リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件|整形して2年7カ月の逃亡劇

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市橋達也/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件 日本の凶悪事件

「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」の概要

駅前で偶然見かけた英国人女性に半ば強引に英会話の個人レッスンを引き受けてもらった市橋達也(当時28歳)。2007年3月25日、喫茶店内での初レッスン終了後、代金を忘れたからと自宅マンションまで付いてきてもらい、部屋に入った途端に押し倒して強姦。そのまま半日以上も監禁したあと殺害した。

翌日、事情を聞きに来た警察官たちの隙を見て逃走。捕まりたくない一心で整形をくり返し、沖縄の離島でのサバイバル生活や、関西で肉体労働で稼ぐなどして、2年7カ月もの間、逃亡生活を続けた。最後は大阪から沖縄に渡るフェリーの待合室で逮捕。裁判で無期懲役が確定した。

事件データ

犯人市橋達也(当時28歳)
犯行種別殺人事件
犯行日2007年3月26日
場所千葉県市川市福栄2丁目
被害者数1人死亡
判決無期懲役:長野刑務所
動機監禁中に騒がれたから
キーワード整形手術、逃亡生活

事件の経緯

殺害されたリンゼイ・アン・ホーカーさん/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
被害者のリンゼイ・アン・ホーカーさん

医者の両親を持つ市橋達也(当時28歳)は、医学部を目指すも4浪してしまい、最終的に千葉大学・園芸学部緑地環境学科に入学した。大学では植物や公園のデザイン・建築について学び、2005年3月に卒業となったが、就職せずに海外の大学院への進学を目指した。

2007年3月20日夜、市橋は千葉県市川市の東京メトロ「行徳」駅前で英会話スクール「NOVA」の講師・リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)をみかけた。市橋はリンゼイさんのあとをつけて行き、リンゼイさんが下車したJR「西船橋」駅(船橋市)の改札前広場で、「英会話の講師になってほしい」と声をかけた。リンゼイさんはとりあわず、自転車で走り去ろうとしたが、市橋はリンゼイさんのマンションまで走って付いて行った。

リンゼイさんについて

リンゼイさんは2006年10月、イギリスの大学で知り合った友人と日本で英会話教師をするため来日。知的好奇心が強く、日本でも多くの人と知り合っていろんな知識を吸収したいと考えていた。リンゼイさんは日本のことが気に入り、1年間の予定だった滞在の延長も希望していた。イギリスに戻ったら、小学校の教師になるのが夢だったという。

英会話の個人レッスンを約束

市橋達也が描いたリンゼイさんの似顔絵/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

マンションに着くと、市橋は息を切らしながら「水を飲ませてほしい」というので、かわいそうに思ったリンゼイさんは、部屋に入れてあげることにした。部屋にはルームメイトもいるし、何よりリンゼイさんは「日本は安全」と考えていたのだ。市橋は部屋に通されるとリンゼイさんの似顔絵を描き、その紙に自分の名前と連絡先を書いて渡した。

その際、リンゼイさんのメールアドレスも聞き出した市橋は、それから何度かメールのやり取りをして、1回3500円で英会話の個人レッスンの約束を取り付けた。

喫茶店に入る市橋達也とリンゼイさん/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
喫茶店の防犯カメラに映る市橋達也とリンゼイさん

3月25日午前8時56分頃、市橋とリンゼイさんは英会話レッスンを行うために東京メトロ「行徳」駅前の喫茶店に入店。店内で約50分のレッスンを行ったが、市橋が「レッスン料を自宅に忘れてきた」と明かしたため、2人はタクシーで千葉県市川市の市橋の自宅マンションに向かった。

市橋の自宅で強姦

市橋達也のマンション/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
市橋達也が住んでいたマンション

午前9時54分、マンションに到着。2人して部屋に入ると、市橋はいきなりリンゼイさんの後方から抱きついた。とっさのことに驚いたリンゼイさんはこれを拒絶。だが、市橋は押しリンゼイさん倒し、あおむけに倒れて抵抗する彼女をなおも押さえつけて着衣をはぎ取った。

