練馬一家5人殺害事件|立ち退き拒否した家族を皆殺し

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朝倉幸治郎/練馬一家5人殺害事件 日本の凶悪事件

「練馬一家5人殺害事件」の概要

1983年6月28日、東京都練馬区で家族5人が惨殺される大事件が発生した。
犯人は不動産鑑定士の朝倉幸治郎(当時48歳)。原因は朝倉が落札した競売物件から、家族が立ち退かないことに端を発していた。朝倉はこの物件のために全財産を担保に1億円以上の借金をしており、家族が出て行かない限り売却もできず、破産寸前だった。

追い詰められた朝倉は、家族全員を殺して「引っ越したように見せかけよう」と計画・実行する。しかし殺害翌日、朝倉はあっさり逮捕となる。1歳男児や小学生女児まで殺害した卑劣な犯行に、下った判決は死刑だった。

事件データ

犯人朝倉幸治郎(当時48歳)
犯行種別殺人事件
事件発生日1983年6月28日
犯行場所東京都練馬区大泉学園町6
被害者数一家5人死亡
判決死刑
2001年12月27日執行(66歳没)
動機立ち退き拒否への報復
キーワード立退料吊り上げ、占有屋

事件の経緯

練馬一家5人殺害事件・現場
事件現場の家

不動産鑑定士の朝倉幸治郎(当時48歳)は、父親の遺産の不動産売却で2500万円ほどの資金を得た。1982年11月、朝倉はこの資金を元手に、家族の将来のためにまとまった額の金を手に入れようと、不動産取引で儲けることを思いつく。

手頃な物件を探していた朝倉は、東京都練馬区大泉学園町の1軒の競売物件に目を留める。この物件にはまだ人が住んでいたが、立退料を支払っても1000~2000万円ほど儲かりそうだと朝倉は考えた。
もし、その通りならこんなにおいしい話はないが、そんな優良物件が素人同然の朝倉に見つけられるはずはなかった。一見良さそうな物件が残っているのは、それなりの理由があった。

この物件は、不動産売買のプロなら避けるような ”不良物件” だった。この家に住んでいる家族は、立退料を不当に吊り上げるために居座っていたのだ。

住人は白石明さん(当時45歳)の一家で、妻・幸子さん(当時41歳)とその子ども4人の6人家族だった。この家は元々は建設会社を営む幸子さんの父親のものだったが、この会社が1981年に倒産。それ以降は白石夫婦との間で月額5万円の賃貸契約が結ばれていた。

翌年、この家は抵当として信用金庫に差し押さえられ、裁判所で競売にかけられた。それを朝倉が見つけたのだった。

当時の民法では、抵当権が設定されても土地の場合は5年、建物の場合は3年間までは短期賃貸借が優先された。この期間中は、元々の住人は居座ることが可能だった。

立ち退かない家族

朝倉は「居住者に対しては引き渡し命令が可能」という専門家の意見を聞いたこともあり、「強制的に立ち退かせられる」と簡単に考えてしまう。そのため、定期預金・自宅・事務所・山林など全資産を担保に、銀行から約1億4500万円の融資を受け、1983年2月2日、この物件を1億600万円で落札した。

だが、直後に担当の書記官から「居住者一家に引き渡し命令は出せないだろう」と知らされた朝倉は、予想外の事態に愕然とする。しかしこうなった以上、交渉なり訴訟なりで解決するしかなかった。

白石一家は、幸子さんの父親の入れ知恵で ”立退料を吊り上げる” ために居座る「占有屋」のようなものだった。通常の交渉では埒が明かないことを悟った朝倉は、訴訟に踏み切る。しかし白石さんは交渉に応じるような態度を見せてきたため、朝倉はこれに安堵し、転売先(東京都新宿区の建設会社)との譲渡契約まで結んでしまう。

3月28日に行われた明渡訴訟の第1回口頭弁論では、大した進展はなかった。一方で朝倉は白石さん宅に何度も訪れるも、ヤクザの介入をほのめかされたり、「弁護士に任せている」といわれるなど、誠意ない対応を受けた。

転売予定の建設会社には1983年4月末日までに引き渡す契約で、融資の返済期限は6月末だった。「このまま白石一家が出ていかなければ、自分は破産してしまう」と焦る朝倉だったが、白石夫婦は次第に朝倉を避けるようになっていく。さらに5月23日の第2回口頭弁論も「被告側に調査を要するものがあるため、6月6日に延期する」という通知を受け、絶望的な気分になった。

