「富岡八幡宮殺人事件」の概要
2017年12月7日、由緒ある勧進相撲発祥の地「富岡八幡宮」で、お家騒動から発展した殺人事件が発生した。元宮司の富岡茂永(当時56歳)が、当時の宮司である姉を殺害したのだ。
犯行後、茂永は共犯の妻を殺害、そして自身も自殺した。犯行のきっかけは、姉が宮司に就任したことだった。自身の宮司解任は姉の画策と考え、妻が差別的な扱いを受け続けた恨みもあり、夫婦は犯行を決意。帰宅した姉が車を降りたところを日本刀で襲い掛かった。
人格者であるはずの神職の醜い惨劇に、世間は大きく落胆。「神の怒りにふれて罰が当たった」としか思えない事件だった。
事件データ
犯人 | 富岡茂永(当時56歳)犯行後自殺 |
共犯 | 富岡真里子(当時49歳)茂永の妻 犯行後、茂永が殺害(自殺幇助) |
事件種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 2017年12月7日 |
場所 | 東京都江東区富岡 |
被害者 | 1人(犯人の姉) |
判決 | 容疑者自殺のため不起訴 |
動機 | 宮司の座を奪われた恨み |
キーワード | 跡目継ぎ争い、宮司 |
「富岡八幡宮殺人事件」の経緯
富岡八幡宮は勧進相撲発祥の地として広く知られる由緒ある神社で、地元では八幡様の名称で呼ばれていた。この神社は観光スポットとして年間30万人の集客があり、それだけでも数十億円の集金力があった。
そんな富岡八幡宮の宮司を代々努めてきた富岡家には、億単位の年収があったという。神社の収入以外にも周辺の土地からの不動産収入もあり、かなり裕福だったのだ。
富岡家には茂永という跡取り息子がいた。茂永は1995年、体調の優れない父親(第19代宮司)から地位を受け継ぎ、第20代宮司に就任。彼はこの神社が「勧進相撲発祥地」であることを利用して、新横綱の土俵入りを記念する興行「刻名奉告祭」などを行い、さらなる参拝者増加に貢献した。
しかし、その一方で茂永の素行は悪く、神社の巫女に手を出したり、神社の賽銭で銀座のクラブを飲み歩いたり、ラスベガスのカジノで豪遊するなど、日常的な放蕩行為が問題視されていた。
これを見兼ねた19代目の意向を受け、2001年5月には茂永は宮司の職階が解かれ、父親(19代目)が宮司に復帰した。
この時、茂永は「退職金」の名目で1億2千万円を支給され、毎月30万円の経済的援助も受け続けていた。この措置は、茂永が「神社関係者や富岡家に迷惑をかけない」という約束のもとに行われた。
そのため、当初は大人しくしていた茂永だったが、次第に不満を募らせていく。
宮司のままでいられれば、かなりの収入があったことを思えば、月々の援助など彼にとって ”はした金” なのだ。
骨肉の争いが始まる
茂永は、「解任されたのは、姉の長子さんが画策したクーデターによるもの」と考えていた。
逆恨みした茂永は「積年の恨み。地獄へ送る」などと脅迫的な内容のハガキを送りつけるようになり、2006年には長子さんが警察に相談。これにより茂永は警視庁に逮捕され、裁判で罰金の支払いを命じられた。
この一件以降、茂永は長子さんのことを目の敵にするようになった。
2010年10月、父親は高齢のため宮司の職を退き、後継者として禰宜であった長子さんを指名した。しかし神社本庁からの返答はなく、事実上「宮司就任拒否」の状態が続いたため、長期にわたって宮司が存在しない事態となった。
日本各地の神社を包括する宗教法人。
長子さんの宮司就任拒否の理由は、「長子さんの経験不足」と、のちの取材で回答している。
そんな中、父親は2012年7月に他界。
長子さん側はその後も弁護士を介入させるなどしたが、神社本庁との話し合いは一向に進展しなかった。この事態に業を煮やした同神社の責任役員会は、2017年9月28日、神社本庁から離脱することを決定した。
こうして長子さんは、正式に第21代宮司に就くこととなる。これにより、茂永が宮司に復帰することは事実上なくなった。彼は腹を立て、そして絶望した。
茂永は、自身の妻・真里子名義で神社本庁に告発状を送付するなどの嫌がらせをくり返した。
長子さんは自分たちへの中傷文をブログで公開し、「嫌悪感以上の異常さを感じました」と感想を述べている。
