マブチモーター社長宅殺人放火事件|刑務所で立てた強盗殺人計画

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小田島鐵男 日本の凶悪事件

マブチモーター社長宅殺人放火事件

2002年8月5日、千葉県松戸市のマブチモーター社長宅で、社長夫人と長女が殺害された。犯人の小田島鐵男守田克実は、その後も「目黒区歯科医師強盗殺人事件」、「我孫子市金券ショップ経営者妻殺害事件」と立て続けに事件を起こし、4か月で4人殺害した。
その後、別件で逮捕された2人だったが、「マブチモーター事件に誘われていた」という男からの情報があり、2人の関与が発覚する。当初、小田島は犯行を否認していたが最終的には認め、裁判で2人に死刑が確定した。

事件データ

犯人1小田島鐡男(当時59歳)判決:死刑
2017年9月17日、食道がんで死亡
犯人2守田克実(当時54歳)判決:死刑
東京拘置所に収監中
犯行種別連続強盗殺人事件
犯行日2002年8月5日、9月24日、11月21日
場所東京都、千葉県
被害者数4人死亡
動機金銭目的
キーワード獄中で犯行計画

一連の連続殺人事件は「警察庁広域重要指定124号事件」に指定されている。

事件の経緯

小田島鐡男守田克実は、宮城刑務所での服役中に知り合った。小田島は「練馬三億円事件」で、守田は新宿でタイ人を殺害して、それぞれ服役していた。

2001年頃2人は出所し、守田は会社に勤めるも交通事故により退職、小田島は60近い年齢ということもあって仕事はなかった。そんな時、アパートで同居していた2人に ”ある計画” が頭をよぎる。

それは、宮城刑務所の服役中に立てた ”資産家宅に押し入って、大金を奪う” という計画だった。更生するための刑務所で、2人は次の犯罪を企てていたのだ。

第1事件:マブチモーター社長宅殺人放火事件

マブチモーター殺人事件・現場
殺害現場となったマブチモーター社長宅(当時

2002年8月5日午後3時頃、小田島鐡男(当時59)と守田克実(当時51)は、一軒の豪邸の前にいた。この家は千葉県松戸市常盤平にある、マブチモーター株式会社の馬渕隆一社長宅であった。

2人は宅配業者を装ってベルを鳴らし、馬渕社長の長女・由香さん(当時40)に1階玄関を開けさせた。
小田島と守田はそのまま家の中に押し入り、由香さんとその母親である馬渕社長の妻・悦子さん(当時66)に対し、刃物を突き付けて脅し、2人の両手首をネクタイのようなものでそれぞれ縛り上げた。さらに、2人の口と由香さんの眼に布粘着テープを貼り付け、抵抗できないようにした。

それから小田島と守田は、家の物色を開始。現金数十万円や、外国製の高級腕時計5個、ダイヤモンドなどの指輪4個、貴金属5点など、時価にして約966万円相当を奪った。

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馬渕社長宅を放火

小田島はその後、2階の馬渕夫妻の寝室で、命乞いをする由香さんの首にネクタイを巻き付けて絞めつけ、窒息死させた。守田は1階の居間で、悦子さんの首をネクタイのようなもので絞めつけ殺害した。

小田島と守田は2人を殺害後、午後3時30分頃には由香さんの遺体がある2階の寝室と、 悦子さんの遺体がある1階居間に混合ガソリンを撒き、それぞれライターで火をつけ放火。火は延べ約170平方メートルを半焼させた。

火をつけると2人は、勝手口から外に出て車で逃走した。その後、小田島は宝石を東京都内の宝石商に偽名で売却した。そして8月20日、小田島と守田はフィリピンに出国した。

マブチモーター株式会社について

千葉県松戸市にある「マブチモーター株式会社」は、小型モーターに特化した会社で、世界シェアの有鉄心モーターで、業界No.1のシェアを持つ電気機器の大手である。
主な製品は工業用モーターだが、ミニ四駆などの玩具用でも知られている。

第2事件:目黒区歯科医師強盗殺人事件

フィリピンから帰国したのは2002年9月頃で、事件からは約1か月経っていた。

馬渕邸の犯行では、期待していたほどの大金を得られなかった。2人は生活費や旅行・女性・パチンコなどに浪費してしまっていた。

帰国して以降、2人は守田のアパートで同居していた。守田は小田島に再度の犯行を提案したが、小田島はいい返事をしなかったため、しばらくは空き巣をくり返して生活していた。
そのうち、”やはり資産家の家に押し入って大金を奪う方がよい” と考え、再び小田島に対し資産家を狙うことを催促するようになった。

