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新潟少女監禁事件|犯罪史上最悪の誘拐・監禁事件

新潟少女監禁事件・佐藤宣行 日本の凶悪事件

新潟少女監禁事件の概要

家庭内暴力に耐えかねた母親が病院に相談したことから、息子が強制入院措置となった。そして2000年1月28日、担当員らが強制入院させるために訪れた息子の部屋に、ひとりの女性がいた。それは9年2か月前から行方不明になっていた少女だったのだ。
男の名前は佐藤宣行。小学4年だった少女を誘拐して以降、劣悪な環境で監禁し続けていた。暴力で支配し、部屋から一歩たりとも外出させなかったせいで、女性は著しく衰弱。歩くことさえできなくなっていた。
そして注目の裁判… 1日でも長い懲役刑にするため検察が出した併合罪とは・・・?

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事件データ

犯人佐藤宣行(逮捕時37)
犯行種別誘拐・監禁事件
犯行日1990年11月13日~2000年1月28日
場所新潟県柏崎市、三条市
被害者数1人(救出)
判決懲役14年
動機話し相手が欲しかった
キーワード

こうして事件は発覚した

2000年1月28日、保健所の職員らは、医師とともにある家へ向かっていた。
その家は母親と20代無職の息子の2人暮らしだったが、母親が息子からの家庭内暴力に悩んだ末に相談をしてきたのだ。

息子の名前は、佐藤宣行(逮捕時37)。
この日は、息子の宣行を強制入院(医療保護入院)させるために7人のチームでやってきたのだった。

新潟少女監禁事件・犯行現場
この家の2階が監禁場所だった

家に到着した職員らは、母親に案内され宣行の部屋がある2階へ上がった。家に入った時から感じていた臭気は、2階に上がるにつれ耐えられないほどひどくなった。

ドアを開けた時、宣行はベッドで寝ていたが、職員らに気付いて声を荒げた。宣行は暴れたが、彼らはこれをなんとか制圧し、家から連れ出した。
この時、宣行は「もう終わりだ!うまくいってたのに!」と叫んだという。


宣行が連れ出されたあと、ベッドの上の毛布のかたまりがわずかに動いたのに職員が気付いた。毛布に何かがくるまれているようだった。不審に思った職員が毛布をめくってみると・・・。
驚いたことに、中から出てきたのはひとりの女性だった。

職員らは女性にいろいろ質問した。その結果、この女性は1990年11月から行方不明になっていた少女Aと判明した。なんと彼女は9歳の時に誘拐され、9年2か月もの間この部屋に監禁されたまま、一歩も外に出ていなかったのだ。

新潟少女監禁事件 密室の3364日

彼女は1日1回コンビニの弁当を与えられていただけだった。そのため瘦せ細り、自分で歩くことができないほど筋肉も退化していた。母親にバレないようするため風呂は禁止、トイレも部屋の中で袋にさせていた。

宣行は、新潟県警によって逮捕された。そして取り調べでいろいろなことが判明した。

少女A誘拐の経緯

誘拐したのは宣行が28歳、少女Aは9歳(小学校4年生)の時だった。
1990年11月13日午後3時ごろ、宣行は母親の車でドライブに出かけた。そして午後5時頃に50kmほど離れた三条市の農道で、少女Aを見かけて誘拐を決意した。

宣行はAの前で停車し、ナイフを持って車から降りた。そして、Aにナイフを突きつけて「おとなしくしろ。声を出すな」と脅迫し、身体を抱え上げて車のトランクに押し込んだ。
家に向かう途中でAの手足を粘着テープで縛り、目隠しをした。柏崎市の家に着いたのは午後8時頃だった。

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少女Aを家の中に入れる時は、母親に見つからないように細心の注意をした。そしてAに対し「誘拐で殺された女の子みたいになりたいか。約束を守らなかったら、山に埋めるか海に浮かべてやる 」と脅した。
さらに、「この部屋からは出られない、ずっとここで暮らす」と話した。

一方、Aの母親は、午後7時45分頃に警察に捜索願を提出。これを受け、新潟県警の三条警察署と学校関係者100人以上、翌14日には200人以上が捜索に当たったが、手がかりさえ見つけることができなかった。

失踪から2日経った15日には「女子小学生不明事案対策本部」が設置された。捜索範囲を拡大し、ヘリコプターによる捜索、空き家などの捜索や、夜間検問も実施された。
11月16日にはビラ2000枚を配布したほか、三条市教育委員会も全小中学校を対象に、不審者に関するアンケート調査をした。

