富士銀行行員顧客殺人事件
1998年7月2日、当時は大手都市銀行だった富士銀行(現・みずほ銀行)の行員が、顧客を殺害するという衝撃的な事件が発生した。
犯人は岡藤輝光(当時31歳)、バブル入社組のひとりだった。彼は銀行の融資を受けられない運送業者に泣きつかれ、ある高齢夫婦の定期預金を騙して解約させ、それを運送業者に不正に貸し付けた。しかし運送業者は返済できず、「これが発覚すれば解雇される」と焦った岡藤は夫婦を殺害、あっけなく逮捕となった。
被害者は夫婦ともに障害者で、夫は全盲だった。裁判では死刑が求刑されたが、無期懲役が確定した。
事件データ
犯人 | 岡藤輝光(当時31歳) |
犯行種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 1998年7月2日 |
場所 | 埼玉県宮代町 |
被害者数 | 2人死亡 |
判決 | 無期懲役 |
動機 | 不正貸付の発覚を防ぐため |
キーワード | 銀行員、バブル |
富士銀行行員顧客殺人事件の経緯
福田次郎さん(74歳)と妻のツネさん(67歳)はバブル景気の1988年、東京都台東区の自宅を売り払い約1億円を手にした。夫婦はこの金で、埼玉県宮代町に40坪の家を購入。台東区の家は13坪と狭かったので、長男一家と同居することを見据えてのことだった。
次郎さんは少年時代から視力に問題があり、このころはすでに全盲、ツネさんも背骨に障害があった。しかし夫婦仲は良く、やがて長男の家族も同居するようになると、以前にも増して幸せな暮らしが始まった。ところが1992年に長男一家が仙台への転勤が決まると、それからは元の寂しい夫婦2人の生活となった。
次郎さんは家を購入後、残った金を富士銀行・春日部支店に預けて以降、富士銀行との取引が10年も続いていた。当時の担当行員は次郎さんの「指圧院」の客になり、担当を外れてからも週末ごとにマッサージに訪れたり、買い物やパチンコに連れて行ってくれるなど親身に接してくれた。
この担当のあとを引き継いだのが、岡藤輝光(当時31歳)であった。1996年4月に春日部支店に転勤してくると、8月から福田夫婦の担当となった。
彼はバブル時代の大量採用の波に乗って入社した、いわゆる ”バブル社員”。大学ではラグビー部に所属するスポーツマンで、「まじめでよく頑張るが、不器用な性格」だったという。
危険な融資
岡藤は1997年秋、春日部市内のある運送業者から融資を依頼される。ところがこの会社は、銀行で規定された「融資の基準」を満たしていなかった。バブルはすでに崩壊後で、”貸し渋り” が始まっていたのだ。
泣きついてくる運送業者だったが、正規の融資は会社の許可が出ないため不可能だった。そこで岡藤が取ったのは ”浮き貸し” という裏技的な方法。これは、「ある顧客の預金を、別の顧客に貸す」という、不正な方法だった。これは出資法により禁止された、れっきとした違法行為なのだ。
岡藤が選んだのは、福田夫婦の預金だった。1998年1月、岡藤は福田夫婦に「特別な定期預金がある」と偽ってそれまでの定期預金を解約させ、2500万円を運送業者に貸し付けた。
浮き貸しのメリット
・正規の融資対象にならない顧客を引き留めることができる
・数パーセントの手数料を銀行員の懐に入れられる
浮き貸しのデメリット
・発覚すれば懲戒解雇となる
実は、岡藤が浮き貸しに手を染めるのは、これが初めてではなかった。1996年にも新規取引先として営業をかけた土建屋に対して3000万円を不正に融資し、この時は約束通り返済された。そして ”資金源” として利用したのが、やはり福田夫妻の定期預金だった。
滞る返済
