「淡路島5人殺害事件」の概要
精神刺激薬 リタリンの長期服用により、近隣の2家族を ”日本政府の工作員” と妄想した平野達彦。「自分の家族は電磁波攻撃を受けている」と思い込み、インターネットで2家族への誹謗中傷を展開。精神病院に強制入院もさせられたが、退院して実家に戻ると再び誹謗中傷を再開し、あげくの果てに2家族の5人を殺害した。
裁判でも「本当の被害者は自分」と言い切り、謝罪も反省も一切なし。一審(裁判員裁判)では死刑判決だったが、二審で心神耗弱が認められ無期懲役に減刑、最高裁で確定した。
事件データ
犯人 | 平野達彦(当時40歳) |
犯行種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 2015年3月9日 |
場所 | 兵庫県洲本市中川原町中川原 |
被害者数 | 5人死亡 |
判決 | 無期懲役 |
動機 | 妄想で被害者を「工作員」と思い込んだ |
キーワード | リタリン、電磁波攻撃 |
事件の経緯
2002年7月頃、平野達彦は自ら注意欠陥多動性障害(ADHD)を疑って精神科を受診し、精神刺激薬「リタリン」を処方してもらった。以降、5年間にわたりリタリンの服用を続けたが、依存性や覚せい作用の問題から、積極的に処方する病院は少なく、達彦は複数の病院を渡り歩くなどして入手していた。
2005年7月13日には、リタリンの処方を渋った新淡路病院の医師を脅していたことがわかっている。
2005年9月、達彦はナタで父親のバイクを壊そうとして警察沙汰になり、「リタリン過剰摂取の影響がある」として強制的に新淡路病院で入院治療を受けた。
翌2006年、達彦は祖父の自殺がきっかけで、幻覚・妄想などを発症するようになる。達彦は、かねてからリタリンの副作用で体に痒みが生じていたが、これを電磁波のせいだと考えていた。インターネットや書籍でその原因を調べるうち、「日本国政府が何十年も前から電磁波犯罪・ギャングストーキングを行い、工作員を使った個人攻撃をしている」「祖父の自殺もそのせいだ」という考えを持つに至った。
そして、近隣住人の平野毅さん一家と平野浩之さん一家を ”集団ストーカー犯罪とテクノロジー犯罪の常習犯” と決めつけ、自分たち家族を攻撃する ”工作員” であると思うようになった。やがて、こうした妄想をTwitter・Facebookなどで訴えたり、家族にも暴力的な行動を取るなど、達彦の精神的不調はエスカレートしていく。
近隣住民とのトラブル
2009年頃から、達彦は平野毅さんの家族に対して迷惑行為や問題行動を起こすようになり、警察沙汰に発展することもあった。やがて、インターネットに平野毅さん一家を誹謗中傷する投稿をしたり、毅さんが ”売春宿を経営している” とする偽ブログを立ち上げたせいで、毅さん宅を風俗店と思った人から電話がかかるようになった。
インターネット上に誹謗中傷する嫌がらせは、平野浩之さんの家族に対しても行っていた。
2010年7月には、達彦の母親が警察や洲本健康福祉事務所に3度も相談している。一方、警察は平野毅さんらに対し、達彦の誹謗中傷に対して刑事告訴することを提言。2010年12月、名誉毀損容疑で達彦は逮捕となったが、意味不明な発言や不自然な言動をくり返すばかりだった。
この件は不起訴処分となったが、達彦は兵庫県明石市内の病院に措置入院させられた。退院後、達彦は明石市内で一人暮らしをしながら、2013年10月までの間に1~2か月の入院を3回、さらに2014年7月頃まで通院治療を続けた。
措置入院とは精神保健福祉法に基づき、”精神障害により自分を傷つけたり、他人に害をおよぼすおそれがある” 場合に、本人や家族の意思にかかわらず、都道府県知事の権限で行われる入院である。
明石市の生活でも、近隣住民を無断撮影した動画をインターネット上に投稿し、その住民を誹謗中傷する行為が確認されている。