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17日、対策本部はAの顔写真入り手配書を20000枚作成し、県内全域に配布したが、有力な情報は集まらなかった。
失踪現場は幹線道路から外れていたため、土地勘のある犯人像を描いていたが、数週間後には車による連れ去り事件との見方が強まり、捜査一課が投入された。
そして、三条市や燕市など県央地域で、前歴のある者を1000人以上リストアップするなど、重点的な捜査が行われたが、距離のある柏崎市は捜査の対象にされなかった

少女に課せられた非情なルール

新潟新潟少女監禁事件・監禁部屋
このベッドから降りることさえ許されなかった

宣行は少女Aに対し、顔面を数十回殴打したりナイフを突きつけたりしながら、自分のいいなりにさせていた。当初、自身の外出や就寝時には、Aの両手足を緊縛していたが、2~3か月後に手の緊縛は解いた。しかし足の緊縛については1年ほど続き、Aの脱出意志を喪失させた
宣行は少女Aにいくつかのルールを課していた。

  • 大声を出さないこと
  • 暴れないこと
  • ベッドから許可なく降りないこと
  • ドアの開閉時、部屋の外を見ないこと

これを破れば、相手がまだ10歳前後の少女であるにもかかわらず暴行を加えた

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1~2年目からは暴行の道具として、スタンガンを使用し始めた。Aは叫び声を上げたら刺されると思い、自分の身体や毛布を噛んで耐えた。
また、ビデオ録画などの雑用をこなさなかったり、プロレス技をかけられAが苦痛に声をあげたときなどにも、スタンガンによる暴行が加えられた。

宣行は9年2か月の監禁期間中、軽い殴打は700回程度、力を込めた殴打は200から300回程度に及んだと供述している。

Aはある時期から、目を殴られると失明すると思い自ら頬を差しだしたり、スタンガンの痛みに慣れるため自らの身体に使用したりしていた。また、暴行の最中に「殴られているのは自分ではない」と、もうひとりの自分を脳内で作り出すようになった。(解離性障害の症状)

劣悪過ぎる生活環境

生活も、劣悪を極めた。Aは1日に1度、コンビニの弁当を与えられるのみだった。トイレも行かせてもらえず、ビニール袋にさせられていた。(その袋は廊下に置かれていた。)
運動も禁止で、Aの筋肉は衰える一方だった。そのため、ひとりで歩くこともできなくなっていた。
発見後の検査では著しい栄養不良に加え、両下肢筋力低下、骨粗鬆症、鉄欠乏性貧血などが認められ、46kgあった体重は38kgまで減っていた。

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宣行は、少女Aの身体的な成長を台無しにした。しかし、精神的な部分に関しては 「彼女の思考能力が子供のままでいないように」 と考えた。そのほうが自身の話し相手としても都合がよかったのだ。

そのため、漫画や新聞を読ませて言葉や表現を身につけさせ、テレビやラジオのニュースの内容について議論したりもした。宣行の趣味の競馬や自動車についてAと語り合うこともあった。

また「因数分解は必要ないが、比例式は覚えた方がいいので教えた」と供述している。Aが保護された後の検査では、知的レベルに目立った低下は見られず、知識量や語彙においても目立った遅れはないとされた。

犯人・佐藤宣行の生い立ち

佐藤宣行

佐藤宣行は1962年7月15日、新潟県柏崎市で生まれた。

当時タクシー会社役員の父親は62歳、保険外交員の母親は36歳と、年老いてからの子供だったため、「ボクちゃん」と呼ばれ、何でも買ってもらえるほど溺愛されていた。
小学1年の時、家を新築して2階の10畳ほどの洋間を与えられる。これが事件の監禁場所になった。

中学1年の時、不潔恐怖症と診断される。(父親も不潔恐怖症)その頃、宣行には70半ばを過ぎた父親は薄汚れて見えたため、嫌っていたという。そのためか、次第に父親に暴力を振るうようになり、やがて暴力は母親にもおよんでいく。

コンビニは通える引きこもりたち

工業高校時代は目立たない存在だった。身長は175cmと大きかったが、なよなよしていたため”オカマ”と呼ばれていた。この頃から、自分の殻に閉じこもるようになっている。

高校卒業後、自動車部品の製造会社に就職するが、些細なことで家に帰るなどの行動が目立ち、数か月で会社を退職している。

宣行が19歳の時、父親は暴力に耐えかねて、追い出されるように老人介護施設に入った。それからは、母親と2人暮らしとなる。一時は母親からの自立を目指し、自宅内に独立した居住スペースを設けることを考える。母親も同意したため700万円をかけて増築工事をしたが、部屋に職人を入れたくないとの理由でこれを中止している。