一家に”いなくなってもらう”

裁判もあてにならないと感じた朝倉は、「実力行使をしてでも、明け渡しを迫る」ことを考え始め、最終的には一家が家を明け渡して退去したように偽装することを決意する。

そのためには、一家に ”いなくなってもらう” 必要があった。朝倉は都内各所で「まさかり」や「玄能(かなづち)」などの凶器や、遺体解体のための道具を買いそろえた。6月上旬には犯行の拠点として、杉並区井草(現場から約4km)にマンションの一室を偽名で借りた。

また、遺体運搬のための自動車を購入し、運転技術を上げるため自動車教習所で運転の講習を受けた。そして、もう ”必要のない” 訴訟を取り下げた。

それでも最後の望みをかけ、6月20日早朝には白石さんの出勤を待ち伏せて、それまでにない激しい口調で立ち退きを迫った。23日夕方にも白石宅を訪問したが、夫婦はまともに取り合わなかった。

こうして6月30日の明け渡し期限を目前に控え、最後の期待も断たれたことで、朝倉は ”一家を皆殺しにする” 決意を固めた。

白石さん一家を次々と殺害

1983年6月27日朝、朝倉はスーツ姿で妻には「明け渡し交渉に行ってくる」と告げて家を出た。その後、妻の出勤を確認して家に戻り、トレーニングウェアに着替えて犯行道具を持って再び家を出た。

「犯行には午後3時頃が最適」と考えていた朝倉は、それまで時間をつぶし、3時少し前に白石宅に向かった。訪問すると、白石さんの妻・幸子さんが勝手口から応答したため、わずかな期待を込めて交渉の話をするも、幸子さんもいつものごとく「自分はわからない。弁護士に任せている」というだけで視線も合わせず奥に戻ろうとした。

練馬一家5人殺害事件・殺害現場

その態度に、朝倉の怒りは頂点に達した
朝倉は幸子さんの後を追って白石宅に侵入、そして「いつもバカにするんじゃないよ」などと叫びながら幸子さんの後方に回り、「もう話し合う余地はないんだな」と怒鳴りながら玄能を頭に振り下ろした。幸子さんは逃げたが台所で追い詰められ、玄能で撲殺された。

その後、泣き叫ぶ次男・正利ちゃん(1歳)も「泣き声が外に漏れる」と同様に撲殺。次いで居間に引き返すと、青ざめて震えている小学1年の三女・昌子さん(6歳)がいることに気付いた。さすがに朝倉は迷ったが、「やるしかない」と玄能で強打し、最後は首を絞めて殺害した。

朝倉が3人の遺体を風呂場で解体していると、午後4時頃に小学3年の次女・朋子さん(9歳)が帰宅した。朝倉は次女に話しかけ、「長女は林間学校に行っており、今日は帰宅しない」ことを確かめたあと、電気掃除機のコードで次女を絞殺した。

最後に白石明さんを殺害

午後9時30分頃、白石さんが帰宅する。朝倉は居間に座ったまま「明け渡し交渉の件で来た」と告げ、白石さんと向かい合った。朝倉は約30分間にわたり「立ち退かないことへの怒り」を白石さんにぶつけたが、白石さんは家の中の ”いつもと違う雰囲気” に違和感を感じていた。

朝倉はおもむろに白石さんのみぞおちを殴り、うめいて腹を抱えて前のめりになった白石さんの首を、まさかりで力を込めて切り付けた。そして起き上がろうとしたところをもう一撃し、白石さんを失血死させた。

練馬一家5人殺害事件・遺体を解体した風呂場
遺体を解体した実際の風呂場

こうして朝倉は、白石さん一家5人を殺害した。その後、血の付いた着衣を洗濯し、絨毯を水洗いしたり床に飛散した血痕を拭き取るなどして殺害の痕跡を隠滅した。しかし時はすでに午後10時、物音で近隣に怪しまれるのを懸念して、この日は作業を終了した。

あっけない逮捕劇

翌朝(1983年6月28日)、幸子さんの母親が電話で近隣住民に「電話が通じないので、様子を見てきてほしい」と依頼。それを受けた近隣住民が訪問したところ、家にいたのは朝倉ひとりだった。朝倉は「この家の人たちは昨日引っ越した。自分は『イチノセ』という者だ」と平然と応対していた。

