附属池田小事件|低学年児童だけ8人殺害したモンスター宅間守

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附属池田小事件・宅間守 日本の凶悪事件

附属池田小事件

2001年6月8日、実に痛ましい事件が起きた。大阪府池田市の附属池田小学校に侵入した宅間守は、低学年をねらい8人の児童を殺害、15人(教師2人を含む)に傷害を与えたのだ。侵入と同時に始まった惨劇に、逃げることもできない児童も多かったという。
宅間は死刑を希望し、裁判で遺族に暴言を吐くなど、世間を震撼させた事件である。

事件データ

犯人宅間守(当時37歳)
犯行種別無差別大量殺人事件
犯行日2001年6月8日
犯行場所大阪府池田市
(附属池田小学校)
被害者数死亡8人、傷害15人
判決死刑(享年40歳)
2004年9月14日執行
動機社会への憎悪
キーワード死刑願望

事件の前日

事件前日の2001年6月7日夜、宅間守(当時37歳)は自宅マンションで過去に思いを巡らせていた。
彼は「何をやっても裏目に出る」と考えていたが、もとを正せばほとんど自分自身が原因だった。彼は自己中心的で暴力的、「うまくいかないことは、すべて他人のせいにする」そんな性格だった。

宅間は、少し前まで3人目の元妻とよりを戻そうとしていた。彼女は2歳年上で、容姿も好みだった。そして、彼の子どもを妊娠していた。宅間は誕生を楽しみにしていたが、彼女は無断で堕胎してしまった。なぜなら、彼女は宅間の暴力に耐えられず、縁を切るつもりだったのだ。そして、2人は調停により離婚した。

「勤務していた小学校で、薬物混入事件を起こし免職になったのも、別れてイライラしていたせい」「彼女と知り合っていなければ、こんなことにはならなかった」と責任を押し付けて恨みを募らせていた。元妻の勤務先がわかったときに殺しておけばよかった、と後悔までしていた。

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さらに、消費者金融からの借金が300万円以上あり、家賃も払えなかった。将来の見通しが全く立たない絶望感に自殺も考えたが、それもできず自分を情けなく思っていた。

だが次第に「自殺しても元妻らが喜ぶだけだ。あほらしい」「大量殺人を起こせば、元妻は自分と知り合ったことを後悔するだろう。恨んでいる世間に対しても、絶望的な苦しみを味わわせることができる」という考えに変わっていく。

繁華街で人込みにダンプカーで突っ込むことも考えたが、小学生を襲うのが簡単だと思い、エリート校の附属池田小学校を襲うことに決めた。彼が小さい頃に憧れ、そして自分には縁のない「恵まれた子どもの行く学校」だった。

事件当日の行動

2001年6月8日、宅間守(当時37歳)は午前8時頃に起床した。午前9時30分頃に部屋を出る時、火の付いたタバコを布団の上に置きっぱなしにした。以前から快く思っていなかったマンションの大家にも、火災を起こして復讐しようと考えたのだ。しかし、このタバコの火は間もなく自然に消えてしまった。
午前9時40分頃、宅間は車に乗り込み猛スピードで駐車場から出ていった。

午前10時前に刃物店を訪れ、店の者に「丈夫なやつ」と希望を伝えた。そして、刃渡り15.8 cmの出刃包丁1本を7480円で購入している。車内でケースから包丁を取り出してビニール袋に入れると、カーナビの行き先を大阪教育大学附属池田小学校に設定し、同校へと向かった。

附属池田小に着く直前、以前飛び降り自殺に失敗したことについて「よく考えると僕死んどったんじゃないか。たまたま助かっただけやないか、飛び降りたときに。あの時死んどったんや。おまけの人生やないか」などと考えていた。
車内には、元妻を殺すつもりで以前から準備していた文化包丁もあった。

