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春日部中国人夫婦殺害事件|結ばれないなら殺すまで…

春日部中国人夫婦殺害事件 日本の凶悪事件

「春日部中国人夫婦殺害事件」の概要

中国から来日した筑波大学の留学生・薛松(当時27歳)は、同じ中国人留学生の女性に一目惚れしてしまう。しかし彼女は既婚者で、平日は学生寮で暮らし、週末は夫の住むマンションに帰っていた。そんな事情を知っても、薛松は女性をあきらめるどころか、根拠もなく女性と相思相愛だと信じていた。

だがある時、女性から友人以上の交際はできないことをはっきり告げられ、思いつめて夫婦の殺害を決意。週末、マンション駐車場で夫婦をナイフで襲撃し、失血死させてしまう。薛松は逮捕・起訴され、裁判で死刑が確定した。

事件データ

犯人薛松(当時27歳)
読み:せつしょう
犯行種別殺人事件
犯行日2000年9月22日
発生場所埼玉県春日部市緑町
被害者数2人死亡
判決死刑:東京拘置所に収監中
動機好きな既婚女性に交際を断られた
キーワード中国人、留学生

事件の経緯

中国人の薛松(せつしょう)(当時27歳)は高校卒業後の1993年、経営学を勉強するため来日し、翌1999年4月からは筑波大学大学院修士課程に進学した。2000年、大学の留学生課が「佐渡・新潟方面の2泊3日の見学旅行」を企画し、これに薛松は参加することにした。

留学生を対象としたこの旅行は、2000年7月5日~7月7日の日程で参加者は40名だった。旅行初日の夕食会で、薛松は旅行に参加していた筑波大大学院博士課程の女性・許昕さん(当時29歳)と知り合う。許昕さんは薛松が思い描く ”理想のタイプの女性” だった。一瞬で一目惚れしてしまった薛松は、自分の連絡先を教え、許昕さんからも電話番号やメールアドレスなどを教えてもらった。

旅行から帰った翌日から2日間、薛松は許昕さんに連絡を取ろうとしたが通じず、3日目になってようやく本人と話ができた。この時、薛松は許昕さんに気持ちを伝えて交際を申し込んだが、返ってきた答えは意外なものだった。

実は許昕さんはすでに結婚していて、中国の実家に子供を預けて来日していた。彼女は普段は学生寮で単身生活だが、週末だけ春日部市で日本企業に勤める夫・顧京奇さん(当時39歳)のマンションで一緒に過ごしているとのことだった。これには落胆した薛松だったが、友人としての交際は承諾してくれた。

既婚女性に強い恋心

筑波大学学生寮

この日以来、2人は互いの学生寮を訪ね合うようになり、一緒にテニスをしたりメールや電話でのやりとりもするようになった。時には ”結婚生活への不満” や ”日本での生活の苦労” など、許昕さんの愚痴を聞いてあげることもあった。薛松は許昕さんの結婚を知っても思いは変わらず、「その気になればいつでも離婚できる」とさえ考えていた。

許昕さんが週末毎に夫の元に帰ることを、薛松は寂しく感じていたが、「本当は夫より自分を選んでくれていて、いずれ離婚して自分と結ばれる」と根拠もなく信じていた。夫への愛情は冷めているのに、自分との関係を知られるのを危惧して、何事もないように夫の元に戻っているのだと思っていた。

やがて、”許昕さんの夫が自分たちの仲を邪魔している” と思うようになり、夫の顧京奇さんに強い敵意を覚えるようになっていた。

一方、許昕さんは、薛松が自分に友人以上の好意を抱き続けていることを負担に感じていた。そこで夫と相談して8月12日午後、薛松をマンションに招いて別の女性を紹介したが、薛松は興味を示さず、許昕さんを思う気持ちに変わりはなかった。

許昕さんからの拒絶

そんな経緯から、9月中旬頃から許昕さんの態度に変化が生じてくる。これに気付いた薛松は9月19日、許昕さんに改めて結婚を申し込むも、許昕さんは当然だが断った。薛松にとっては意外な返事だったが、「これは本心ではなく、夫や両親からの圧力でやむを得ず関係を断とうとしているのだ」と自分に都合よく考えた。

ところが翌20日にも、許昕さんは部屋を訪ねてきた薛松に、前日同様に「友人以上の交際はできない」ことを伝えた。”深く愛し合っているはず” の許昕さんからの拒絶に、薛松は絶望とやり場のない苛立ちを覚えた。しかし、これだけはっきり言われても、薛松は、許昕さんが ”夫と自分の板挟みになって苦しんでいる” との理解だった。

翌21日昼頃、許昕さんから電話で「車で買い物に連れて行ってほしい」と頼まれ、大学近くの家電製品販売店に一緒に行ったが、この時は昨日のことがなかったかのように楽しい時間を過ごすことができた。

