「甲府信金OL誘拐殺人事件」の概要
1993年8月10日、甲府信用金庫に勤務する新人OLが、「地元雑誌の取材に応える」と職場を出た切り行方不明となった。翌日、身代金要求の電話があり、取材を名目にした誘拐事件であることが判明。だが、事件は被害者の遺体発見という最悪の結末を迎えた。
犯人の宮川豊(当時38)は大型トラックの営業マン。成績を上げるための架空販売をくり返したために7000万円もの借金があり、これが犯行の動機だった。その後、犯人の電話音声が声紋分析にかけられ、テレビで公開されたことから知人に見破られ、自首を決意。裁判で無期懲役が確定した。
事件データ
犯人 | 宮川豊(当時38歳) |
犯行種別 | 誘拐殺人事件 |
犯行日 | 1993年8月10日 |
場所 | 山梨県甲府市 |
被害者数 | 1人死亡 |
判決 | 無期懲役:千葉刑務所で服役中 |
動機 | 借金苦のための金銭目的 |
キーワード | 声紋分析 |
事件の経緯
1993年8月10日午後2時50分頃、甲府市の甲府信用金庫の広報に、地元雑誌「ザ・やまなし」の記者を名乗る男から取材依頼の電話があった。活躍する女性を写真付きで紹介する 「輝いて」という記事の取材とのことだった。
そして、この取材対象として指名されたのは、大里支店に勤務する内田友紀さん(当時19)。友紀さんは、この春高校を卒業したばかりの新人OLだった。
友紀さんは広報からの指示に従い、午後5時30分頃、上司に「これから取材を受けに行きます」と挨拶をして職場を出た。外には記者が手配したタクシーが待っていて、これに乗って職場から3km離れた「小瀬スポーツ公園」に向かった。そして、午後6時頃に指定された体育館に到着した。
友紀さんは体育館の職員に事情を説明し、椅子に腰かけて記者を待った。この時の様子を、体育館職員をはじめ複数の人が目撃している。
だが、この目撃情報を最後に友紀さんの足取りは途絶えた。
「小瀬スポーツ公園」の体育館は、イベントのない日は人目もない淋しい場所だという。現場まで送ったタクシー運転手は後に、「(友紀さんは)『会社を代表して行くんです』って張り切ってました。でも、なんであんな淋しいところへ行くのか不思議で…」と語っている。
友紀さんの遺体発見
翌日8月11日午前8時15分、友紀さんが帰宅しなかったことを心配して、父親が里山支店に問い合わせた。そのわずか5分後、里山支店に友紀さんの身代金を要求する電話が入ったことから、これが ”誘拐事件” であることが発覚する。支店側はすぐに山梨県警に通報し、県警は友紀さんの身を案じて報道協定を敷いた。
事件の内容を報道することで被害者の生命に危険がある場合、メディア側が報道を自主規制する協定のこと。1960年「吉展ちゃん誘拐殺人事件」において、制限のない報道に追い詰められた犯人が、被害者の7歳男児を殺害したことがきっかけで協定が結ばれるようになった。
犯人は身代金4500万円を要求し、午後1時35分と午後3時6分に受け渡しの場所と時間を指定してきた。午後4時2分、大里支店の支店長は指定された喫茶店「珈琲待夢」に現金4500万円を持って待機。しかし、午後4時14分に犯人から電話が入り、「珈琲待夢」から約4.5km離れた「『カーオアシス甲府南』というガソリンスタンドで待て」と指示された。
「カーオアシス甲府南」に到着すると、今度は午後4時59分に電話があり、「5分以内に(約3.2km先の)中央自動車道の104キロポスト(上り線標識)のところで現金を投げ捨てろ」との指示。続けて犯人は「身代金を受け取ったら、友紀さんを釈迦堂遺跡の駐車場で解放する」と告げた。
指定場所を何度も変えられたせいで山梨県警は混乱した。結局、捜査員35人の配置に手間取り、104キロポストには約50分遅れの午後5時54分に到着。支店長はそっと身代金入りの鞄を置いてその場を離れたが、「104キロポスト」「釈迦堂遺跡の駐車場」ともに犯人は現れなかった。
県警は、遅れた理由を「現金を奪われないことと、犯人検挙の態勢作りのため」と説明したが、これは人質の安全よりも犯人逮捕を優先させたものだった。
これまでに犯人から架かってきた電話は合計9回で、録音できたのは3回。犯人は会話が長引くと話の途中でも電話を切っていて、すべての通話で逆探知に失敗していた。(逆探知には80秒以上の通話が必要)そのため、犯人の居場所の特定には至らなかった。