それから市橋は抵抗を封じるため、リンゼイさんの手首・足首に結束バンドをはめたうえでリンゼイさんを強姦。その後、我に返った市橋は、寝室からテンピュールのマットレスを持ってきて、廊下で横たわるリンゼイさんの下に敷いた。

リンゼイさんは恐怖のあまり失禁していた。市橋は体を洗うためリンゼイさんを浴室に連れて行こうとしたが、「私を殺すつもり!?」と抵抗されたので、抱きかかえて和室に運んだ。そして浴室から浴槽を外して和室に運び入れ、その中にリンゼイさんを入れた。その際、市橋は手首の結束バンドを切って自分のパーカーをリンゼイさんに着せ、それから再び結束バンドをはめた。

市橋は、リンゼイさんと友好的な関係を作って許してもらおうと考えたが、話しているうちにカッとなり、リンゼイさんの顔を2回殴った。その後、リンゼイさんも自身の家族のことや、将来はたくさん子供が欲しいといった夢を話し、「今なら、まだ取り返しがつく」と説得を試みた。しかし、市橋はリンゼイさんを解放することなく、そのまま眠ってしまった。

リンゼイさんには、イギリスに結婚を約束した男性がいた。また、市橋にも交際している女性がいた。

リンゼイさんを絞殺

リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

日付けが変わった26日午前0時38分、市橋は交際中の女性が部屋に来ることを恐れ、女性にメールを送った。メールを送信すると、市橋はしばらく眠ってしまった。

メールの文面

「達也です。電話くれた? これから1週間ぐらい部屋にこもって勉強します。〇〇には悪いけど、1週間電話を取らない。でも信じてください。メールは構わないです。ではでは」

深夜2時頃、市橋が目を覚ましてふと浴槽のリンゼイさんに目をやると、手首の結束バンドが外れているのに気付いた。リンゼイさんは、とっさに市橋の左こめかみを殴りつけ、その勢いで倒れた浴槽から這い出て、大声を出しながら逃げようとした

この事態に「声が外に漏れるとマズイ」と思った市橋は、左手でリンゼイさんの口を覆うも声を止められず、体ごとリンゼイさんに覆いかぶさった。

しばらくそうしていると、リンゼイさんは抵抗をやめて静かになった。リンゼイさんの首に回した市橋の腕が、気道を押さえつけていたのだ。仰向けに起こした時、リンゼイさんはすでに息をしておらず、あわてて人工呼吸や心臓マッサージをするも、リンゼイさんが息を吹き返すことはなかった。

遺体を浴槽ごとベランダへ

市橋達也のマンションのベランダに置かれたリンゼイさんの遺体が入ったバスタブ
遺体を入れた浴槽

翌26日、午後2時頃に目覚めた市橋は、ホームセンターに行って赤玉土56リットル・園芸土50リットル・シャベル1個・発酵促進脱臭剤2個・脱臭剤2個・苗木1本を購入。帰宅すると遺体の入った浴槽をベランダに出し、買ってきた土などを遺体にかぶせた。

一方、リンゼイさんのルームメイトの女性は、前日からリンゼイさんが帰らないうえに連絡もつかないことから千葉県警船橋警察署に相談した。警察官がリンゼイさん宅を捜索すると、市橋が描いたリンゼイさんの似顔絵がみつかったため、これに書かれていた連絡先を手がかりに市橋の家に向かった。

午後9時40分頃、市橋のマンションに生活安全課と刑事課の署員数人が到着。市橋はスポーツジムに行くため部屋を出たところを捜査員らに囲まれた。市橋はマンションの廊下で応対していたが、捜査員が部屋に入ろうとした時、隙を見て非常階段を駆け下りてマンション裏手に逃走。非常階段にも捜査員が配置されていたが、取り逃がす結果となってしまった。

そして午後10時頃、市橋の部屋のベランダに置かれた浴槽から、全裸で土に埋められたリンゼイさんの遺体が発見された。市橋は逃走後、しばらく近隣の住宅地の物陰に潜んでおり、一度は捜査員に発見されている。その際、捜査員に羽交い絞めにされるも、その手を振りほどいて再度の逃走に成功した。