犯罪行為の始まり

1989年6月13日、宣行は新潟県柏崎市で、下校中の小学4年生の女児(当時9歳)にいたずらしようとした。しかし、目撃した上級生が学校に報告したため、宣行は学校事務員に取り押さえられ、柏崎警察署にわいせつ未遂容疑で現行犯逮捕された。

宣行は起訴され、懲役1年(執行猶予3年)の有罪判決を受けている。この事件の2か月後、老人介護施設に入所していた父親が89歳で亡くなった。

柏崎署新潟県警本部は、この時に強制わいせつで逮捕した宣行を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定した後も登録漏れのまま放置していた。
このミスがなければ、少女Aはもっとはやく発見・保護されていた可能性があった。

執行猶予の約半分が過ぎた1990年11月13日、宣行は本事件の被害者・少女Aを誘拐して監禁を開始する。

宣行の家庭内暴力は依然として続いていた。監禁開始から5年経った1996年1月、母親は保健所にそのことを相談。職員は家庭訪問を提案したが、母親は宣行を刺激することを恐れて断っている。その代替案として、宣行は精神病院で治療を受け、向精神薬を服用することになった。

この頃から母親は、日中は宣行を避けるため外で過ごすようになっていた。

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1999年頃から、宣行は母親に対してもスタンガンを使用し始めた。自分の思い通りにならないと、殴る蹴るのうえに、縛り付けてトイレにも行かせないこともあった。
同年12月に母親は再び精神病院を訪れ、宣行の家庭内暴力が激しくなっていることを訴えた。担当医師は強制的手段として医療保護入院を提案、母親もこれに同意した。

翌2000年1月19日にはその判断のため、保健所職員と柏崎市職員が家に訪れたが、宣行は面会を拒絶。そのため、精神病院・保健所・市役所などが協議を行い、医療保護入院が決定した。

そして2000年1月28日、強制入院のため宣行の部屋に入った保健所職員らが、19歳になった少女Aを発見した。

宣行は懲役14年が確定し、千葉刑務所で服役した。

佐藤宣行は死んだ?

刑務所に入って10年後、母親が亡くなっている。服役中だった宣行は、唯一の見方である母親の死に目にも会えなかった。

宣行は、服役中に精神障害者と認定され、障害者2級の手帳を取得していた。獄中では問題行動を何度も起こし、矯正の効果はあまりなかったようだ。

2015年頃、52歳で刑期を終えた宣行は、千葉県千葉市のアパートで生活保護を受けながらひとりで生活していた。まわりにバレないようにするためか、別姓で暮らしていたという。

そんな宣行だが、2017年頃に自室で倒れているのを発見され、検視により病死が確認された。病名は明かされていない。

裁判:併合罪の解釈

裁判は、一般傍聴席27席に対し、傍聴希望者数は2272人(抽選倍率:84.1倍)と世間の注目の高さがうかがえた。これは、新潟地裁史上最多記録である。

宣行は少女Aを友達と認識しており、裁判では「少女Aは、私の言いつけを本当によく守るようになった。これからは、ずっと一緒に暮らしたいと思っていた。競馬や自動車など、対等に話ができた。少女Aのことは、基本的に好きだった。同世代の女性と思っていた。かけがえのない話し相手だったので、解放することはできなかった」と供述した。
そのうえで、初公判で読み上げられたAの供述調書の内容に、「自分はうまくやっていたと思っていたのに、実は恨まれていたとわかった」と述べた。

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また、宣行は監禁期間中に少女Aの着るもの(キャミソール4枚、2400円相当)を盗んで捕まっている。これは弁償も済ませて解決していたが、この窃盗罪がこの裁判の重要なカギとなっていく。

精神鑑定

第3回公判(2000年7月26日)にて、弁護側は精神鑑定の実施を求めた。一方、検察側は「善悪を判断する理性はあり、精神鑑定の必要はない」と却下を求めた。

しかし、第4回公判(2000年10月3日)で精神鑑定の実施が告知された。鑑定担当者については犯罪心理学が専門である小田晋(帝塚山学院大学教授)が選ばれた。

小田晋による精神鑑定

被告人・佐藤宣行には分裂病型人格障害強迫性人格障害などの人格障害が認められるが、物事の筋道に従って行動する能力を失ったり、著しい障害を有する状態とは判定されない。他に自己愛性人格障害も認められる。また、被告人が訴えている幻覚や妄想などは拘禁生活の影響で誇張されたものであり、犯行には直接、影響していない。

被告人は狭義の精神病には罹患していない。拘禁には耐えうる。しかし、強迫性人格障害や分裂病型人格障害があることは明白であり、被告人の犯行に若干の影響を与えたことは考慮すべきであろう。