同日午後9時30分頃、薛松は学生寮の許昕さんの部屋に遊びに行き、談笑していた。その際、許昕さんが「あなたには、私より良い女性が見つかるはず」と前日の話を切り出してきたので、薛松は感情的になって話をやめるように言うと、許昕さんは黙り込んでしまった。

帰る時、いつものように笑顔で外まで見送ってくれることもなく、さらに「明日は研究室でやることがあるから会えない」と言われた。学生寮に戻ってからも、薛松はたまらない絶望感に襲われ、平静でいられなかった。ビールの酔いにまかせて眠りに就いても、夜中に何度も目が覚めてしまい、許昕さんとの関係についてひとり悩んでいた。

薛松は、この期に及んでも「なぜ愛し合っている者同士が別れなければならず、一緒になれないのか」などと、独りよがりな考えに支配されていた。

夫婦殺害を決意

翌22日午後1時頃に目を覚ました薛松は ”今日は許昕さんと会えない” ことを思い出し、続く週末も許昕さんが春日部に帰るため、しばらく会えないことに強烈な寂しさを感じた。そして、あれこれ思い悩むうち、この苦しみの元凶は許昕さんの夫である顧京奇さんにほかならないと考えるに至った。

薛松は「許昕さんを苦しみから救ってあげたい。そのためには顧京奇さんを殺害するしかない」と考えた。そして、もし実行して自分が死刑になれば、ひとり残された許昕さんが苦しむと思い、それならいっそ許昕さんも殺害したほうがいいとの結論に達した。

こうして、薛松は2人を殺害することを決意し、春日部市の許昕さん夫婦のマンションまで出向いて日が暮れてから決行することに決めた。

午後2時過ぎ、まだ時間があったので薛松は修士論文作成のため大学院の研究室に行くも、殺害計画で頭が一杯で手につかなかった。仕方がないので適当に時間をつぶし、午後4時頃に寮に戻った。そして準備を終えた薛松は、午後4時半過ぎ、トヨタカローラに乗り込み寮をあとにした。

夫婦のマンションで待ち伏せ

寮を出た薛松は、スポーツ用品店でサバイバルナイフを2本購入。午後5時13分頃、同店を後にして春日部市に向かった。薛松は「やるからには確実に殺害しなければならない」と考えていた。

午後8時前、春日部市の許昕さん夫婦のマンションの付近に到着した薛松は、マンションの向かい側の駐車場に車を停めた。そして許昕さんの部屋の照明を見たり、公衆電話から電話をかけるなどして不在を確かめた。

その後、同じ場所に車を停めていると不審がられると思い、車を移動させてしばらく時間を潰した。それから再び元の駐車場に戻り、許昕さんらが帰るのを待った。これまでの許昕さんとの会話から、午後10時頃に帰宅すると予想していたが確信はなかった。

薛松は、殺害はマンションの外でやるしかないと考えていた。以前、許昕さん宅を訪ねた経験から、夫婦は車を駐車場に入れると、正面玄関ではなく駐車場に出入りするための小さなドアからマンションに入るはずだった。

夫婦がこのドアに向かって歩いているところを背後から車を衝突させ、動けなくなったところをナイフで襲いかかれば、確実に2人を殺害することができると薛松は考えていた。

サバイバルナイフで殺害

午後11時頃、許昕さん夫婦の乗った車がマンションの駐車場に入って行くのが見えた。薛松は、もはや許昕さんと結ばれる未来はないと悟り、夫婦2人の殺害を実行に移すことにした。

夫婦の車が車庫入れを終わるころを見計らい、薛松は自身の車をマンション駐車場に車を進入させた。すると、許昕さん夫婦が並んでマンションの建物に向かって歩いていたので、車のライトをつけずに徐行して背後から近づいた。

ある程度近づいたところでスピードを上げ、いざ衝突させようとした時、エンジン音に気付いた2人が後ろを振り返った。夫の顧京奇さんはとっさにかわしたが、許昕さんは避けることが出来ず車に衝突。その瞬間、顧京奇さんがすごい勢いで運転席の窓ガラスをノックしてきたので、薛松はドアを開けたまま車を降り、顧京奇さんと殴り合いになった。

午後11時15分頃、薛松はすかさず靴下に挟んだサバイバルナイフを素早く抜き取り、顧京奇さんの胸に何度も突き刺した。薛松の車の運転席シートに寄りかかる体勢となった顧京奇さんに対し、薛松は首を切り裂いた。

次いで、逃げようとしている許昕さんの背中を、薛松はサバイバルナイフで何度も刺し、さらに倒れたところを首に切りつけた。許昕さん夫婦は2人とも、出血多量により失血死した。

