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下関駅通り魔事件|最寄り駅を地獄に変えた卑劣な犯罪

下関駅通り魔事件/上部康明 日本の凶悪事件

下関駅通り魔事件

1999年9月29日、誰もが利用する電車の駅で、恐ろしい通り魔殺人事件が発生した。
場所は山口県のJR下関駅。本来は入ることのできない駅構内にガラス戸を破って乗用車が侵入し、利用客7人を次々となぎ倒した。その後、犯人の上部康明(当時35歳)は包丁を持って車を降り、改札を通り抜け、ホームを駆け上がりながら8人に切りつけた。
この事件で5人が死亡、10人が重軽傷を負った。動機は、実生活上の行き詰まりから自暴自棄となった末の犯行だった。
この事件の3週間前には「池袋通り魔事件」が発生しており、上部康明はこの事件を意識したことを公言。そして足りない部分を補うように、残忍さをアップグレードさせていた。

 

事件データ

犯人上部康明(当時35歳)
犯行種別通り魔殺人事件
犯行日1999年9月29日
場所山口県下関市竹崎町4丁目
JR下関駅構内
被害者数5人死亡、10人負傷
判決死刑:広島拘置所
2012年3月29日執行、48歳没
動機生活上の行き詰まりから自暴自棄となった
キーワード池袋通り魔事件

 

下関駅通り魔事件の経緯

上部康明は対人恐怖症のため、何をやってもうまくいかず、経営する建築事務所も廃業状態だった。そのため、夫婦は実家での同居を希望するも断られ、妻はニュージーランドへの移住を始めていた。

そんな時、自分に合う個人軽貨物運送業の仕事を見つける。だが、軌道に乗り始めた矢先に妻から離婚を突き付けられてしまう。夫婦は事実上の離婚状態となり、妻はニュージーランドに移住した。上部は ”ニュージーランドで妻とやり直す” ことだけを励みにして働いた。

しかし1998年9月、購入した軽トラックが台風18号の高潮で冠水し、130万円のローンを残して廃車となってしまう。両親は家にある軽自動車を使って仕事を続けろと言うが、一刻も早くニュージーランドに行きたい上部にとって、ローン返済と資金作りを頑張る気力はなかった。

絶望の中、犯行を決意

大学を出ても満足な就職もできず、比較的単純な作業の運送業すら成功できないことに、上部は落胆していた。そんな惨めな自分に引き換え、他の人達は上手に生きているように感じた。

次第に「自分は世間から不当に冷遇されてきた」という怒りの感情が湧いてきた上部は、自暴自棄になっていく。

自殺も考えたが、「どうせなら大量殺人をして、誰かを道連れにしてやろう」という考えが頭をよぎった。そうすれば両親や世間に対する怒りも一気に晴らすことができると思い始めていた。

上部は妻と別居状態になった責任の一端は、両親にもあると考えていた。妻がニュージーランド移住を決めたのも、両親に同居を断られたのが原因だったし、今回もローンの肩代わりや移住費用の無心を断られたことを恨んでいた。

大量殺人計画

両親には仕事を続けると言って安心させ、上部は犯行の計画を練った。

まず犯行場所はJR下関駅、決行日は人出の多い10月3日の日曜日に決めた。殺害方法は、以下の2段構えを想定していた。

  • 駅の人混みの中を車で突っ込み、次々と人を跳ね飛ばす
  • 車が使えなくなったら降りて、包丁で刺す

そして犯行直前に多量の睡眠薬を飲んでおき、犯行を終えたころに薬が効いて自殺も完了する、という算段だった。

上部は、犯行の3週間前に起きていた 池袋通り魔事件 を意識していた。彼はこの事件を反面教師として、「池袋の事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」と公判で述べている

上部はまわりに怪しまれないよう、犯行までは普通に生活することを心掛け、代車を借りて仕事も続けた。9月28日には、配達の合間にディスカウントストアーで犯行に使う包丁を購入し、JR下関駅に出向いて犯行の下見をした。

そして荷物を配り終えて帰宅すると、自分の部屋のカレンダーの10月3日の欄に、「スクランブルアウト」と書き込んだ。これは「最後は死んで人生の舞台から退場する」という意味だった。