凶行は開始された

池田小事件・犯行経路
2年南組で5人、2年西組で2人、1年南組で1人、計8人の児童が亡くなった

附属池田小学校に到着した宅間は、閉まっていた正門を通り過ぎ、門の開いていた自動車専用門の前に車を停めた。そしてそこから校内に侵入した。

午前10時10分過ぎに体育館わきの通路を通る時、2年生の担任教諭とすれ違う。教諭が会釈しても宅間は無視して通り過ぎ、その先の南校舎へ向かった。

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2年南組・2年西組

南校舎に着くと、1階テラス側の出入口から担任教諭不在の2年南組に侵入、出刃包丁で5人の児童を次々と刺した。のちに、この5人は死亡している。

次に宅間はテラスに出て、東隣の2年西組に向かった。10時15分頃、教室に入った宅間は、侵入と同時に3人の児童を次々と刺し、うち1名が死亡した。
2年西組の担任は悲鳴をあげ、校内放送で誰かに知らせようとしたが失敗、児童をそのままに警察へ通報するため事務室に向かって走った。

この間、宅間は逃げる児童を追い回し、教室内・出入口付近・廊下で5人の児童を刺したり切り付けるなどして、うち1人の児童は死亡した。

わたしが出会った殺人者たち

2年東組

次いで、宅間は廊下に出て、東隣にある2年東組に向かう。そして廊下側から教室に入り、児童2人に切りつけた。2年東組の担任は、椅子を持って宅間を追いかけたが、テラス側出入口から逃げられてしまう。逃げる途中、宅間は教室後方にいた児童1人と、出入口付近にいた児童1人を刺した。

テラスに出た宅間は、通り掛かった1年南組の担任にタックルされ、取り押さえられそうになる。しかし、宅間が反撃してきたので、別の教諭(2年東組の担任)が椅子を投げ付けるなど加勢したが、1年南組の担任は背中を刺されている。

この時、外の花壇にいた2年南組の担任が、児童の悲鳴を聞いて校舎へ近づき、この様子を目撃した。そして、テラスに出ていた児童にグラウンドへ逃げるよう指示すると、宅間は一瞬児童らを追う素振りを見せたが、方向を変えて1年南組へと向かった。

それまでの間、3人の教員が1年南組の横を通過したにもかかわらず、1年南組にいた児童に危険を知らせ、避難するように声かけできておらず、避難誘導が行われなかった。

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1年南組

午前10時20分、宅間は、担任教諭不在の1年南組にテラス側出入口から侵入した。

この組の児童たちは、ちょうど音楽の授業から教室へ戻ってきたところだった。その中でも一足早く戻ってきていた3人の児童が切りつけられ、うち男児1人が犠牲となった。

そうしているうちに、副校長2年南組担任が駆け付け、宅間と格闘になる。2年南組担任は、包丁を持った手を押さえようとして顔を切られた。しかし、手を押さえられると宅間はおとなしくなり、2人によって取り押さえられた。

15分におよんだ犯行の間、宅間は終始無言だったが、最後の1人を刺し終えた時「あーしんど!」と呟いたという。

この凶行で、児童8人(1年生1人、2年生7人)が殺害され、児童13人・教諭2人が傷害を負った。
その後、宅間は駆けつけた池田警察署の署員により、殺人未遂容疑現行犯逮捕されたが、取り調べの時には殺人容疑に切り替えられている。宅間は、左手指に怪我をしていたため、まず病院で手当てを受けた。

稀代のワル・宅間守の生い立ち

宅間守

宅間守は1963年11月23日、兵庫県伊丹市に生まれた。
父親は家では木刀を持ち歩き、家族全員に激しい暴力を振るっていた。宅間の異常性は幼少期の頃からすでに現れており、3歳の時には三輪車で国道の中央を走り、車が渋滞するのを見て楽しんでいたという。

学校では、自分より弱い人間をいじめていたという。また、単車や自転車を盗んだり、猫の首をゴムでぐるぐる巻きにしたり、新聞紙に包んで燃やし焼き殺すなど動物虐待もしていた。
中学校では可愛い女の子の弁当に精液をかけたり、痴漢行為を繰り返すなどの異常行動が目立つようになる。

