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勝田清孝連続殺人事件|連続殺人しながらテレビ出演した消防士

勝田清孝/勝田清孝殺人事件 日本の凶悪事件

「勝田清孝 連続殺人事件」の概要

1983年1月31日、銀行で金を下した男性が襲われる事件があった。男性が反撃したために犯人は取り押さえられ、逮捕となったが、このあと警察は驚くことになる。なんとこの犯人・勝田清孝は、10年前から世間を騒がせてきた連続殺人鬼だったのだ。
勝田は1972年9月に最初の殺人を犯して以来、実に8人もの人たちを殺害していた。動機は分不相応な浪費のための強盗で、ほかにも空き巣や窃盗は400件におよんだ。連続殺人をしていた期間に、テレビ番組「夫婦でドンピシャ!」に現職の消防士として出演していたことも話題となった。
そして、稀代の凶悪犯に下された判決は死刑。誰もが予想した結末だった。

事件データ

犯人勝田清孝(当時24歳)
犯行種別連続殺人事件
犯行日1972年9月13日~1983年1月31日
場所愛知県、大阪府、京都府、
兵庫県、滋賀県、岐阜県
被害者数8人死亡
判決死刑:名古屋拘置所
2000年11月30日執行(52歳没)
動機金銭目的
キーワード消防士、クイズ番組出演

女性連続5人殺害

勝田清孝/勝田清孝殺人事件

奈良市で大型トラックの運転手として働いていた勝田清孝(当時23)は、1972年(昭和47年)3月、父親に勧められて消防職員採用試験を受験した。勝田は試験に合格し、4月1日付けで相楽中部消防組合本部に消防士として採用された。

勝田はこの時点ですでに結婚していて、前年には長男も誕生。そして職業は人を助ける消防士。
どこから見ても模範的市民である勝田だったが、彼には裏の顔があった。派手好きで見栄っ張りな性格の勝田は、分不相応な高級車に乗り、店では高級な酒を飲んでホステスにチップもはずんだ。

消防士の給料でそんな豪遊ができるはずもなく、勝田の借金は膨らむ一方だった。そんな彼が取った行動は、空き巣や窃盗。さらにはそれが高じて、彼はこのあと数々の凶悪事件を起こしていく。

強盗殺人1件目

中村博子さん/勝田清孝殺人事件
最初の被害者・中村博子さん

消防士になって5か月が経った1972年9月13日のこと。午前5時過ぎ、勝田(当時24)が京都市山科区で空き巣に入れそうなアパートを物色していると、御陵別所町のアパートで窓が少し開いている部屋に気付いた。

その隙間からハンドバッグが見えたので、勝田はこれを盗もうと考えた。しかし、侵入したところを住人のクラブホステス・中村博子さん(当時24)に気付かれてしまう。

「泥棒!警察に通報する」と騒がれた勝田は逆上し、中村さんを強姦したうえでストッキングで首を絞めて絞殺。さらに現金1000円を奪って逃走した。

殺害現場の中村博子さんのアパート/勝田清孝殺人事件
殺害現場(中村博子さんのアパート)

その後、この部屋で同居しているクラブのマスター(当時25)が帰宅して、ベッドで下半身裸のまま死亡している中村さんを発見する。駆け付けた京都府警・山科警察署は、殺人事件と断定して捜査を開始した。

警察は「痴情関係のもつれ」の線で捜査を開始。第一発見者のクラブのマスターや中村さんが勤務する店の常連客が疑われた。

強盗殺人2件目

藤代玲子さん/勝田清孝殺人事件

消防士として優秀だった勝田は、1974年(昭和49年)には消防副士長に昇格する。だが、相変わらず浪費を重ねて金に困り、休日に長距離輸送のアルバイトを始めた。そのアルバイトで行った先で、2件目の殺人に手を染める。

1975年(昭和50年)7月6日午前1時過ぎ、勝田(当時26)は大阪府吹田市で空き巣に入れそうなマンションを探していた。すると、大阪市北区の高級クラブ経営者・藤代玲子さん(当時35)が、フェアレディZから降りるところを偶然見かけた。

勝田は藤代さんからバッグをひったくることに決め、彼女にそっと近づいた。しかし、ひったくろうとした際、藤代さんは抵抗。もみ合いとなったあげく、勝田はそばに落ちていたロープで藤代さんを絞殺してしまう。

勝田は藤代さんのバッグから現金約10万円を奪い、遺体をフェアレディZに乗せて農業用水池に遺棄した。それから証拠隠滅のため、指紋の付いた車に放火した。

この事件でも警察は顔見知りの犯行と見て、殺害された藤代さんの同棲相手(当時25)や、犯行当夜、会う約束だった会社社長(当時45)が疑われた。

勝田が連続して水商売の女性を狙ったのは、彼女たちがかなりの額を持ち歩いているのを知っていたからである。

強盗殺人3件目

伊藤照子さん/勝田清孝殺人事件
伊藤照子さん

1976年(昭和51年)3月5日午前2時35分頃、勝田(当時27)は名古屋市中区千代田の路上で、シボレー・カマロから降車する高級クラブのホステス・伊藤照子さん(当時32)をみつけて後を付けた。

そして、マンションに向かって歩く伊藤さんの後ろから近づき、バッグをつかんだが騒がれてしまう。勝田は逆上して伊藤さんを絞殺し、現金約12万円を奪った。遺体はカマロに乗せ、40分ほど走行して長久手町の休耕地に遺棄した。この時、捜査をかく乱させるため、遺体の局部にススキを挿して変質者の犯行と見えるような偽装をした。