小田島は、以前から犯行の標的候補にしていた ”ゲームソフト会社の社長宅” を下見した。しかしこの家は防犯設備が整っていたことから、同宅を狙うことを断念する。その帰り、小田島はふと「歯科医なら金を持っているはず」と考え、職業別電話帳を調べてみた。

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新たな標的

その結果、東京都品川区にある歯科医の広告に目を付けた。小田島はこの歯科医を標的とすることを提案し、守田は承諾した。
この歯科医の院長男性(当時71歳)の自宅は、東京都目黒区黒木町にあり、東急目黒線西小山駅から北に約300mにあることも突き止めた。歯科医院と自宅は、徒歩で約10分ほどの距離だった。

2002年9月19日、2人は目黒区の院長宅周辺を下見した結果、入りやすいと判断し、ここを襲うことを決めた。小田島が立てた具体的な計画は、「診療が終わり帰路につく院長の後をつけ、院長が家に入ったところをナイフで脅して家に侵入。監禁して金を奪った後、前回と同じように家人を皆殺しにして逃走する」という物騒なものだった。

犯行は2002年9月24日に決行とし、2人は使用するナイフや手袋を用意した。

死刑囚 238人最期の言葉

歯科医院長を殺害

当日は守田が運転する車で、まず品川区の歯科医院に行った。少し離れた場所に車を駐車して、歩いて目黒区の院長宅をもう一度下見した。

診療が終わる時間を見計らって歯科医のほうに戻り、院長が出てくるのを待っていた。しかし、いつまで待っても院長は一向に出てこない。もしかすると、すでに帰宅したのかもしれなかった。そのため、小田島が院長宅に向かうことにし、守田は歯科医前に残って小田島からの電話連絡を待つことにした。

午後6時30分頃、小田島が勝手口のドアから院長宅に押し入ったところ、やはり院長は帰宅していた。小田島は院長の左胸を刺し、現金約35万円と指輪1個を強奪。そして、歯科医前で待機していた守田を電話で呼び出した。
到着した守田は、小田島から院長の殺害を指示された。守田は瀕死状態の院長の首を、タオルで絞めつけて殺害した。

院長は妻と内科医の長男との3人暮らしだったが、妻と長男は旅行中だった。院長はこの日、午後7時頃には近くの娘夫婦宅を訪れる約束をしていた。

第3事件:我孫子市金券ショップ経営者妻殺害事件

小田島は、前に訪れたことのある金券ショップの活況ぶりが印象に残っていた。それは東京都千代田区神田の老舗金券ショップで、ここを次の標的にすることを2人で決めた。

2人は2002年11月18日頃に、この金券ショップを下見したところ、防犯設備が充実していて、押し入るのは困難と判断。そこで考えたのが、経営者男性(当時69歳)を拉致して店に連れて行き、鍵を開けさせて押し入るという方法だった。

まずは自宅を探るため、帰宅する経営者男性を尾行し、それが千葉県我孫子市柴崎台の天王台駅近くのマンションであることを突き止めた。拉致の方法としては、「帰宅途中を襲う。それが無理なら家に押し入り、帰宅したところを捕まえる」ということに決めた。

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標的は現れなかった

2人は現場付近を下見し、天王台駅で降りてから経営者男性宅までの間で拉致することにした。犯行前日には、使用する手錠や催涙スプレーを購入し、経営者男性宅に侵入する際は警察官を装うことなどを決めた。現場周辺は空き巣が多く、警察が重点的に警戒していた。

小田島らは2002年11月20日朝、刑事を装うためにスーツを着用し、包丁や催涙スプレーを持ち、守田の運転する車で現場に向かった。

2人は午後7時頃から天王台駅で経営者男性が降りてくるのを待ったが、午後11時を過ぎても姿を見せなかった。仕方がないのでこの日は実行を断念して、翌日警察を装って経営者男性宅に押し入る計画に変更した。
同夜は、高速道路のサービスエリアに車を駐車し、車内で仮眠を取った。

死刑囚の最期~葬られた心編

経営者男性の妻を殺害

翌11月21日、2人は天王台駅から離れた駅の駐車場に車を停め、そこから電車と徒歩で経営者男性宅へ向かった。午後6時10分頃、2人は金券ショップ経営者の部屋を警察を装って訪問した。

