「コスモ・リサーチ事件」の概要
1988年1月29日、河村啓三(当時29歳)、末森博也(当時36歳)ら3人は、何の非もない投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の経営者を拉致し、1億円を脅し取ったうえで同社社員1人とともに殺害した。
遺体は貸倉庫内でコンクリート詰めにし、その後、ゴルフ場の造成地に埋めて完全犯罪を狙った。だが、貸倉庫の跡片付けをしなかったことが仇となり、異臭騒動が起きて事件が発覚。3人は逮捕され、河村と末森は最高裁で死刑が確定した。
事件データ
犯人1 | 河村啓三(当時29歳) 死刑:大阪拘置所 2018年12月27日執行(60歳没) |
犯人2 | 末森博也(当時36歳) 死刑:大阪拘置所 2018年12月27日執行(67歳没) |
犯人3 | 尹敬一 無期懲役 |
犯行種別 | 強盗殺人事件 |
殺害日 | 1988年1月29日 |
犯行場所 | 大阪府、京都府 |
被害者数 | 2人死亡 |
動機 | 金銭目的 |
事件の経緯
山口組系暴力団幹部・河村啓三(当時29)と投資顧問業・末森博也(当時36)、暴力団顧問・尹敬一の3人は、投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の実質的な経営者・見学和雄さん(43)から金を奪おうと計画した。
見学さんはバブル黎明期に、大阪で多い時で1000億円を動かす派手な仕手を手がけたため、「30年に1度の相場師」と呼ばれていた。見学さんとは、末森が株の売買でつき合いがあった。
事の発端は、末森が「コスモ・リサーチは5億、10億の現金を定期的に東京から大阪まで新幹線で運んでいる。この金は裏金で、奪っても警察には通報しない」と河村に持ち掛けたことだった。この話に暴力団顧問の尹敬一が加わり、犯行グループが形成された。
1988年1月29日、河村ら犯行グループは、末森の知人で「コスモ・リサーチ」社員の渡辺裕之さん(当時23)を退社直後に車に乗せ、マンションの一室に引き込んだ。そして見学さんの自宅(大阪府豊中市)を聞き出すと、翌朝その自宅前で見学さんの帰りを待ち、外出先から帰宅したところを脅して拉致した。
見学さんをマンションに連れ込むと両手・両足をビニール紐で縛って自由を奪い、所持していた現金40万円を強取したうえで、現金1億円を調達するように要求した。
脅された見学さんは、知人のビルオーナーに「株の取引で必要になった」と1億円を用意してもらい、自分の運転手に大阪市内のファミリーレストランの駐車場まで運ばせた。運転手には「キーを付けたまま帰れ」と命じ、運転手が帰ったあと、河村らは現金を奪った。
1億円は河村と末森が3500万円ずつ、尹敬一が3000万円を受け取った。その後、3人は見学さんを解放したら報復されると懸念し、殺害を決意する。河村らは見学さんの首にテレビの同軸ケーブルを二重に巻き付け、代わる代わる30分ほど引っ張って絞殺。続けて社員の渡辺さんも同様に殺害した。
2月2日、尹敬一名義で借りた東大阪市の貸倉庫内で、河村と尹は遺体をコンクリート詰めにし、購入した箪笥に隠した。
貸倉庫から腐臭が…
その後、尹敬一は自ら暴力団を興して組長となるが、6月19日に暴力事件を起こし、さらに6月22日には逮捕監禁事件を起こして7月4日に逮捕された。尹が逮捕されたことで河村は警察の捜査の手が伸びるのを恐れ、実家が土木建築業を営む知人と共謀して、遺体を別の場所に運ぶことにした。
この知人は後日、死体遺棄容疑で逮捕されている。
7月17日夜から2日がかりで、遺体を倉庫の中からユニック(クレーン付きトラック)で1体ずつ引きずり出して積み込んだ。しかし、1体目はタンスが壊れて腐汁がしみ出し、2体目はコンクリートが途中で割れ、人の形が付いた約100㎏のコンクリート片は運べずに倉庫内に放棄する結果となった。
それから奈良県のゴルフ場の造成地まで運び、バックホウで穴を掘って遺体を埋めた。その後、河村は数日かけて倉庫内の臭いを取り、コンクリート塊を粉々にしようとしたが、どちらも果たせず、釈放された尹に残りの片づけを依頼するも、尹は生返事ばかりで何もしなかった。
当時、末森の投資顧問会社は経営が行き詰まっていたため、河村は分け前のうち約2000万円を末森に使いこまれていた。そのため2人は共謀して8月24日、25日と、別の証券会社から1億4千万円相当の株券を騙し取り、29日に現金化した。この金で河村はマンションを借りて末森をかくまったが、末森は9月1日に詐欺容疑で指名手配された。
9月3日、「貸倉庫から腐臭がする」と近隣住民から通報があった。警察が調べたところ、血痕がついたシート、セメントをこねた跡や台座などがみつかり、これらは事件性を疑わせるに充分なものだった。このことから、倉庫の借り主である尹敬一の名前が浮上することとなったが、尹・末森・河村の3人はすでに逃亡していた。