勝田清孝事件―冷血・連続殺人鬼

警察は、事件発生の直前に伊藤さんと食事していた弁護士男性(当時43)を疑った。この弁護士男性はプライバシーをかき回され、廃業に追い込まれた。また、伊藤さんが勤めていたクラブでは、警察による常連客への聞き込みが続いたため、客足が遠のいてこちらも閉店に追い込まれている。

勝田の私生活は相変わらず派手で、酒と女に金をつぎ込み、車を買い替えるなど借金は増える一方だった。しかし、職場では真面目な消防士を装い、同年10月1日、28歳の勝田は消防士長に昇格した。

強盗殺人4件目

増田安紀子さん/勝田清孝殺人事件
増田安紀子さん

1977年(昭和52年)6月30日午前2時頃、勝田(当時28)は名古屋市南区でいつものように空き巣に入るアパートを探していた。すると笠寺町西ノ門で、麻雀荘のパート従業員・増田安紀子さん(当時28)が、鍵をかけずに犬の散歩に出かけるのを目撃する。

勝田は部屋に忍び込み、奥の部屋の家具から4万円入りの封筒を盗んだ。そして部屋を出ようとしたところ、帰ってきた増田さんと鉢合わせてしまう。驚いた増田さんに騒がれた勝田は、部屋の中に彼女を連れ戻し、そばにあった紐のようなもので背後から絞殺した。

増田安紀子さん殺害現場/勝田清孝殺人事件
殺害現場の増田安紀子さんのアパート

この事件では、増田さんと愛人関係にあった会社員(当時35)が疑われたが、その捜査において会社の金を横領していることが発覚したため、会社員は逮捕された。これにより懲役2年の判決を受け、1年4ヶ月服役している。
会社員は、増田さん殺害についても、勝田の犯行と判明するまでの6年余り嫌疑がかけられ続けた。これに関しては、のちに愛知県警が謝罪している。

殺人の6日後、平然とテレビ出演

勝田清孝・夫婦でドンピシャ!出演シーン/勝田清孝連続殺人事件
夫婦でドンピシャ!」に出演する勝田清孝

ここまで4人の女性を殺害した勝田だが、4件目の殺人から6日後、勝田は驚いたことにテレビの視聴者参加番組に出演する。

1977年7月6日、勝田は妻とともにクイズ番組『夫婦でドンピシャ!』の収録に参加し、みごと優勝。賞金8万円と商品券10万円分を獲得した。

夫婦でドンピシャ!』:1976年4月3日~1982年10月9日まで朝日放送(ABCテレビ)で放送されていた視聴者参加型のクイズ番組。夫婦4組が私生活に関する質問に答え、それが夫婦で同じ答えなら賞金を獲得できる。出演条件は「夫婦で楽しい人生を送っている」こと。
司会者:月亭可朝・海原小浜

勝田はこの番組に1977年2月に応募し、6月15日に局内で行われた予選(面接)に合格した。番組内で勝田は司会者からの「もし奥さんが美人コンテストに出たら100人中10人の合格者に入るでしょうか?」という質問に「自分はやせ型が好みだ。妻はすらっとした体格だからスタイルの面でみれば合格だろう」と回答していた。

放送されたのは1977年8月20日で、この回の視聴率は20%前後を記録した。

海原小浜
海原小浜(左)

司会を務めた海原小浜は、あの上沼恵美子の師匠で姉妹芸人・海原やすよともこの祖母である。
事件発覚後に勝田が逮捕された際、「あの人の顔は人間の顔ではない」と、収録当時を振り返りコメントした。(小浜は2015年12月24日、92歳で逝去)

強盗殺人5件目

識名ヨシ子さん/勝田清孝殺人事件
識名ヨシ子さん

テレビに出て大衆の目にさらされても、勝田の悪事が止むことはなかった。しかも今回は、前回の殺人からたった1か月半しか経っていなかった。

1977年8月12日午後11時過ぎ、勝田(当時28)は名古屋市昭和区小桜町で空き巣に入れそうなマンションを見つけ、帽子やサングラスで変装して3階通路をうろついていた。すると目の前のドアが開き、住人であるポーラ愛知販売会社の美容師・識名ヨシ子さん(当時33)に、「ここで何をしているのか」と咎めるような口調で言われた。

識名さんは明らかに怪しんでおり、騒がれそうな気がした勝田は識名さんを部屋の中に押し込んだ。そして「顔を見られたので通報されるとマズい」と考え、識名さんをパンストで絞殺。遺体はベッドと壁の間に隠し、部屋を物色して45万円相当のダイヤの指輪を盗んで部屋を出た。

殺害現場の識名ヨシ子さんのアパート/勝田清孝殺人事件
殺害現場の識名ヨシ子さんのマンション

識名さんは独身だったが、同じ会社の部長(当時29)と愛人関係にあり、部屋は部長が借りたものだった。部長は翌13日と14日に部屋に入っているが、遺体に気付かず帰った。16日に再び部屋に入った時、異臭がしたので部屋の中を調べて識名さんが死んでいるのを発見した。

警察が部屋を調べた結果、タンスの中の現金40万円が手付かずで残っていた。そのため「怨恨・顔見知り」の線で捜査が行われ、第一発見者で愛人でもある部長は疑われて連日のように事情聴取を受けた。妻が社長の娘だったことから、”将来の社長候補” と目された部長だったが、その後離婚。当然、会社も辞める羽目となってしまった。

