「福岡・赤池町保険金殺人事件」の概要
1990年12月28日、福岡県田川郡赤池町の総合運動公園駐車場で、全焼した車の中から無理心中とみられる男女2人の遺体がみつかった。しかし、遺体には刺された痕があり、さらに女性には1億円の保険金がかけられていたことから、警察は保険金殺人と断定。女性が勤務する会社の経営者・小田義勝(当時42歳)と雇われ社長の益田千栄(当時20歳)が逮捕された。
犠牲になった2人に面識はなく、男性はテレフォンクラブを通じて益田に呼び出されていた。主犯の小田は裁判で死刑が確定、従犯の益田は無期懲役だった。
事件データ
主犯 | 小田義勝(当時42歳):死刑 2007年4月27日執行(59歳没) |
共犯 | 益田千栄(当時20歳) 無期懲役 |
犯行種別 | 保険金殺人事件 |
犯行日 | 1990年12月25日、26日 |
犯行場所 | 福岡県田川郡赤池町 |
被害者数 | 2人死亡 |
動機 | 保険金目的 |
キーワード | 偽装殺人 |
事件の経緯
1990年12月28日、福岡県田川郡赤池町の総合運動公園駐車場に、全焼した車が放置されているのがみつかった。そして、その車内からは無職の白石健さん(当時27)と北九州市の宝石店従業員・蔭西生代さん(当時20)の遺体が確認された。
2人には刺し傷があり、蔭西さんには抵抗した跡があった。また、白石さんの筆跡の遺書らしきものがダッシュボードにあったため、当初は無理心中を図ったものとして処理された。
しかし、いざ捜査を始めてみると、蔭西さんに1億円の保険金がかけられていたことが判明し、心中を装った保険金殺人との疑いが濃厚となる。保険金の受取人は、蔭西さんの勤務先の社長だったため、警察は社長である益田千栄(当時20)を重要参考人として取り調べることにした。
益田は ”宝石店の社長” という肩書であったが、実際は雇われているに過ぎなかった。さらに、会社は特に取引実績もないペーパーカンパニーだった。会社を興したのは小田義勝(当時42)で、定職に就かずに犯罪で金を稼ぎ、何度も刑務所に出入りしているような男だった。
保険金殺人の計画
1990年10月、会社を設立した小田は、従業員募集に応募してきた益田を社長に据え、社名も「マスダ宝石」とした。ある時、益田は小田に呼び出され、競艇場に行くなどしたうえで肉体関係を持ち、やがて2人は同棲するようになった。
小田に惚れた益田は、小田に言われるがまま ”ある計画” に手を貸すことになる。それは、若者2人を犠牲にした保険金殺人だった。その内容は、「従業員に多額の保険金をかけて殺害し、テレクラでみつけた男を犯人に仕立てる」という悪質なものだった。
テレクラはテレフォンクラブの略称で、男性が見知らぬ女性と電話での会話を楽しむ店のことである。男性は店の個室で待機し、女性は自宅や公衆電話から店に電話をかける。店側はそれを待機する男性に繋げることで料金が発生する。テレフォンセックスに発展する場合もあり、交渉次第では店外デートも可能で、女子高生の援助交際にも使われた。テレクラは1985年頃に始まり、インターネットの出現により衰退した。
小田は同年3月頃、自宅に火災保険をかけて放火し、数百万円の保険金を騙し取っていた。その金で美術店の経営を始め、友人と共謀して女性従業員3人をターゲットにした保険金殺人を計画。社員旅行中に殺害することまで決めていたが、怖くなった友人が逃げたために犯行を断念していた。
マスダ宝石の従業員募集に応募した蔭西さんは、採用されるとすぐに災害死亡時1億円の保険に加入させられた。受取人は社長の益田だった。
クリスマスに決行
1990年12月25日、クリスマスのこの日を小田は決行日として選んだ。益田はテレクラに電話して通話相手となった白石健さん(当時27)に外で会うことを提案して誘い出し、北九州市の「マスダ宝石店」で待たせた。その間に、益田は蔭西さんを電話で呼び出し、益田の軽乗用車に乗せて赤池駅付近に向かった。宝石店にいる白石さんは小田が連れ出し、白石さんの乗用車で赤池駅付近に向かった。
このようにして4人は赤池駅付近で落ち合い、ドライブと称して走行しながら小田は殺害場所を物色した。その後、福岡県田川市の山中で、小田が蔭西さんの頭部をバットのような物で殴打し、さらに果物ナイフで刺殺した。
白石さんは、自分の車で現場から立ち去った。ところが、小田と益田が蔭西さんの遺体を軽乗用車に乗せて宝石店に戻ったところ、白石さんが店に現れた。小田と益田は再び白石さんを連れ出し、川崎町安真木の山中に向かった。そして、山道に止めた白石さんの乗用車内で、小田は包丁を突き付けて白石さんを脅し、用意した紙に文章を書かせた。
文面は「セックスがしたくて女を誘ったら バカにされたのでやってしまった。許してください」というもので、遺書を偽装するものだった。書き終えると、店から持ってきた包丁で白石さんを刺殺。蔭西さんと白石さんの遺体は、赤池町の総合運動公園に運んだ。小田は無理心中を装うため、白石さんの車に2人の遺体を乗せた状態でガソリンをかけて車を燃やした。