応対したのは妻・A子さん(当時65歳)だった。A子さんは夫が経営する会社の役員で、本来なら出社しているはずだったが、数日前から風邪で休んでいた。2人は宅内に押し入るとA子さんの顔を殴り、催涙スプレーを吹き付け、ナイフを突き付けてA子さんを手錠と猿轡さるぐつわで拘束した。

小田島らはA子さんから金品のありかを聞き出し、現金百数万円を強奪。さらに守田は、口封じのためA子さんの首にアース用コードを巻き付け、殺害した。

捜査1:マブチモーター社長宅殺人放火事件

マブチモーター社長宅殺人放火事件
事件のあったマブチモーター社長宅

放火された馬渕社長宅の焼け跡には、ガソリンのような油が撒かれていた形跡があり、遺体の首には紐状のもので絞められた跡も確認できた。これらのことから千葉県警松戸東警察署は、2002年8月6日、放火・殺人事件と断定し捜査本部を設置した。

馬渕家は、社長夫婦長男(当時43)、長女・由香さんの4人家族。当日、馬渕社長は仕事で不在だった。長男は正午~午後1時頃まで昼食のため帰宅していたが、その後仕事で外出していて無事だった。さらに午後2時頃には、社長の弁当を受け取りに、運転手が家に立ち寄ったことがわかり、犯行は午後2時~3時50分の間と判明した。

馬渕家にトラブルなし

マブチモーター本社では、広報宣伝部長・総務部長が会見を行い、馬渕社長について「社長は相手の気持ちを思いやれる人で、社員たちからの信頼も厚い。社内・取引相手を考えてみても、恨みを買うような心当たりはない」と説明した。

実際、過去に馬渕家からは、千葉県警に対しても不審者に狙われているなどの相談は特になかった。また、馬渕夫婦についての周辺の証言では、夫婦は人柄も良く、人間関係上のトラブルは特に見受けられなかった。

死刑囚の記録

動機は不明

捜査本部は現場の状況などから、犯人は殺害目的で馬渕邸に侵入し、犯行に及んだとの見方を強めた。当初、室内に物色の跡は見られず、怨恨を動機とした犯行と見られていたが、2002年8月11日、数百万円相当の貴金属類がなくなっていたことが新たに判明した。

一方で、他の場所に置いてあった現金数十万円貴金属は残されたままで「なぜすべての金品を持ち去らなかったのか」「犯行がすぐ露呈する放火という手段を、なぜ選んだのか」と、捜査員たちを困惑させた。

2002年8月14日までの捜査で、ガソリンの燃料缶は馬渕邸のものではなく、外部から持ち込まれたことが判明。このことから、”ガソリンの入手経路が、犯人割り出しの手掛かりにつながる可能性がある” とみて、捜査を進めた。

犯人は犯行後、台所とガレージを仕切る勝手口の扉を開けてガレージに出たあと、ガレージ脇の扉を開け、外部に逃走した可能性が強いことも判明した。

捜査2:目黒区歯科医師強盗殺人事件

2002年9月24日午後9時頃、歯科医院長が約束の午後7時を過ぎても現れなかったことを不審に思った院長の娘婿が、様子を見に訪ねてきた。娘婿は血まみれで倒れている院長を発見し、110番通報。院長は病院に搬送されたが、間もなく死亡した。

家からは院長の財布もなくなっていて、室内に物色された跡があったことから、警視庁捜査一課は強盗殺人事件と断定し、特別捜査本部を設置した。

不審者情報

近隣住民への聞き込みの結果、事件前日の午後4時~午後5時半頃、院長宅から約30m離れた公園で、「不審な男2人が院長宅をのぞき込んでいた」ことが判明した。また、院長は1階で靴を履いたまま倒れていたことから、帰宅直後に襲われた疑いがあるとみて、”不審な2人組” との関連について調べた。

証言によると、2人組のうち1人は髭を生やしており、40~50歳代の身長約165cm・やせ型の男で、白っぽいジャケットを着ていた。2人組は院長宅前をゆっくりと数回往復しながら、敷地内をのぞき込んでいたという。

遺体を司法解剖した結果、死因は、片刃の刃物で胸を刺されたことによる出血と、首を絞められたことによる窒息の、複合死因だったことが判明した。

捜査3:我孫子市金券ショップ経営者妻殺害事件

2002年11月22日午前1時15分頃、金券ショップの経営者男性が自宅マンションに帰宅したところ、妻・A子さんが倒れているのを発見して110番通報した。

室内は、かなり荒らされており、電気は消え、窓は閉まっていた。A子さんは普段着姿で、首に紐のようなものを巻き付けられて死亡していた。司法解剖の結果、死因は窒息死であることが判明した。

死刑賛成弁護士

物取りによる犯行か?