この事件の8日後(8月20日)、勝田が出演したテレビ番組『夫婦でドンピシャ!』が放送された。

偶然にも勝田が殺害した5人の女性には、いずれも複雑な人間関係があり、大金が盗まれた形跡もないことから警察は「怨恨や痴情のもつれ」が原因とみていた。この「顔見知りの犯行」と判断して進めた捜査が、事件の真相を分かりにくくしていた。

また、こうした捜査によって疑われた関係者は、その後の人生を大きく狂わされることになった。

銃による連続強盗殺人

1977年1月、勝田は同僚に誘われて猟銃の取扱に関する講習を受け、そのころから友人と射撃場に出かけるようになった。そんなある日、勝田は猟銃を使用した強盗を思いつく。そして同年11月20日、奈良県天理市の銃砲店の前に駐車している車から、猟銃を盗み出した。

これまで勝田は力で劣る女性ばかりを狙い、絞殺をくり返してきた。しかし、猟銃を手に入れたことで「仕事で大金を扱う男性」を狙うように犯行にも変化が現れた。

強盗殺人6件目

井上裕正さん/勝田清孝殺人事件
井上裕正さん

1977年12月13日午後5時過ぎ、勝田(当時29)は兵庫県神戸市葺合区(現・中央区)脇浜町の路上で見かけたある男性を強盗のターゲットに決めた。この男性は「兵庫労働金庫神戸東支店」職員の井上裕正さん(当時25)で、その服装や雰囲気から「集金帰りの銀行員」であると目星をつけたのだ。
(兵庫労働金庫は、現・近畿労働金庫)

井上さんがとある会館ビルの駐車場に入るのを、勝田は追跡。午後5時過ぎ、黒い鞄を持ってビル北側通路を歩いてきた井上さんに対し、すれ違いざまに散弾銃を突きつけた。

勝田は「静かにしろ、金を出せ」と脅迫したが、井上さんはとっさに激しく抵抗した。「射殺するしかない」と決意した勝田は、井上さんに散弾銃を発射して重症を負わせ、現金410万円を奪った。左肩から肺にかけて散弾30数発を浴びた井上さんは、2日後に出血多量で死亡した。

この事件のあと(12月30日)、勝田に次男が誕生している。

死刑囚200人 最後の言葉

強盗事件

1979年12月29日、勝田は名古屋市内の猟銃愛好家の自宅から散弾銃を盗んだ。この銃と名古屋市内で盗んだ茶色のマツダ・カペラを使って強盗事件を起こしている。

1980年2月15日午後3時50分頃、名古屋市瑞穂区甲山町の市道で、集金を終えてバイクで支店に戻ろうとしていた瀬戸信用金庫・瑞穂通支店勤務の外交員男性(当時44)に猟銃を突き付け、集金カバンに入った小切手2枚(額面合計24万6660円)を奪って逃走した。

捜査した瑞穂警察署によれば、犯人の特徴は「年齢は30歳程度で、短髪・面長。青いサングラスと白っぽいジャンパーを着た暴力団組員風の男」だった。

強盗殺人7件目

本間一郎さん/勝田清孝殺人事件
本間一郎さん

1980年7月30日午後11時過ぎ、名古屋市名東区高社のスーパーマーケット「中部松坂屋ストア一社店(現・マックス・バリュ)」で、勝田(当時31)は帰宅しようと車に乗り込んだ夜間店長の本間一郎さん(当時35)に散弾銃を突きつけた。

そして、「静かにして言うことを聞けば何もしない」と脅迫し、本間さんに事務所の金庫を開けさせて総額576万円余りの現金と商品券を奪った。

その後、本間さんに盗難車のカローラを運転させていたが、中区にある車庫に停めさせた。そして本間さんにネクタイで足を縛るように命じ、自身は着用していたヘルメットを脱ごうとしたところ、本間さんがいきなり散弾銃の銃身を掴んで奪おうと抵抗した。

勝田は「確実に逃走するためには殺害するしかない」と決意。午前0時30分頃、本間さんの胸めがけて散弾銃を発射し、出血多量で死亡させた。

車上荒らしで逮捕

勝田清孝が勤務していた消防署
勝田清孝が勤務していた消防署

1980年11月8日未明、勝田は大阪市北区曽根崎新地の繁華街で、クラブホステスの乗用車と車内にあった現金7万8千円入りハンドバッグなどを盗む事件を起こし、大阪府天満警察署に緊急逮捕された。

勝田の逮捕は翌日の地元紙朝刊にて「消防署員が盗み」の顔写真付き三段見出し記事で報道され、逮捕から3日後の1980年11月11日付で消防署を懲戒免職となった。

在職中の勝田は救難救助訓練に励み、表彰を受けること約20回、全国競技大会に2年連続入賞するなど、優秀な消防士だった。その後、家族(妻と子供2人)と京都府城陽市のマンションに転居し、トラック運転手として働くようになった。

1981年1月29日、勝田は前述の窃盗事件において、求刑懲役1年に対し懲役10月(執行猶予3年)の有罪判決を受けた。だが、翌月には愛知県小牧市の「ホーエー家電・小牧店」で店員を脅し、107万円を強奪している。