だが9月22日、末森が詐欺容疑で逮捕される。29日には尹敬一が暴力容疑で逮捕となった。追及された尹は、殺人・死体遺棄を自供。河村も10月6日、詐欺容疑で逮捕された。
10月18日、自供した山林から白骨化した遺体が発見され、翌日3人は強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕された。
大阪で「北浜の御三家」と呼ばれた見学和雄さん、仕手集団コスモポリタンを率いた池田保次さん、不動産会社・日本土地の木本一馬さんの3人は、いずれも不幸に見舞われている。
見学さんが1988年1月に殺され、8月に池田さんが失踪、10月には木本さんの日本土地が倒産。木本さんは3年後に豊中市の自宅で自殺している。そして、池田さんは現在も行方不明である。
河村啓三について
河村啓三は、1958年9月3日大阪市西成区生まれ。5歳の時、可愛がってくれた叔父が27歳で刺殺される。不良となった河村は夜の街で働きはじめ、その後、悪徳ぶりが社会問題化していたサラ金業界に入った。やがて山口組系暴力団組長から盃を貰うようになった。
1988年1月29日に本事件を起こした。
1995年3月23日、大阪地裁で死刑判決。
1999年3月5日、大阪高裁で控訴棄却・死刑判決。
2004年9月13日、最高裁で上告棄却・死刑確定。
死刑判決が出たあと、河村は遺族に手紙を書き続けている。そして、見学さんの遺族からついに返信を貰った際は、声を立てて泣いたという。河村は月に1度、教誨師に来て貰って被害者の霊を弔っていた。
河村啓三の獄中活動
死刑確定後は大阪拘置所に収監されていたが、2005年10月8日に手記『こんな僕でも生きてていいの』が死刑廃止のための大道寺幸子基金の第1回表現展優秀作品に選ばれる。この手記は、2006年4月1日にインパクト出版会より書籍として出版された。
その後も河村死刑囚は、『生きる 大阪拘置所・死刑囚房から』『落伍者』の2冊の本を出版している。(なお、河村は養子縁組をして「岡本」姓になっているが、混乱を避けるため本記事では「河村」姓で統一している)
『こんな僕でも生きてていいの』(2006年)
『生きる 大阪拘置所・死刑囚房から』(2009年)
『落伍者』(2012年)
また、執筆活動以外にも、上記のような絵を描いたり、写経したものを発表している。時期は手記を書き始めた頃と同じ2005年~2006年である。作品の内容から ”後悔” や ”謝罪” の念が強く感じられる。
「極限芸術 ー死刑囚は描くー」より
2018年に死刑執行
そんな河村死刑囚だが、2018年12月27日、共犯の末森博也死刑囚(67歳没)とともに大阪拘置所にて死刑が執行された。(60歳没)
2018年はオウム真理教関連の死刑囚13人が執行された年で、河村・末森死刑囚を合わせると合計15人の死刑執行が執り行われた。
河村・末森は死刑確定
検察側は、1994年11月14日の論告で「面識のない人物を標的に一獲千金を狙った計画的、悪質な犯行。殺害方法なども冷酷、残忍で厳罰に処すべき」と厳しく指弾した。検察側は河村被告が主犯としたものの、末森被告に対しては「分け前は河村被告と同額。犯罪の重要な役割を担当しており、量刑上、格段の差はない」と述べた。
弁護側は「3被告の殺害の共謀は現金強奪後で、強盗殺人罪ではなく刑の軽い強盗と殺人の二罪に該当する」と主張していた。
しかし1995年3月23日、大阪地裁が下した判決は、河村・末森の両被告に死刑というものだった。裁判長は「末森被告や尹敬一被告は、河村被告の提案を受け入れ『殺害やむなし』と考えるなど、暗黙の共謀が成立したとするのが相当」と、この主張を退け、「事案の重大性にかんがみると、自らの生命で罪をあがなうほかない」と判断した。
河村・末森両被告は「殺害の共謀は現金強奪後で、強盗殺人罪でなく刑の軽い強盗と殺人の併合罪が適用されるべき」として控訴し、死刑の違憲性を訴えた。
1999年3月5日、大阪高裁は一審の死刑判決を支持し、控訴は棄却された。
裁判長は「犯行前から殺害計画を立てていたことは明らかで、被告らの供述は信用できない。捜査段階の供述など各証拠から、一審の強盗殺人罪の認定は正当で、疑いを差し挟む余地はない」と指弾。「『すぐ帰してやる』と嘘をつき、首を長時間絞めるなど残忍・冷酷な犯行。人の命を奪ったことは重大で、強奪金額も莫大」と述べた。
河村・末森両被告は上告していたが、2004年9月13日、最高裁はこれを棄却。2被告の死刑が確定した。裁判長は「多額の現金獲得をもくろんだ計画的犯行で、冷酷・非情・残忍だ」と指摘。「両被告とも犯行に積極的に関与して重要な役割を果たしており、(一審・二審が)死刑とした判断を是認せざるを得ない」と述べた。
尹敬一被告は、求刑通り一審で無期懲役の判決だった。尹被告は控訴しなかったため、無期懲役が確定した。