再び淡路島の生活
このころ、達彦は入院中に病院で知り合った女性と交際を始め、結婚を考えるなど一時期は安定した生活を送っていた。しかし、2014年9月に女性が覚せい剤で逮捕されたのを機に交際は終わり、金のない達彦は生活に困窮するようになったことから、2014年末には淡路島に戻った。
両親は達彦の異常行動を恐れて関係を断っていたが、息子に懇願されて実家の離れで一人で住むことを了承した。
父親の畑仕事を手伝い、父親から週5千円や米の援助を受けながらの自活生活が始まったが、次第に引きこもるようになった。そして、インターネット上で ”精神工学犯罪” の実在を訴える活動に没頭した。
また、落雷が原因の停電でさえも「電磁波攻撃の証拠」と大騒ぎするなど、意味不明な言動に困り果てた両親は、洲本市に相談したり何度も病院に行くように言った。達彦は従わなかったが、このころは暴力沙汰なども起こしていないため、以前のように強制入院させることもできなかった。
ネットで誹謗中傷を始める
2015年2月14日頃から、奇声を上げながら ”平野毅さん一家の写真を撮る” という迷惑行為を始めたため、洲本署はパトロールを強化。達彦は撮った写真を住所・氏名付きでtwitterなどで誹謗中傷するということを50回以上くり返した。こうした誹謗中傷は、平野浩之さん一家に対してもおこなっていた。
達彦は、Twitter・Facebookにて「スパイリスト」なる名簿を公開していた。リストには平野毅さんや平野浩之さんの親族だけでなく、面識のない近隣住民、警察・行政・病院関係者まで含めた約140人・団体の実名を挙げていた。こうした動きに、近隣住民の間では「達彦に近寄るな」という声が上がるようになった。
「スパイリスト」の内容は、家族構成・勤務先などの個人情報、誹謗中傷や意味不明な主張などである。達彦は面識のない地元の建設会社について、「この会社にインターネットドメインを奪われて祖父母を暗殺された」などと、経営者男性の住所・氏名・電話番号とともに誹謗中傷する投稿もしていた。
2家族の殺害を決意
2015年3月3日、平野毅さんの家族が写真投稿に関して、警察に「事件として扱ってほしい」と要望。これを受け、生活安全課員が証拠収集を開始するなど捜査に着手していた。毅さん一家は2月から3月にかけ、9回も洲本署に相談していた。
兵庫県警も、加古川7人殺害事件(2004年)、尼崎事件(2012年)の教訓を踏まえ、住民相談への対応強化を進めていたが、その方針と現場の警察官では温度差があった。警察官は毅さん夫婦に「達彦を刺激しないように」と助言したり、妻・恒子さんも「睨まれたくらいで通報しないで」と警察に言われたことをメモに残すなど、事態の深刻さを認識できていないと思われる発言があった。
達彦は数年前からTwitter・Facebookなどで「日本国政府が何十年も前から電磁波犯罪・ギャングストーキングを行っています」と訴え、平野毅さんや平野浩之さんの家族に対しても「集団ストーカー犯罪とテクノロジー犯罪の常習犯」と一方的な誹謗中傷を行うなど、異常な行動が見られた。
そして最終的に、「2家族への報復」「裁判の場で『国家ぐるみの精神工学戦争の存在』を明らかにする」の2点を目的として、平野毅さん一家と平野浩之さん一家の殺害を決意した。
平野毅さん宅・平野浩之さん宅は、いずれも達彦宅から半径100m以内の距離。苗字は同じだが、親族関係ではない。毅さん・浩之さんとも人望の厚い性格で、達彦の父親とは親交があった。
平野毅さん夫婦を殺害
2015年3月9日午前4時頃、達彦はサバイバルナイフと2台のICレコーダー・携帯電話を持って隣家の毅さんの家に向かった。敷地内に侵入すると、離れの寝室で就寝していた妻の恒子さんの左胸などを、サバイバルナイフで何度も刺して殺害。恒子さんの死因は、胸部の動脈と心臓の損傷による失血死で、刺し傷は29箇所もあった。
