「別府3億円保険金殺人事件」の概要
1974年11月17日、大分県別府市で1台の車が海に転落、母娘3人が溺死した。ひとり脱出した父親・荒木虎美は、当初こそ同情されたが、母娘に保険金3億円がかけられていたことがわかると、一転して疑惑の容疑者となった。
荒木は当時の人気テレビ番組「3時のあなた」に出演して身の潔白を主張するも、殺人容疑で逮捕されてしまう。そして裁判では一審・二審で死刑が確定、その上告中、病気により死亡した。
事件データ
犯人 | 荒木虎美(当時47歳) |
犯行種別 | 保険金殺人事件 |
犯行日 | 1974年11月17日 |
犯行場所 | 大分県 |
被害者数 | 3人死亡 |
判決 | 死刑(一審・二審) 上告中に死亡・享年61歳 |
動機 | 保険金目当て |
キーワード | テレビ「3時のあなた」 |
事件の経緯
夜中の転落事故
1974年11月17日午後10時頃、大分県別府市のフェリー岸壁から、1台の車が転落する事故が起きた。この日は小雨が降る肌寒い夜だったが、釣りのスポットであるこの場所には7人の釣り人がいて、事故を目撃した。車は約40kmのスピードで走行していて、ブレーキもかけずに転落したという。
まもなくひとりの中年男性が、車から自力で脱出して泳いできた。釣り人たちはこの男性を救助し、警察に通報。男性は「車に妻と子供が乗っている。助けてくれ」と言うが、釣り人達にはどうすることもできなかった。男性は病院に搬送され検査を受けたが、両手の甲にかすり傷を負ったほかは異常はなかった。
警察は午後11時50分頃、男性に出頭を求め事情聴取を開始。男性は荒木虎美(当時47)といい、この日は家族でドライブをしていたと話す。事故当時は妻が運転していて、「助手席でうとうとしていたら妻の悲鳴で目が覚め、気付いた時には海に転落していた」とのことだった。フロントガラスが割れていたのでそこから脱出できたが、家族を助ける余裕はなかったという。
一方、海に沈んだ車は、午後11時30分頃に警察によって引き上げられた。車は転覆した状態で沈んでいて、男性の言った通り、彼の妻(41)、長女(12)、次女(10)の3人が溺死した状態で見つかった。長男(15)だけは、受験勉強のため家にいて難を逃れた。
悲劇の父親は、疑惑だらけ
荒木は当初、不運な事故で家族を亡くした ”悲劇の父親” と報道されたが、警察はそうは見ていなかった。なぜなら、亡くなった家族には3億円もの保険金がかけられていたからだ。さらに家族といっても夫婦は3か月前に籍を入れたばかりで、亡くなった子どもは妻の連れ子だった。
事故現場に駆け付けた警官も、当初から違和感を抱いていた。現場にはスリップ痕もなく、「妻が運転して自分は助手席にいた」と不自然なほど強調、妻子が車に残されているにしては荒木の態度は落ち着いていた。
そのため警察は事故・事件の両面から捜査を開始。そして調べれば調べるほど、荒木にはさまざまな疑惑が沸き起こってくるのだ。
荒木虎美の前科
荒木には複数の前科があった。
- 1949年、愛人女性が妊娠したため、堕胎を依頼したある鍼灸師に対し、医師法違反などで恐喝
- 1950年、家屋に保険金をかけて放火した罪で懲役8年(恩赦により5年半)の実刑判決を受けて服役
これ以外にも恐喝罪などで逮捕されていたが、そのほとんどで否認して最高裁まで争っていたため、警察では「九州一のワル」と呼ばれていた。
荒木は、「運転していたのは妻」と主張したが、警察は保険金殺人を疑って捜査を始めた。
荒木は保険会社に保険金を請求するも、「警察の事故証明がなければ支払えない」と拒否されていた。そして警察は、調査中であるとして交通事故証明書の交付を拒否していた。