113号事件 勝田清孝の真実

妻と別居、愛人と半同棲

1982年2月、33歳の勝田は、京都市や山科区でスナックを経営する女性(当時32)と知り合い、9月には密会のためのマンション(家賃5万2千円)を借りた。家具に200万円もかける入れ込みようで、このころには妻に愛想をつかされ、別居状態だった。

窃盗事件(車上荒らし)の判決から約1年半後の1982年8月18日午後1時頃、勝田は滋賀県大津市島の関の駐車場で車を盗んだ。そして午後10時30分頃、京都市山科区のスーパーマーケット「エポック山科北店」付近で、同店の男性店員(当時45)を盗んだ車で轢いた。

これは店の売上金を奪おうとしたものだったが、近隣住民が駆け付けたために断念して逃走。男性店員は、肋骨骨折など全治40日間の怪我を負った。

警察庁広域重要指定113号事件

勝田(当時34)は1982年10月25日頃、名古屋大学の学生(当時21)の所有するトヨタ・セリカを、名古屋市中区新栄の駐車場から盗んだ。

10月27日午後9時30分頃、勝田は愛知県警千種警察署に偽名で「派出所前を東に突き当たったところに、盗難車っぽい黒のクラウンが停車してあるので来てほしい。不審者もいる」と通報した。これを受け、田代北派出所に勤務する長橋裕明巡査(当時33)が、状況確認のため徒歩で現れた。

そこには確かにクラウンが停めてあったが、誰もいなかった。長橋巡査はクラウンのナンバーを控えて派出所に戻ろうとした。

勝田清孝の冷血

警察官襲撃・拳銃強奪

その一部始終を見ていた勝田は、盗んだセリカを巡査めがけて発進させた。そして、そのまま巡査をはね飛ばしたあと、「どうした」と声をかけて近づき、鉄棒で数回殴って拳銃を奪った。(拳銃はニューナンブ38口径、実弾5発入り)

突然、車にはねられた巡査は、その衝撃で意識を失ってしまった。数分後、巡査は血まみれで電柱に寄りかかっていたところを通行人に発見され、救急車で病院に搬送された。巡査は頭部や膝などに全治4ヶ月の重傷を負っていた。

発見時、巡査は通行人に「目が見えないので交番まで連れて行ってほしい」と頼んだという。巡査は両眼を負傷し失明寸前まで陥ったが、その後幸いなことに完治。勝田の一審判決(1986年3月)までには勤務に復帰した。

この事件を受けて愛知県警捜査一課・千種署は「拳銃強奪を目的とした強盗致傷事件」と断定して千種署に特別捜査本部を設置し捜査を開始した。県警は奪われた拳銃による ”第二の凶悪犯罪” の発生を懸念して、県下全域に緊急配備態勢を敷いた。そして警戒態勢に全力を挙げつつ犯人割り出しを進めたが、後の事件を阻止することはできなかった。

強盗殺人8件目

神山光春さん/勝田清孝連続殺人事件
神山光春さん

1982年10月31日午前2時55分頃、勝田(当時34)は静岡県浜松市内のスーパーマーケットに拳銃を持って押し入るも、隙を見て店外に逃げた店員らが「強盗だ!」と叫んだため、あきらめてその場から逃走した。

一旦帰宅して午後6時まで眠ったあと、午後8時過ぎに再び強盗のためにクラウンに乗って家を出た。午後8時半頃、名神高速・大津サービスエリア上り駐車場(滋賀県大津市)に駐車した勝田は、溶接工・神山光春さん(当時27)のワゴン車の助手席に強引に乗り込み、「名古屋まで乗せて行ってくれ」と頼んだ。神山さんは、千葉県市原市に帰る途中だった。

走り出してすぐのこと、隠し持っていた拳銃が足元にこぼれ落ち、神山さんに見られてしまう。拾い上げた勝田は「逃げると撃つぞ」と脅し、瀬田西インターチェンジから国道1号線に出て、名古屋方面に向かわせた。

午後9時30分頃、神山さんは車を急停車させ、勝田から拳銃を奪おうとした。2人はそのままもみ合いとなるが、怒った勝田は神山さんの胸に発砲、動かなくなった神山さんを後部座席に乗せたまま、勝田は名古屋市内の深夜スーパーを狙うため、国道41号線を名古屋に向けて走った。

しばらくすると、神山さんが「水をくれ」と言葉を発した。まだ生きていたことに驚いた勝田は、神山さんを病院に放置しようと探すも見つからず、やがて神山さんは死亡した。この時、勝田は神山さんから現金4万円を奪い、名古屋での強盗を諦めて再び名神高速道路に乗った。

20世紀の51代事件

養老サービスエリア襲撃事件

事件現場の養老サービスエリア/勝田清孝殺人事件
名神高速道路・養老サービスエリア

神山さんを殺害し、車を走らせていた勝田は、日付けの変わった11月1日午前2時35分頃、養老サービスエリア(岐阜県養老郡養老町)に車を停めた。そして車を降りると、血の付いた手袋をゴミ箱に捨てた。

その時、エリア内のガソリンスタンド従業員の小畑俊廣さん(当時43)が付近を歩いているのに気づいた勝田は、一部始終を見られてしまったと思い、「中を見ただろう」と問うたところ、小畑さんは否定。服装からスタンド従業員と判断した勝田は、小畑さんから給油所の売上金を強取しようと思いついた。