福田夫婦は、岡藤に勧められて契約した ”特別な定期預金” が運用されている形跡もないことから、6月26日に解約と返金をしてくれるよう迫った。岡藤は仕方がないので、自分の名刺の裏に「7月2日に定期預金の一部、1500万円を返金する」と書いて夫婦に手渡した。この日程にしたのは、6月30日に運送業者から2500万円が返済されることになっていたからである。
ところが、運送業者は融資した2500万円の返済ができなかった。融資対象にもならず泣きついてくるような業者に、やはり返済能力はなかったのだ。
それでも、時間があれば丸く収めるチャンスはあったかもしれない。しかし、岡藤にとって不運だったのは7月1日に辞令があり、7月10日付けで本店融資部への異動が決まったことだった。これは栄転だったが、福田夫婦の件が銀行に発覚すればこの話は流れるどころか懲戒解雇も免れない。そして自分が春日部支店を離れたら、この不正が露見するのは時間の問題だった。実際、妻のツネさんは、1500万円もの大金の借用書が、”名刺の裏書き” であることを不審に思い、富士銀行に問い合わせをしていた。
岡藤は追い詰められていった。そしてこの ”人生最大のピンチ” を切り抜けるために、彼は最悪の方法を決意する。
ビニールヒモで絞殺
1998年7月2日、この日は福田夫婦に約束した「返済の日」だった。
午前10時頃、営業車で銀行を出た岡藤は、途中で荷造り用のビニールヒモを購入して姫宮駅前で車を駐車。そして、そこから徒歩5分の福田夫婦宅に向かった。家に着いたのは午前11時30分頃だった。
岡藤は夫婦に転勤が決まったことを報告し、妻のツネさんに「最後の親孝行と思って肩をもませて下さい」と声をかけた。岡藤は疑う様子もないツネさんの背後にまわり、肩をもむふりをして首にビニールヒモをかけて力を込めた。次郎さんは不穏な空気に気付いたが、どうすることも出来ずうろたえた。岡藤はツネさんの死亡を確認すると、無情にも目の見えない次郎さんに襲い掛かり絞殺した。
岡藤が気になっていたのは ”返済日を裏書きした名刺” だった。いずれ事件が発覚した時、この名刺が出てくれば ”自分が来たことが疑われる” と考えたのだ。彼は必死になって名刺を探し、みつけると偽装工作をしてその場から逃走した。
岡藤は逃走の際、証拠隠滅のためガスの元栓を開けて放火しようとしたが、安全装置が作動して失敗。そのため、強盗の犯行に見せかけようと室内を荒らした。
岡藤は福田夫婦の家を離れると何食わぬ顔で業務に戻り、異動に伴う引き継ぎ作業なども淡々とこなした。事件の発覚は、7月4日土曜日の午前9時。発見したのは週末ごとに次郎さんのマッサージを受けに来る、岡藤の前任の親切な富士銀行行員だった。
岡藤が逮捕されたのは、その4日後である。警察は早い段階から岡藤を重要参考人として目をつけていた。7月8日に事情聴取を受けた岡藤は、「隠し通すことはできない」と観念して犯行を自供、強盗殺人罪で逮捕となった。
逮捕前、岡藤は妻に「もし、俺が刑務所に入るようなことになったら、どうする?」と、それとなく離婚の意志を確かめたという。
富士銀行は、自社の社員が顧客を殺害するという、前代未聞の不祥事の責任を取って、会長以下16人に3ヶ月減俸、春日部支店長の降格などの処分を行った。また、被害者遺族には賠償金約5000万円を支払っている。
岡藤輝光の生い立ち
岡藤輝光は1966年7月17日、福岡県福岡市で出生した。父親は小さな運送会社で働き、母親は酒屋を営んでいた。中学時代はバスケット部に所属し、母親の店(当時はまだ雑貨屋だった)の手伝いもよくした。3人兄弟の長男で、妹と弟がいる。
高校は進学校の県立筑紫高校に入学。県内でも有数の強豪ラグビー部に入部して活躍した。その甲斐あって、大学はラグビーの推薦枠で福岡大学・体育学部に進学し、3年の時にはレギュラーの座を獲得した。