事件直後に宣行が収容された病院の副院長と、簡易鑑定を行った新潟大学付属病院の医師が診断した病名は、分裂病質人格障害、強迫性障害、自己愛性人格障害小児性愛の4つであった。弁護側は小田鑑定書の内容に同意しつつも「心神耗弱の主張は続ける」と述べた。

第5回公判(2000年12月5日)では少女Aの両親が検察側の証人として出廷し、「娘は『被告人は全部の人の前からいなくなってほしい』と言っている」と述べた。

第一審判決・懲役14年

2001年11月30日に開かれた第7回公判において、検察官は宣行に懲役15年を求刑した。
検察官は犯行について「鬼畜に劣る悪行」「非人道的で、血の通った人間の行為とは思えない。極悪非道である」などと厳しく糾弾した。また、未決勾留期間の日数については「1日たりとも刑期に算入すべきでない」と異例の主張をした。

未決勾留期間

逮捕後に勾留されていた日数のこと。裁判で決まった刑期(懲役〇年)から差し引くことができるが、裁判所の裁量で日数は変わる。
懲役1年で未決勾留日数60日算入という判決の場合、60日は既に服役が終わったものと見なされ服役期間は10ヶ月になる。

一方、弁護人は、小田鑑定書の「強迫性人格障害や分裂病型人格障害があることは明白であり、被告人の犯行に若干の影響を与えたことは考慮すべきであろう」という部分を強調し、宣行が当時心神耗弱の状態にあったと改めて主張した。

また略取誘拐罪は、少女Aを支配下に置いた時点で完結しており、すでに公訴時効だと主張した。
さらに、犯行には計画性がなく、監禁中少女Aに娯楽を与えようしていたことなどを指摘した上で「情状を考慮して、適正に判断していただきたい。被害者の気持ちは理解できるが、量刑の均等を取らなければならない」と結んだ。

宣行は「被害者に申し訳ないことをした」と述べ、これをもって全7回の審理が結審した。

2002年1月22日に判決公判が開かれた。新潟地裁は宣行に懲役14年の判決を言い渡した。未決勾留日数は350日を刑に算入した。

新潟地裁は、略取誘拐の公訴時効について、誘拐と監禁は合わせて一連の犯行とみなされるため、略取誘拐のみの公訴時効は認めない方針を示した。
心神耗弱についても、被告人には強迫性障害や人格障害が認められるが、犯行当時、心神耗弱状態にあったとは認められない、として主張を退けた。

量刑については以下の点を理由としてあげた。

  • 身体の成長が著しく阻害されており、回復には長期にわたる専門的措置が必要
  • 解放後も、監禁時の恐怖、暴行や脅迫を忘れられず、想像を絶する苦痛を味わっている
  • 重要な成長期の人生を奪われ、取り返すことは不可能。今後の人生への影響はあまりにも大きい
  • 被害者側の処罰感情は、極めて厳しい

そして、「被告人は捜査段階では、少女Aは自分との生活を楽しんでいた、と思っており、Aの気持ちを推し量ることのない自己中心的な態度だった。また、捜査・公判を通じて、自己の刑事責任を軽減するかのような供述をしている。過去の強制わいせつ罪の執行猶予期間中に犯行に及ぶなど、規範意識は欠如しており、再犯のおそれが高い」と指弾した。

一方で、略取誘拐に計画性はなく、少女Aの失踪後の警察の対応に問題があったことで監禁期間が長期化したこと、結果的に少女Aが生きて救出されたことや、被告人は罪を認め、少女Aの真意を知ってからは謝罪の手紙を出すなど反省の念を示していること、年老いた母親が被告人の帰りを待っていることなど、被告人にとって有利な情状も指摘した。

その上で、「稀に見るほど悪質で、被害者に長期間にわたり多大な苦痛を与え、人生の重要な時期を奪い取っており、この点はもはや取り返しがつかない。犯行は極めて悪質で、被害はあまりにも重大、刑法が想定する犯行の中でも最悪の所為」と指摘した。

窃盗については「弁償して解決済み、非常に悪質とまでは言えない。しかし、監禁を継続するための犯行という点では、相当に悪質である」と指摘した。

そして、逮捕監禁致傷罪は最高で10年の懲役刑であることをあげ、その量刑では到底適正妥当な量刑とは言えず、併合罪加重をした刑期の範囲内で、被告人・佐藤宣行を懲役14年の刑に処する、と結論づけた。