そのため千葉県警は、A子さんが首を絞められて殺害されたと断定し、捜査本部を設置した。捜査の結果、犯人は室内のあちこちを執拗に物色したことがわかった。これを受けて捜査本部は、物取りによる犯行の線が強まったとして、夫妻の交際関係、金券ショップの顧客について捜査を進めた。

経営者男性は神田で金券ショップを経営するほか、我孫子市内でも数軒のマンションを所有していた資産家だった。前年2001年4月に同市内の一軒家・マンションを売却し、妻のA子さんとともに現場マンションに転居していた。

捜査難航から急展開へ

マブチモーター事件では、捜査が難航していた。口と目に粘着テープを張ったのに手足の拘束はしていない点や、用意周到なわりに現場のネクタイを犯行に使うなど、過去に例のない手口だった。

また、貴金属を盗んでいるかと思えば、他の場所の金品は手付かずだったり、単なる物取りなのか、怨恨かも絞り込めずにいた。

千葉県警は延べ約2万6500人の捜査員を投入し、被害者の関係者など計4825人から事情聴取した。しかし犯人逮捕につながる有力情報は得られなかった。遺留品からも、捜査の突破口になるような有力な情報は出なかった。

事件から2年を迎えた2004年8月3日には、マブチモーター社が「犯人逮捕に結びつく情報提供者に謝礼金1000万円を支払う」ことを発表したが、有力情報がすぐに集まることはなかった。

お悔やみ泥棒で逮捕

一方、犯人の小田島と守田は、2004年3月頃から翌2005年にかけて、群馬県前橋市・高崎市、栃木県・茨城県・埼玉県などで「お悔やみ泥棒」を繰り返していた。

お悔やみ泥棒

お悔やみ泥棒とは、新聞のお悔やみ記事を見て、通夜・葬式で留守の家を狙う手口。2人はこの方法で、空き巣をくり返して合計約数千万円を盗んでいた。

2005年1月20日、小田島(当時61)と守田(当時54)は、死亡した夫の通夜会場に出掛けていた前橋市内の無職の高齢女性宅に侵入し、現金7300万円を盗んだ。ところが、この家は警察が張り込んでおり、2人は現行犯逮捕されてしまう。

これにより、守田は2005年6月30日に懲役2年8か月、小田島は2005年7月13日に懲役4年の実刑判決を受けている。(小田島は控訴)

有力情報が舞い込む

小田島と守田が「お悔やみ泥棒」で逮捕されたのが2005年1月20日。その数か月前の2004年11月のこと。ある有力な情報が警察に舞い込んでくる。

以前2人と同じ宮城刑務所にいたという男性が、「事件と同じような計画を話していた人間を知っている」と、マブチモーター本社に電話してきたのだ。

さらにその1か月後、松戸東署捜査本部に2人の知人を名乗る関西在住の男性から、「小田島から、馬渕宅の強盗に加わるように誘われたが断った」という情報が寄せられた。その男性は「その後、小田島らから『(マブチ事件は)俺たちがやった。一家を皆殺しにした』と聞かされた」と証言した。

捜査本部は犯行動機について「金目当て」「怨恨」の間で揺れ、犯人像さえ絞り込めずに難航していた。しかし、この男性の話は具体的で「家族に見つかったら、殺して火を点けてでも逃げる」と小田島が話したとする証言は、実際の犯行とかなり共通していた

また、小田島は過去に粘着テープを使った強盗・監禁事件(練馬三億円事件)を起こしていたことから、手口にも類似性が見られた。

先に落ちたのは守田

小田島らに関する情報提供を受け、捜査本部は裏付け捜査を開始。その結果、事件2日前と事件当日、2人の車が現場付近を走行していたことを確認する。これを受け、2005年9月中にも2人を事情聴取する方針を固めた。

その後の捜査で、小田島がフィリピン・マニラ市内の知人女性に高級腕時計などの貴金属類を贈っていたことが判明した。さらに、馬渕宅から奪ったダイヤモンドを、東京都内の宝石商に売却した疑いも浮上した。