それから母屋に移動し、部屋で寝ていた平野毅さん(当時82)を襲撃。左胸などをサバイバルナイフで27箇所も突き刺し、多発性胸部大動脈刺創による失血により死亡させた。毅さんの家は施錠されていなかった。
ICレコーダーには刺す音のほか、平野毅さんの「やめてくれ」という声、「…のかたき」「よくもお前電磁波を…」という達彦の声が録音されていた。
次に達彦は平野浩之さんの家に向かった。到着すると、母屋の玄関から侵入しようとしたが、鍵がかかっていたのでインターホンを鳴らした。しかし反応がなかったため、達彦は一旦自宅に引き返し、サバイバルナイフに付いた血を水道水で流した。
平野毅さん(夫・当時82歳)
元洲本市職員で町内会長を務めるなど人望の厚い「住民の相談役」で、農業に真摯に取り組む人柄で知られていた。2015年夏からは孫夫婦との同居を控えており、自宅の隣に家を建築中で同年7月に完成予定だった。
事件直前まで県立淡路医療センターに入院していたが、事件の4~5日前に退院していた。
平野恒子さん(妻・当時79歳)
近隣住民からは「控えめに夫を支える性格で『仲のいい夫婦』」として知られていた。
平野浩之さん宅を襲撃
午前7時頃、達彦は再び平野浩之さん宅へ向かった。そのころ浩之さんの家では、母屋で浩之さん(当時62)、妻の方子さん(当時59)、母親の静子さん(当時84)、そして娘の4人が朝食を終え、それぞれの部屋に戻ったところだった。
達彦がインターホンを鳴らすと、玄関を開けて応対したのは浩之さんだった。達彦はわざとタオルを落とし、浩之さんがそれに気を取られている隙をついて、首の下辺りをサバイバルナイフで突き刺した。さらに胸を何度も刺された浩之さんは、倒れながらも起き上がって門の外に逃げ出した。
その時、凶行に気付いた妻の方子さんが、娘に110番するように叫んだが、長女(当時32歳)は気が動転して通報できなかった。方子さんは長女に隠れるように言うと、自ら洲本警察署に電話。達彦は宅内に押し入り、通話中の方子さんに襲いかかった。
電話を受けた署員が詳細を聞こうとした時、受話器が落ちる音と同時に方子さんの悲鳴が聞こえ、そのまま通話は途切れた。方子さんは32箇所刺され、心臓へのダメージでほぼ即死だった。
次に達彦は離れの玄関付近で、「天誅」と叫びながら妻の靜子さんを襲撃。靜子さんは背中などをサバイバルナイフで何度も突き刺され死亡した。死因は心臓・胸大動脈貫通刺創による失血死だった。
一方、逃げた浩之さんは近くのあぜ道に倒れ、携帯電話で「家に達彦が入ってきて刺された」と110番通報したのち絶命した。長女も近隣住人の家に逃げ込み、そこから通報していた。
平野浩之さん(夫・当時62歳)
農業の専門家で、広大な畑を所有していた。中川原公民館の職員は「農業への知識が豊富で、地元の農業団体で役員をするなど人望も厚かった。他人とトラブルを起こすような人柄ではない」と話した。
兵庫県洲本市の測量設計会社を定年退職後、2013年4月から兵庫県洲本土木事務所に嘱託職員として勤務していた。
平野方子さん(妻・当時59歳)
洲本市訪問介護事業所で介護士の手配などを担当しており「人望の厚い性格」だった。
平野靜子さん(浩之さんの母・当時84歳)
短歌のグループで活動していたほか、地元の保育園で給食の調理を担当しており、子供たちからは「給食のおばちゃん」と慕われていた。いつも笑顔で老人会の活動にもよく参加しており、カラオケが趣味だった。
達彦は浩之さんの孫も襲撃の対象としていたが、孫は別の場所で暮らしていて浩之さん宅に来るのは週1~2回ほど。事件当日も不在で難を逃れた。
準現行犯で逮捕
2家族5人を殺害した達彦は、自宅の離れに戻ると返り血を浴びたままの姿で、叔母と母親に「復讐に成功した」と電話で報告。インターネット上のタイムラインにも「復讐一部成功。裁判になるのでもう会えないと思います」と書き込んでいる。やがて警察や救急が到着して外が騒然とするなか、タバコを吸いながらそれを眺めていた。