小学3年でわいせつ事件を起こして補導されて以降、性犯罪・恐喝・傷害など15回の逮捕・補導歴があった。

高校は兵庫県立尼崎工業高校に進学したが、高校2年生の時に教師を殴り退学となる。その後、定時制の高校に編入するも、通学することなく除籍となっている。
18歳でパイロットを目指し、幼少期から憧れの航空自衛隊に入隊。しかし入隊から1年ほどで「家出少女を下宿させ性交渉を行った」として除隊処分になった。

20歳の時、交通事故を起こしたが、対向車のライトが眩しかったと言いがかりをつけ相手の車を破壊。キリを持って運転手を追いかけ回した。その後も、高速道路を逆走するなど奇行を繰り返す。

宅間守 精神鑑定書――精神医療と刑事司法のはざまで

このころ、見かねた父が資金を出し運送業を始めるも、わずか1ヶ月後に廃業。その後、マンション管理会社に就職するが、業務中に集金を口実に女性宅に上がり込み、女性の顔を殴打・強姦し、逮捕された。この時は精神科を受診するなどして、精神病を装い刑罰を逃れている。そのため、精神病院に入院させられたが、入院期間が思っていたよりも長いと知った宅間は、退院したくて病院の屋上から飛び降り、重傷を負った。

その後、精神病が詐病と見破られ、前述の強姦事件で3年間服役し、1989年に出所した。宅間はこの一件で父親から勘当され、そのことを最後まで相当恨んでいたようだ。
このころ、母親が精神に異常をきたす。(宅間守は実母と肉体関係があったと一部言われている)

その後、運送会社やトラック運転手、引越し業者等、職を転々とするが、いずれも暴力行為やトラブルを起こし長続きしなかった。小学校の用務員として勤めた時は、先生や生徒とのトラブルを起こし、果てに薬物混入事件を引き起こしている。

職歴の中で1年以上続いたのは航空自衛隊と非常勤の地方公務員の2箇所のみだった。そして、2000年末頃から附属池田小事件を起こすまで無職だった。
また、前科は15犯だが、初犯の強姦以外はすべて精神障害を装い不起訴処分になっている。

宅間守の父親について

宅間の父親は、小学校で学歴を終え、旋盤工として働いた。結婚後はタクシー運転手となり昭和62年に定年退職。その後は年金生活を送っていた。

先祖が薩摩藩の武士で、その事を生涯誇りにしていた。幼少期には父親と木刀で打ち合い、「宅間家の男子は真の侍たれ」と厳しく教育されている。宅間の家系には、法律や警察関係の職につく人が多かったという。

また、「誰にも迷惑をかけない」がモットーで、自分の人生に強い誇りとプライドを持っていた。一見すると立派な男性に感じるが、実際は日常的に家族に暴力を振るっていた

母親は毎日殴られ、壁は血だらけになっていた、と宅間はのちに語っている。彼はそんな父親を強く憎んでおり、父親の性格を短気で自己中心的と評している。

宅間が強姦の罪で服役したあと、父親に勘当されてしまうが、彼はこのことを最後まで恨んでいた。
事件後も「自分には関係ない」と宅間を突き放し、世間からのバッシングにあう。そのせいで酒乱となり、入院した。宅間は「宮﨑勤の父親のように自殺して欲しかった」と話している。

稀代のモンスター・宅間守は、この父親が作り上げたのではないか、という意見は多くある。

専門家の意見

精神科医・日向野春総氏
「父親の言動から察するに愛情を傾けるより、初めから(子供を)捨てているのではないか。容疑者の狂気の原点は、甘えたい欲求を否定され続けた結果。容疑者にとって、世間の話題になるようなことでもしない限り、父が振り向いてくれないと思い、悪いことであろうと目立ちさえすれば、との思考に至った」

上智大学名誉教授(犯罪心理学)の福島章氏
「幼児期に親から虐待などを受けた子供は、粗暴になる率が高い。意味のない暴力があったとすれば、それが『しこり』になり、肥大化した可能性はある。中学になれば思春期に入り、それを契機に(奇行として)噴出していったのでは」