朝倉は、「昼間は人が訪ねてくる恐れがあるので、暗くなるのを待って死体を運び出そう」と考え、車を家の前へ移動させ、遺体の入ったナップザック3袋を玄関へ移動させた。

幸子さんの母親は、息子(幸子さんの弟)にも電話していた。母親は「今日の午前10時に会う予定で朝から電話しているが誰も出ない。近隣住民に見てもらったら『イチノセ』と名乗る男がいて『夕べ引っ越した』と言っているが、そのような連絡は聞いていない」と息子に伝えた。

弟は「家の明け渡し交渉をめぐるトラブルが関係しているかもしれない」と考え、午前11時30分頃、実兄とともに警視庁・石神井警察署に調査を依頼した。

午後12時58分頃、幸子さんの弟らと石神井署員2人が白石宅を訪問。勝手口を開けようとするも開かず、玄関の方で人の足音が聞こえた。不審に思った署員が表に回ったところ、逃走しよう飛び出した朝倉と出くわした。署員は朝倉を制止して職務質問し、「なぜ逃げるのか」を問い詰めたところ、朝倉は「この家の家族5人を殺した」と答えた。

署員らが宅内を調べると、家の中の各所から一家5人のバラバラ遺体を発見した。

石神井署は朝倉を殺人容疑で緊急逮捕した上で、事件の異常さを重視して午後には警察庁捜査一課とともに捜査本部を設置して本格的捜査を開始した。朝倉は取り調べに対し、一貫して「これですっきりした」と供述、淡々と殺害の様子を説明したという。

犯人・朝倉幸治郎の生い立ち

練馬一家5人殺害事件/朝倉幸治郎
犯人の朝倉幸治郎

朝倉幸治郎は1935年(昭和10年)3月9日に秋田県秋田市楢山字明田にて、6人姉弟の長男として生まれた。

当時の朝倉の一族は、秋田市内で市場・養豚業・精肉業を経営する資産家。朝倉の父親も秋田駅前で市場を経営し、行商人たちを取り仕切る地元の顔役だった。父親はケンカっ早い暴れん坊で、暴力団が相手でも怯むことなくやり合うような性格だった。

朝倉は秋田市立中通小学校・秋田市立久保田中学校を経て、1950年(昭和25年)4月に秋田県立秋田高等学校夜間部へ入学。卒業後、1954年(昭和29年)4月に日本大学法学部法律学科に入学したが、これは父親が手をまわした裏口入学だった。

父親は若い頃から暴力団との関係を持つなど凶暴な性格で、喧嘩の際には包丁や日本刀を振り回した。また、夫婦喧嘩の際には妻に殴る蹴るの暴行を加えていた。

朝倉は、そんな父親に絶対服従させられて育ち、高校時代は父親の命令で好きでもないボクシングを習わされたり、駅前の市場の場所代回収をさせられたりした。

1958年(昭和33年)3月に日大法学部を卒業すると、経済学部3年に編入学したが直後に退学している。大学時代に下宿先の娘(1歳年下)と親しくなり、卒業後の1959年(昭和34年)4月にその女性と結婚。結婚直後は会社員をしていたが、1959年(昭和34年)に交通死亡事故を起こして辞職した。

この年、長女が誕生。翌1960年(昭和35年)5月には父親が病気で他界した。秋頃には一家で帰郷し、姉婿とともに父親の会社を継いだが、父親の遺産をめぐって身内同士で争うようになった。

次第に狂暴だった父のように…

そして同年12月、朝倉は宴会の席上で以前から仲の悪かった弟と口論になり、包丁で弟の胸を刺して全治10日間の怪我を負わせた。さらに翌1961年9月10日朝、財産争いのトラブルから弟の頭部を包丁で切り付け、左目を失明させている。

朝倉は自首したが、1962年8月7日に殺人未遂・傷害罪で秋田地裁で懲役3年の実刑判決を受け、千葉刑務所習志野作業場に服役(2年で仮出所)している。なお服役前には長男が誕生した。

仮出所後、朝倉は不動産鑑定事務所に勤めつつ、再起するため不動産鑑定士の資格取得を目指した。そして、1975年3月10日に資格を取得し、不動産鑑定士登録の夢をかなえた。

不動産鑑定士資格を取得すると、1976年7月に自宅内に不動産鑑定事務所を設立し、夫婦で業務に専念した。堅実な仕事ぶりで信用を得て仕事は順調に推移、数年後には事務所兼自宅を建て替えたほか、1981年には新宿御苑近くにマンションを購入して新しい事務所を開いた。
また同年には、東京地方裁判所の鑑定委員に選出されるなどしている。