その後、犯人からの連絡もなく数日が過ぎた。だが、誘拐されてから1週間後となる8月17日、甲府市から南に50km離れた静岡県富士宮市で、首に粘着テープが巻かれ、キャミソールの下着1枚の女性の遺体が発見される。警察が遺体を調べたところ、友紀さんの指紋と一致、事件は最悪の結末を迎えることとなった。
犯人の音声を公開
山梨県警は、遺体を発見した静岡県警と合同捜査本部を設置した。当初、”犯人は男3人組” 、”共犯者に女性がいる” などの説があり、犯人像を絞り込めずにいた。
被害者の死亡が確認されたことで、報道協定は8月17日午後6時41分に解除され、すぐに事件に関する報道が始まった。すると、捜査本部には1日700件という多数の情報が寄せられたが、有力な手がかりはなかった。警察は、かねてからの報道側の要求もあり、8月20日、犯人の電話音声の公開に踏み切ることにした。
これを受け、報道各社は山梨県上野原市の「日本音響研究所」に協力を要請した。研究所の鈴木松美氏は、逆探知装置に記録されていた声をもとに声紋鑑定を実施し、以下の鑑定結果を発表した。
- 身長は170cm前後:声の周波数は、身長が高い人ほど低くなる傾向がある
- 年齢は40歳~55歳:加齢とともに声帯の筋肉が劣ることから、おおよその年齢がわかる
- 甲府盆地に在住:約束を「やぐぞぐ」、「そうですか」を「ほうすか」と言うなど、甲州弁(国中弁)を多用していることから甲府盆地に在住
- 高額商品の営業職:身代金に ”無地の帯封” を要求しているが、これは現金で大金を扱っている者の特徴。会話の調子から「人と接する職業」の可能性が高い
電話をかけた場所も判明
さらに鈴木氏は、身代金要求の電話が「中央自動車道の境川パーキングエリアの公衆電話」から架けられたということも突き止めた。
当時、NTT電話網の「甲府MA・0552局内」で使われていた有接点の「クロスバ交換機」は、電話を切った直後に接点を開放する際、パルスノイズが発生していた。このノイズのパターンが、”経由する交換機間の距離と、その台数で異なる” ことに鈴木氏は着目。甲府MA管内の公衆電話を総当りで、(録音された)犯人からの電話の切断時と同じパルスノイズを割り出した。
その場所こそが中央自動車道の境川パーキングエリアの公衆電話。そこは犯人が身代金を投下するよう指示した104キロポストの至近であった
公開音声で犯人が判明
公開された犯人の音声は、当然テレビでも繰り返し放送されたが、この声に「聞き覚えがある」と感じる一人の男性がいた。それは建材会社社長の近藤さんで、知人の宮川豊(当時38)の声に間違いないと直感したのだ。
宮川は「山梨いすゞ自動車」に勤める大型トラックの営業マンで、近藤さんとは当時、仕事も含めて家族ぐるみの付き合いがあった。
近藤さんは宮川を呼び出し、「おまえがやったのか?」と問い詰めた。当初、宮川は否定していたが、やがて「殺すつもりじゃなかった」と犯行を告白するに至った。近藤さんは自首を強くすすめ、深夜ではあったが知り合いの警察幹部に相談。8月24日午前5時頃、宮川は近藤さんに付き添われて警察に出頭した。
こうして逮捕となった宮川だが、彼は声紋分析でプロファイルされた人物像に驚くほど一致していた。身長・在住地・職業は見事に鈴木氏の分析通りで、年齢も誤差の範囲だった。
特徴 | 鈴木鑑定 | 実際の犯人 | 結果 |
---|---|---|---|
身長 | 170cm前後 | 172cm | 〇 |
年齢 | 40歳~55歳 | 38歳 | △ |
在住地 | 甲府盆地に在住 | 甲府盆地出身・在住 | 〇 |
職業 | 高額商品の営業職 | 大型トラックの営業マン | 〇 |
犯人・宮川豊を逮捕
その後の取り調べで、犯行の動機が判明した。宮川は大型トラックの販売実績を上げるため、架空販売契約などを繰り返し、7000万円もの借金があった。会社からその未収金の処理を再三求められ、追い詰められたあげくの犯行だった。
宮川は妻と2人の子供がいるにもかかわらず、韓国人ホステスを愛人にしており、そのためにも大金を使っていた。
身代金受け渡しに失敗した理由も明らかになった。宮川は電話で「104キロポスト」と言っているが、本人は「105キロポスト」と指示したつもりだったという。山梨県警は現場に50分も遅れたが、間に合ったところで受け渡しはできなかったことになる。なにしろ、宮川は違う場所で待機していたのだ。