6人の洲本署員は、鍵がかかった達彦の部屋を、スペアキーで父親に開けてもらった。署員が中にいた達彦に「やったんか?」と確認すると、達彦は「報復したんや、詳しいことは言えんから弁護士を呼んでくれ」と答えた。達彦は準現行犯として逮捕され、洲本署に連行された。その間もICレコーダーは作動しており、気付いた署員が録音を止めた。
逮捕から1カ月経過した4月9日時点でも、達彦は取り調べにおいて「裁判になるまで事件について話すつもりはない」として犯行の一切を語らなかった。しかし、かねてから主張する ”電磁波攻撃” などの妄想については、饒舌に意味不明な説明をくり返していた。
凶器とみられるサバイバルナイフは、ホームセンターなどでは取り扱いがないタイプだったことから、押収した達彦のパソコンを調べた結果、インターネットで購入した履歴が残っていた。
検察は、達彦が事件前から「インターネットに被害者への誹謗中傷や意味不明な書き込みをしていたこと」「過去に精神疾患により入退院をくり返していたこと」を踏まえ、鑑定留置を請求。神戸地裁がこれを認めたため、2015年4月10日から8月31日まで、専門家による精神鑑定が行われた。
起訴後に再度行われた精神鑑定では、達彦の知能指数(IQ)は81または84とされている。
2015年9月8日、神戸地検は達彦を殺人・銃刀法違反の各罪状で神戸地裁に起訴した。神戸地検は達彦の認否を明らかにしなかったが、達彦はこの時点まで取り調べに対して黙秘していた。
被害者5人について達彦自身は「昔からよく知っているが親戚ではない」と供述。また初公判において、検察官も「達彦と被害者5人はいずれも同姓だが血縁関係はない」と説明した。
平野達彦 ~ 生い立ちから事件発生まで ~
平野達彦は1974年8月24日、兵庫県の淡路島・洲本市中川原町中川原の集落で生まれた。NTT関連会社に務める父親は、近隣住民から「世話好きな性格」として慕われていたが、達彦が幼少の頃に両親は離婚した。
母親は離婚以降、淡路島内の別の場所で暮らしている。また、達彦には弟がいるが、事件当時は同居していなかった。
小中学生の頃は、地元のボランティア活動に積極的な父親を持つ活発な少年で、ボーイスカウトにも所属していた。友人と釣りに出かけたり、ラジコンで遊んだりするような普通の子供だったが、いじめに遭い、次第に引きこもりがちになる。
1987年、洲本市立中川原中学校を卒業すると、パソコンに興味があった達彦は神戸村野工業高校(現・彩星工科高等学校)・情報科に進学したが、3年生の時に中退し、それ以降は実家で引きこもり生活を送っていた。その後、警備会社のアルバイトをしたが長続きせず、1992年頃には明石市でバイク店、大工や塗装等の仕事をしたがいずれも長続きしなかった。
2001年頃、父親の転勤に伴い大阪市福島区に移住するが、この頃から達彦に粗暴な言動が見られるようになる。達彦はインターネットの診断サイトで、自分が多動性症候群(ADHD)であると思い、2002年7月、福島区の「大阪厚生年金病院」(現・JCHO大阪病院)を受診。ネット情報で、ADHD治療薬としてリタリンの存在を知った達彦は、病院に処方を求めたことから希望通りリタリンを処方された。
依存性が高さや覚せい作用があることから、病院側ではリタリンの積極的な処方は行わなかった。そのため、達彦は複数の病院を渡り歩いてこれを手に入れた。購入資金がない達彦は母親に金を無心し、入手困難な点に目をつけて、リタリンをネットオークションで転売することもあった。
リタリン(一般名:メチルフェニデート)は依存性が高く、興奮や覚せい効果をもたらすという評判から、1990年代に薬物依存の患者がリタリンを求めて病院を渡り歩くなどの問題が急増した。現在は規制が強化され、処方が困難になっている。
リタリンで凶暴に?