「中日新聞」1983年6月29日朝刊は、朝倉幸治郎の人柄に関して「夫婦仲は今でも妻を愛称で呼ぶほど良好で子煩悩な性格。近隣住民からは『いつも物静かで、整った服装で胸を張って歩く羽振りのいい人』という評判だった」と報道した。しかし、その一方で気に入らないことがあると、まわりが引くほど激高することも多かったという。

「バラバラ殺人の系譜」著者の龍田恵子は、「それまで父親の言いなりだった朝倉は、父親の死をきっかけに、まるで父親の生まれ変わりのように豹変した」と表現している。

そして凶行へ

1982年頃から朝倉は疲労を覚えるようになり、「今の仕事は、労力の割に多額の収入が望めない」と不安や焦燥感を募らせていく。このころ体調を崩して入院したが、病床でも事務仕事をしているのを見て「子供にも金がかかるし、苦労をかけた妻にも楽をさせてやりたい」と考えた。

父親から相続した不動産の売却で、2500万円ほどの資金を得た朝倉は、これを元手に不動産取引でまとまった利益を上げようと思い立つ。そして手頃な物件を探した結果、最初の取引として選んだのが本事件で被害者一家の住む家だった。

不動産取引には素人同然だった朝倉は、「住人が居座っても強制的に立ち退かせることができる」と早合点し、全財産を担保にこの物件を購入した。しかし、この家は持ち主が「立退料吊り上げ目的」で住人一家を居座らせている、いわゆる不良物件だった。

転売先との契約も済ませていた朝倉は、「期限内に立ち退いてくれなければ、自分が破産する」と焦り、明け渡し期限2日前の1983年6月28日、本事件を起こす。

裁判では1996年11月14日に最高裁で死刑が確定。そして2001年12月27日、執行となった。(66歳没)

東京拘置所内の朝倉幸治郎

朝倉死刑囚と同じ東京拘置所に収監されていた澤地和夫死刑囚(2008年12月病死)は、自著「東京拘置所 死刑囚物語」(2006年) で、朝倉の人物像について以下のように記している。

「自分も同じく殺人犯で死刑囚だが、朝倉についてはその凄惨な犯行内容から『鬼畜のような人間だ』と想像していた。しかし実際に自分と同じ舎房の住人となった朝倉死刑囚と会ってみると、あのような凶悪・悲惨な事件の犯人とは思えないほど物静かで腰の低い人間だったため拍子抜けした。真意はわからないが、朝倉死刑囚は死刑執行回避のため、礼儀正しく謙虚な態度をとることで拘置所職員に媚びを売っていたのだろう。そうでなければその人間性と残忍な犯行が結びつかない」

山中湖連続殺人事件|「理想の警察官」が陥った転落人生澤地和夫死刑囚が起こした事件)

朝倉死刑囚は結局、再審請求できないまま死刑を執行されたが、支援者(菊池さよ子)が指摘した通り本事件は『通常の心理状況下でできるような犯行』ではなく、犯行当時の朝倉は『一種の狂人』と言ってよい。しかし日本の裁判官は『事件の重大性』『社会への衝撃性』を重視した上で世論を満足させるような判決を導き重視するため、加害者の心理の深層・精神状況を軽視する傾向にある」

被害者一家の詳細

練馬一家5人殺害事件・被害者一家

被害者・白石明さんは愛染院(東京都練馬区春日町・真言宗豊山派)住職の四男として生まれ、1962年(昭和37年)3月に武蔵大学経済学部経済学科を卒業、日立製作所清水工場へ勤務した。

1970年12月からは日本洋書販売配給株式会社に転職、1974年1月に美術部課長へ昇任すると1982年10月からは商品管理部部長を務めるようになり、その間に幸子さんと結婚して長女・次女・三女・長男(早逝)および次男の5児をもうけ、事件当時は一家6人で、本事件現場となった東京都練馬区大泉学園町6丁目の家屋に住んでいた。

この家は、建設会社を経営していた幸子さんの父親の所有だったが、建設会社は1981年に倒産。翌1982年に抵当として信用金庫に差し押さえられ、裁判所で競売にかけられた。
当時、白石夫婦と父親の間では月額5万円の賃貸契約が結ばれていた。

白石家・被害者5人
  • 白石明(父親): 1938年4月28日生まれ(45歳没)日本洋書販売配給株式会社・商品管理部課長
  • 白石幸子(母親):1942年生まれ(41歳没)
  • 白石朋子(次女):1974年生まれ(9歳没)練馬区立大泉学園緑小学校3年
  • 白石昌子(三女):1976年生まれ(6歳没)練馬区立大泉学園緑小学校1年
  • 白石正利(次男):1981年生まれ(1歳没)