翌27日、県警は警察犬を投入して追跡を行ったところ、東京メトロ「行徳」駅付近で匂いが途絶えているのが確認された。さらに駅付近では、市橋が履いていた靴下を発見した。その後、市橋は死体遺棄容疑で指名手配された。

自分で顔を整形

市橋達也の指名手配ポスター/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

着の身着のまま逃げ出した市橋の所持金は約5万円、逃走中にゴミ捨て場からサンダルと上着を入手した。市橋は逃走したその日のうちに、放置自転車や電車を使って秋葉原まで移動。途中、上野のコンビニで裁縫道具を購入し、東京大学医学部附属病院の障害者用トイレで鼻を細くするため、糸のついた針を鼻の左右に突き通し、鼻をチャーシューのように巻いた。

捜査本部は当初100人体制で捜査を開始したが、のちに150人に増員、手配ポスターも3万枚作成された。公的懸賞金制度を適用して上限100万円の捜査特別報奨金を設定したが、最終的には1000万円まで引き上げられている。

リンゼイさんの家族はイギリスから何度も来日し、記者会見を開いたり駅前でビラ配りするなどして情報提供を求めた。こうした活動はその都度テレビ報道され、事件の風化を防ぐ効果があった。

2008年3月13日、捜査本部は、市橋達也が茶髪で眼鏡をかけた姿と女装姿の2つのイメージ画像を掲載した手配ポスターを新たに公開し、A3版を約4000枚掲示するとともに、A4判チラシ約3万枚をホテルや駅などで配布した。

逃走劇の始まり

市橋達也が潜伏生活を送った沖縄・久米島のオーハ島/
沖縄・久米島のオーハ島

一方、市橋は無賃乗車をくり返し、埼玉・群馬・茨城などの北関東周辺を渡り歩いた。その後、静岡県の熱海・駿河湾付近まで南下したのち、青森県に潜伏することを決めた。しかし、青森駅前公園で1週間ほど野宿した結果、体感的に青森での逃亡生活は無理だと考え大阪へ。このころ、市橋は厚い下唇を薄くしようと自らハサミで下唇を切り取る手術をしている。

大阪では職を得るため西成区の公共職業安定所を訪れたが、自分の手配写真を見つけてしまい、すぐに四国へ移動。四国では「お遍路」のふりで、香川県高松市から徒歩で徳島県・高知県・愛媛県と歩いた。しかし、ここでも道中のあちこちに手配写真が貼られているのを見て、無人島での生活を考えるようになった。

高知の図書館で無人島について調べた結果、沖縄県・久米島のオーハ島での潜伏生活を決意。松山港からフェリーで別府港に渡り、鹿児島県を経て沖縄に移動した。しかし、オーハ島では準備不足から1週間ほどで挫折してしまい、金を稼ぐため偽名を使って沖縄本島の建設現場で働いた。

ある程度の資金ができると、市橋は本などでサバイバル生活の知識を得て、再度のオーハ島生活を試みた。オーハ島では魚や蛇・ヤシガニを食べたり、野菜を栽培するなどし、飲料水は奥武島まで泳いで渡り、1週間分の飲料水をペットボトルに詰めて持ち帰った。オーハ島は海水浴やダイビングスポットとして人気があるが、当時の住人は70歳代の男性1人だけだった。

働くためホクロを切除

市橋達也の2つのホクロ/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
特徴ある2つのホクロを切除

市橋は働いて金を稼ぐため関西方面に行くことにしたが、身バレしないように3度目のセルフ整形をしている。この時は、指名手配ポスターにも記載されている「左頬の2つのホクロ」をカッターナイフで切り落とした。

2008年2月28日、市橋は大阪市西成区のあいりん地区で、働き手募集のために来ていた神戸市北区の建設会社に「雇ってほしい」と声をかけて雇ってもらった。その際、契約書には氏名を「井上康介(イノウエコウスケ)」、年齢は32歳と書き、会社寮の3畳半の部屋に住み込んで働くことになった。日当1万円、寮費は1日3千円、これまでの野宿生活に比べれば申し分なかった。

