石巻3人殺傷事件
2010年2月10日、宮城県石巻市で18歳の少年・千葉祐太郎による殺人事件が起きた。
彼は、自分から離れていった交際相手の少女を取り戻そうと、少女の実家に侵入。家にいた少女の姉と友人を殺害したのだ。祐太郎は気に入らないことがあると暴力をふるうような男で、少女はそれまでに何度もひどいDVを受けて実家に逃げていた。
この事件は、少年事件であるにもかかわらず、あまりの凶悪さに祐太郎には死刑判決が下された。これは議論を呼ぶことになったが、少年犯罪に対する厳罰化の波を、世間に知らしめた事件でもあった。
また、少年事件としては、裁判員裁判で初の死刑確定であった。
事件データ
犯人 | 千葉祐太郎(逮捕時18歳) |
犯行種別 | 殺傷事件 |
犯行日 | 2010年2月10日 |
犯行場所 | 宮城県石巻市 |
被害者数 | 2人死亡 |
判決 | 死刑:仙台拘置支所に収監 |
動機 | 同居少女を連れ戻そうとした |
キーワード | 少年犯罪 |
事件の経緯
千葉祐太郎(当時17歳)と沙耶さん(当時17歳)は、2008年8月頃に交際をはじめた。
祐太郎は、気に入らないことがあると暴力を振るうような男だった。そして、それは沙耶さんにも向けられ、付き合って2週間ほどでDVが始まった。沙耶さんは、殴る蹴るのほかにタバコの火を押し付けられたり、入れ墨を無理やり入れられたりした。
ある日、沙耶さんの妊娠が発覚するが、彼女の家族は出産に反対する。そのため、2人は東京に駆け落ち。最初の3日間はネットカフェに泊まったが、4日目に節約のためコインランドリーに泊まっているところを補導され、連れ戻されてしまう。
その後、沙耶さんは周囲の反対を押し切り出産、2009年10月に長女が誕生した。しばらくは子どもと3人で暮らしていたが、祐太郎のDVは治まらなかった。そのうち沙耶さんの気持ちに変化が訪れる。彼女は娘にも虐待の矛先が向かうことを危惧しはじめていた。
沙耶さんは暴力から逃れるため、娘を連れて実家に帰ることが多くなった。祐太郎はその度に実家へ押しかけ、強引に連れ戻そうとした。危険を感じた家族は、警察に通報するようになり、その回数は10回を超えていた。祐太郎は、警察から「母子に近づかないように」という警告を何度も受けたが、彼はそれを無視した。
鬼畜男の凄まじいDV
いつしか沙耶さんの気持ちは、祐太郎から離れてしまっていた。そして彼女は2010年の元旦、浮気をしてしまう。それは祐太郎の知るところとなり、彼は当然のごとく激怒した。
2010年2月4日昼頃、祐太郎は祖母宅で沙耶さんの浮気を責め、いきなり拳で肩を10回連続で殴った。それから、沙耶さんを正座させ、模造刀で太ももや背中を中心に約20回、振り下ろすようにして殴り付けた。そしてさらに彼女を立たせ、左太もも内側の付け根にタバコの火を2回押し付けた。
浮気に対する制裁は、それで終わらなかった。翌5日昼頃には、タバコの火を沙耶さんの額に押し付けたうえ、素手で暴行を加えた。鞘の付いた模造刀で背中を殴り、鞘が折れると今度は模造刀の抜き身で腕やももを殴り、脇腹を刃先で突いた。さらに、鉄棒でも沙耶さんの腕などを殴った。殴られた回数は約20回、それはまるで拷問だった。
これだけ痛めつけても、祐太郎の腹立ちは収まらない。彼は昨日と同じ場所にタバコの火を押し付けることを強要。沙耶さんは言われた通りにしたが、1回では許されなかった。結局、左太もも内側にタバコの火を押し付けた回数は4回、彼女はこれを自分の手でさせられたのだ。
被害届を出すその日に・・・
2日間に渡る壮絶なDVのあと、沙耶さんは実家に戻っていた。祐太郎は、いつものごとく沙耶さんを連れ戻そうと、午後9時頃、彼女の実家に押しかけた。彼は合鍵を持っているのだ。
しかし、姉の美沙さん(20歳)は沙耶さんに会わせず警察に通報。彼は保護観察中で、警察に通報されると少年院送致になると考え、この日は引き下がった。
警察が駆け付けた時には、祐太郎は立ち去っていた。そのため警察は沙耶さんを署に同行し、診断書と被害届を出すように説得し、翌日10日に提出することになった。
一方、祐太郎は邪魔されたことにかなり怒っていた。この時、彼の中で殺意が芽生え出していた。