練馬区立大泉学園緑小学5年の長女(当時10歳)は、事件当日は泊りがけで「練馬区立・武石少年自然の家」(長野県上田市武石上本入巣栗)の林間学校に参加していたため、ひとり難を逃れた。

白石家・長女のその後

長女は小学校の林間学校に行っており被害を逃れたが、学校側は林間学校の最中に事件発生を把握していた。

教諭の中には「長女に知らせたほうがいい」という声もあったが、結局は「初めて野外で集団生活を送る貴重な経験なだけに、最後まで楽しい思い出にしてあげたい」として、林間学校が終わるまで事件のことは長女を含め、すべての児童に知らせなかった。

長女は家族のためにお土産を用意し、1983年6月29日に東京へ帰ってきたが、その際に途中で貸し切りバスを下ろされ、母方の伯父宅へ送られた。そして「家族はみんな交通事故で死んだ」と伝えられた。

長女以外の5年生児童123人はバスで校庭に戻り、教頭から「長女の家族全員が凶悪な男に殺されてしまった」と伝えられ、児童・父母・教諭たちからすすり泣く声などが上がった。

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ついに事実を告げられる

1983年7月1日、被害者の白石明さんの兄が住職を務める愛染院で、一家5人の葬儀・告別式が営まれた。その席で、長女は住職の妻(父方の伯母)から「家族は交通事故でなく、事件前によく電話していた不動産屋の男に殺された」と真実を伝えられた。

父方の親類は「読売新聞」の取材に「家族が殺されたことは、いずれ本人も知ることだ。『最後まで伝えないほうがいい』という意見もあったが、親兄弟の葬儀は本人の生涯にとって大切なことだから、真相を知らせた上できちんと参列させた」と説明。ただし、「殺された」という事実だけを伝え、残忍な犯行の内容は伏せたという。

父方の伯父の養女に

長女は葬儀の直後、住職である伯父一家養女として引き取られた。学校もこれまでの大泉学園緑小学校から練馬区立練馬小学校に転校し、1983年7月11日からは事件発生以来約2週間ぶりに登校を開始した。

大泉学園緑小には葬儀翌日(1983年7月2日)から小学生を中心に日本全国から激励の手紙が多数寄せられた。(1983年7月6日時点で100通以上)

「読売新聞」は1985年12月20日東京夕刊で、「伯父夫婦に引き取られたころはひとりで外出することを極端に怖がり沈み込んでいたが、最近は事件のことを口にすることもなく、ようやく明るさを取り戻した」と報道した。

長女のその後に関して、元石神井署巡査部長は2004年に「週刊新潮」の取材に対し「事件後に父方の伯父に引き取られたが、ストレスのため中学入学後から頭髪が白くなった。その後は早く自分の家族を持ちたかったのか、高校・専門学校を経て卒業直後に結婚し、21~22歳に子供を出産した」と証言している。

上告審判決を報道した「毎日新聞」1996年11月15日東京朝刊は、当時23歳の長女について「既に結婚し、1歳5か月になる娘(誕生は1995年6月頃)がいる。長女は同日も『最後の法廷だから』と傍聴を望んだが育児に追われていたため来られなかった」と報道している。

裁判

1983年10月21日、東京地裁で初公判が開かれ、朝倉幸治郎被告は全面的に起訴事実を認め、「大変申し訳ないことをした」と謝罪した。

検察側は冒頭陳述で「朝倉被告は犯行に使用するための車を購入したほか、拠点とするマンションを借りたり、電動ひき肉機など50点におよぶ犯行用の道具を事前に用意していた。このことから、周到な準備の上で計画的に行われた犯行であると認められる」と主張した。

一方で弁護側は「犯行当時の朝倉被告は、心神喪失か心神耗弱だった」と主張、刑事責任能力の有無を争う姿勢を示した。

1984年7月17日の第12回公判で、東京地裁は朝倉被告の精神鑑定を実施することを決定した。そして約11か月後の1985年6月、鑑定にあたった慶應義塾大学医学部教授・保崎秀夫(当時:慶應義塾大学病院長)は、次のような鑑定結果を報告した。

精神鑑定の結果

「朝倉被告は事件当時、緊迫した精神状態にこそあったが精神病的な状態ではなかった。事理を認識・判断した上でそれに従って行動する能力は相当程度障害されていたとは推測できるが、著しく阻害された段階ではなかった」