この時、犯行を目撃した人が110番通報していた。薛松は逃げようとするも、騒ぎに気付いたマンション住人2人が追跡して取り押さえた。その後、薛松は駆け付けた春日部署の警察官に引き渡され、現行犯逮捕となった。薛松はふてくされた態度だったという。

取り調べでも、「顧京奇さんを殺害したことは痛快だった」、「許昕さん殺害は仕方なかった」と供述するなど、まったく反省の態度を見せなかった。

薛松の生い立ち

薛松(せつしょう)は、中華人民共和国で生まれた中国人である。家族は両親と姉がいることがわかっている。事件当時、姉は日本人と結婚して千葉県に住んでいた。

1993年、高校を卒業した薛松は、経営学を勉強するため千葉県在住の姉を頼って来日。2年間日本語学校に通ったあと、筑波大学に入学した。1999年3月、大学を優秀な成績で卒業すると、翌4月から筑波大学大学院・経営科修士課程に進学して、大学の学生寮に住むようになった。

翌年、留学生を対象とした見学旅行で、参加者の許昕さんに一目惚れする。許昕さんは既婚者だったが薛松の恋愛感情はエスカレート、やがて根拠もなく相思相愛だと思い込んでしまう。やがて、許昕さんと結ばれないことを悟った薛松は、夫婦2人の殺害を決意し、本事件に発展した。

裁判で死刑が確定した薛松は、現在、東京拘置所に収監されている。

被害者の許昕さん夫婦について

許昕さん(妻)

許昕さんは、中華人民共和国で生まれた中国人で、2人姉妹の長女として両親に育てられた。妹が幼くして亡くなったため、一人娘として両親に育てられた。高校卒業後、大学で英文医学を専攻し、1994年に卒業したあと、大学附属病院の医師として勤務した。

顧京奇さん(夫)

顧京奇さんは、中華人民共和国で3人兄弟の長男として生まれた。大学で電子工学を専攻し、卒業後、電子工学関係の研究機関に勤務した。その後、1985年頃に来日し、日本語を1年間勉強したあと大学の専攻研究生となり、さらに大学院修士課程を経て博士課程に進んだ。1991年、日本の会社の部品調達関係の仕事に従事していた。

許昕さん夫婦について

許昕さんと顧京奇さんは、知人の紹介で1995年12月に北京市内で結婚した。当初は2人の仕事の関係で顧京奇さんは日本で生活し、許昕さんは中国の顧京奇さんの実家で暮らしていたが、1996年4月頃、夫婦一緒に暮らすため、許昕さんも勤務先の病院を退職して来日。顧京奇さんの就職先が借り上げていた埼玉県春日部市内のマンションで2人で暮らすようになった。

来日後、許昕さんは日本語を学ぶとともに、1998年1月には顧京奇さんとの間に長男をもうけた。9月には、日本で医学博士号を取得するため、長男を許昕さんの実家(中国)の両親に預けて勉学に励んだ。

2000年4月、筑波大学医学部大学院博士課程の研究科に進学して、平日は筑波大学の学生寮で単身生活、週末は春日部市のマンションで顧京奇さんと一緒に過ごす生活を送っていた。

裁判

第一審:2002年2月22日 死刑判決(さいたま地裁)

弁護側は「薛松被告は、善悪を判断する能力が著しく減退していた」と主張したが、判決では「極めて冷静に計画しており、能力の減退はなかった」と退けられた。
裁判長は死刑を言い渡し、「独善的な思い込みによる、執拗かつ残虐で冷酷非道な犯行」と指摘した。

控訴審:2004年1月23日 死刑判決(東京高裁)

弁護側は、引き続き「薛松被告は犯行当時、心神耗弱状態で責任能力が低下していた」と主張したが、判決では「冷静かつ計画的な犯行で、責任能力を疑う余地はない」と退けられた。

裁判長は「理不尽な犯行で被害者夫婦の生命だけでなく、いまだに両親の死を知らされていない幼い子供の将来も奪った結果はあまりに重い」と非難、死刑とした一審判決を支持して控訴を棄却した。

最高裁:2007年6月19日 死刑確定

最高裁の弁論で、弁護側は「交際を断られて絶望し、犯行時は心神耗弱の状態だった」「被告は反省している」など、死刑回避を求めていた。

判決で裁判長は「何の落ち度もない夫婦を殺害した独善的で理不尽な犯行。計画的で、殺害の方法も冷酷かつ残虐だ。必ずしも正面から向き合おうとしていない」として上告を棄却、薛松の死刑が確定した。

別の裁判官は、補足意見で「『恋人だった』という薛松被告の主張を一概に退けられないが、罪は重大」と指摘した。

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