市橋は午前5時頃に起きて現場に行き、午後8時頃に寮に戻ってきていた。休日は部屋でテレビを見たり、会社の飼い犬と遊んでいた。近所のインターネットカフェに行ったり、コンビニで立ち読みしたりすることもあった。同僚には千葉県出身と話し、「旅行に行きたいから」と節約していたという。

ここでの仕事は4ヶ月間続けたが、市橋は6月26日を最後に寮から姿を消す。このころテレビで「市橋の行方を超能力で探す」という番組が放送され、それが職場でも話題になったことで危機感を持ったのだ。

その後、8月19日から翌2009年10月10日までの1年2か月間、大阪府茨木市内の建設会社で同じ偽名を使って働いた。市橋は仕事ぶりがまじめで、休みの日も仕事をしたがったという。だが2009年10月8日、市橋は上司に「1、2日休ませてほしい」と申し出て、給料を受け取ったあとの10月11日朝、荷物を置いて出かけたまま戻らなかった。

美容形成外科からの通報

市橋達也の足取り/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

大阪で建設作業員として働いたあと、市橋はマンガ喫茶のパソコンで ”身分証なしで整形手術を受けられる病院” を探し、2009年10月23日・24日、名古屋の美容形成外科で、鼻を高く小鼻を小さくする手術を受けた。その際、約60万円の手術代は現金で払い、術後の調整のために31日に予約を入れていたが、リスクを考えてその日は病院に行かなかった。

市橋は10月13日に福岡の形成外科を訪れていたが、予約なしの手術ができないと言われ、10日後に系列の名古屋の病院を訪れた。

手術を行った翌月11月5日、鼻の手術を担当した名古屋の美容形成外科が、患者のカルテを整理していて市橋の写真に気になる点をみつけた。それは、プロの仕事とは思えない杜撰なホクロ除去のあとだった。

さらにじっくり写真を見たところ、ホクロのあった場所がさかんに報道されている ”市橋達也” と同じであることを確認し、病院のスタッフが警察に通報した。来院時の市橋はすでに整形していたため、病院では市橋であることに気付かなかったという。

市橋達也・整形前と整形後/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
市橋達也(整形前と整形後)

通報を受けた県警は骨格などから市橋と断定し、これまでの指名手配写真から病院が提供した整形後の写真に差し替えて公開した。市橋は一重だったまぶたが二重に、鼻は高く下唇は薄くなっていた。

手術後の新たな指名手配写真の報道を見て、市橋が住込みで働いていた大阪府茨木市の建設会社も、市橋だったことに気が付いて通報した。この会社は、あいりん地区に出向いて求職者をその場で雇用する方式のため、やはり逃亡犯の市橋だと気付いていなかった。

足取りが次々と暴かれる報道を、市橋自身も福岡のホテルなどで見ていた。市橋はこうなった以上、再び沖縄・久米島のオーハ島に潜伏するのが安全と考えて鹿児島まで移動したが、警察の警備を恐れて神戸出発のフェリーで移動することにした。

市橋はこの過程で警察官の職務質問を受けているが、うまくやり過ごすことに成功している。

2年7カ月の逃走に終止符

大阪南港フェリーターミナル/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

2009年11月10日午後1時40分頃、市橋は神戸から沖縄行き航路に搭乗するため、タクシーで神戸市東灘区の六甲船客ターミナル(六甲アイランド内)にやってきたが、この日の沖縄便は欠航だった。その際、従業員から夜に出発する大阪南港発の沖縄行き便を案内され、市橋は乗ってきたタクシーに再び乗り込んだ。

従業員は応対しながら、ニット帽で顔を隠すなどの不審な様子や手配写真で見た ”鼻の傷” に気付き、市橋かもしれないと思い大阪南港担当者に報告した。

午後3時、市橋は大阪南港フェリーターミナルに到着。夜10時の出航まで7時間もあるが、市橋は2階の待合室のベンチに座って時間が来るのを待っていた。この時の市橋は帽子を被り、顔にはサングラスとマスクという、いかにも怪しい雰囲気。報告を受けていたフェリー会社の職員は、しばし観察した結果、市橋であると確信し、午後6時45分頃、警察に通報した。