2004年、淡路島に戻った達彦は、NTTネオメイト兵庫で働き始めたが、問題を起こしたため解雇された。相変わらずリタリンの服用は続けており、2005年7月13日には処方を渋った新淡路病院の医師を脅して入手している。
2005年9月、ナタで父親のバイクを壊そうとして警察沙汰になり、その後、新淡路病院に強制的に措置入院させられた。達彦は早く退院できるよう大人しく過ごし、その甲斐あって1ヶ月で退院となった。だが退院して家に帰る車の中で、両親に入院させたことを激しく責めた。達彦はその後も暴力的で荒れた言動をくり返し、金の要求もエスカレート。そんな達彦を、母親は恐れていたという。
達彦の体には、リタリンの副作用で痒みが生じていたが、これを電磁波の影響だと達彦は考えていた。そんな2006年7月、達彦の祖父が首吊り自殺をする。達彦は「工作員が電磁波兵器で祖父に自殺させた」と言い始めた。
達彦の身内が自殺するのはこれが初めてではなく、過去には祖母も自殺している。達彦はこれも工作員の仕業だと考えており、自分を含めた家族が工作員から攻撃されていると思い込むようになった。
リタリン禁止も変わらず
祖父の自殺をきっかけに、達彦の ”電磁波攻撃” などの妄想はエスカレートしていった。そんな折、2007年10月31日をもって、法律でADHDの患者にリタリンが処方できなくなる。こうして、達彦はこれ以降リタリンを服用しなくなったが、それでも暴力的な行いや妄想が収まることはなかった。
2009年4月、達彦は隣人の平野毅さんの孫の男性と揉め事を起こす。達彦は男性に「悪口を言っている」「 生長の家の信者だろう 」と言いがかりを付け、激しい口論となったのだ。平野毅さんと妻の恒子さんもその場にきて、警察や達彦の父親に連絡する騒ぎとなった。
この揉め事はこれで終わらなかった。7月29日、達彦はマフラーを外して轟音をたてるバイクで、平野毅さんの家の前を何度も往復した。これを止めさせようと孫の男性が達彦の前に鉄パイプを持って立ちはだかったところ、達彦は男性めがけてバイクを急発進。ひかれそうになった男性が鉄パイプで達彦を殴打したため、男性は傷害容疑で逮捕され、翌日釈放となるも罰金刑に処されている。
2010年7月、達彦の母親が兵庫県警洲本署や兵庫県洲本健康福祉事務所に「息子がインターネットの投稿を巡って近隣トラブルを起こした」と計3回にわたり相談した。これを受けた洲本健康福祉事務所は ”不測の事態” に備えて「病院受診を勧める際に洲本署の応援が必要だ」と判断し、母親に警察へ連絡させた。
強制的に措置入院
やがて、平野毅さん宅に ”風俗店と間違えた電話” が頻繁にかかるようになる。だが、これも達彦の仕業で、達彦はインターネットに「平野毅オフィシャルブログ」というサイトを作成していたのだ。ブログには平野毅さんの顔や家の写真が掲載され、「売春宿を経営している」「生長の家の信者である」といったことが記載されていた。これ以外にも達彦は、インターネットに平野毅さん一家を誹謗中傷する投稿をしていた。
洲本署員は平野毅さんらに対し「インターネット上への誹謗中傷を名誉毀損で刑事告訴すれば立件できる」と提言。被害届を受理した警察は捜査を始め、2010年12月に名誉毀損容疑で達彦を逮捕した。取り調べにおいて、達彦は意味不明な発言や不自然な言動をくり返し、不起訴処分となるも緊急処置として兵庫県明石市内の明石病院(現・明石こころのホスピタル)に措置入院(県の権限による強制入院)させられた。
明石病院での達彦は、「五感情報を盗聴されている」と怯え、部屋のライトにアルミホイルを巻いていた。また、「入院させられたのは防衛庁の陰謀」と考え、早期退院するために大人しく過ごした。