勝田は隠し持っていた拳銃を突きつけ、「名古屋の事件を知ってるやろ。売上げ金を出せ」と脅した。小畑さんが逃げようと後ずさりすると、勝田は小畑さんに発砲。弾は胸に命中したが、貫通したため致命傷とはならず逃げられてしまった。

勝田は売上げ金を諦めて逃げる途中、ジャンパーなどを脱ぎ捨て、京都方面に向かうトラックに乗せてもらい、大津サービスエリアに駐車しておいた自分のクラウンで家に戻った。

小畑さんは全治2ヶ月の重傷を負うも、その後、職場に復帰した。しかし、夜勤の時は周囲を必要以上に確認するなど「人間不信」状態に陥ったという。

警察庁広域重要指定事件完全ファイル

広域113号事件に指定

1982年11月28日、京都府京都市山科区内のスーパー「エポック山科店」に侵入、拳銃で脅して現金152万7千円を奪って逃走した。

1983年1月30日、警察庁は警官から強奪した拳銃を使ったこの強盗殺傷事件を「警察庁広域重要指定113号事件」に指定した。

同日午後8時頃、勝田は自分の車で京都市内のマンションを出発し、31日午前8時30分過ぎに名古屋市西区内の路上に駐車してあったトヨタ・カローラを盗んで乗り換えた。

第一勧銀事件:襲撃失敗で逮捕

移送される勝田清孝

1983年1月31日午後1時半頃、名古屋市昭和区の引越し会社社長・塚本祝栄さん(当時31)が、従業員の給料を下すため、社用車で第一勧業銀行(現・みずほ銀行)御器所支店に来店した。

約15分後、102万円を下した塚本さんが車に戻ると、同じタイミングで勝田が助手席に乗り込んできた。そして拳銃を塚本さんの左わき腹に突きつけ、「警察が持っている本物の拳銃だ。あの事件(広域113号事件)を知ってるだろう。変なことをしたら撃つぞ」と脅した。

塚本さんは指示通り車をゆっくり発進させたが、出口手前で車を停めるといきなり拳銃を掴み、大声で「強盗だ!」と叫んだ。もみ合いとなった2人は助手席から車外に転げ落ちてもつれ合ううち、叫び声を聞いた銀行員らがやってきた。

彼らに押さえつけられた勝田は、拳銃2発を発砲したが誰にも当たらず、やがて取り押さえられてしまう。塚本さんはもみ合った際に嚙みつかれたりしたため、加療約10日間の傷害を負った。

そして午後1時50分、勝田は駆け付けた昭和警察署員に身柄を引き渡され、強盗致傷の現行犯で逮捕された。

勝田の逮捕に貢献した塚本さんは、当時の警察庁長官・三井脩から「警察協力賞」を受賞するなど「時の人」となった。

怨霊に悩まされ自供

その後の捜査で、勝田の持っていた拳銃が「養老SA殺傷事件」で使われたものと判明。人相や体格も犯人と一致したため、捜査本部は「勝田が113号事件の犯人」と断定した。

留置場の勝田は、被害者らの怨霊のようなものに怯え、なかなか寝付けない夜が続いていた。2月8日(逮捕から8日後)、勝田はすべて話して楽になろうと考え、ほかにも女性5人と男性2人を殺害したことを自供した。

迷宮入りになっていた5人の女性殺しについては、警察は勝田の犯行とは考えていなかった。取調官は何度も勝田に「本当におまえが殺したのか」と確認したという。

勝田は8人の殺害に加え、窃盗や強盗など約400件をくり返したとして、戦後犯罪史上に残る33もの罪に問われることになった。

逮捕から452日間の留置

勝田が逮捕されるきっかけとなった「第一勧銀事件」は、現行犯逮捕であったため立件が容易だった。しかし、勝田が取り調べで複数の殺人について自供すると、警察は「捜査の迅速化」が必要と判断。そのため拘置期限前日となる1983年2月10日、名古屋地検は「広域113号事件」の被疑者として逮捕された勝田を、まず「第一勧銀事件」における強盗致傷・窃盗の各罪状で名古屋地裁に起訴した。

その後も取り調べは続き、すべての捜査が終結したのは1984年4月26日。逮捕からこの日まで452日間の留置期間は愛知県警本部において史上最長記録となった。

捜査が終了した1984年4月26日付で、勝田は愛知県警本部から名古屋拘置所に身柄を移送された。そして、死刑執行までの余生を同拘置所で過ごすことになる。

勝田清孝の生い立ち

勝田清孝/勝田清孝殺人事件

勝田清孝は1948年(昭和23年)8月29日、京都府相楽郡木津町(現・木津川市)鹿背山の集落の、比較的裕福な農家の長男として生まれた。ひとつ年上の姉がおり、勝田は第2子である。

1964年(昭和39年)4月、京都府立木津高校の農業科に入学。高校時代は吹奏楽部に所属し、小遣いの多い部員と張り合うために校内食堂で食券を盗んで友人らにおごったり、車両の窃盗・盗品の販売・ひったくり・車上荒らし・売店荒らしなどの犯罪をくり返した。

そして在学中の1965年(昭和40年)11月18日、勝田はバイクで女性のハンドバッグをひったくろうとして逮捕される。勝田の部屋を捜索すると、天井裏から十数個のハンドバッグ、木津高校から盗んだスピーカー、校内食堂の食券などが出てきた。

12月24日、勝田は大阪府の和泉少年院へ送致されることになり、高校は退学処分になった。1966年(昭和41年)7月7日に仮退院すると、父親が勤める奈良市の自動車部品工場に就職。自動車学校に通い免許を取得すると、父親がファミリアを買い与えた。