一連の連続殺人事件は「警察庁広域重要指定124号事件」に指定されている。

警察庁広域重要指定事件完全ファイル

先に落ちたのは守田

松戸東署捜査本部の任意の取り調べに対し、先に落ちたのは守田だった。

2005年10月5日までに、守田は「事件当日、小田島と社長宅に行った」と認め、妻と長女殺害の関与を認める供述をした。そして「強盗に入ったが、妻と長女に見られたので2人を殺し、証拠隠滅のために火を点けた」と容疑を認めた。一方で小田島は「関係ないのでわからない」と一貫して関与を否定した。

2005年10月21日、松戸東署捜査本部は、小田島・守田を強盗殺人現住建造物等放火の容疑で逮捕した。取り調べに対し守田は、「金目当てで小田島と押し入った。以前、刑務所にいたときから、関東近県の資産家宅を狙おうと考えていた」と容疑を認めたが、小田島は変わらず「事件には関係ない」と容疑を否認した。

情報提供者の男性によると「小田島と守田は、別の男性受刑者と3人で ”資産家宅に押し入って金を奪う” 計画について話していた。小田島は他の2人に対し、練馬三億円事件では、証拠を残したので犯行がばれた。今度捕まったら刑務所で死ぬしかない」と話し、証拠隠滅のための放火殺人についても言及していたという。

小田島鐵男の生い立ち

小田島鐵男
小田島鐵男 元死刑囚

小田島鐵男は1943年4月17日、北海道北見市で生まれた。
小田島の出生直前に父親が亡くなったため、祖父の次男として入籍。そのため出生時は畠山姓だった。

1946年秋に北海道紋別群滝上町の祖父母の家に引き取られる。
1947年(4歳の時)、滝の上の実家に里帰りしていた母親が祖母と喧嘩して、小田島を連れて家の裏を流れるサクルー川に入水自殺を図ったが、母の弟に発見され未遂。膝まで川に入った所で彼は母親の手を振り切って逃げた。
喧嘩の原因は「母親が太田という妻子ある男性と交際して妊娠したこと」と小田島は考えている。

1950年4月、7歳の時、滝上小学校に入学したが、年末に愛別町に料理店「新橋」を開店。祖母と母が中心となり、他に中居が3人いて切盛りしていた。ここでは祖母・母親・妹・母の妹の5人で暮らしていた。このため、小学校は8か月で転校した。

死刑囚・小田島鐵男の獄中ブログ

母親に捨てられた過去

1951年(8歳の時)、店を始めて1年くらい経った頃、母親が経営から手を引くことになり、母親と妹は太田(母親の愛人)に連れられて家を出ることになった。祖母と太田の不仲が原因だった。小田島も一緒に連れて行ってもらえると思い、後を追って行ったが、彼は雪の降る「愛別駅」に残され、改札口で泣いた。

この時、小田島の心に ”母親に対する憎悪が芽生えた” とのちに語っている。

当時の同級生によると、この頃の彼の評判はとても良く、まわりの大人からは「頭もいいし偉い人になる」と言われていたそうだ。

1954年小学5年の時、鴻之舞小学校に転入、1956年3月の卒業時の成績は120人中5番、頭のいい子だったという。翌月4月からは、鴻之舞中学校に進学した。
この鴻之舞時代が、人生で唯一、落ち着いた家庭的な日々だったと小田島は語っている。
しかし、この平穏な時代は長くは続かない。

本事件で死刑確定

1959年、16歳の時、空腹に耐えられず食堂の食べ物を盗み、窃盗で補導。紋別の中等少年院に入る。1960年、17歳の時、窃盗を繰り返して不定期刑の実刑判決函館少年刑務所に収容される。
出所後はバーテン、ミシンのセールスなど北海道内を転々とする。その後、寸借詐欺や自動車窃盗で逮捕され、札幌刑務所で3年間服役となった。

1969年、26歳の時、帯広で窃盗と傷害で逮捕。釧路刑務所に服役。以後も同様の犯罪を続け、甲府刑務所、府中刑務所、鹿児島刑務所で服役した。

1990年9月、「練馬三億円事件」の共犯として逮捕される。懲役12年の判決となり、宮城刑務所で11年服役した。この時、守田克美と知り合い、本事件の計画を立てる。

完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録

2002年8月5日、「マブチモーター社長宅殺人放火事件」を起こす。小田島の仮出所からわずか1ヶ月半後の犯行だった。その後、2002年9月24日に東京目黒区で「歯科医強盗殺人」、2002年11月21日に千葉県我孫子市で「金券ショップ社長宅強盗殺人」を起こす。