ついに逮捕

市橋達也が座っていたベンチ/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
市橋達也が座っていた椅子

これを受け、警察が大阪南港フェリーターミナルに駆け付けた。そして待合室のベンチで寝ている市橋に声をかけ、職務質問を始めた。市橋は逃げようともせず、しばらくやり取りしたのち自分が市橋達也であることを認めた。この時、市橋は現金約31万円をペンケースに入れて身につけていたほか、ショルダーバッグに拳銃型の催涙スプレー2個や推理小説の文庫本を所持していた。

こうして身柄を確保された市橋は、移送された大阪府住之江警察署において逮捕、その後、東海道新幹線を経由して千葉県行徳警察署に移送された。

市橋が到着した東京駅は一時騒然となった。市橋が逮捕された2009年11月10日は、俳優の森繁久彌逝去の報道と重なったこともあり、夜のニュース番組の視聴率は軒並み20%を超えた。

市橋の両親の記者会見

市橋達也の両親の記者会見/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
記者会見する市橋達也の両親

市橋の逮捕を受け、両親が岐阜県羽島市で記者会見し、「逮捕は償いの一歩かもしれない。これからは本人が真実を話して罪を償うことだ」と淡々とした表情で話した。逃走のための金銭援助については、強く否定した。

両親は大雨の中、詰め掛けた報道陣に約30分間対応。外科医の父親は「息子にかける言葉はない。亡くなった命は戻ってこない」と厳しい表情で語り、歯科医の母親は「私にとっては優しい息子だった」、「捕まえてもらってありがたかった」と話した。

父親は「これ以上逃げても悲しみが増えるばかり。逮捕を望んでいた」と述べたうえで、「自身で警察に出頭する道を取ってほしかったが、息子にはそれができなかった」と悔しそうな表情を見せた。また、「あくまで息子はかわいいと思っているが、罪を犯せば償いをするのは社会の常識だ」と突き放す発言もあった。

リンゼイさん家族の記者会見

リンゼイさんの家族/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
リンゼイさん家族の記者会見

市橋が逮捕されたことを受け、リンゼイさんの父親・ウィリアムさん(当時56)、母親・ジュリアさん(当時52)ら家族4人が、イギリスのブランドンの自宅前で記者会見し「長い戦いが終わった。今夜、リンゼイの墓に行って報告したい」と話した。

自宅前には、日本・イギリス合わせて約50人の報道陣が詰め掛けた。リンゼイさんの写真を手にしたウィリアムさんは「ついに正義を手に入れた」、「逮捕を聞いた時、体が震えた」と何度も目頭をぬぐった。

また、「悪魔(犯人)の目を確かめたい。要請があり次第、日本に向かう」と述べ、さらに「日本の警察の捜査は失敗で始まったが、休みなく働いてくれた。すべての人に感謝したい」と語った。今後始まる裁判については、「最も重い刑を望む」と強調し、ジュリアさんも「これ以上、(私たち)家族を拷問のような苦しみにさらさないよう、罪を認めてほしい」と述べた。

ジュリアさんはリンゼイさんについて「素晴らしい女性だった。日本での生活が大好きだった」と話して娘をしのんだ。姉のルイーズさん(当時23)は、市橋が整形手術を受けてまで逃亡を続けたことについて「本当にひどいことだ」と述べた。

取り調べに黙秘

市橋達也/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

市橋は11月10日の逮捕以降、千葉県警・行徳署捜査本部や千葉地検の取り調べに黙秘を続けていた。

捜査本部は、指名手配中から市橋を「プロファイリング」していて、市橋の性格について「イメージにこだわり、自分が強く優れているといった自己意識を持つ」「社会的に未熟な半面、表面的な対人能力がある」などと分析していた。

