熊谷男女4人殺傷事件
2003年8月18日、埼玉県熊谷市で男女4人が殺傷される残虐な事件が発生した。犯人の尾形英紀(当時26歳)は、不倫相手の少女に「やっちゃえ!」とけしかけられ、恋敵の男性を殺害。さらに、男性の同僚女性ら3人を拉致したうえで殺傷した。
面識さえなかった女性3人にまでひどい危害を加え、うち1人は殺害するという凶暴さに司法は死刑を言い渡した。尾形は控訴するも、その後みずからこれを取り下げ死刑が確定する。そしてその3年後、異例の早さで死刑は執行された。
事件データ
犯人 | 尾形英紀(当時26歳) |
犯行種別 | 暴行殺人事件 |
犯行日 | 2003年8月18日 |
場所 | 埼玉県熊谷市 |
被害者数 | 2人死亡、2人重体 |
判決 | 死刑:東京拘置所 2010年7月28日執行(33歳没) |
動機 | 不倫相手の少女の二股による諍い |
キーワード | やっちゃえ!(少女が主犯を煽った言葉) |
事件の経緯
2003年6月頃、少女A(当時16歳)は熊谷駅周辺で風俗店店員・鈴木秀明さん(当時28歳)と知り合っい、やがて熊谷市箱田の鈴木さんのアパートに、身を寄せるようになった。彼女は鈴木さんのことを「都合よく泊めてくれる友人」としか見ておらず、体の関係はなかった。そんな2人だったが、やがて少女の薬物使用が原因で、口論が絶えなくなった。
7月上旬、 少女Aは同じく熊谷駅周辺で、尾形英紀(当時26歳)に声を掛けられ、交際するようになった。尾形は妻子持ちだったが、2人はすぐに肉体関係を持った。
ある時、鈴木さんは少女Aと今後の付き合いについて話し合おうとするが、その席に尾形が仲裁役と称してやってきた。当初、別れることに同意しなかった鈴木さんだったが、尾形が執拗に別れを迫ったため交際を断念。少女A自身も、鈴木さんに対して鬱陶しさを感じていたという。
にもかかわらず、親と喧嘩して家出した少女Aは、再び鈴木さん宅に出入りするようになった。しかし、少女Aは鈴木さんが彼氏ヅラすることが不満で、尾形にその思いをぶちまけた。それを受け、尾形は鈴木さんに対し「自分の女に手を出すな」と恫喝した。
少女Aは鈴木さんにアパートの鍵を返して実家に戻ったが、ほどなくして熊谷市内の友人宅を泊まり歩くようになった。そして、なぜか再び鈴木さんに連絡を取り、鈴木さんの不在中に部屋を使わせてもらうようになった。
そんな8月16日、少女Aが部屋で寝ている時、鈴木さんが勤務先から帰宅した。この時、少女Aは鈴木さんに身体を触られ、服を脱がされそうになった。このことで、少女Aは鈴木さんに嫌悪感を抱いた。
少女にけしかけられて・・・
その2日後、少女Aは熊谷市内のファミリーレストランで、尾形と少年Eと3人でランチを取った。その際、少女が『鈴木さんに服を脱がされそうになった』件を話すと、これを聞いた尾形は激昂。鈴木さんを傷めつけてやろうと息巻く尾形に、少女Aは「やっちゃってよ!」とけしかけた。こうして3人は鈴木さんのアパートに向かうことになった。
午後1時頃、アパートに到着。尾形が「本当にやって大丈夫か」と確認すると、少女Aは「大丈夫だよ。やっちゃって」と言ったという。
鈴木さんのアパートは、勤務先の風俗店が借り上げていて、住人はみな店の従業員だった。鈴木さんは部屋にいなかったが、「もしかしたら別の部屋にいるかもしれない」と同僚のB子さんの部屋を訪ねると、案の定彼はそこにいた。
鈴木さんは、B子さんに出勤用の背広のズボンを縫い繕ってもらっているところで、下着姿だった。この姿を見て少女Aは、2人の体の関係を疑い、嫉妬の感情なのか「殺されて当然」と考えたという。
無関係の3人も巻き添えに
尾形は、2人を鈴木さんの部屋に連れ込み、鈴木さんの頭を蹴りつけるなど暴行した。鈴木さんは少女Aと肉体関係を持とうとしたことを否定したが、尾形はさらに激昂、屈み込んだ鈴木さんの背中や腹に包丁を何度か突き刺した。