姉・長子さんへの憎悪
茂永は、「私は死後も怨霊となり、永遠に祟り続ける」などの脅迫めいた文章に加え、自分の息子を宮司に指名することを要求する手紙を、学校や責任役員の自宅に送り付けていた。さらに全国の神社関係者や氏子達・ダイヤモンド社にも郵送、その数なんと約2800通にもおよんでいた。
これに対し神社側は、「このまま嫌がらせや脅迫を続けるなら、経済的支援を中止する」と通告。すると茂永からの迷惑行為はなくなったという。
長子さんは安堵したが、茂永は納得したわけではなかった。これまで嫌がらせで発散できていた不満や怒りは、行き場を失くして茂永の中で増幅していく。
茂永が長子さんを憎悪した理由のひとつに、長子さんの金遣いの荒さにもあった。茂永ほどではないにせよ、浪費癖だけは長子さんも変わらなかった。
長子さんは「2億円豪邸」といわれた洋館風の自宅に10匹の犬と暮らし、室内には1000万円の豪華なシャンデリア、運転手付きの車で新宿歌舞伎町のホストクラブに通い詰め、月200万円も豪遊していた。
長子さんの浪費や贅沢を見るにつけ、茂永は長子さんへの憎悪を大きくしていった。減少傾向だった参拝客を自分が戻したのに、姉はその儲けで豪遊しているうえに、自分と違って非難もされないと感じたのかもしれない。
長子さん殺害を決意
行き場のない怒りは、茂永に最悪の決意をさせてしまう。それは「長子さんを殺害する」というものだった。
2017年12月7日の夜更け、富岡八幡宮に帰宅した長子さん(58歳)が車から降りようとしていたところを、通用門付近で待ち伏せていた茂永(56歳)が日本刀を振りかざし現れた。妻の真里子(49歳)も一緒だった。
茂永は長子さんと運転手を襲撃、逃走する長子さんの背後から首を斬りつけた。さらに胸に日本刀を突き刺し殺害。その勢いで日本刀は折れた。
一方、真里子はスーパーマーケットまで逃げた運転手の右肩あたりを斬りつけた。しかし、なぜかとどめを刺さず、「お前だけは許してやる」と吐き捨て逃走した。
その後、茂永と真里子は富岡八幡宮まで逃げたが、茂永は境内にてサバイバルナイフで真里子の胸や腹を刺して殺害。そして自身の左胸を刺して茂永は自殺した。
茂永夫婦は、現場近くにマンションのマンションを拠点として使用していた。部屋は富岡八幡宮を見降ろせる場所にあり、ここから長子さんの動きを監視をしていたものと思われる。
また部屋からは、真里子が警察や報道関係者に宛てて事件前に書いたとみられる手紙(遺書)もみつかっている。
事件のその後
事件の2日後、12月9日に開かれた責任役員会によって、ナンバー2である権宮司・丸山聡一さんが宮司代理を務めることが決定した。(その後、2018年6月28日に正式に宮司に就任)
12月14日、関係者により密葬が取り行われた。神社側は「事件後も神事は継続して行う」と声明しており、普段どおりに神事は執り行われた。
マスコミの報道
東京新聞:神社の近隣住民からは冷ややかな反応があったと報じた。
フジテレビ:年明けの2018年、初詣客のコメントを紹介。「参拝者が10分の1程度に減少した」ことや「参拝列が見られない」など、例年より参拝者が減少していたことを報じた。
毎日新聞:警視庁調べの来訪者数を発表。参拝者が昨年の約5万人から3割減の3万5000人だったと報じた。
富岡茂永の生い立ち
富岡茂永は1961年2月7日、富岡八幡宮の第19代宮司・富岡興永の長男として生まれた。家族は両親、姉(長子)、妹の5人。
江東区立数矢小学校、江東区立深川第三中学校を卒業。國學院大學久我山高等学校を経て、駒澤大学・皇學館大学を卒業した。
学生時代のあだ名は、”金持ちのボンボン” のボンちゃん。「勉強もスポーツもできない金持ち」ということでイジメの対象になった。その”金”にものをいわせて、皇学館進学後は群がる悪友をボディーガードに雇っていたという。
その後、東京都に戻って富岡八幡宮の権禰宜(ごんねぎ) → 禰宜 → 権宮司 → 宮司代務者として修行を積み、1995年、父・富岡興永の退任に伴い33歳で富岡八幡宮の第20代宮司となる。