この分析結果に基づき、市橋の性格に精通した捜査官が取り調べを担当した。しかし、市橋は始終うつむき、逮捕直後こそ家族について少し話したのみで、事件については何も話さず雑談にも応じなかった。また、市橋はお茶を飲むだけで食事に手を付けず、公開された整形手術後の写真よりもやつれていった。

だが、次第にリンゼイさんの死に関与したことをほのめかす供述を始め、弁護士にも経緯を説明するようになった。市橋は供述を始める前、ノートに「黙ったままでいた方が罪が軽くなるのか」と書いて取り調べ官に見せたという。

市橋達也の生い立ち

市橋達也/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

市橋達也は1979年1月5日、岐阜県羽島市で生まれた。父親は外科医、母親も歯科医というエリートの両親のもとで、経済的にも恵まれた環境で育った。小学生時代は勉強も運動もでき、近所の人からも良い子と言われていた。基本的には大人しいが、キレやすい性格で「怖い」と感じる同級生もいた。

中学校時代も勉強のできる優等生で、生徒会役員やバスケットボール部の副キャプテンを務めるなど活発な生徒だった。卒業後は、地元の岐阜県立羽島北高校の国立大学理系学部志望のクラスに進学した。

高校でも勉強・スポーツともに優秀で、陸上部所属だったこともあり、学年で一番足が速かった。次第に何でも1番じゃないと気が済まない性格が目立ち、常に人の上に立ちたがるようになった。その背景には、両親が医者ということも関係している。

そんな市橋だが、大学入試において大きな挫折を経験する。市橋は医学部の受験に失敗し、東京の予備校に通うことになった。だが次の年も合格できず、199年、横浜国立大学の夜間部に通い出すも中退。最終的には2001年から千葉大学・園芸学部緑地環境学科に入学した。

市橋は殺害現場となった両親所有の3DKマンションに住みながら、植物や公園のデザイン、建築について学び、空手部に所属した。2005年3月の卒業後は、就職せずに海外の大学院への進学を目指すも試験に合格せず、父親からは月12万円の仕送りを停止すると通告されていた。

空手部の顧問は、市橋について「おとなしくて目立たない学生でしたが、まじめでした。練習も道場の掃除も、ほとんどさぼったことがないですよ。それが殺人なんて、まさかの思いでした」と話している。

個人レッスン初日に殺害

3月20日、市橋は千葉県船橋市のJR「西船橋」駅の改札前広場で、英会話スクール「NOVA」の講師・リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)に声をかけ、その後、彼女のマンションまで押しかけてメールアドレスを聞いた。そして数回メール交換をしたのち、1回3500円で英会話の個人レッスンの約束を取り付けた。

そのレッスン初日の3月25日、「レッスン代を忘れてきた」と言ってリンゼイさんを自宅まで連れて行き、そして凶行におよんだ。整形をくり返しながら2年7カ月の逃亡の末、大阪南港のフェリーターミナルで逮捕。裁判で無期懲役が確定した。

逃亡中は沖縄・久米島のオーハ島でサバイバル生活をしたり、神戸や大阪で寮に住み込んで建設作業などに従事した。仕事ぶりはまじめで礼儀正しく、メガネや髭で見た目をごまかしてはいたが、必要以上に顔を隠すなどの素振りはなかったという。

ボーリング大会に参加した時の市橋達也/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件
ボーリングに参加した時の市橋達也

積極的に同僚と交流することはなかったが、一度だけ誘われてボーリングに参加したことがある。その際の集合写真では、一番後ろの列に並び、前列の人に隠れるようにしていた。

現在は長野刑務所にて服役中である。

市橋達也の前歴

市橋は26歳の時、行徳駅前のマンガ喫茶店内で大阪市天王寺区の男性会社員(当時26)のズボンの後ろポケットから落ちた財布を持って店から出ようとした。しかし男性に気付かれたため、市橋は財布を投げ捨て逃げようとするも、男性と店員によって取り押さえられた。

その際、もみ合いになり、取り押さえようとした人が階段から落ちて怪我を負っている。市橋は駆け付けた警察官に逮捕され、身柄を拘留された。この時は両親が数百万の慰謝料を支払い、示談にしてくれたおかげで14日間で釈放、不起訴となった。