宅間の父親は2020年4月に、肺がんで亡くなっている。享年は88歳だった。

母親について

宅間の母親は、家事や育児が苦手で、一種のネグレクト状態であったといわれている。そのため、家事のほとんどは父親が担当していた。

宅間を身ごもった時、喜ぶ父親に対して「あかんわ、これ、堕ろしたいねん私。あかんねん絶対」と言ったという。生まれてからも、母乳をあげるのを嫌がるなど、愛情を注がなかった。宅間が中学を受験する際には、「お前なんか産まれてこなければよかった」と暴言を吐いている。

宅間が言うには、母親の実家は資産家で、「父親が金を吸い取って酒を浴びていた」という。母親は、毎日のように父親から殴られ、壁は血だらけだったそうだ。彼女は、長期に渡って心を病み、精神病院に数十年以上入院生活し、2016年末に死去している。

宅間の7歳年上の兄も、本事件の2年前に小刀で首を斬り、40代前半で自殺している。

宅間守はサイコパスか

宅間守・直筆
宅間守が臨床心理士・長谷川博一氏に送った手紙

宅間の精神鑑定を担当した岡江晃さんが下した診断は「情性欠如」というものだった。

彼の精神的な特徴として以下の3点が挙げられている。

  • 幼児期からの特異な心理的発達障害
  • 虚言癖、自己中心性が目立ち共感性を持てない、人格の障害・情性欠如
  • 強い猜疑心、嫉妬などを特徴とする妄想反応

その中でも気になるのが「情性欠如」。これを調べてみると、以下のような特徴があることがわかった。

情性欠如者の特徴
  • 同情、哀れみ、良心、恥、後悔などを感じない
  • 他人の苦しみに鈍感なだけでなく、自分の将来にも無関心になる
  • 普通の人は、人を傷つければ良心が痛むが、このタイプの人はなんとも思わない
  • 殺人、強盗、レイプなど、凶悪で残忍な犯行も平気で起こす
  • 人生の早い時期から犯罪を犯すタイプで、犯行を繰り返す
  • 多くの犯罪者がこの傾向を持ってる

情性欠如者の特徴を見ると、「サイコパス」の特徴とほぼ同じである。
日本では診断に「サイコパス」という言葉は使われないため、この「情性欠如者」という表現になるのかもしれない。

結婚歴

初婚

1990年3月、宅間は泌尿器科の医師と偽り、看護師名簿を見て片っ端から電話をかける。そして20歳年上の女性と知り合い、6月14日に強引に結婚した。しかしすぐに医師でないことがバレたために、26日には離婚している。

2番目の妻

1990年10月12日、小学校時代の恩師の19歳年上の女性と結婚する。
しかし、宅間が再び強姦事件を起こし、彼女は示談に持ち込むなど尽力したが、1994年9月21日に離婚している。この女性は、作家・小松左京さんの妹で、非常に面倒見のよい女性だったそうだ。

池田小児童惨殺犯・宅間守の父と語った100時間

3番目の妻

3度目の結婚は2歳年上で、宅間好みの容姿が整った女性だった。

宅間は彼女と結婚するために本籍を移し、婚姻も記録を白紙にして初婚だと偽り彼女にしつこく結婚を迫ったのだ。女性は乗り気ではなかったが、「結婚しなければ、お前を殺して自分も死ぬ」と言われたり、実家の住所を調べ上げられたりしたため、周囲への迷惑を考えて1997年3月30日に結婚する。

しかし、彼女は宅間の粗暴な振る舞いや、周囲とトラブルを起こす姿、過去の養子縁組の件などに嫌気がさし、また自身も暴力を受けたため離婚を決意した。
この時、宅間の子供を妊娠していたが、堕胎して実家に戻り、神戸地裁に離婚調停を申し入れた。出産を望んでいた宅間は激怒し、実家へ出向き投石や大声での暴言を繰り返した。

それでも、宅間はこの女性に強い未練があり、のちに復縁を迫っている。しかし女性にその気はなく、今度は憎しみを増幅させていく。
池田小を襲ったのは、このことが根底にあるといわれたほどの出来事だったのだ。

4番目の妻

4回目の結婚は、1998年10月18日、相手はお見合いパーティーで知り合った3歳年下の女性だった。
しかし1999年に勤務先の小学校で薬物混入事件を起こし、3月31日に離婚した。宅間はこの結婚について、「緊急的な措置。頭も悪く、見た目も良くない」と話している。