宣行は控訴の意志を見せたため、判決翌日の24日に弁護人が東京高裁への控訴手続きを行った。
一方、新潟地検は控訴しなかったため、今後の量刑は最高で14年以下となることが確定した。

控訴審判決・懲役11年

東京高裁で2002年10月22日に控訴審初公判が開かれた。
一審判決の、併合罪加重による懲役14年が妥当であるか、が争点となった。

弁護人は「一審判決には量刑不当および手続きの誤りがある」と指摘した。

2002年12月10日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁は第一審判決を破棄自判し、宣行に懲役11年の判決を言い渡した。東京高裁 は一審判決の併合罪解釈が誤りとしたのだった。

つまりこれは、「逮捕監禁致傷で最高刑の10年、窃盗で1年の計11年という足し算式の量刑が妥当。今回のようなケースを想定して、逮捕監禁致傷の上限が懲役10年で軽すぎるとするならば、将来へ向けて法律を改正するほかはない」という考え方である。

しかし裁判長は、宣行に対し「判決は14年から11年に短縮されましたが、犯情がよいとか、情状酌量ということでは決してありません。一人の人間の人生を台無しにしたということを、十分に反省するよう、強く望みます」と説諭した。

この判決を受け、被害者Aの家族は、判決に対する不服の念をコメントしている。

東京高検は、法律上通常の上告は断念したが「法令解釈に重要な事項を含む場合は特例として、最高裁に上告できる」という理由から、最高裁判所に上告受理を申し立てた。

一方、弁護側は判決を受け入れる方針であったが、宣行は「懲役11年という判決は、不当に重く不服である」として上告した。

上告審判決・懲役14年確定

最高裁が、初めて併合罪の解釈に判断を示すこととなった
そして、控訴審判決が見直される可能性が浮上した。2003年6月12日に最高裁で上告審の口頭弁論が行われ、検察側・弁護側双方が併合罪の解釈について意見陳述した。

検察側は「複数の犯罪行為が一人の人間に対して行われている。犯罪行為と犯人の人格とを総合評価すべきで、懲役11年の控訴審判決は軽すぎる」と主張した。
弁護側は「検察側の主張では、不当に刑が加重される危険がある」「罪刑法定主義の原則に立つべき」と主張した。

7月10日に上告審判決公判が開かれ、最高裁は、控訴審判決を破棄自判して第一審の懲役14年を支持する判決を言い渡した。
併合罪の解釈について「控訴審判決で示された足し算式の量刑は、解釈を誤った法令違反がある。2つの犯行をそれぞれ別の犯罪として量刑を決め、それを足し算するのが併合罪の解釈ではない。一連の犯行の中に2つの犯罪があり、重いほうの量刑の1.5倍を最高量刑と解釈するのが正しい」と結論付けた。

つまり控訴審判決は、「逮捕監禁致傷で最高刑10年+窃盗で1年=計11年で、これは解釈を誤っている」と判断し、正しい解釈は、「逮捕監禁致傷と窃盗は2つ合わせて一連の犯行とみなし、別々には評価しない。そして量刑の重い逮捕監禁致傷(最高10年)の1.5倍にあたる15年が併合罪の最高量刑」ということである。キャミソールの窃盗は、少女Aの監禁に必要な犯罪なので、別々には考えない、という解釈だ。


宣行はこの判決に対し、判決訂正申立を行ったが、棄却する決定がなされた。
これにより、8月12日付で懲役14年の実刑判決が確定した。

被害は最小に出来たはず

想像を絶する怖い事件です
9年2か月もの間、言葉で言い表せないほどのひどい扱いを受けた被害者のことを考えると、本当に胸が痛みます。それと同時に犯人には最大級の怒りを感じます。
犯人の佐藤宣行は懲役14年を終え、出所後1年で病死したようですが、これは罰が当たったのだと信じたいです。

被害者女性がこの先、少しでも幸せな人生を送れるよう願ってやみません

警察の小さなミスで被害は大きくなる

この事件を調べていくと、「そもそもすぐに解決できる事件だったのでは?」と感じます。
宣行は1989年に一度わいせつ未遂で捕まっています。本来なら警察が前歴者リストに登録するべき案件のはずです。ところがどういうわけか、これを放置しています。もし登録されていれば、もっと早い段階で救出できた可能性がかなり高いです。
誘拐は防げなくても、佐藤宣行を容疑者リストに載せることは容易にできたはずです。

 

凶悪な事件を調べていると、警察のミスや怠慢が被害を大きくしているケースが多くあるのに気づきます。人間なのでミスを100%なくすことは不可能でしょうが、そのミスを二重三重にチェックする仕組みを義務化すべきです。

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