2011年6月に退院すると、達彦は生活保護を受けながら明石市内で一人暮らしを始めた。しかし、2013年6月頃から「電磁波攻撃を受けている」というメールを母親に送るようになり、母親が精神病患者の家族会で医師に相談したことから、再び2ヶ月ほど入院となった。このように2013年10月までに1~2か月の入院を3回、さらに2014年7月頃まで通院治療も続けた。
明石では落ち着いた生活
明石市に移住した当初こそ、達彦はトラブルを起こすこともあったが、その後は落ち着きを取り戻した。明石市や明石健康福祉事務所との面談を続け、入院してない時期には友人とカラオケに行ったりもした。
明石市在住当時の達彦を知る人は、『神戸新聞』の取材に「引きこもりの状態ではなく、他人に危害を加えるようなこともなかった。洲本市の実家に戻って環境が変わったことが事件に影響したのではないか」と証言している。
2014年初め頃、達彦は入院中に知り合った女性と交際を始め、母親に「結婚を考えている」「就職したい」と述べるなど、前向きな考えを持ち、安定した生活を送っていた。その後、「就職活動のため、病院を変わる必要がある」として病院へ行かなくなったが、実際には別の病院で治療を再開することはなかった。そして同年9月頃、交際していた女性が覚せい剤で逮捕されたため、事実上、交際も終わってしまった。
達彦は ”逮捕された彼女を助けるための費用” を両親に強く要求したが、これまでに重ねた奇行や暴力的な言動のせいで、両親は達彦と距離を置いて関りを拒絶した。
事件発生
2014年12月末、家賃の滞納で明石市のアパートを追い出された達彦は、ネットカフェを転々としたあと、何とか父親の了承を得て再び淡路島の実家に戻った。実家では父親の畑仕事を手伝い、週に5千円と米などの援助を受け、離れで一人暮らしをした。だが、次第に家に引きこもりインターネット上で ”精神工学犯罪” の実在を訴える活動に没頭するようになった。
2015年2月、落雷で停電した時、達彦は「電磁波攻撃の証拠だ」と騒ぎ立てたため、父親は洲本市に相談したり、何度も病院に行くように言ったが達彦は従わなかった。当時は暴力沙汰も起こしていないため、以前のように強制入院させることもできなかった。
2月中旬から平野毅さん・平野浩之さんの家や家族の写真を無断で撮影し、それをtwitterなどに投稿して誹謗中傷するようになった。毅さんらは達彦の逮捕を要望したが、達彦は不在だったり、父親が拒否したりで、警察は達彦と話すこともできなかった。
こうして何の進展もないまま、事件当日を迎えた。2015年3月9日午前4時頃、達彦は平野毅さん宅に侵入して毅さん夫婦を殺害。その後、午前7時過ぎに平野浩之さん宅で家族3人を殺害した。その直後、達彦は自室にいるところを準現行犯として逮捕された。
事件が発生するまで、被害者はもちろんのこと、達彦の両親からも9回にわたって公的機関への通報や相談がされていた。
裁判
裁判の主な争点は、平野達彦被告の「犯行当時の刑事責任能力」であった。検察側は「向精神薬(リタリン)の長期大量服用による被害妄想の影響は認められるが、正常な判断で犯行に及んだ」として完全責任能力の成立を主張した。
一方、達彦被告は鑑定結果に異議を唱え、「精神医学は科学ではなく文学に近いもので、精神科医らは薬剤投与により依存者を増やして虚偽の診断をしている」と自説を展開した。
弁護人は『産経新聞』の取材に対し、達彦の第一印象について「ごく礼儀正しい人柄で落ち着いた印象」と述べている。
また、精神鑑定は起訴前に実施していたが、神戸地裁が公判前整理手続の段階で、2度目の精神鑑定を実施した。
「本当の被害者は自分」
2017年2月8日、神戸地裁で平野達彦被告の初公判(裁判員裁判)が開かれた。裁判長が「無職ですか」と問うと、達彦被告は否定し、「ウェブサイトのサポーターをしている」と3つのサイト名を答えた。