最後の結婚

最後の結婚は、死刑確定後の獄中結婚で、相手は死刑廃止論者の女性だった。

初めは心を開かなかった宅間だったが、自分の気持ちに同調してくれる理解者だということがわかると次第に心を寄せていったようだ。宅間は、最後まで被害者に謝罪の言葉はなかったものの、この女性には「ありがとう」という言葉を遺している。

逮捕から公判まで

附属池田小事件
取り調べ中の発言
  • 小学校を選んだのは、できるだけたくさん殺せると考えたから
  • たくさん殺せば確実に死刑になるし、道連れは多いほうがいいと考えた
  • 全然関係がない子どもの命を奪ったことに対して、本当に申し訳ないという気持ちがある

宅間は取り調べで、「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」などと供述していた。

逮捕当初、宅間は精神障害者を装った言動を取っていた。しかし、2度行われた精神鑑定の結果では両方とも「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」とされ、責任能力を認める結果が出た。

また、犯行時の制御能力について「2、3歳程度の水準にまで」退行していた可能性があるという判断がされた。

宅間は逮捕直後に「薬を10回分飲んだ」と供述して医師の診察を受けた。ところが、宅間が飲んだとされる薬は、抗精神病薬、抗うつ薬、睡眠剤の3種類で、仮に10回分服用しても眠くなるだけで、奇怪な行動を起こしたりすることはない

さらに、逮捕後に採取した宅間の血液や尿からは、精神安定剤の成分が検出されなかった。捜査員がこの事実を突きつけると、「薬は飲んでいません。作り話でした」と偽証していたことを認めている。
逮捕直後、池田警察署に連行された時、座ることもできないほど疲労した状態であり、楽になるために嘘の申告をしたのだ。

弁護団は、遺族の思いを伝えることで内省を深めさせようと、宅間に被害者の遺族の調書150点を差し入れていた。しかし返ってきたのは「遺族にとても聞かせられない言葉」であったといい、弁護団も「公表は控えたい」と口をつぐんでいる。

宅間はこのころ、「こんなところでいたずらに生かされるのは嫌だ」「死刑になってもなかなか執行されないなら、早くやるよう訴訟を起こそうかな」などと話しており、弁護士も「普通の感覚では理解できない。精神医学でどの程度説明できるのだろうか」と洩らしている

死刑を望んだ裁判

附属池田小事件・被害者
この無邪気な笑顔を、2度と殺人鬼の餌食にしてはいけない・・・

宅間守被告は刑事責任能力を調べるため、7月8日に大阪拘置所に鑑定留置され、翌日から本格的な精神鑑定を受けている。当初の留置期限は10月7日までだったが、9月6日に「完全責任能力があった」とする鑑定結果が報告されたことを受け、鑑定留置は9月13日午前をもって終了した。

そして翌14日に大阪地検によって、児童8人の殺人罪や、児童および教師15人に対する殺人未遂罪で、大阪地方裁判所へ起訴された。また、25日には余罪(傷害・暴行・器物損壊)の罪でも追起訴されている。

暴言が話題となった第一審

2001年12月27日、大阪地方裁判所で初公判が開かれ、宅間被告は起訴事実を全面的に認めた。

宅間被告は、口笛を吹きながら入廷、検察官による起訴状朗読が始まって約2分後、突然「座ったらあかんか」と左手で席を指しながらぶっきら棒に発言。裁判長に「立ったまま聞いてなさい」とたしなめられた。

検察側の主張

  • 元妻や自分を勘当した父親への恨みを社会へ向け、不特定多数の人の殺害を考えた
  • 完全な責任能力があった
  • 我が国の犯罪史上、特筆されるべき凶悪かつ重大な無差別大量殺人事件。いかなる観点からも極刑以外に科すべき刑はあり得ない

弁護側の主張

  • 極度に追い詰められた心境下にあって、善悪をわきまえる能力を一時的に喪失したか、著しく減退した状況のもとで犯行に及んだ可能性がある
  • 犯行時、心神喪失もしくは心神耗弱状態だった
  • 無罪か量刑の減軽を求める