その後、工場内でロッカー荒らしが続出すると、「少年院帰り」の勝田は周りから怪しまれ、居づらくなって退職。その後も父親に職を紹介してもらったが、どこも長続きしなかった。

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1967年(昭和42年)、隣町のひとつ年下の女性と付き合うようになり結婚を考えたが、「少年院帰りとは一緒にはできない」と女性の両親に断られ、勝田の両親も「家の格が違う」と反対した。

1968年(昭和43年)9月、20歳になった勝田はこの女性と大阪に駆け落ちする。生野区のアパートで同棲生活を始め、勝田は鉄工所で、女性は縫製工場で働いた。1970年(昭和45年)2月、奈良市の運送会社に転職し、長距離トラックの運転手として名古屋などで稼働した。

3月23日、両家の両親に認められ、女性と結婚して奈良市に新居を構えた。そして翌年7月、長男が誕生した。

やがて連続殺人鬼に

勝田清孝/勝田清孝殺人事件
勝田清孝

1972年(昭和47年)1月、奈良市加茂町で銀行に勤める女性(当時19)が、暴行後に殺害される事件が発生。勝田は無実だったが警察は「少年院帰り」の勝田を疑い、勤務する運送会社の従業員に根掘り葉掘り勝田のことを訊いて回った。社長からも「人を殺したのか」と詰め寄られた。

結局、友人の証言でアリバイも証明されたが、これを機に周囲の勝田を見る目が変わり、勝田は警察や周囲への不信を募らせた。元々派手好きな彼は、うっぷんを晴らそうとスナックで高価な酒を飲み、ホステスにチップをはずみ、高級車を買った。裏庭には200万円以上もするアマチュア無線のアンテナを建て、ゴルフの会員権を購入するなど分不相応の生活をした。

このような稼ぎ以上の浪費は借金を膨らませる一方だったが、返済のために空き巣をするようになった。

1972年(昭和47年)3月、23歳の勝田は父親に勧められ、消防職員採用試験を受験してこれに合格。4月1日、相楽中部消防組合に正式採用され消防士になる。直後に前歴が職場にも把握されるが、懲戒免職となることはなかった。

仕事は真面目で評価が高かったが、私生活は相変わらず派手だった。借金返済のため長距離輸送のアルバイトを始め、行った先々で空き巣をくり返した。やがて、”水商売の女性は、大金を持ち歩いていることが多い” ことに気付いた勝田は、クラブのホステスを狙うようになる。

その際に騒がれると容赦なく殺害し、それが本連続殺人事件につながっていった。最初の殺人は消防士になって5か月後の1972年9月13日。ここから連続して水商売の女性ら5人を殺害していく。

女性らにはいずれも複雑な人間関係があり、また大金を盗まれた形跡がないことから、警察は「顔見知りによる怨恨や痴情のもつれ」とみて捜査を進めた。そのせいで被害は拡大し、捕まらないことで勝田の豪遊は続き、借金はさらに膨らんでいった。

勝田に死刑確定

1974年、勝田は消防副士長となり、これを機に父親に「賭博で負けた」との嘘で200万円の借金を肩代わりしてもらった。だが、これで改心することなく、その後も車・酒・愛人で再び借金が増えていった。「表彰20回、全国競技大会2年連続入賞」と、優秀な消防士だった勝田はやがて消防士長に昇格するも、1980年11月、車上荒らしで逮捕されて懲戒免職となる。

この時点で、勝田は前述の女性5人に加えて男性2人、合計7人も殺害していた。

全国競技大会に出場していたころ、殺人も空き巣も行っていなかった時期がある。これは、「消防士として責任ある地位についていた」、「愛人の存在を知った妻が自殺未遂を起こし、それどころではなかった」のが理由である。

職を失い、収入もなくなったのに1982年には愛人と同棲を始め、高級車を買うなど羽振りよく振舞っていた。借金がかさむと両親に頼ったり窃盗などで得た金で清算するが、また浪費で借金をつくるという生活を続けた。

1982年10月27日、警官を襲い拳銃を奪った。この拳銃を使った強盗殺人などの一連の事件が「警察庁広域重要指定113号事件」に指定される。

このように、長距離輸送のアルバイトの合間に空き巣や殺人をくり返し、10年間で約400件におよぶ窃盗・強盗殺人を起こした勝田だが、1983年1月31日、ついに逮捕となる。この取り調べにおいて8人すべての殺害を自供したことから、1994年1月17日、最高裁で勝田に死刑が確定した。

勝田清孝の心友

捜査が終了すると、勝田は名古屋拘置所に移送された。勝田は人間不信に陥り、徹底してマスコミを嫌い、死刑廃止運動や月1回の教誨にも興味を示さなかった。獄外との連絡を絶ち、自分の殻に閉じこもる勝田が、ただひとり心を開いたのが支援者の来栖宥子さんである。

来栖宥子さんは名古屋在住の主婦で、「カトリック名古屋教区正義と平和委員会」に所属するクリスチャン(当時)。来栖さんは勝田の獄中手記『冥海に潜みし日々』を読み、心を動かされて手紙を出すようになった。

死刑が確定した1994年1月17日、勝田は来栖さんの母親と養子縁組をして藤原姓となっている。これにより来栖さんとは姉弟になった。2人は縁組前から文通を続けているが、その数約600通(勝田からの返事は約400通)、面会は200回を超える。勝田は来栖さんを「たったひとりの心友」と呼んでいた。