その頃から報道は ”悲劇の父親” から ”疑惑の容疑者” へと変わっていった。荒木は「死ぬ危険を冒してまで保険金殺人をするわけがない」と主張していた。
だが、このような世間の空気に焦ったのか、荒木は驚きの行動に出る。
驚きのテレビ出演
事故から4日後、荒木は自ら記者会見を開いた。ここで荒木は疑惑を否定し、「保険など嫌いだが妻が入りたいというから仕方なく入った」と力説。さらに、「自分は受取人ではない」と主張した。
しかし、実際は受取人である娘2人が亡くなった場合、受け取る権利は荒木に移る。だが、そのことは会見では伏せていた。受取額は、長男の2600万円に対して、荒木は10倍以上の2億8400万円だった。
この記者会見での不遜な態度は全国に放送され、荒木に世間の批判が集中。警察にも「逮捕しないことへの苦情」が多数寄せられる事態となった。
しかし、決定的な証拠がない状況では、逮捕に踏み切ることはできなかった。
そんな世間の批判を沈めようとした荒木は、12月11日、当時人気のあったテレビ番組「3時のあなた」に出演する。ここでも身の潔白を主張したが、ゲストから証言の矛盾点についてしつこく質問された。これに荒木は激怒し、生放送中にもかかわらず席を立ちスタジオから退場した。
スタジオを出た荒木を、たくさんの報道陣が待ち構えていた。荒木は、フジテレビ応接室にて緊急の記者会見を開き、改めて無実であると懸命に主張した。
午後5時50分、テレビ局を出た荒木を待っていたのは、警察だった。
実は荒木にはすでに逮捕状が請求されていたのだが、一部のマスコミがそれを報じてしまっていた。警察は逃亡を防ぐため、殺人容疑で急遽逮捕に踏み切ったのだ。
犯人・荒木虎美の生い立ち
*「荒木」姓は本事件で被害者となった妻の姓であり、出生時は「山口」姓であった。
山口虎美は、1927年(昭和2年)3月9日、大分県南海部郡青山村(現:佐伯市)に生まれた。
実家は比較的裕福な農家で、幼いころから秀才として知られていた。のちに妹が2人生まれている。
1943年(昭和18年)12月に津久見町立工業学校を繰り上げ卒業。
その後海軍に進み、指宿基地の整備士などをして終戦を迎える。山口自身は、海軍飛行予科練習生となり、特別攻撃隊に選ばれていた。そして、指宿基地から2度出撃したが、エンジントラブルで果たせなかった。終戦時は詫間基地で一等飛行兵曹だったという。
1947年(昭和22年)秋、隣村の娘と結婚。(その後、2人の子どもをもうけている)
1948年(昭和23年)に新制青山中学校の代用教員となったが、生徒には人気があった。
脅迫で懲役刑
1949年(昭和24年)2月、不倫相手を妊娠させてしまい、佐伯市内でもぐりで堕胎をしていた鍼灸師に中絶を依頼。ところが、その際に不倫相手が鍼灸師に強姦されたことを知ると、駐在所の巡査になりすまし「医師法違反と堕胎罪を世間にばらす」と迫った。
そして堕胎費用として渡していた1500円のうちの800円を脅し取った。この事件が発覚して逮捕され、代用教員の職を失った。
知人には、「左翼運動で共産党に近づいたため、思想犯として弾圧を受けた」と話していた。村では山口に同情する声があがり、減刑嘆願の署名運動も行われたものの、同年末に懲役1年2月(執行猶予3年)の有罪判決を受けた。
犯罪にまみれた人生
その後、別府市に移って精肉店を開業したが、店はうまくいかなかった。1950年(昭和25年)2月、火災により店は全焼し保険金16万2500円を受け取る。この火災は、山口による失火とされていた。
しかし、火災の2週間前に火災保険がかけられていることが疑問視され、放火罪と保険金詐欺で起訴された。山口は失火は認めたが、放火と保険金詐欺については犯行を否認、最高裁まで争った。ところが、火災発生時に山口が店にいたという目撃者が現れ、懲役8年の実刑判決を受けて服役した。