2004年3月頃から翌2005年にかけて、群馬県などで窃盗をくり返す。このころ、池袋のフィリピンパブで働く女性との間に男の子ができている。(現在は母親ともにフィリピン在住)

2007年3月22日、死刑が確定し、東京拘置所に収監された。
2017年9月16日夜、食道がんのため、収容中の東京拘置所で死亡。享年74歳だった。

守田克実の生い立ち

守田克美
守田克実死刑囚(東京拘置所に収監中)

守田克実は1950年(昭和25年)10月17日、群馬県伊勢崎市生まれ。
守田が5歳の時、両親は離婚した。そのため、彼の子ども時代も幸福に過ごしたとはいえない。高校は中退したものの、働きながら夜間高校を卒業した苦労人でもある。

20代で結婚して子どもをもうけたが、子煩悩だったという。しかし、ギャンブルと女性問題で離婚。ここから彼の人生の歯車が狂い始める。

守田は、1989年4月に殺人事件を起こした。歌舞伎町のバーで売春を強要されていた女性から、「120万円で自由になれる」と相談されたのが事の始まりだった。

守田は、彼女の「使用権」をタイのシンジケートから買ったというタイ人男性と話をつけようとする。場所は東京都新宿区上落合のマンション。彼はこのマンションに出向き、半額の60万円で女性の身請け交渉をした。だが話はこじれてしまい、タイ人男性を電話コードで絞め殺してしまった。

小田島鐡男との出会い

その後、宮城刑務所の服役中に小田島鐡男と知り合う。小田島とは出所後に”資産家を襲う”計画を話していた。出所後2人は同居したが、守田は当初の職場を交通事故で退職。そして「計画」を実行することになった。

本事件の裁判で死刑が確定し、現在は東京拘置所に収監されている。

裁判

マブチモーター社長宅放火殺人事件

守田克実の公判

2006年2月23日 第一審(千葉地裁)初公判

この日は、「マブチモーター事件」についてのみ審理され、追起訴された我孫子・目黒の2事件についての審理は、2006年5月25日の次回公判以降に併合審理することとなった。

検察側は、「過去に殺人で服役していた守田被告は、獄中で『カネが入れば、海外旅行・女遊びなどでバラ色の人生を送れる』と犯行を決意した」ことを主張した。
罪状認否で守田は起訴事実を認めたが、被害者遺族に対し、視線を向けたり頭を下げたりすることはなかった。

2006年10月5日 求刑公判

論告求刑公判が開かれ、検察側は守田に死刑を求刑。「4カ月で4人を殺害するなど、犯罪史上まれに見る、重大かつ凶悪な犯行だ」と主張した。
弁護側は「3事件は、いずれも小田島が計画・主導した」と主張し、酌量を求め、結審した。

2006年12月19日、判決公判

千葉地裁は、検察側の求刑通り守田に死刑判決を言い渡した。

千葉地裁は判決理由で「大金を得て遊んで暮らすため、4か月の間に4人の命を奪った犯行は極めて残虐で、人間性の片鱗もうかがえない。1989年に殺人で服役したにもかかわらず、人の生命を軽んじる犯罪性向が顕著である。矯正の余地を見出すのは困難で、極刑をもって臨むほかない」と犯行を非難した。

弁護人による「事件は小田島が主導しており、守田被告の関与の程度は低い」という主張に対しても、「守田被告は小田島被告に対し、積極的に犯行を働きかけた側面もあり、主従関係はなかった」、「守田被告・小田島被告は、相互に補完し合いつつ犯行を遂行した。その役割に格段の差異はない」とし、死刑回避を求める主張を退けた。

閉廷後、被害者(馬渕社長の妻)の義弟は「守田は死刑を覚悟していた様子だが、反省の様子は見えなかった。自分の所業がいかに異常・残酷かを反省し、人間に近づいてから刑を受けてほしい」と語った。