獄中の勝田は、視力障害者のための点字翻訳ボランティアをしていた。これは死刑確定前から始め、確定後も続けていたという。また、死刑執行前の1年間、勝田は重度の腰痛に悩まされており、ほとんど寝たきり状態だった。来栖さんとの生前最後の面会となった2000年11月28日(死刑執行2日前)には、勝田は腰の不調を訴え、「辛そうな様子だった」という。

来栖さんは、1996年に勝田との手紙のやりとりをまとめた『勝田清孝の真実』(恒友出版)を出版している。

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死刑執行

2000年11月30日、法務省の死刑執行命令により勝田の死刑が執行された。この日は勝田と同じ名古屋拘置所で宮脇喬(先妻家族3人殺人事件)、福岡拘置所で大石国勝(佐賀隣人一家殺人事件)も同時に死刑が執行されている。なお、これが20世紀最後の死刑執行となった。

日本の確定死刑囚 執行の時を待つ107人の犯行プロフィール

カトリック名古屋教区の「正義と平和委員会」は1994年10月3日、勝田の助命を求める全国の宗教家など2516人から集まった嘆願書名簿を法務大臣・前田勲男に提出したことを明かした。

宮脇喬死刑囚の執行完了後の午前9時30分頃、勝田は死刑執行の告知を受けた。この時、勝田は遺書を書こうとしなかったが、僧侶らに説得されて刑場の隣室で遺言書を2通書いた。1通は両親に対する感謝の言葉を、もう1通は来栖さんに対し「自らの遺骨・所有物はすべて残さず拘置所で焼却処分してほしい」という内容だった。

遺書を書き終えると、勝田は煙草を一服してから僧侶に付き添われて刑場に向かった。そして執行直前、「先生(僧侶)の顔をもう一度見たいから目隠しを取ってほしい」と要望した。それから、般若心経を読んでは被害者らの名前をつぶやき、「ごめんなさい」と付け加えた。

カトリック信者である来栖さんは、勝田の意に反して遺体を引き取って教会で通夜を執り行った。葬儀は2000年12月2日正午から名古屋市内の斎場で行われ、来栖さんほかキリスト教会関係者ら約20人が参列した。勝田の遺体はその後火葬され、遺骨は岡山県内にある来栖さんの実家の墓に納骨された。

裁判

勝田清孝被告は、強盗殺人罪など合計33の罪状・計27の犯罪事実で起訴された。

  • 前半事件:1972年から1980年までに7人殺害した件などの17罪
  • 後半事件1人殺害を含む「警察庁広域重要指定113号事件」の16罪

公判は併合罪の規定により、前半事件後半事件に分離された。そのため、主文も2つに分けて言い渡されることになった。

なお、一審開始時に起訴されていたのは以下の通りである。

  • 京都市山科区の事件2件:京都市山科区内の強盗事件、強盗未遂事件
  • 拳銃強奪事件:警官を襲撃して拳銃を奪った事件
  • 浜松市の事件:浜松市内のスーパーマーケットの強盗未遂事件
  • 養老SA殺傷事件:養老SA内のガソリンスタンド従業員に対する強盗殺人未遂
  • 第一勧銀事件:逮捕のきっかけとなった強盗殺人未遂

第一審・名古屋地裁

1983年5月27日、名古屋地裁にて勝田被告の初公判が開かれた。勝田被告は、罪状認否で起訴事実を大筋で認めたが、養老SA事件に関してのみ殺意を否認した。

弁護側は、現時点で起訴されているいずれの犯行時においても「勝田被告は、家庭・愛人の問題、借金の返済などで出費が増大していたにもかかわらず、収入が不安定だったことから心神耗弱状態、すなわちノイローゼ状態にあった」と主張して、完全責任能力を否定した。

この時点で捜査中だった「警察庁広域重要指定113号事件」以前の数々の強盗殺人事件などに関しても、その後に次々と追起訴された。

公判中の1983年10月23日までに、勝田被告は計8人(男性3人・女性5人)の殺害を自供しており、うち男性3人に関しては既に起訴され、公判で審理されていた。それらとは別に「まだ10人くらい女性を殺している。最初の殺人は16歳か17歳の頃、郷里の京都府相楽郡木津町近辺でやった」と供述した。

『毎日新聞』1983年10月24日付朝刊は、「殺害人数は合計18人か?これが本当ならば帝銀事件(1948年1月)の12人を超える『戦後日本犯罪史上最悪の大量殺人事件』に発展することになる」と報道した。しかし、犯行の場所や時間などの記憶に曖昧な面が見られ、結局は立件されなかった。

1983年10月26日の第5回公判で、勝田被告は「(この時点で認めていた養老SA射殺事件以外に)男女7人を殺害した。申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と、法廷で初めて殺人の件数を口にして涙を流した。この日は、千種区の警察官襲撃事件から丸1年を控えた日だった。

1985年11月26日の第22回論告求刑公判で、検察側は「勝田被告は、天をも恐れず犯行を重ねた。前半事件において男女7人を無差別に殺害するなど冷酷性を究めたばかりか、後半事件においても有罪判決後にまた1人を殺害するなど更に残忍性を強め、社会を完全に敵に回した。もはや矯正は不可能であり極刑が相当だ」と主張し、死刑を求刑した。