翌日10日午前6時40分頃、祐太郎は共犯者となる少年Aを引き連れ、再び沙耶さんの実家へ現れた。しかし、昨日と違う点があった。この日は凶器を準備していたのだ。
少年Aは祐太郎の子分的な存在で、脅してなんでもいいなりにさせていた。
祐太郎は自分が捕まらないよう、偽装工作を企てていた。凶器の牛刀に少年Aの指紋を付けさせたうえで、自分は皮手袋をして指紋が付かないようにした。さらに返り血対策として、少年Aのジャンパーを着用。彼はこれから行う恐ろしい行為を、少年Aの犯行に見せかけようと画策していたのだ。
この日、沙耶さんの実家には友人の大森実可子(18歳)さんと、姉の知人男性(当時20歳)が来ていたが、早朝のためみんな就寝中だった。
祐太郎は家に侵入すると、2階の部屋にいた沙耶さんを連れて行こうとした。だが、これに姉の美沙さんは気付き、通報しようとする。しかし祐太郎は前日のように引き下がらなかった。彼は「全員ぶっ殺す!」と叫びながら、躊躇することなく美沙さんの腹部を刺した。続いて命乞いをして逃げようとする大森さんの胸などを何度も刺し、2人を殺害。その後、知人男性の胸部を刺して重傷を負わせた。
目の前の凶行に、沙耶さんは恐怖で動けなかった。そんな彼女の左足を祐太郎は切りつけ、強引に連れ去ろうとした。沙耶さんはかなり抵抗したものの、男の腕力には敵わなかった。
彼女は近所に停めてあった車に押し込まれ、車は発進した。
しかし、逃走は長くは続かなかった。午後1時頃、祐太郎と少年Aは未成年者略取および監禁の容疑で現行犯逮捕、沙耶さんは無事に保護された。この時、返り血を浴びたジャンパーは、計画通り少年Aに着せていた。
祐太郎はその後、2010年3月4日に殺人・殺人未遂・傷害などの複数の容疑で再逮捕されている。
千葉祐太郎の生い立ち
千葉祐太郎は、1991年7月2日に生まれた。父親はトラック運転手をしていたが、祐太郎が5歳の時に離婚、母親に引き取られている。
母親は離婚の翌年に再婚、すぐに相手との間に長女が生まれている。
祐太郎が10歳の時にこの相手とも離婚し、すぐにまた別の男性と交際を始めた。
母親による虐待
祐太郎が小学1年生になった頃から、母親による虐待が始まった。日常的な暴力にくわえ、ドアノブに犬用のリードで繋がれたり、食事を与えられないなどの虐待やネグレクトがあったという。
小学5年生の頃、行政から母親に養育能力がないと判断され、祐太郎は祖母の家に預けられた。しかし、今度は自分が祖母や母に暴力を振るうようになっていった。
2007年に県立高校に進学するも他の生徒に暴力を振るい、入学からわずか2ヶ月で退学となっている。
暴力事件で保護観察処分
高校を退学処分となった祐太郎は、その後さらに暴力的になっていく。傷害事件を繰り返し、何度も保護観察処分を受けていた。
そんな2008年8月頃、沙耶さんと知り合い、交際に発展する。付き合って2週間ほどでDVが始まったが、沙耶さんは妊娠し、2009年10月に長女が生まれた。
沙耶さんは子どもの誕生を機に、DVから逃れるため実家に避難するようになる。
2010年元旦、沙耶さんの心は完全に祐太郎から離れ、彼女は浮気をする。これに激怒した祐太郎は彼女に凄惨な暴力をくわえた。
祐太郎の日記
このころ、祐太郎は自身の携帯サイトに気持ちを綴っている。犯行の直前には、「子どもの笑顔が見たい」と記され、日記はそこで終わっている。
そして2010年2月10日早朝、祐太郎は本事件を起こして逃走。しかし、午後1時頃に逮捕となる。
2010年11月25日、仙台地方裁判所で死刑判決。その後、控訴・上告とも棄却され、2016年6月16日、死刑が確定した。少年事件としては平成では4例目、裁判員裁判では初の死刑確定となった。
2017年12月18日、祐太郎は再審請求をしている。
現在は、仙台拘置支所に収監されている。
獄中で描いた絵
2014年5月20日、上告中に千葉祐太郎死刑囚が獄中で描いた絵。死刑が確定するのは、この絵を描いた約2年後である。
複雑な思いを一枚の絵に込めた作品で、死刑囚の作品展に出展された。絵からは後悔の念も垣間見える。
注目された裁判