怒りにまかせて殺害を決意

翌29日、普段通り荷物の配達を始めたが、貨物用の軽トラックと違い、乗用車に無理に荷物を積み込んでいたため、配達先で荷物を取り出すのに苦労した。
上部は犯行日と決めた10月3日まで、この調子で業務を続けるのかと思うと、ひどく憂うつに感じていた。

1999年9月29日。
この日、上部は父親に電話して、軽トラック廃車の手続や費用の精算などを代わりにやってくれるよう頼んだものの、断られてしまう。これまでと同様、こちらの頼みを聞いてくれない父親に対して、上部の怒りは爆発する。

彼はその勢いで「犯行予定日まで待ちきれない」という気持ちになり、急遽レンタカーを借りて、”今日決行する” ことにした。

入念な犯行の準備

下関駅通り魔事件
犯行に使われたレンタカー

上部は一旦家に帰って包丁と睡眠薬を準備したあと、正午前に自宅を出た。その後、JR下関駅前のレンタカー会社に電話して希望の車種があることを確認した。

午後1時15分頃、レンタカー会社でハッチバック車を借りて、下関市内を試運転した。上部は、午後4時30分~5時30分頃なら交通渋滞せず、通行人も多くなると考え、それまで車内で休憩することにした。

ところが、気持ちの高ぶりを押さえきれなくなり、予定より早い午後3時54分頃、JR下関駅に向けて車を走らせる。そして午後4時15分頃、JR下関駅東口に到着する。

上部は、まず駅前ロータリーを一周して様子をうかがった。それから助手席足元に包丁を用意し、睡眠薬120錠を飲んだ。それから車を発進させ、交差点の赤信号で一旦停止。青信号に変わると歩道に向かい、一気にアクセルを加速した。

車ごと駅構内に侵入

下関駅通り魔事件
事件後の様子

午後4時25分頃、車はJR下関駅東口駅舎のガラスのドアを突き破って駅構内の自由通路に侵入。そして、そのまま売店や利用客が大勢いる駅構内を約60m暴走して7人をはねた。

その後車から降り、包丁を振り回しながら改札を通過、2階のプラットホームに上る階段の途中で1人に切りつけ、ホームに上がってからさらに7人に無差別に切りつけた。

上部は駅員に取り押さえられ、山口県警察・鉄道警察隊に現行犯逮捕された。この凶行により、5人が死亡、10人が重軽傷を負った。

平成の通り魔殺人事件|避けようのない恐ろしさ

車ではねられた被害者(7人)

被害者1(当時41歳)全治約5日間
被害者2(当時41歳)全治約2週間
被害者3(当時16歳)全治約6週間
被害者4(当時60歳)全治約5週間
被害者5(当時58歳)死亡
被害者6(当時80歳)死亡
被害者7(当時50歳)全治約2週間

包丁で刺された被害者(8人)

被害者8(当時50歳)全治約8日間
被害者9(当時15歳)全治約1か月間
被害者10(当時55歳)全治約3週間
被害者11(当時79歳)死亡
被害者12(当時74歳)全治約12日間
被害者13(当時68歳)全治約1か月間
被害者14(当時43歳)死亡
被害者15(当時69歳)死亡

上部康明の生い立ち

九州大学工学部
九州大学工学部

上部康明は1964年3月6日、山口県下関市で生まれた。両親はともに教員で、一男一女の長男だった。

地元の小中学校を卒業後、1979年4月に高校入学。上部は将来医者になることを志したが、共通1次試験の成績が悪かったためあきらめている。そして1982年の高校卒業時には九州大学理学部を受験するも不合格となった。

1年間予備校に通い、翌年の共通1次試験では医学部に合格できる可能性のある得点に達していた。しかし「確実に合格できるように」という父親の指示に従い、九州大学工学部・建築学科を受験し、1983年合格した。

対人恐怖症

福岡市内に部屋を借りて大学に行くようになった上部だが、大学では友人もできなかった。次第に他人と視線が合っただけで、「相手が自分を嫌っているのではないか」と考え悩むようになり、自分が対人恐怖症であると自覚する。

そのため上部は就職活動もせず、1987年3月の大学卒業後は、実家に引きこもっていた。そのうち「対人恐怖症を治したい」という気持ちになり、陰陽療法などの民間療法を受けたり、1988年2月から5月頃まで、東京都新宿区の病院に入院して治療を受けたが、十分な改善効果は得られなかった。