また、身代金を中央自動車道の104キロポストに投下するよう指示したのは、映画「天国と地獄」の手法を参考にしていた。
映画「天国と地獄」は、日本が誇る巨匠・黒澤明監督が手掛けた、誘拐事件を題材にした作品。映画では列車の窓から身代金を投下するシーンがある。映画は大ヒットするも、公開以降、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」など誘拐事件が多発。国会でも問題として取り上げられ、1964年の刑法一部改正のきっかけになった。
*「身代金目的の略取(無期または3年以上の懲役)」を追加
そして、友紀さんが殺されたのは、身代金受け渡しに失敗したせいではなかったこともわかった。なぜなら、友紀さんは誘拐された当日に殺害されており、仮に受け渡しに成功していたとしても、救出は不可能だったのだ。
宮川豊の生い立ち ~ 事件を起こすまで
宮川豊は1955年、山梨県甲府市で農家を営む両親のもとに、長男として生まれた。
1970年4月、山梨県立農林高校に入学。1973年3月に卒業すると、市内のガソリンスタンドに入社した。その後、1982年に自動車販売会社「山梨いすゞ」で働くようになった。やがて看護師の女性と結婚し、2人の子供をもうけた。会社では大型車販売第二課・係長という役職についていた。
宮川の実家は代々続く農家で、宮川も積極的に農作業を手伝っていた。地域活動にも貢献し、近所の子供たちとソフトボールをするなど、「宮川のおっちゃん」と呼ばれて親しまれていた。
そんな気さくな一面とは裏腹に、本業では営業成績を上げるために架空の販売契約をくり返していた。そのせいで膨れ上がった借金は7000万円。会社からは、その未収金の処理を求められるようになっていた。母親から870万円、友人(前述の近藤さん)からも1000万円単位で借金したが、到底足りなかった。
金が必要な理由は、ほかにもあった。宮川は事件の2年前(1991年)から、いきつけの韓国バーのホステスと愛人関係にあり、このホステスのために甲府市内に一戸建てを借りていた。愛人が韓国に帰国した際には、毎週のように韓国に渡って豪遊するなどして散財していた。
借金に追い詰められた宮川は、犯行を決意する。たまたま手にした地元雑誌「ザ・やまなし」の ”活躍する女性を紹介する記事” を見て「これを利用して女性をおびき出そう」と身代金誘拐を思いついた。宮川は事前に甲府信用金庫・大里支店に赴き、新人の内田友紀さん(当時19)をターゲットに決めた。
1993年8月10日に友紀さんを誘拐し、その日のうちに殺害。自分の音声が公開された翌日(8月21日)には友人から100万円を借りて韓国に逃亡したが、逃亡生活は無理だと悟り帰国。友人の説得もあって自首したが、裁判で1996年5月1日に無期懲役が確定した。現在は、千葉刑務所に服役中である。
裁判で無期懲役
自ら警察に出頭していた宮川豊被告は、甲府地裁で開かれた第一審の公判でも犯行を全面に認めた。そのため、裁判の争点は「自首の有効性」に絞られた。
これに弁護側と検察側は徹底的に対立する。弁護側は「自首は有効」と主張したが、対する検察側は、「(宮川被告が)出頭した時点で、すでに宮川は容疑者となっており自首は無効」と反論して死刑を求刑した。
警察は、104キロポストの身代金受け渡しの時間帯に、指定場所から最も近いパーキングエリア(境川PA)に駐車していた車のナンバーを控えていた。そのうちの1台(外車のオペル)が宮川の自宅に停まっていたことから、すでに容疑者であったと説明した。
1995年3月9日の判決公判で、甲府地裁は「自首は有効」と判断。しかし、犯行の残忍さなどから、極めて罪は重いとして無期懲役を言い渡した。死刑を求める検察側と有期懲役刑を求める弁護側が、それぞれ判決を不服として東京高裁に控訴した。
1996年4月16日、東京高裁は双方の控訴を棄却、一審の無期懲役判決を支持した。裁判長は、弁護側に対しては「犯行態様の凶悪性が著しく、死刑を求める検察側の主張も傾聴に値するほど」と退け、検察側の主張に対しては「近年は1人が殺害された事件での死刑適用に、やや控えめな傾向が窺える」と、こちらも退けた。
その後、検察側・弁護側とも、上告期限までに最高裁に上告しなかったため、1996年5月1日、宮川被告の無期懲役が確定した。現在は、千葉刑務所で刑に服している。