2010年4月30日、千葉祐太郎は、殺人・殺人未遂などの罪で起訴された。
被告人が18歳の少年であるため、裁判は世間の関心を集めた。公判は、更生可能性の評価と、死刑適用の可否が焦点となっていた。
この事件は2022年4月1日の少年法改正前の事件で、千葉祐太郎被告は「少年」として扱われる年齢であった。しかしあまりの凶悪さに、この原則が通用しない裁判となった。
証言は不利なものばかり
争点のひとつ「殺意の発生時期」に関して、検察側は「事前に殺害を計画した」と主張、弁護側は「殺意は突発的に生じた」と主張した。
しかし、事件関係者の証言からは、事前の殺害計画があったことをうかがわせた。第2回公判で、重傷を負った知人男性は「祐太郎は『全員ぶっ殺す』と言い、次々に刺していった。絶対に許せない。極刑を望みます」と話した。
また、共犯の少年Aは以下のような証言をした。
- 祐太郎から、実行犯役になるよう命令された
- 祐太郎から、凶器の万引きや刺し方などを指示された
- 祐太郎は「皮手袋をすれば指紋が出ず完全犯罪だ」と言った
- 自分に容疑がかからないよう、凶器に少年Aの指紋を付けさせた
- 少年Aのジャンパーを着て犯行におよび、犯行後はそれを少年Aに着させて罪を着せようとした
これらの証言はすべて、事前の殺害計画があったことを示唆しており、祐太郎側に不利なものであった。さらに、逮捕当初は容疑を真っ向から否認したり、犯行後、「泣いたり、父親がいない家庭事情を話せば、裁判官の同情が買える、と話していた」との証言は、心証を悪くするものだった。
第3回公判では、祐太郎と交際していた沙耶さんが出廷、交際中に受けた激しいDV(家庭内暴力)について証言した。沙耶さんは「彼は人間を人間と思っていない。姉と友人を返して」と声を震わせ、「極刑を望みます」と答えた。
第一審判決は死刑
検察側は論告で、「犯行は身勝手かつ残虐で、他人に罪を着せて逃れようとするなど計画的であり、更生の余地はない」として死刑を求刑した。
弁護側は「少年である事と家庭の事情を酌むべきであり、主治医の診断結果からも更生の可能性は十分にあり、極刑は不当である」として保護処分を求めた。
2010年11月25日、仙台地方裁判所で判決公判が開かれた。
裁判長は、事件の残虐性や身勝手さを指摘し、「家庭の事情」や「少年」であることは、死刑を回避する理由にならないとして、求刑通り祐太郎に死刑を言い渡した。
当初、祐太郎は控訴に消極的だったという。しかし弁護団の説得に応じ、12月6日、仙台高等裁判所に控訴している。
弁護団は「少年は、死刑だけが償いではなく、生きて被害者に謝罪の気持ちを持ち続けることも償いののひとつではないか、という気持ちになった」と控訴理由を説明した。しかし被害男性は「生きて償うとは、どういうことなのか分からない」と少年と弁護団を真っ向から批判した
支持された死刑判決
控訴審判決(仙台高等裁判所)
2014年1月31日、仙台高等裁判所は一審の死刑判決を支持し、弁護側の控訴を棄却した。これに対し、弁護側は判決を不服として最高裁判所に即日上告した。
上告審(最高裁)
弁護側は「未成熟な人間性を背景にした衝動的犯行。精神状態の審理が足りない」として死刑判決の破棄を主張し、検察側は上告棄却を求めて結審した。
2016年6月16日、最高裁は上告を棄却したため、死刑が確定した。裁判員裁判で、少年に対する死刑判決が確定するのは史上初であった。
祐太郎は「死刑判決自体には不満はないが、事実と異なることが認定されていることは受け入れられない」として、2016年6月27日付で最高裁に判決の訂正を申し入れた。しかし、これは2016年6月29日付で棄却され、正式に死刑判決が確定した。
共犯の少年Aの判決
2010年4月19日、仙台家庭裁判所で少年Aの少年審判が行われた。
「殺人行為そのものを阻止したり、犯行から離脱したりする機会は何度もあった」として、家裁は刑事処分相当と判断、28日に殺人幇助などの罪で起訴された。少年Aは、起訴内容および罪状を全て認めていた。
4月17日、仙台地方裁判所は懲役3年以上6年以下の不定期刑を言い渡した。検察・弁護側共に控訴しなかったため、2011年1月5日に判決が確定した。