尾形は苦しむ鈴木さんに布団を掛け、「まだ死なねえ」と罵倒しながら布団の上から頭部を踏みつけた。さらに、尾形は少女Aにも同じことをするよう強要。無関係のB子さんはその様子を見せられ、恐怖に震えるしかなかった。
午後1時20分頃、出勤してこない鈴木さんに、店のマネージャーが電話した。しかし、電話が通じなかったため、同じアパートに住む同僚のC子さんに様子を見に行くよう依頼した。言われた通り鈴木さんの部屋を訪れたC子さんは、室内に連れ込まれ、そこで鈴木さんの遺体を見せられることになる。
当時、C子さんは友人のD子さんと同居しており、部屋にいたD子さんも鈴木さんの部屋に連れてこられた。そして彼女にも遺体を見せつけ、午後1時40分頃、車で女性3人を拉致した。その際、「見られたからには殺すしかない」と尾形が話すと、少女Aは「うん、やるしかないでしょ」と煽り立てて賛同した。
女性3人に暴行、1人が死亡
3人の無関係な女性らは、秩父市内の美の山公園に連行された。尾形はまず第2駐車場の女子トイレにD子さんを連れ込み、体中を触りタオルで首を絞めたあと、殴る蹴るの暴行を加えた。そして、包丁で刺そうとするが失敗し、意識を失ったD子さんを美の山公園に放置した。
次に美の山公園観光道路脇でC子さんを降ろし、同じく首にタオルを巻きつけて絞り上げ、背部を数回刺してから斜面に蹴落とした。この暴行で、C子さんは窒息により死亡した。
このとき少女Aは、斜面に落ちたC子さんが痙繁し息絶えたのを確認して、冷静に尾形に報告している。 少女Aはこれらの凶行の間、車中で煙草を吸いながら、拉致した女性が逃げないように見張りをしていたという。
最後のB子さんは、熊谷市大麻生の国道140号線沿いの建築解体会社の資材置場で降ろされ、敷地内の小屋に連れ込まれた。彼女は首にロープを巻きつけられ、包丁で何度も刺されたあと、両手足をビニール紐で縛って放置された。
事件の発覚
午後4時45分、美の山公園で倒れていたD子さんを通行人が発見、110番通報した。D子さんは秩父郡皆野町の病院に搬送され、秩父警察署員にアパートの鈴木さんの遺体のことを話した。それを聞いた熊谷署員はアパートに急行し、午後6時25分、布団をかけられた鈴木さんの遺体を発見する。
午後8時50分頃には、B子さんも救出される。B子さんは放置された建築解体会社の敷地内で、ここを駐車場として借りていた男性によって発見された。この男性は、このころ車にイタズラされる被害があったため、見回りに来たのだった。
B子さんが自力で物置から這い出し、この男性に助け出されたのは、ほとんど奇跡といえるものだった。B子さんは助け出されると間もなく意識不明の重体に陥ったという。胸部からの出血が多く、搬送先では輸血の処置が取られた。その結果、意識を回復したが、当初は会話もできない状態だった。
そして、翌8月19日午前6時5分、犬の散歩中の男性がC子さんの遺体を発見した。
8月21日、熊谷署は尾形を逮捕、22日に少年E、23日に少女Aも逮捕された。いずれも容疑は逮捕監禁であった。取り調べに対し、尾形は「少女Aを寝取られて面子が立たなかったので、鈴木さんを殺害した」と供述。3人の女性については、「死んだと思っていたが、2人が生きていることをニュースで知り、口封じのため搬送先の病院で殺害することを計画していた」と明かした。
犯人・尾形英紀の生い立ち
尾形英紀は、1977年7月20日生まれ。
小学生のころはスポーツ万能で、中学生の時には男子テニス部の主将を務めていた。中学2年生のころからシンナー吸引を始める。このころ、バタフライナイフで同学年の男子生徒の左胸部と背部を刺し、怪我を負わせたことがあった。