慶應義塾大学病院長(当時)・保崎秀夫

検察は死刑を求刑

1985年10月18日、検察側は論告求刑公判で朝倉被告に死刑を求刑。その理由として「朝倉被告は『被害者が家の明け渡しに誠意がなかった』と強調しているが、被害者は明け渡し時期を確約していなかった。にもかかわらず、朝倉被告は転売契約をするなど自ら窮地を作った末に、まれに見る凶悪・残虐な犯行におよんだ」と説明。

そして「精神鑑定の結果から、朝倉被告の精神状態に異常は認められず、刑事責任能力に問題はない」と主張した。

そのうえで「幼児を含む子供3人とその両親を惨殺した上に、犯行を隠蔽する目的で遺体を切断するなど、人間性感情の一片も見られない犯行内容に酌量の余地はなく、凶暴な性格は矯正不可能」と指弾した。

1985年11月25日、弁護側による最終弁論が行われて第一審の公判が結審した。

弁護側は「事件当時の朝倉被告は心神耗弱もしくは心神喪失状態だった」と主張した。
また、1980年秋から新制された競売制度について「『素人でも参加できる』をうたい文句に始まったが、実際にはその手続きは複雑で、取引初心者だった朝倉被告はそのリスクを十分に理解できていなかった」と述べて死刑回避を求めた。

朝倉被告の弁護士・西垣道夫は、前年秋に末期癌で「余命数か月」の宣告を受けつつも1985年10月初めの証人尋問まで献身的な弁護活動を続けた。ところが11月初旬に病状が悪化、結審直後の1985年11月30日に42歳で死去した。

西垣は生前、「競売制度に潜む落とし穴がある」として本事件の弁護活動を展開しており、通夜に出席した朝倉被告の妻は「朝日新聞」の取材に対し「西垣先生は夫(朝倉被告)に『できる限りのことをしてやりたい』と弁護してくださった」と西垣への感謝の言葉を述べた。

第一審判決:死刑

1985年12月20日に判決公判が開かれ、東京地裁は朝倉被告に死刑判決を言い渡した。

量刑理由の説明として、「被害者側の態度も事件の原因となったことは否定できないが、その落ち度は『死をもって償わなければならないほど非道なもの』ではない。犯行の動機も煎じ詰めれば朝倉被告自身の経済的利益・社会的保身のためにすぎない自己中心的なものだ」と述べた。

そして裁判長は、「高度な計画性に基づく犯行」と認め、「ひとつの家族がそっくり消失させられた被害は甚大」と指摘、「心神喪失もしくは心神耗弱状態だった」という弁護側の主張は退けた。
さらに「朝倉被告の過去の努力・実直な人柄などを考慮しても、罪科はあまりにも重く、死刑をもって臨むほかない」と指弾した。

弁護側は、量刑不当を理由に東京高等裁判所へ控訴した。

控訴審・上告審:死刑確定

控訴審では「朝倉被告の事件当時の精神状況」が最大の争点となり、弁護側は「犯行当時の朝倉被告は心神喪失状態で責任能力は認められない。少なくとも心神耗弱状態だった」と主張した。

1990年1月23日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁は第一審・死刑判決を支持して朝倉被告の控訴を棄却する判決を言い渡した。

裁判長は、犯行当時の精神状態を「朝倉被告は精神病質者で、明け渡し交渉の過程で妄想的体験・心身症的症状があった」と事実認定した。

その一方で「妄想体験は軽く、犯行を詳細に記憶している点から意識障害も認められない」として、「いずれも犯行動機に影響を及ぼすほどではなかった」と認定、一審同様に朝倉被告の完全責任能力を認めた。

そして「『事件当時、窮迫した心理に追い込まれていたこと』『深く反省していること』などを考慮しても罪の重大さは揺るがず、被害者遺族の処罰感情・社会的影響・結果の重大性などを考えれば極刑を選択することは誠にやむを得ないというべきだ」と結論付けた。

上告棄却で死刑確定

朝倉被告は、控訴審判決を不服として最高裁判所へ上告した。

しかし最高裁は、1996年11月14日に開かれた上告審判決公判で一審・控訴審の死刑判決をいずれも支持して上告を棄却する判決を言い渡したため、朝倉被告の死刑が確定した。

確定後は東京拘置所に収監された朝倉死刑囚だったが、2001年12月27日、死刑が執行された。(享年66歳)

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