検察側は冒頭陳述にて「達彦被告は被害者家族とのトラブルに対する報復として殺害を考え、事件直前にインターネットでその方法を検索していた」と主張。動機については「服用していた向精神薬の副作用で体に痒みが生じたことを『電磁波攻撃』と思い込むようになった」と指摘した。
犯行後、インターネット上に「復讐に一部成功」と投稿していたことから、犯行は精神障害によるものではなく、正常な心理状態の下で行われた報復と主張した。また、達彦被告が犯行の際にICレコーダーで録音していたことも明かされた。
達彦被告はこれに対し、罪状認否で起訴事実を全面否認し、無実を主張した。そしてメモを約3分間読み上げ、以下のような不可解な主張を展開した。
- 「事件の本当の被害者は自分」
- 「私が5人の命を奪ったとするならば、それは工作員が私の脳を乗っ取った(ブレインジャックした)から」
- 「電磁波兵器によって殺害を強制された」
- 「被害者らはサイコテロリスト」
- 「彼らの目的は、人体実験を兼ねて実行している精神工学戦争」
- 「大企業による複数の犯罪を隠蔽して、私の財産を奪うのが目的。警察もこれに加担している」
弁護側も全面的に争う姿勢を示し、「達彦被告の主張が『あり得ない話』だとするならば、被告は妄想に支配された、心神喪失もしくは心神耗弱状態としか言えない」と述べ、責任能力を否定した。
2017年2月14日の第3回公判で、達彦被告は5人の殺害を認めたうえで、動機については「両家族が電磁波兵器を使う工作員で、自分の私生活の情報を盗み見ていたため、その報復として犯行に及んだ」と話した。事件前に強制入院(措置入院)させられたことには、「措置入院は人体実験が目的で、精神科医は信用できない。精神鑑定の結果も納得していない」と述べた。
2017年2月15日の第4回公判では、被害を免れた平野浩之さんの長女について、「仮に長女と遭遇していたら天誅を下していた(殺害していた)」という意思を明かした。
公判では、遺族による被告人質問も行われたが、達彦被告は返答を拒否したり、「電磁波攻撃をやめろ」などと反論。裁判長の「被害者は殺されても仕方ないと考えるのか」という質問にも「答えたくありません」と回答を拒否した。
精神科医の証言
2017年2月22日の第8回公判では、起訴後の精神鑑定を担当した医師が「達彦被告は向精神薬を長期間に渡り大量服用したために精神疾患を発症し、被害妄想を抱くようになった」と述べたうえで、「被告人には責任能力がある」と証言した。その根拠は、以下のように説明している。
- 「妄想は深刻なものではなく、事件前の達彦被告には暴力的な言動は見られない」
- 「被害妄想が動機に影響してはいるが、金が尽きるなど追い詰められたことで自らの意思で犯行に至った」
- 「犯行を録音したICレコーダーの音声からも冷静な状態だった」
2017年3月1日の第9回公判では、被害者参加制度を利用した被害者遺族らが出廷し、「達彦を死刑にしてほしい」と強い処罰感情を訴えた。
また、同日は起訴前の精神鑑定を担当した医師も出廷し、「精神障害が犯行に与えた影響はなかった」と話した。医師は「被告人の『電磁波攻撃』などの主張はインターネット・書籍などから得た知識で、動機は『以前からの被害者家族との確執』だ。事件の2、3ヶ月前から凶器のナイフを用意するなどしていることから犯行には計画性が認められ、衝動的な行為ではない。被告人は正常な思考で判断したうえで犯行に及んだ」と証言した。
一審は死刑判決
2017年3月3日に論告求刑・最終弁論公判が開かれ、検察側は達彦被告に死刑を求刑。「達彦被告が事件当時、完全な責任能力を有していたことは明らか」と指摘したうえで、「強固な殺意に基づく極めて残虐な犯行」と非難した。
一方で弁護側は「『被害者らは工作員』という被害妄想から起きた犯行。達彦被告は事件当時、精神障害により正常な善悪の判断ができず、心神喪失か心神耗弱の状態にあった」として「無罪か死刑回避が妥当」と主張した。