その後、友人と共に金属バットを用いた強盗致傷事件を起こして中等少年院送致となる。退院後間もなく、友人と共に傷害、恐喝事件を起こし、再び中等少年院送致となった。卒業後は高校に進学するも中退。暴力団関係者と交遊を持つようになり、一度は稲川会系暴力団に所属し、幹部組員となった。
1998年2月23日、傷害・暴行・恐喝未遂・道路交通法違反で懲役1年6か月(執行猶予5年・保護観察付き)の有罪判決を受ける。同年6月、結婚して長女が生まれた。
まだ執行猶予中の2001年4月18日、尾形は傷害罪で懲役6か月の実刑判決を受けたため、執行猶予は取り消され、川越少年刑務所に入所となった。出所は2002年10月だった。
そして、出所の翌年となる2003年8月18日、本事件を起こす。2007年4月26日、さいたま地裁にて死刑判決となり、控訴するも同年7月18日、これを取り下げたことにより死刑が確定する。
2010年7月28日、東京拘置所で死刑が執行された。(享年33歳)
尾形は、不倫関係の少女Aが自分に好意を寄せていることを利用し、場合によっては性風俗で働かせようと考えていたそうだ。
尾形英紀の手記
尾形はフォーラム90(死刑廃止を主張する団体)が実施した『死刑囚を対象にしたアンケート』で、死刑に対する自分の考えを手記にして回答している。
意外ときちんとした文章を書いている印象だが、長いので要点を説明する。
- 犯行は認めるが、供述の細かい点は警察の創作である
- 精神鑑定を2度実施したが、自分に不利になる『責任能力有り』のほうが採用された
このように捜査や裁判の不当性を訴え、さらには”死刑に対する意見”も書き連ねている。
- 国家が殺人(死刑)するのに、国民による殺人を禁ずるのは矛盾している
- 死刑執行しても、遺族はたいして気がすむわけではなく償いにもならない
- 死刑はつらい生活から解放され、楽になれるのだから償いではない
- 将来のない死刑囚には、反省など無意味である
- 死をもって償えと言うのは、反省する必要ないから死ねということ
- 自分は死を受け入れるかわりに、反省することをやめた
- 本当に反省している死刑囚を死刑によって殺すのはおかしい
- 死刑制度は廃止するべき
共犯・少女Aの生い立ち
少女Aは1986年11月生まれ。家族は両親と異父姉の長女、次女、長男の兄の6人だった。「小さい頃から甘えん坊で、いつもそばから離れず、服の裾をつかんでいるような子どもだった」と母親は語る。
父親は資産家の長男で、経済的には豊かだったが、子どもたちに極めて暴力的だった。とくに長女と次女に対する虐待はひどく、幼い少女Aらは、その暴力を正座しながら見ているしかなかった。殴る、蹴る、縛り上げる、ガラス戸に叩きつける…庭の池に投げ込んだり、髪の毛をつかんで2階まで引きずっていくなどということも日常的に行われた。
父親は理由もなく叱り、その時の気分で虐待、止めに入ると逆切れしてさらにひどくなるので母親も何もできなかった。父親が帰宅する車の音がすると、家の中は極度の緊張が張り詰め、正座した子どもたちは、次は自分の番ではないかと恐れおののく。とても正常な家庭とはいえなかった。
少女Aが5歳のとき、夫の暴力に耐え切れなくなり、母親は離婚を決意した。父親が少女Aに手を上げたことは、なぜか一度もなかったそうである。しかし、姉たちに対する暴力は幼い心の中に焼きついていて、「尾形の暴力を目の当たりにしたとき、何もできなかったのだ」と母親は話した。
母親は離婚したあと、子どもたち4人と暮らし始めた。しかし2年後、経済的な事情から長男と小学1年生の少女Aを父親のもとに預けることになった。だが、父親にはすでに子連れの後妻がいた。父親のもとで暮らすようになって10カ月後、長男が後妻に電話ボックスに置き去りにされるという出来事があり、結局2人は再び母親の元に戻ってきた。