2人は逃亡生活へ
その後、遺体が発見される12月28日までの数日間、2人は何食わぬ顔で過ごし、益田は怪しまれないように蔭西さんの弔問にも訪れていた。益田は遺族に対し「犯人はみつかりましたか?」と尋ねたという。
当初、無理心中と思われたこの事件は、蔭西さんに1億円の保険金がかけられていたことがわかると、保険金殺人として捜査されることになった。そして、保険をかけた側である小田と益田に嫌疑がかけられたことから、2人は東京へ逃亡する。
東京では、小田が空き巣などの窃盗を、益田はテレクラを利用した売春で生活費を稼いだ。2人は南浦和駅の構内で待ち合わせるのが常だったが、小田は益田に「もし自分が来なかったら、ひとりで逃げろ」と指示していた。
12月29日、小田は東京都内で親族に「2人を殺してしまった」と告白している。
福岡県警は「無理心中を装った保険金目殺人」と断定し、1991年1月31日には福岡の地元新聞が「保険金殺人として捜査開始」の記事を出した。1991年10月11日、県警は小田と益田を殺人容疑で指名手配した。
逃亡3年目に小田が逮捕
逃亡生活も3年目となった1993年のある日、ついに待ち合わせに小田が現れなくなった。益田は何日も待ち続けていたが、小田は11月5日、埼玉県浦和市(現さいたま市)で強盗に失敗したことから現行犯逮捕されていたのだ。
このことを報道で知った益田は、これまで通り売春を続けながらの逃亡生活をふとりで続けるしかなかった。
一方、強盗で捕まった小田だが、1994年2月19日、福岡県警が赤池町の保険金殺人でも逮捕したが、小田が黙秘を続けたため立証できなかった。3月13日、福岡地検は小田を証拠不十分で処分保留とし、身柄を浦和に戻した。
小田は3月30日、逮捕のきっかけとなった強盗致傷事件で、懲役3年8月の実刑判決を浦和地裁で受け、確定した。
詳細不明のまま起訴、そして死刑に
福岡県警は1996年1月下旬、小田が収監中の甲府刑務所で別の受刑者に「2人を殺した。今度は無期か死刑やろ」と打ち明けたことや、小田が犯行を認めて逃走資金を無心する手紙を父親に送り付けていたこと、「心中に見せかけ、2人をやった」と打ち明けられたとする元義母らの証言をつかんだ。
1996年2月20日、福岡県警は小田の親族らによる「犯行を告白された」という調書を新証拠として、服役中の小田を再逮捕した。しかし福岡地裁が再拘置を認めず、福岡地検の準抗告も2月24日に棄却された。そのため、福岡地検は十分な取り調べができないまま、2月28日に小田を起訴した。
この時点で詳細な殺害方法、殺害場所、益田との役割分担など、多くの部分が不明なままで、さらに益田の行方についても小田が口を割ることはなく、益田に捜査の手がおよぶことはなかった。
2000年3月15日、小田は福岡地裁の第一審判決で、死刑を言い渡される。弁護側が控訴したが、3月30日に小田が自らこれを取り下げたため死刑が確定することとなった。
主犯の小田は、犯行の詳細を語らないまま死刑が確定したが、依然として共犯の益田の行方は知れなかった。1996年に小田の公判が始まった頃は、検察も ”小田に殺害された” 可能性も含めて、益田の生存を疑問視しており「所在が判明する見込みは極めて乏しい」としていた。
益田が自ら警察に出頭
しかし、小田が死刑確定した翌月となる2000年4月29日、行方の知れなかった益田が福岡県警・田川警察署に出頭してきたのだ。益田は福岡県警により、ついに逮捕となった。犯行から実に9年が経っていた。
益田は出頭する前に実家の前まで来たものの、結局は家族に会うことをあきらめ、電話に「長い間ご迷惑かけてすみません。今から出頭します」というメッセージを残したのち出頭した。
取り調べで、益田は「(小田の)死刑判決を知って自殺しようかと迷った」との心情を明かしたが、思い直して出頭を決めたという。小田が多くを語らなかったのに反して、益田は犯行の詳細を供述したため、事件の全容が明らかになった。
益田は小田が逮捕される直前まで行動を共にし、その後は東京、神奈川、埼玉の風俗店で働くなど、各地を転々としていたという。公判において益田は起訴事実を全面的に認め、2002年6月27日、福岡地裁で求刑通り無期懲役を言い渡された。
益田は控訴しなかったため、そのまま無期懲役が確定した。
犯人について
小田義勝が行きつけにしていた店の女性は、「(小田は)とても紳士で男らしくて顔もいい。優しくて思いやりがあった」と話すなど、店の客としての小田は ”非の打ちどころのない男性” と思われていた。だが、実際は定職も持たずに窃盗などの犯罪で金を稼ぎ、何度も刑務所に出入りしていた。
最後は「福岡で大きな仕事をする」と言うので、激励したという。