この時も山口は、反権力活動に従事したために権力側に目をつけられ、罪をでっち上げられたと主張。なお、この裁判では、保釈中に青山村の郵便局に忍び込んで為替用紙を盗み証書を偽造したとして逮捕され、放火事件と併合審理されている。
まだまだ続く前科
山口は、サンフランシスコ講和条約発効の際の恩赦により減刑され、5年半で仮出所した。その後、不動産業を始めている。
1960年(昭和35年)、火災保険詐欺の裁判で不利な証言をしたことに激怒して、妻と離婚。
1966年(昭和41年)4月、公文書偽造・同行使事件で懲役1年6カ月(執行猶予5年)を受ける。
1967年(昭和42年)7月、不動産業の共同経営者の妻との不倫トラブルに絡んで婦女暴行、傷害、脅迫事件を起こして懲役3年6カ月服役。
1972年(昭和47年)11月に宮崎刑務所を出所、別府市内で不動産ブローカーとして生計を立てた。(県知事の認可を受けたものではなく、不動産取引に口をはさんでは仲介料や手数料をせしめていた。)
1973年(昭和48年)1月には恐喝未遂事件を起こし、懲役6カ月の判決を受けている。(本事件の転落事故を起こした当時は、上告しており保釈中の身であった。)
九州一のワル
そんな中、本事件の被害者となる女性と知り合う。彼女は生活保護を受給しながら、3人の子どもを育てる未亡人だった。
彼女の長男と長女は山口のことを嫌っており、彼女自身も結婚には乗り気ではないまま約1年間交際を続けた。そして、山口の強引なプロポーズに根負けした形で1974年(昭和49年)8月1日に籍を入れた。
子どもたちへの配慮から、山口が婿養子の形で妻の戸籍に入って荒木姓を名乗った。そして、連れ子3人とも養子縁組を結んだ。
1974年(昭和49年)11月17日、本事件を起こす。
1980年3月28日、第一審にて死刑判決。荒木は控訴。
1984年9月に福岡高裁は控訴を棄却、荒木は上告。
1989年1月13日に癌性腹膜炎で死亡、公訴棄却となった。(享年61歳)
裁判:第一審は死刑
捜査の結果、荒木の犯行を裏付ける状況証拠はいくつも見つかった。しかし、どれも決定的な証拠とはいえなかった。
- 車に付いている4か所の水抜き孔のゴム栓が、全て取り外されていた
- 車のダッシュボードにハンマーが入っていた
- 荒木の刑務所仲間が、この事故の計画を聞かされていたと証言
- 妻の膝に付いた傷と、助手席ダッシュボードの傷跡が一致
- 嫌がる長女を無理やりドライブに連れて行った、と近隣住民が証言
4の証拠については、妻が運転していたという荒木の証言を覆せるものとして期待されていた。しかし、傷の場所の一致だけでは、単なる状況証拠のひとつでしかなかった。
そんな中、これを補強できる証言が出てきた。
それは事件当日、荒木の車を目撃したという鮮魚商の男性の証言だった。この男性が言うには、赤信号で停車した時、ちょうど隣が荒木の車(日産サニー)だったというのだ。その時男性は、知り合いの車と同じ車種であることに気付き、本人だったら声をかけようと思ったという。
そのため運転手を確認したことから、運転席の荒木の顔を覚えていたのだ。
上告中に獄中死
1980年3月28日、大分地裁は荒木に死刑を言い渡した。荒木は控訴したが、1984年9月に福岡高等裁判所は控訴を棄却して死刑判決を維持した。
上告中の1987年、荒木は癌と診断されて八王子医療刑務所に移監された。しかし、1989年1月13日に癌性腹膜炎で死亡し、公訴棄却となった。(享年61歳)
この事件は状況証拠しかなかったが、一審・二審とも死刑の判決が出された。
理由として「3億円という多額な保険金が、動機として強い」ことだけでなく、「裁判中、荒木は不利な証言をした証人を罵倒するなどして、裁判官の心証を悪くした」ためとも言われている。