宮司在任中の1998年に若乃花の横綱昇格の際に刻名式復活を行って土俵入り発表行事である刻名奉告祭を開き参拝者が激増するきっかけとなった。
小錦の刻名式は「外国出身の力士として初めて」という点でも注目されている。
1998年、日本会議の江東支部・初代支部長になり、神社本庁参与・國學院大学協議員・神道青年全国協議会理事も務めるなど、一定の評価を得ていた。このころ羽振りの良かった茂永は、神社本庁に高級外車「リンカーン」で乗り付け、後輩らを引き連れて銀座の高級店を飲み歩き、ラスベガスのカジノに日常的に通うなど億単位の浪費を重ねている。
素行の悪さで宮司解任
ある時、幹部らを中傷する怪文書が出回り「茂永が犯人」と噂されたが、茂永は姉・長子さんの仕業だと疑っていた。
やがて「巫女に手を出す」、「神社の金で豪遊する」などの素行の悪さが問題となり、見兼ねた父親により2001年5月に宮司を退任させられる。
宮司解任後の茂永
茂永は宮司を解任後、2017年夏頃まで福岡県宗像市に移り住んで豪華な暮らしをしていた。
自家用船を所有して趣味の釣り三昧、自宅には高級家具と外車、書斎には日本刀が飾られていたという。当時の写真にはスキンヘッドにサングラス、髭づらの茂永が写り、宮司時代とは似ても似つかない。
宗像市の知人によると、茂永は「金は捨てるほどあると言っていた」と話す。海外にまで釣りに出かけ、ヘリコプターで釣り場に向かうこともあったそうだ。
家の金庫には6億円から8億円があるとの話もあった。
長子さん殺害後、自殺
その後、父親は姉の長子さんを宮司に推薦。しかし、これは神社本庁が認めなかったため2017年9月、神社本庁から離脱することで長子さんは宮司の職に就いた。
茂永は、この一連の跡目継ぎ騒動に逆恨みして本事件を起こす。妻の真里子とともに長子さんを襲撃して殺害。長子さんの運転手も襲われたが、真里子はとどめを刺すことはしなかったため命拾いしている。
その後、茂永は真里子を殺害(自殺幇助)、そして自身も自殺した。2人は事前に犯行後は自殺する決意を固めており、これは予定通りの行動だった。
3度の結婚
茂永は3回の結婚歴がある。最初の結婚では1983年に長男を、1986年に長女をもうけた。だがフィリピンクラブに入り浸り、妻に愛想を尽かされて離婚となる。
2度目の結婚では、1993年に次女が生まれている。結婚直後こそ大人しくしていた茂永だったが、やがて銀座や錦糸町のクラブ通いが復活。ひとりのホステスを愛人にして、その後2000年12月24日に3度目の結婚。この3番目の妻が事件の共犯者である真里子である。
2番目の妻は離婚当時、財産分与を求めると同時に、3番目の妻である真理子にも500万円の損害賠償請求訴訟を起こした。これについて、富岡家は2番目の妻に同情的で、特に母親は「息子は女性を散々泣かせてきて恨まれても仕方のない愚かな人間」とつづっていた。
姉・長子さんとの諍い
この揉め事の発端を作ったのは、姉の長子さんだといわれている。実は、”3番目の妻” の存在を ”2番目の妻” に密告したのは、長子さんだったのだ。
長子さんはこの3年前に神主の資格を取得した際、いきなり大幹部にするよう茂永に要求。しかし、茂永がこれを断ったため、密告はその腹いせと考えられている。
茂永の宮司退任のあとを継ぐ形となった長子さんだが、彼女もまた金遣いの荒さは茂永同様だった。送り迎え付きでホストクラブに通い、月に200万円も豪遊。境内にある2億円の豪邸に、優雅に暮らしていた。
茂永は宮司の座を追われたことについて、「クーデターが画策された」と各方面に送付した手紙で説明。2006年1月、長子さんに「地獄へ送る」などと書いたハガキを送り、脅迫容疑で逮捕された。
この時も「罠にはめられた」と主張し、関係者に対して「長子さんを神社から追放し、自分の息子を新たな宮司に迎える」ことを要求した。そして実行されなかったときは、「死後においてもこの世に残り、怨霊となって祟り続ける」と関係者を呪うような言葉も残されていた。
茂永と仲が悪かったのは姉だけではない。茂永の妹は、「兄は、嫁がいながら深川ゆかた美人コンテストの優勝者に言い寄った。以前から覗きの常習犯だった」と暴露している。
殺害された姉・長子さんについて