結婚して事務所も設立

退院後は医師の勧めもあり、精神科に通院しながら福岡市内でいくつかの会社で働いた。しかし苦手な人間関係に悩み、いずれも長続きしなかった。ところが1989年4月に入社した福岡市内の建築設計事務所が転機となり、対人恐怖や視線恐怖の症状が軽減することになる。

この職場は所長と上部の2人だけであり、対人関係に悩まされることはなかった。しかも所長が営業担当で、上部は実務さえしていればよかったのだ。

そして通院治療の効果もあって精神的に落ち着き始め、翌年頃から症状は軽減、1991年には通院しなくても日常生活を送れるようになった

ニュージーランドの街並み
2人はニュージーランドで結婚

1991年12月、上部は結婚相談所で知り合った女性と交際を始め、翌年4月には女性の住む福岡県久留米市内に移り住んだ。8月には会社を退職し、1級建築士の資格にも合格。12月に福岡市内にある建築構造設計事務所に就職した。

ところが同事務所は所員5名の職場で、上部は人間関係に悩むこととなる。次第に対人恐怖や視線恐怖の症状が出始め、1993年2月8日から再び精神科に通院するようになった。

上部は生活環境を変えるために、父親の援助を受けて福岡市内のマンションに転居。さらに独立して事務所を立ち上げ、主に以前勤務していた建築設計事務所から仕事を受けるようになった。
やがて事務所は軌道に乗り、通院で症状が改善したこともあって、同年9月、ニュージーランドで交際女性と結婚。10月からは福岡市内のマンションで新婚生活を始めた。

事務所は廃業状態へ

しばらく順調に生活していたが、1995年、些細なことから建築設計事務所の所長と喧嘩となる。そのせいで仕事をまわして貰えなくなり、収入は半減。また、営業活動を嫌って仕事を増やすこともできず、収入は減る一方だった。

1997年頃には、上部の事務所は事実上の廃業状態になり、妻が働いて得た収入や、上部の実家からの仕送りでようやく生計を立てられる状態だった。

上部は自己嫌悪に陥り、まわりからも軽蔑されていると思い込んで苛立ちを募らせるようになる。新婚旅行で行ったニュージーランドであれば、煩雑な人間関係から逃れられると考えたりもしたが、言葉の壁もあり、それは困難だった。

次第に将来への不安が膨らみ、1998年1月中旬には夫婦で実家の両親と同居することにした。ところが、そのころ上部の妹が出産のため里帰り中で、両親から断られてしまう。

そんな経緯から、2月には上部ひとりが山口県豊浦郡の実家に戻ることになった。

妻と事実上の離婚

実家に戻った直後から、上部は気に入らないことがあると母親を小突いたり、家の物を壊したり、両親を怒鳴ったりするようになった。両親が夫婦の同居を認めず、妻と別居状態になったことを恨んでいたためだった。

3月からは病院の精神科で治療を受け始め、実家の農業の手伝いを始めた。一方で上部の妻は、ニュージーランド移住の意思が固かった。夫婦は話し合い、妻が単身でニュージーランドで1年間暮らした後、帰国して上部の実家で一緒に生活するということで折り合いを付けた。
そして妻は同年5月、ニュージーランドに出国した。

上部は通院でさまざまな精神症状が軽減したこともあり、定職に就いて妻の帰国を待とうと考え始めた。そんな時、個人軽貨物運送業者の募集を知る。営業や交渉が不要なこの仕事なら、自分に向いていると考えた上部は、10月頃に事業説明会に参加したのち会社と契約した。

そして軽トラックを約160万円のローンで購入し、1999年2月から仕事を始めた。

妻から離婚の申し出

上部の考えた通り、軽貨物運送の仕事は性に合っていた。彼は仕事に励みつつ妻の帰国を心待ちにしていたが、6月中旬に帰国した妻から突然離婚を求められる

上部は離婚には反対だったが、妻から強く求められ、やむなく承諾した。しかし両親が強く反対したので、離婚届こそ出さなかったが、7月には妻が渡米したため、事実上の離婚状態となる。