岡藤の体格は身長175㎝、体重80kg。ポジションのフロントローにしては小さいため、それをカバーするための努力を欠かさなかった。みんながサボっていても手を抜かなかった。性格は穏やかで、ラフプレーなどもしなかったという。
バブル大量入社で富士銀行へ
大学卒業の1989年4月、富士銀行(現・みずほ銀行)に入社。それまでの大手都市銀行は、福岡大学クラスではまず採用されなかったが、バブル大量入社組の一人として採用されたのだ。
融資担当として東京・竹の塚支店、門司支店、北九州支店と回ったのち、1996年4月に春日部支店に異動して渉外担当となった。
春日部支店勤務になる直前の1996年2月、学生時代から交際していた女性と結婚。同年12月に長男が生まれ、2年後の1998年11月には次男が誕生している。
そして8月からは福田夫婦の担当になり、事件を起こしたのは約2年後の1998年7月2日。当時は埼玉県草加市の富士銀行・家族寮に住んでいた。
本来融資できない ”運送業者” から泣きつかれた岡藤は、福田夫婦の預金を不正流用したために、その発覚を恐れて夫婦を殺害した。
父親が小規模の運送業で苦労しているのを見て育った岡藤は、バブル崩壊に喘ぐ運送業者の涙ながらの頼みを断り切れなかったのだといわれている。
裁判では死刑を求刑されたが、無期懲役が確定。現在は服役中の身である。
被害者・福田次郎、ツネ夫妻の生い立ち
1939年(昭和14年)、福田次郎さんが14歳の時、家族と九州から東京都台東区入谷に引っ越してきた。父親が政治活動で全財産を使い果たしてしまい、人生をやり直すために上京してきたのだった。
言問通りにムシロを広げての古道具屋を始め、次郎さんもよく手伝った。
次郎さんは当時から視力が弱く、医者から大人になったら失明するといわれていた。そのため、将来を考えて「マッサージ師」の技術を身につけた。
妻のツネさんは、新潟県六日町の出身。家は貧しく、1943年(昭和18年)、12歳の時に埼玉県秩父の製紙工場で働くようになった。
その後、台東区下谷に住む叔母を頼って上京。自立するため、洋裁の技術を身につけた。ツネさんの腕は相当のもので、固定客を多くかかえるほどの人気だった。
同じ台東区に住む2人は、人を介して知り合い、結婚に至った。13坪の小さな家に住む夫婦だったが、バブル景気で坪800万円で土地が売れた。約1億円を手にすることになった夫婦は、長男一家との同居を見据えて埼玉県宮代町に家を買って移り住んだ。
裁判で無期懲役
第一審で検察側は、死刑を求刑していた。
1999年9月29日、判決公判で浦和地裁は無期懲役を言い渡す。2000年12月20日の控訴審判決でも、東京高裁はこれを支持。検察側が上告しなかったため、無期懲役が確定した。
死刑にならなかった理由として、「富士銀行が多額の賠償金を支払った」こと、犯行の理由が「追い詰められた末の行動で、私利私欲の強盗殺人ではなかった」ことがあげられた。
岡藤は公判で、犯行当時の心境を「スポーツもできて大学まで進んだ自分は、家族の誇りだった。それを裏切りたくなかった」と語っている。
殺害された福田夫婦の長男は「犯人に同じ恐怖を味わわせて殺してやりたい。どうしてまじめに一生懸命働いてきた両親が殺されなければならないのか」と行き場のない怒りを語っている。
また、富士銀行に対しても「ああいう人間を採用した富士銀行にも大きな責任がある。絶対許せません」と非難した。
バブルが引き起こした事件
この事件はバブル景気が引き起こした事件ともいわれている。
- 岡藤はバブル景気の大量採用がなければ、富士銀行に入社していない
- 台東区の土地がバブル景気で1億円になり、埼玉県宮代町に家を買えた
- バブル崩壊で銀行の貸し渋りが横行し、岡藤は浮き貸しをする羽目になった
この3つの運命が最悪の形でリンクして事件は起きた。返す当てもないのに融資に泣きついた運送業者も、罪には問われないが責任はあるかもしれない。