最後に最終意見陳述が行われ、達彦被告は「殺害行為は自分の意思ではなく、(被害者らに)脳を操作された」「工作員の犯罪を告発している。本当の被害者は私だ」などと主張し、改めて無罪を訴えた。精神鑑定についても「鑑定結果や医師の証言は根拠に基づかず信用できない。精神医学は科学ではなく文学に近い」と訴えた。
2017年3月22日に判決公判が開かれ、神戸地裁は検察側の求刑通り達彦被告に死刑判決を言い渡した。
神戸地裁は判決理由で「向精神薬の大量摂取による精神障害が、『工作員に仕組まれた』という被害妄想を引き起こし、犯行動機に影響した」と指摘した。一方で「精神障害は犯行に影響しておらず、殺害行為は犯罪と認識していた」と事実認定し、完全責任能力を認めた。
その上で量刑理由を「一定の計画性の下で非常に強い殺意を有しており、身勝手な動機から落ち度のない5人もの命を奪った上、犯行を正当化し続けている」と述べ、「被告人の刑事責任は極めて重く、慎重に検討しても死刑を回避すべき事情は見当たらない」と断罪した。
死刑判決の際、遺族の席から拍手が起き、裁判長からたしなめられる場面もあった。
控訴審・大阪高裁
2018年9月28日、大阪高裁にて控訴審初公判が開かれ、弁護側は死刑判決の破棄を主張、対する検察側は一審の死刑判決の支持を求めた。
大阪高裁は「事件の内容・性質や一審の審理状況を総合的に考慮し、再度の精神鑑定を行う必要がある」として、3度目の精神鑑定を実施することを決定。「犯行当時の精神障害の有無・内容」「精神障害が犯行に与えた影響」を調査することとなった。
この決定に対し、弁護側は「達彦被告は自分を統合失調症と考えておらず、被告の尊厳を蹂躙するものだ」と主張、検察側も「過去2回の精神鑑定は十分なもの」と双方が異議を申し立てたが、裁判長はいずれも棄却した。
控訴審の第2回公判は初公判から約10か月後の2019年7月17日に開かれた。精神鑑定を担当した医師は証人尋問で「達彦被告は犯行当時、(一審で認定された)薬剤性精神疾患ではなく妄想性障害だった。犯行には妄想が強く影響している」と証言した。
2019年9月18日の第3回公判では、遺族4人が「達彦被告やその親族から、謝罪どころか連絡すらない」「量刑を軽減される事情とは思えない」と厳罰を求める意見陳述をした。
2019年9月30日の第4回公判で、弁護側は死刑判決を破棄を、検察側は控訴棄却を求め結審した。
- 完全責任能力を認めた一審判決には事実誤認がある
- 妄想が犯行に大きく影響していた
- 控訴審の精神鑑定結果を尊重し、『心神喪失または心神耗弱だった』として死刑判決を破棄すべき
- 被害者の就寝中を選ぶなど合理的に行動していた
- 『5人を殺害すれば懲役刑になる』と理解するなど、善悪を判断して行動する能力は十分備えていた
- 殺害には計画性があり、完全な責任能力が認められる
2020年1月27日、大阪高裁は達彦被告に一審死刑判決を破棄して、無期懲役判決を言い渡した。裁判長は、3度目の精神鑑定結果を採用し、「被告人は妄想性障害により被害妄想が悪化しており、犯行当時は自己の行動を制御する能力が著しく減退した状態(心神耗弱)だった」と認定した。
判決理由として、「一審で採用された『達彦被告は薬物性精神障害だが、完全責任能力が認められる』とした精神鑑定結果は、薬物を服用しなくなってからも妄想などの症状が続いていることを説明できていない」と指摘。鑑定を担当した医師自身の証言も、その後に変遷している点を挙げ「信用性に大きな疑問がある」と説明した。
弁護側は判決を不服として上告した一方、検察側は上告を断念したため、死刑判決が確定する可能性は消滅した。そして2021年1月22日、最高裁が弁護側の上告を棄却したため、達彦被告の無期懲役が確定した。
裁判員裁判で言い渡された死刑判決が破棄され、最高裁で無期懲役が確定する事例は7例目だった。