市橋は拘留されている間、出された食事はすべてトイレに流し、断食していたという。

裁判

2011年7月4日、千葉地裁にて市橋達也被告の裁判員裁判の初公判が開かれた。千葉地裁にはこの日、57席の傍聴券を求めて975人が列を作り、事件に対する世間の関心の高さを物語っていた。

裁判には被害者のリンゼイさんの父親・ウイリアムさんと母親のジュリアさんも参加した。ウィリアムさんは、入廷後いきなり土下座した市橋被告に、中指を突き立てるしぐさをして怒りをあらわにした。

裁判の争点は「殺意があったかどうか」である。検察側は「強姦時に殺意を持って手で首を圧迫した」と主張、弁護側は「大声をあげようとしたリンゼイさんを黙らせようとして、誤って首を絞めた。殺意はなかった」として、傷害致死が相当と主張した。

市橋被告はリンゼイさんへの強姦・殺害・死体遺棄は認めていたが、殺意については否定した。

第3回公判では被告人質問が行われた。”レッスン料を家に忘れてきた” ことについて、検察側は「リンゼイさんを家に招き入れるための口実」だとしているが、市橋被告は「前の晩に恋人と明け方まで一緒で、寝坊して慌てたので忘れた」と答えた。

その言葉の信憑性として、市橋被告はタクシーで自宅マンションに着いた時、運転手に「5、6分待って」と頼んだが断られたこと、さらに「5、6分経ったら来てほしい」と言ったが、運転手に「必要なら電話してくれ」と言われたことを説明。あくまで「タクシーにリンゼイさんを待たせている間に、金を取ってくるつもりだった」と主張した。

交際女性に「1週間会えない」とメールを送ったことについては、「1週間の間にリンゼイさんと人間関係を作って、(強姦を)許してもらうつもりだった」と述べた。

無期懲役が確定

2011年7月12日に論告求刑公判が行われ、検察側は市橋被告に無期懲役を求刑。その理由として、「犯行は5分前後も首を絞め自己中心的で残虐。逃走を企て全国を逃げ回り、沖縄の離島に長期間潜伏しようとするなど、市橋被告の行為には情状酌量の余地はなく、許されるものではない」と説明した。

2011年7月21日の判決公判で、千葉地裁は市橋被告に求刑通り無期懲役を言い渡した。裁判の最大の争点である「殺意の有無」については、「法医学の鑑定などから3分以上圧迫されたと考えるのが自然。被告には動機があり、犯行後も119番通報しておらず、殺意があったと認められる」と判断。「リンゼイさんの死亡時、自分の腕がどの位置だったか記憶がない」という市橋被告の供述は、信用性がないと退けられた。

また、裁判長は ”強姦致死罪の成立” については認めず、強姦罪にあたるとしたものの、「犯行は悪質で、動機は身勝手極まりない」と非難した。

被害者の父親・ウイリアムさんは、報道陣に「正義が下されるまで4年半がかかりましたが、今日それが実現しました」と言葉少なに語った。

2012年4月11日、東京高裁で控訴審の判決公判が開かれた。争点は一審に続き、殺意の有無であった。判決で裁判長は「リンゼイさんは気道を塞がれ、首の軟骨まで折れており、市橋被告は意識的に力を入れて絞め付けたと認められる」と殺意を認定。殺人罪ではなく傷害致死罪の適用を求めた弁護側主張を退け、一審の無期懲役判決を支持して被告側控訴を棄却した。

裁判長は「犯行を隠蔽するため残忍な行為に及んでおり、無期懲役が重すぎるとは言えない」と述べた。2年7カ月余りの逃亡生活をまとめた手記の印税での被害弁償の申し出についても「被告は周到に自己の刑事責任を軽減しようとしている」と指摘。「事件と向き合わず、真摯な悔恨の情をうかがうことはできない」と非難した。

市橋被告は、上告を勧める恩師(千葉大学時代の空手同好会顧問)に「本当のことを言っても誰も信用してくれない」と話し、その通りに上告を断念したため無期懲役が確定した。

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