福岡地裁で死刑判決を受けて控訴していたが、2000年3月30日に自ら取り下げたため死刑が確定。2007年4月27日に執行された。(59歳没)
高校時代の益田千栄を知る女性は、益田について「あまり目立たない、陰にいるような存在だった」と話した。大人しかったはずの益田は、小田の会社の従業員に応募したばかりに、人生を大きく狂わされた。
20歳という若さで社長に据えられ、やがて小田と肉体関係を持ったことで惚れてしまい、凶悪な事件に加担した。2002年6月27日に無期懲役の判決を受け、控訴しなかったため確定。現在も服役中である。
裁判
1996年5月17日、福岡地裁で初公判が開かれ、小田義勝被告は黙秘権行使の姿勢を示し、弁護人は意見を留保した。
7月19日の第2回公判で、検察側は「自宅に放火して火災保険を手に入れたことから安易に大金を得ることを覚え、今回の犯行に至った」と動機を指摘。また、新たな状況証拠も明らかにした。
- 犯行後、親類に細かな犯行状況を告白していた
- 強盗致傷で服役中、同房者に犯行を打ち明けていた
- 被害女性の遺体に巻かれていたタオルが、火災時に町から贈られたものと同じ
弁護側は、「犯行状況の細かな内容はほとんどない。自宅の火災を放火と決めつけるなど、乱暴な組み立て。ストーリーも出来すぎている」と厳しく批判。物的証拠も自白も何もないことから、無罪を主張した。
12月14日の第23回公判で、小田被告の元義母の証人尋問が行われた際、「(元義母が)犯行の告白を受けた」との調書の証拠採用に同意した。
1999年3月17日の第25回公判の被告人質問で、小田被告は起訴事実について、これまでの黙秘から一転して「殺したことは認める」と述べ、起訴事実の核心部分を認めた。さらに動機が保険金目当てであり、心中を偽装したことについても認めた。ただし、殺害の日時・場所など具体的なことについては「答えたくない」とした。
指名手配中の共犯者・益田千栄容疑者との共謀関係については供述を拒んだものの、「(益田は)生きている」と述べた。小田被告は、今になって犯行を認めた理由について「(自分で)結論を出そうと思った」と話した。
5月17日の公判で、小田被告は殺害方法などを初めて具体的に供述した。これは検察側の立証と異なる内容で、検察側は「小田と益田が共謀し、白石さん(男性)、蔭西さん(女性)の順で果物ナイフで刺殺した」と主張していたが、小田被告は順序が逆であると述べた。また、1人目殺害のあと柄が折れたので、2人目は別の包丁を使ったことも明かした。
求刑通り死刑の判決
12月13日の論告求刑で、検察側は「冷酷、非情で矯正も望めず、極刑を選択するほかない」として死刑を求刑した。12月27日の最終弁論で、弁護側は「共犯者は行方不明で真相究明は不十分。小田被告は罪の深さを認識しており、極刑がやむを得ないという場合には当たらず、死刑は相当ではない」と主張して結審した。
2000年3月15日の判決公判で、福岡地裁は小田被告に死刑を言い渡した。裁判長は「犯行を主導していて、動機にも酌量の余地はない。冷酷非情であり、遺族も極刑を望んでいる」と指摘、「反省も認められず、矯正は極めて困難。自己の生命をもって罪を償うほかない」と理由を述べた。ただし、小田被告と益田容疑者の役割分担などの詳細や、被害者2人の殺害場所さえ特定できなかった。
判決後、小田被告は「この場で上訴権を放棄できますか」と質問したが、裁判長は弁護人と相談するようにと言い残して退廷した。
小田被告は弁護人にも控訴しない意思を伝えたが、弁護人は量刑不当として3月27日に控訴。だが、小田被告は「早く決着を付けたい」と3月30日に控訴を取り下げ、小田被告の死刑が確定した。
益田千栄の裁判
事件後、益田千栄は小田とともに東京で逃亡生活をしていたが、小田が強盗で逮捕されて以降は、東京、神奈川、埼玉の風俗店で働くなどして、各地を転々としていた。だが、小田が益田についてほとんど何も語らなかったこともあり、行方は知れなかった。
そのため、福岡地検は小田に殺害された可能性があるとみて、身元不明の変死体を照合するなどしていた。1996年に福岡地裁に提出した資料でも、「所在が判明する見込みは極めて乏しい」と報告していた。
しかし、益田容疑者は小田被告の死刑が確定したあとの2000年4月29日午後9時過ぎ、福岡県田川署に出頭した。益田は逮捕され、その後、殺人罪で起訴されている。
無期懲役が確定
益田被告は初公判で起訴事実を全面的に認めた。また、公判では益田被告の供述により、初めて事件の全容が明らかになった。
2002年1月28日午前、福岡地裁で益田被告の論告求刑公判が開かれ、検察側は「2人の命を奪った責任は重いが、主導的役割を果たしたとまでは言えない」として無期懲役を求刑。2002年6月27日、福岡地裁は求刑通り無期懲役を言い渡した。益田被告が控訴しなかったため、そのまま確定となった。