控訴と上告は棄却

守田は「気持ちを整理するために時間が欲しい」として、2006年12月22日付で、東京高等裁判所に控訴したが、2008年3月3日、東京高裁は控訴を棄却した。

守田は即日上告したが、2011年11月22日、最高裁はこれを棄却し守田の死刑が確定した。
現在は、東京拘置所に収監されている。

小田島鐡男の公判

2006年9月12日 第一審(千葉地裁)初公判

検察側は、「小田島被告人は練馬三億円事件で宮城刑務所に服役した際、獄中で『マブチ事件』を計画し、獄中で知り合った守田被告とともに出所後に下見を重ね、犯行を実行した。3件とも小田島被告が主犯格として、具体的な計画を立てた』」と主張した。

小田島は、供述を拒んだ捜査段階から一転して、罪状認否で「間違いありません」と起訴事実を認めた。

2006年9月21日 第2回公判

証人尋問が行われ、分離公判中だった共犯の守田が検察側の証人として出廷した。

守田は「1990年代半ば、宮城刑務所に服役中に小田島被告から犯行に誘われ、出所後に事件を実行する約束をした」と説明した。小田島が1990年に起こした「練馬三億円事件」についても触れたうえで、「出所後の生活に不安もあったため、小田島の『実績』を信じ、計画に乗った」と語った。

目黒区・我孫子市の両事件について、守田は「マブチ事件で得た金が尽き、自分から、再び資産家を狙おうと催促した」と述べた。

死刑制度と刑罰理論 死刑はなぜ問題なのか

2006年12月21日 求刑公判

検察側は「小田島は真面目に働かず、遊興費などを得るため、一攫千金を狙って資産家宅を襲った」と指摘したうえで、「約4カ月で4人を殺害するなど、犯罪史上稀に見る残虐非道で凶悪な犯行だ。人命軽視・反社会的な性格は究極に達し、矯正は不可能だ」と糾弾し、死刑を求刑した。

弁護人が「目黒区・我孫子市の事件は、守田被告に促されたために犯行に及んだ」と主張していることに対しては、「犯行計画・現場における指示など、犯行に積極的に関与している」と反論した。

2007年2月22日 弁護人の最終弁論

最終弁論で弁護人側は、小田島が幼少期に父親を亡くしたことや、母親に無理心中を迫られたことなどに触れ、「小田島被告は人格形成期から不遇であり、酌量すべき点がある上、矯正の余地もある」と主張し、死刑回避を求めた。

2007年3月22日 判決公判

千葉地裁は求刑通り、小田島に対して死刑判決を言い渡した。

判決理由で裁判長は「人間性の片鱗もうかがえず、反社会的な犯罪性向は根深い」、「更生の場であるはずの獄中で反省を深めなかったどころか、新たな犯行の仲間を募り、企業情報誌を片手に犯行計画を立案した。3件の犯行後も空き巣を繰り返して生計を立て、事件発覚後も否認を続ける一方、週刊誌には犯行を詳述していたことから、改善・矯正の余地を見出すのは困難だ。3事件は、いずれも周到な計画に基づく犯行で自己中心的であり、生命の尊厳にまったく思いを致そうとしておらず、酌量の余地はない」と事実認定し、死刑の量刑選択を理由づけた。

判決が言い渡された時、小田島が傍聴席の被害者遺族らを振り向くことはなかった。

閉廷後、「事件の捜査に協力する会」の会長を務めていた被害者(馬渕社長の妻)の義弟は「死刑はもっともな判決。小田島被告の態度からは反省の様子が微塵も出ていない。小田島被告は本当に反省しているのならば、控訴していたずらに時間を引き延ばさず、判決を受け入れてもらいたい」と語った。

自ら控訴取り下げ

小田島は、判決前には「死刑になって当然のことをした。控訴はしないでほしい」と話していたが、2007年3月28日になって「控訴のことはお任せします」と記した手紙を送った。

これを受け、弁護人は量刑不当を理由として2007年4月4日付で控訴。2007年6月27日、小田島は拘置先の千葉刑務所拘置区から東京拘置所に移送された。

ところが小田島は、2007年11月1日付で小田島自身が控訴を取り下げたため、死刑が確定した。

小田島は弁護人との接見も拒否し、「これ以上、私のことで負担をかけるわけにはいかない」という手紙を送っている。

弁護人は2007年11月6日付で「控訴取り下げを無効とする」ことを東京高裁に申し立てた。しかし東京高裁は翌日付で、「本人は取り下げの意義を十分理解していた」として、本人による控訴取り下げを有効とする決定を出した。

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