1985年12月16日に開かれた第23回公判で、弁護側による最終弁論が行われ、初公判から2年7か月ぶりに結審した。

弁護側は「各事件の計画性のなさ」「勝田被告は犯行当時、完全な責任能力を有しない心神耗弱状態だった」「7件の殺人を自供した行為は自首に該当する」と主張した。そして、勝田被告の反省・悔悟の念、死刑制度の違憲性などの点から「死刑回避、無期懲役が妥当」と訴えた。

勝田被告は最終意見陳述で、名古屋拘置所内で綴った手記『贖罪の日々』を提出したうえで、被害者や遺族に対する謝罪の言葉を述べた。

一審判決は死刑

名古屋地裁は1986年3月24日、求刑通り勝田被告に前半・後半両事件ともに死刑判決を言い渡した

裁判長は一連の事件を「果てしない虚栄心・物欲を満足させるため犯罪の拡大・再生産を行い、大胆で悪質・残虐だ」と非難。そして「逮捕後、反省・悔悟の日々を送っているとはいえ、自らの生命をもって史上まれな凶悪犯罪を償うほかにない」と量刑理由を述べた。

勝田被告側は1986年3月28日、事実誤認・量刑不当を理由に控訴した。

勝田は当初、控訴に消極的だった。しかし、判決が勝田の主張をほぼ全面的に退けていることから、弁護人が「正しい判断を受ける権利がある」と勝田を説得した。

控訴審・名古屋高裁

1987年3月30日、名古屋高裁で控訴審初公判が開かれた。弁護側は、「死刑判決は不当であり、破棄したうえで無期懲役刑に軽減すべき」と主張した一方、検察側は「まれにみる連続殺人であり、死刑を持って臨むほかない」と主張して控訴棄却を求めた。

弁護側の控訴理由
  • 死刑判決は「勝田の反省・悔悟の情を十分に評価していない」点で量刑不当である
  • 勝田は捜査中に7件自供しているが、判決で認定されたのは1件のみだった
  • 「犯行当時、心神耗弱だった」とする主張が認められず、完全責任能力が認定された
  • 「113号事件における殺意を否認する」主張を否定された。

1987年9月9日の第5回公判で、弁護側が「死刑制度の違憲性」を立証するため、「松山事件」の元死刑囚・斎藤幸夫さん(冤罪被害者、再審無罪が確定)ら5人を証人申請した。検察側は「証人尋問は必要ない」として申請却下を求めた。

弁護団は最終弁論までに計14人の証人申請を行うも、次々と却下されたため、控訴審でも死刑判決が支持される公算が強まった。

1988年1月12日の控訴審第8回公判にて、最終弁論が行われて結審した。弁護側が死刑判決の破棄・無期懲役への減軽を訴えた一方、検察側は死刑判決の支持を求めた。

1988年2月19日、控訴審判決公判が開かれ、名古屋高裁は一審の死刑判決を全面的に支持して控訴を棄却する判決を言い渡した。

裁判長は「自首軽減」の主張について、「逮捕されるまで連続的に殺人などの犯行を反復するなど、とうてい自首とは認められない」と退けた。

そして「長期間にわたる一連の犯行は、飽くことを知らぬ金銭欲を充足させ、虚飾に満ちた生活の維持を図るべく行われた。犯行を重ねるごとに計画性を高め、巧妙化させた ”冷酷無残な凶悪この上ない手段” で8人の生命を奪ったことは、社会に重大かつ深刻な影響を与えた。わが国の犯罪史上にも類例を見いだし得ない事件で、酌量の余地は何らない」と断罪した。

弁護側は『中日新聞』の取材に対し、「証拠調べ・事実認定・死刑違憲論議など、あらゆる点で審理が尽くされておらず承服しえない判決だ」とコメントした。
勝田被告は弁護人に対し「死刑違憲論の審理に期待していたが、名古屋高裁は証人申請を認めず踏み込んだ内容にはならなかった」と不満を語った。

勝田被告は判決を不服として、自ら上告状を作成して最高裁判所に上告した。

最高裁で死刑確定

1993年11月4日、最高裁で上告審口頭弁論公判が開かれた。
弁護側は「死刑違憲論」の観点から死刑判決の破棄を求め、検察側は「殺人7件の自白や反省悔悟の情を考慮しても死刑に処する以外にない」と、勝田被告の上告棄却を求めた。

1994年1月17日、上告審判決公判が開かれた。最高裁は「自首の経緯や深く悔悟していること等の事情を考慮しても、被告の罪責は誠に重大であり、原判決を是認せざるを得ない」として勝田被告の上告を棄却。これにより、勝田被告の死刑が確定することとなった。

判決は社会見学の子どもたちも傍聴しており、開廷からわずか数十秒後に「上告棄却」の主文が言い渡されるという、注目を集めた事件にしてはあっけない結末だった。

また、勝田は同日に支援者・来栖宥子の実母(藤原姓)と養子縁組したことで「藤原清孝」となり、来栖は勝田の義理の姉となった。

弁護団は記者会見で「日本は国際連合人権規約委員会から死刑廃止を勧告されている。そのような情勢の中で国民感情だけを根拠に死刑を存続するのは時代に合わないのではないか」と話した。

勝田被告は1994年1月26日付で最高裁判決を不服として最高裁に判決を訂正するよう申し立てたが、1994年2月3日付で棄却決定が出され、正式に死刑判決が確定した。

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