母親は少女Aと長男に対し、姉2人以上に愛情を注いだつもりだったが、2人はグレてしまった。逆に、虐待を受けていた姉2人はまっすぐ育ったという。昼夜働いていた母親の代わりは、祖母が務めてくれた。少女Aは大好きな祖母をいたわっていたようで、「本来は優しい子」と母親は語っている。
小学校を卒業したころ父親の仕事場がわかり、少女Aは会いに行くも無視されてしまう。それがきっかけとなり、少女Aの非行が始まった。中学校にはほとんど行かず、無断で外泊するようになり、少年非行補導前歴は6件におよぶ。
自宅に帰ってくるのは週1回程度で、複数の友人宅を転々としていた。本事件の前年には、さいたま家庭裁判所で児童自立支援施設送致に処せられ、国立きぬ川学院に約7カ月間入所している。そして、同院を退所した数カ月後に本事件を起こした。
少女Aは拘置所から毎週2回、母親に手紙を書いている。父親に預けられたことを、”捨てられた” と感じていること、そこでは満足に食事も与えられなかったことなど、母親の知らなかった内容も多いという。
幼児期の虐待は、脳や人格の形成に多大な悪影響を与えるといわれている。実際に虐待を受けた姉たちよりも、彼女が心に受けた傷は、思いのほか深刻なのかもしれない。
裁判
弁護側は、「シンナーによる幻覚が、事件当時の行動に影響を与えた可能性がある」と主張し、尾形の精神鑑定が行われることになった。この鑑定結果は「鈴木さん殺害時には、弁別能力が著しく低下していた」というものだった。
検察側は、これを不服として再鑑定を実施、「飲酒や、過去に吸っていたシンナーが、犯行に影響を与えたとは考えられない」と相反する鑑定書を提出し、こちらが証拠として採用された。
2007年3月9日の最終弁論にて、弁護側は改めて心神耗弱状態を主張し、若年で更生可能性を否定することはできないとして、死刑回避を求めた。
しかし同4月26日、さいたま地裁は尾形に死刑を言い渡す。裁判長は「まれに見る重大な凶悪事件。非人間的で、殺してでも面子を守ろうとする暴力団関係者特有の思考の、あまりにも短絡的な犯行。酌量の余地はない」と指弾した。
判決は、刑事責任能力を認め、弁護側の「善悪の判断能力と行動制御能力が著しく低下し、心神耗弱状態だった」という主張も退けるかたちとなった。弁護側は控訴したが、尾形は2007年7月18日付でこれを取り下げ、一審の死刑判決が確定した。
少女Aは、殺人幇助・殺人未遂幇助でさいたま家裁に送致されたが、「事件の発端を作り、関与の度合いも大きい。被害者の処罰感情も非常に強い」として、さいたま地裁へ逆送致され起訴された。
初公判で、少女は犯行の要所で言ったとされる「やっちゃって」「やっちゃえ」は言っていないと主張し、起訴事実の大半を否認。しかし2004年11月18日、さいたま地裁は求刑通り懲役5~10年の不定期刑を言い渡し、確定した。
少年Eは、同容疑でさいたま家裁熊谷支部に送致され、中等少年院送致長期の保護処分を受けた。
刑の執行
2010年7月28日、東京拘置所で死刑が執行された。刑の確定から3年での比較的早い執行だった。2009年9月の民主党政権発足以後、初めての死刑執行で、執行には当時の法務大臣・千葉景子が立ち会った。死刑執行に法務大臣が立ち会うのは、憲政史上初めてのことである。
2008年、死刑廃止フォーラムは、全死刑囚に対してアンケートを実施した。これに、尾形は「死刑執行時に求刑・判決を出した検事・裁判官それに法務大臣らが自ら刑を執行するべきです。それが奴らの責任だと思います。」と意見を記しており、その一部が自らの執行時において実現されたことになる。
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