1999年2月23日、1年3ヶ月ぶりに公判が開かれた。精神鑑定の結果は「日高被告は多額の借金や妻の病気によるストレスがあり、男としての自信を喪失、本来の強い力を証明するための殺人だった。通常とは異なる精神状態だった可能性がある」としている。そのうえで、「責任能力に影響をおよぼすような、病的なものとはみなされない」と結論付けている。
10月6日、検察側は「落ち度のない4人を次々に殺害した、自己中心的な犯罪で改善の見込みがない。犯罪史上まれにみる残虐な事件」として死刑を求刑した。
2000年2月9日に判決公判が開かれ、裁判長は「短期間に4人の命を奪った、まれにみる凶悪事案。計画性は明白で酌量の余地はない」と述べ、死刑判決を言い渡した。判決の言い渡し後、「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」と諭した。
日高は控訴せず、そのまま死刑が確定した。
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