精神的な支えを失った上部だったが、軌道に乗り始めていた軽貨物運送の仕事で金を貯めてニュージーランドに移住すれば、妻と復縁できるかもしれないと考え、英会話の勉強を始めた。

一方で妻との関係がおかしくなったのは両親のせいだとして、以前にも増して両親に当たるようになった。

そして犯行を決意

下関駅通り魔事件
事件現場となった駅ホーム

同年9月24日、台風18号が下関を通過した。上部は荷物の配送ターミナルに向かう途中で、台風の影響の高潮で車が海水に浸り、修理不能な被害を受けてしまう。車両保険にも入っていなかったため、廃車にしても残りのローン130万円を払い続けるという、最悪な状態になってしまった。

上部は父親に「軽トラックのローンの肩代わり」と「ニュージーランド移住費用」を無心したが断られ、実家の車で運送業を続けるよう説得された。
何をやってもうまくいかない」と落胆した上部は、その責任が両親と社会にあると考えるようになる。

そして思い悩んだ結果、「大量殺人をして自殺する」という結論に達した。両親や世間に思い知らせてやる、という身勝手な動機だった。

事件を起こしたのは1999年9月29日。レンタカーでJR下関駅構内に侵入、7人をはねて2人が死亡。その後、車を降りて改札を通り、包丁で8人を襲い3人を殺害。5人殺害して10人に重軽傷を負わせる大事件となった。

裁判では最高裁まで争ったが死刑が確定。2012年3月29日、死刑執行となった。48歳没。

同じ日に3人が死刑執行された

下関駅通り魔事件

この日は全国で3人の死刑囚の死刑執行が執り行われている。
「下関駅通り魔事件」上部康明死刑囚(広島拘置所)*本事件
「横浜前妻一家殺人事件」古沢友幸死刑囚(東京拘置所)
「宮崎連続強盗殺人事件」松田康敏死刑囚(福岡拘置所)

裁判

起訴前の簡易鑑定では「責任能力に欠けるところはない」とされていた。

山口地裁で始まった第一審公判では、裁判所の判断で2回の精神鑑定が行われた。

福島章・上智大名誉教授(犯罪心理学)の鑑定
「善悪の判断能力や判断に従って行動する能力は著しく減退していたが、完全に喪失していたとは言えない」として、責任能力を限定的に認める「心神耗弱」を示した。 

保崎秀夫・慶応大名誉教授(精神医学)の鑑定
「著しい障害があったとまでは言えない」として、「完全責任能力」を示唆した。

弁護側は「上部被告は犯行時に統合失調症(精神分裂病)による心神喪失か、少なくとも心神耗弱状態にあった」と主張して、無罪または刑の減軽を求めていた。

2002年9月20日、第一審判決公判が開かれ、裁判長は上部被告の完全責任能力を認めて死刑を言い渡した

最高裁で死刑確定

控訴審でも弁護側は刑事責任能力の有無を争い、精神鑑定が行われたが、「上部被告は対人恐怖症だったが、善悪を判断する能力を著しく減退させるものではなかった」という結果であった。

2005年6月28日の控訴審判決で裁判長は、一審の死刑判決を支持して、控訴は棄却された。

最高裁

2008年6月13日の最高裁弁論で、弁護側は「社会に迫害されてきたとの妄想に支配されたための犯行で、当時は自己制御能力が喪失状態だった」と主張し、死刑判決の破棄を求めた。

検察側は「実生活上の行き詰まりから自暴自棄となった末の犯行で、比類のない極めて凶悪な無差別殺傷事件」と反論し、改めて死刑を求めた。

2008年7月11日の判決公判で、最高裁は一審・二審の死刑判決を支持し、上部被告の死刑が確定となった。
裁判長は「記録を調査しても、上部被告が犯行当時、心神喪失、心神耗弱ではなかったとした高裁の判断は相当だと認められる」と述べ、弁護側の主張を退けた。

その上で、「将来に失望して自暴自棄になり、自分をそのような状況に陥れたのは社会のせいなどとして、社会に衝撃を与えるために多数を道連れにする無差別大量殺人を企てた」と指摘。「何一つ落ち度のない駅利用者らを襲った犯行は極めて悪質」「動機に酌量の余地は見いだせず、犯行態様も残虐、非道というほかない」と述べた。

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