宅間被告は、弁護団からあらかじめ用意された書面を手に、「自らの命をもって償いたい」とくぐもった声で語った。


2003年6月26日の第24回公判で、弁護人は宅間に対し「君は自らを殺人鬼と蔑むことはない」と、異例の呼びかけを行う形で、反省の念を引き出そうとしたが、宅間から出てきた言葉は以下のような暴言だけで、謝罪はなかった。

遺族に対する暴言
  • 遺族にはなにもできへんし、最高や!
  • どんなに金かけても、ワシに一瞬にして殺されれば勝ちも負けもあらへん!
  • ワシみたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを、世の中に分からせたかったんや
  • ワシの人生の幕引きの道連れに、ガキが死んだだけや!そやからワシには反省や申し訳ない気持ちはないし、後悔もない!
  • なんで、幼稚園にせんかったんやろ?、幼稚園ならもっと殺せたと今でもこんなんことばかり考えてしまうんや
身内に対する暴言
  • 今日は、ほんま ワシは気分がええわ。ワシを悩ませた糞親にも嫁の家族にも迷惑かけれてな!親戚に守がいますなんて 千年たってもいえへんな!
  • 親父を殺しておれば、もっと違う人生があったかもしれん
  • ○○(3人目の妻)の顔をあの時、ズタズタにしてやればよかった。何でせえへんかったんやろと今でも、ほんま、後悔しとる

誰もが予想した判決

2003年8月28日に判決公判が開かれ、大阪地裁は求刑通り死刑を言い渡した

宅間は、判決を読み上げようとする裁判長を遮り、「最後にちょっと言わせてえな」と叫んだ。裁判長は認めなかったが、「どうせ死刑になるんやったら、言わせてくれ。たったメモ3枚や」「今までおとなしくしとったんや、それぐらいあってもええやないか」と、右手のメモを突き出しながら矢継ぎ早に叫んだ。

この時、宅間は「死刑にしてくれてありがとう。もうはよう、死にたい思うてたから、ほんま助かる。やっと死ねるんやなーと思うとほっとしたわ」などと発言している。

いつまでも発言をやめなかったため、退廷を命じられ、刑務官に連れ出された。その際、怒りを露わにして傍聴席を振り返り、大声で遺族を名指しで罵った

強制退廷時の宅間の暴言
  • おいコラァ!!くそガキの親ども!(遺族の名前を連呼)!おまえらは、ほんまに偉いんか?
  • おまえらは、7500万円もらってホクホクやな!よろしいな、転がり込んだ7500万円よろしいな!
  • そやけど、おまえらのガキの8人分の命は、ワシ1人を殺して終わりの程度の価値やったんやぞ!エエ学校に行かせて、偉そうにしとったから死んだんや!
  • ガキどもが死んだ原因は、おまえらあるんやぞーー!
  • せいぜい一生反省せいよ!あの世でもおまえらの子供、追いかけ回して、しばき倒したるからな!

死刑判決の際は通常、主文を後回しにして判決理由から朗読し始める場合が多いが、この日は冒頭で死刑の主文が言い渡される異例の展開となった。

死刑判決の理由として、「事前に出刃包丁を用意したり、逮捕直後に薬物の影響を装ったりしており、十分な事理弁識・行動制御能力を備えた上で犯行に臨んだ。これは、被告人の自己中心的で他人の痛みを顧みない著しく偏った人格傾向の発露であり、精神疾患の影響はなく、完全な責任能力が認められる」と判断し、「犯罪史上類を見ない凶悪事件。残虐非道な犯行におよんだ責任は重大で、科すべき刑は死刑以外にありえない」と判示した。

判決後

判決の宣告後、裁判長は「せめて2度とこのような悲しい出来事が起きないよう、再発防止のための真剣な取り組みが、社会全体でなされることを願ってやまない」と所感を述べたが、このように裁判所が所感を述べることは異例である。
また、内閣総理大臣の小泉純一郎は同日昼、首相官邸で記者団に対し「死刑判決は当然だろう」という感想を述べた。

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