茂永の遺書によると、長子さんは中学時代から素行が悪く、シンナーや麻薬、男遊びに溺れ、高校にも行かず錦糸町の喫茶店などでアルバイトをしながら家出同然の生活をしていたという。
20歳の時、喫茶店の客の男性と結婚して子供をもうけたが、夫の暴力のため子供を置いて実家に戻ってきた。当時宮司だった父親の富岡興永さんは、長子さんに富岡八幡宮の経理の仕事を与え、長子さんは神社の事務員となった。とはいえ仕事はほとんどせず、大検の学校や大学夜間部に通っていた。
しかし、それでも経理の立場で「茂永の億単位の浪費」を知ることになる。
茂永は、自身が宮司退任に追いやられたのは、「姉と母親による画策のせい」だとしているが、長子さんが職務で神社の金の流れ(茂永の巨額の浪費)を知ったことが発端だった可能性がある。
2010年、父親が体調不良で宮司を退任した際、神社本庁に長子さんの宮司昇格を申請した。しかし神社本庁は長子さんを「経験も浅く、宮司として不適格」と判断、その後7年間にわたり承認しなかった。
長子さんは5日間の研修を受けたものの認められず、富岡八幡宮側は2017年、神社本庁を離脱して長子さんを宮司に昇格させた。この決断により茂永は、「自分の復帰はなくなった」と絶望し、凶行を決意した。
長子さんは宮司代務者となってからも、運転手付きの車で新宿歌舞伎町のホストクラブで豪遊している。彼女はVIP待遇で、1本100万円のボトルを注文するなど、月に200万円以上使っていたとされている。
2015年頃、富岡八幡宮の借地権の一部(約120坪の土地)を、父親が富岡八幡宮から搾取し、長子さんとその妹に相続させていた。これが内部告発で明らかとなり、神社本庁で大きな問題となっていた。
共犯の妻・真里子について
茂永の妻で共犯者でもある真里子は元ホステスで、もとは茂永の愛人だった。当時、茂永は2度目の結婚をしていたが、やがて離婚。真里子は正式に3番目の妻となった。
真里子は、富岡家や神社関係者との折り合いが大変悪かった。彼女の遺書によると、姉(長子さん)や義母から親族として認めてもらえなかったそうである。
真里子の遺書には他にも「積年の恨みから(長子さんを)殺害することにした」「殺害後はその責任をとり、自害する」「1人で自害できない場合には、夫にその幇助(ほうじょ)を依頼している」などと記されていた。
2002年、富岡家から「結婚差別発言を受けた」として謝罪と賠償を求め、損害賠償請求訴訟も起こしている。万里子曰く、差別発言の原因は「兄が車椅子に乗った障害者であること」だという。
茂永の長男・秀之さんについて
茂永には最初の妻とのあいだに長男・長女をもうけている。
長男の秀之さんは地元の高校を卒業後、2005年6月から時給制のアルバイトとして富岡八幡宮に勤務。昼間はアルバイトしながら、国学院大学神道文化学部2部を卒業した。2010年3月には、神社本庁から神職となる資格を授与されている。
ところが、秀之さんは「勤務態度が悪い」ことを理由に富岡八幡宮を懲戒解雇。裁判で争うも敗訴している。
神社の関係者は「彼はニッカボッカにTシャツ姿で掃除をしたり、神職の見習い期間なのに髭もそらず、もみ上げも伸ばしたり、無断欠勤もあったりで勤務態度は悪かった」と話す。
しかし懲戒解雇の本当の理由は、2011年2月に秀之さんが富岡八幡宮の責任役員に出した手紙だと関係者は続ける。
「秀之さんは神職の資格を得た頃から、長子さんと対立するようになった。後継者として早く権禰宜(ごんねぎ)にするように希望したが、長子さんはそれを認めなかった。そうした諍いから、秀之さんは将来的に自分が幹部になることを書いた上で、神社の経営方針や問題点を手紙に書いた。そのほとんどが、宮司代務者の長子さんを非難する内容だった。神社との関係を断たれた茂永が息子にやらせたのだろう」
それでも茂永は、「姉を殺して自分も死ねば、神職の資格を持つ息子が後継者に指名される」と期待していた。なぜなら、祖母(茂永の母親)が孫である秀之さんをかわいがっていたからである。
だが、結果的にそうはならなかった。
事件後は暫定的に権宮司である丸山聡一さんが宮司代行を務め、2018年6月28日にそのまま正式な宮司に就任している。