昭和の拷問王・紅林麻雄
かつて静岡県警の警察官だった紅林麻雄は、数々の凶悪事件を解決する ”名刑事” と呼ばれていた。一時期はその功績から、警察署長でさえ口を出せないほどで、全国的にその名をとどろかせていた。
だが、そんな表向きの華々しさとは裏腹に、彼のやっていたことは犯罪そのものだった。無実の人を捕らえ、拷問で自白させて死刑判決まで追い込む、いわゆる「冤罪事件」を次々と生み出していたのである。
追われるように退職した紅林は、その2か月後、まるで罰が当たったかのように病死した。
別件で逮捕し、暴力や威嚇で自白させるやり方は、現在でもその精神が受け継がれているといった指摘もある。
紅林麻雄のデータ
名前 | 紅林麻雄(くればやしあさお) |
職業 | 静岡県警の警察官(警部補) 1963年(昭和38年)7月退職 |
生誕 | 1908年(明治41年) |
生誕地 | 静岡県藤枝市 |
死没 | 1963年(昭和38年)9月 脳出血により死亡・55歳没 |
担当事件 | 浜松連続殺人事件 幸浦事件(冤罪) 二俣事件(冤罪) 小島事件(冤罪) 島田事件(冤罪) |
紅林麻雄について
紅林麻雄は明治41年1月26日、現在の静岡県藤枝市で生まれた。19歳の頃、現役志願兵として静岡連隊へ入隊。翌年には難関の憲兵試験に合格したが、兵隊として前線で戦うことを希望した。
23歳の時、警察試験に合格して警察官として派出所勤務するようになる。その後、1年半の間に10回も表彰され、刑事課に抜擢された。そんな異例の早さで出世していく紅林に、さらに追い風となる事件が発生する。
紅林の名を世間に知らしめたその事件は、浜松連続殺人事件(1941年~1942年)である。当時、磐田警察署の巡査部長だった紅林は、応援で捜査に加わったのだが、事件解決後、検事総長から捜査功労賞を授与されたのだ。
1941年(昭和16年)8月~翌年8月にかけ、聾啞者(耳が不自由)の中村誠策(当時18歳)が起こした連続殺人事件。中村は両親・兄弟などの身内を含む10人を殺害、7人に傷害を負わせた。身内への犯行は日頃の憂さ晴らしのため、その他は強盗・強姦が目的だった。
中村は死刑判決を受け、1944年7月24日に執行されている。(21歳没)
しかし、実際はそれに見合う功績をあげたわけではなかった。むしろ紅林は、犯人の身体検査などを担当していながら、「自分に考える犯人像と合わない」と、捜査対象から外すという失態を演じていた。にもかかわらず賞の対象となったのは、警察組織の都合だったといわれている。
この事件の捜査は憲兵や検察もからんでいた。警察は、紅林を表彰することで「警察が事件を解決した」と世間に印象付けようとしたのだ。紅林が選ばれたのは、それまでに280回もの表彰歴があったこと、そして最後に犯人を取り押さえたのが紅林だったからである。
名刑事から拷問王に…
その後も紅林は期待に応えるように、幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件 と連続して凶悪事件を見事に解決していく。容疑者と目された男たちには、それぞれ死刑判決が下された。
こうして静岡県警のエースとして英雄視されていった紅林だが、その功績はまったく褒められたものではなかった。実際は何の罪もない人を容疑者に仕立て上げ、拷問により自白を強要していたのだ。拷問は自ら行うことはなく、部下に命じてやらせていたという。容疑者は無実を訴えるたびに拷問をくわえられ、その苦しみから逃れるためにやってもいない犯行を認めていった。
- 殴る蹴るは当たり前、倒れたら髪を引っ張って立たせる
- 焼火箸を耳や手に押し付ける
- 鼻に指を突っ込んで引きずり回す
- 正座させた足に乗り、踏みつける
- トイレに行かせず、取調室でバケツにさせる
また、紅林は自分の作ったストーリーに沿うように証拠や供述書を捏造し、”真犯人から賄賂を受け取って見逃している” という疑惑もあった。
だが1953年(昭和28年)11月27日、二俣事件で最高裁で死刑判決を破棄されると、堰を切ったように紅林の悪事は次々暴かれていく。
- 1957年(昭和32年)10月26日、二俣事件の被告人である元少年の無罪が確定。
- 1958年(昭和33年)6月13日、最高裁が小島事件の死刑判決を東京高裁へ差し戻す。1959年(昭和34年)12月2日、小島事件の被告人に無罪が確定。
- 1957年(昭和32年)、幸浦事件の死刑判決が東京高裁に差し戻される。1963年(昭和38年)7月、幸浦事件の被告4人の無罪が確定。
退職2か月後に死亡
このように3つの事件で拷問や捏造による冤罪が発覚すると、紅林は ”昭和の拷問王” と呼ばれるようになり、その評判は地に落ちていった。やがて2階級降格となった紅林は、吉原署駅前派出所の交通巡視員待遇という地位に左遷された。
ただ、島田事件だけは審理が差し戻されることもなく、1960年(昭和35年)12月5日に最高裁で死刑が確定、最低限の面目は保たれた。しかし世間や警察内部からの非難や屈辱的な降格にくわえ、1963年(昭和38年)7月に幸浦事件の無罪が確定すると、追い詰められた紅林は警察を依願退職した。
その2か月後となる1963年(昭和38年)9月、紅林はまるで天罰のように脳出血により死亡する。(55歳没)冤罪被害者のみならず、その家族まで村八分などの社会的制裁に苦しめられたことを考えると、法で裁かれることなく他界したことは、理不尽としか言いようがない。
そして紅林の死後23年となる1986年5月30日、島田事件についても東京高裁が再審開始を決定。1989年1月31日、静岡地裁は被告人に無罪判決を言い渡し、その後確定した。
紅林が主任として解決させた凶悪殺人事件は、これですべてが冤罪だったことになる。こうして紅林は、日本の警察史における ”最大の汚点” としてその名を残すこととなった。
紅林と袴田事件の関係
1966年6月30日に静岡県の味噌製造会社で4人が殺害された袴田事件では、従業員の袴田巌さん(当時30歳)が逮捕され、裁判で死刑が確定した。袴田さんは取り調べ段階では犯行を認めたものの、裁判では「自白は拷問によるもの」として否認に転じていた。
袴田さんは死刑囚となった以降も無罪を主張し続け、事件から57年後となる2023年3月、ついに再審が開始されることになった。
この事件が発生した1966年には、紅林麻雄はすでに死亡している。そのため、無関係のように思えるが、実は「間接的には関係がある」と言われている。紅林が静岡県警で次々と冤罪をでっちあげていた当時、主任刑事である紅林は実際には手を下さず、部下に汚れ仕事を命じていた。そのせいで、冤罪を生み出す捜査手法を叩きこまれた部下は何人もいて、袴田事件はその部下らが手がけた事件なのだ。
この事件では、一度捜索した味噌タンクから、なぜか1年2か月後に新証拠がみつかるという不可解なことが起こっている。みつかったのは血が付いた衣類5点で、1年以上も味噌に漬かっていたにもかかわらず、血痕は赤いままだった。これについては再審を決定した東京高裁が「捜査員による捏造の可能性が極めて高い」と発言して話題となった。
【冤罪1】幸浦事件(1948年)
1948年(昭和23年)11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現・袋井市)で、海岸近くに住む萩原さん一家が突然失踪した。一家は、夫(当時34歳)、妻(当時28歳)、長男(当時5歳)、次男(当時1歳)の4人家族で、全員の行方がわからなくなった。
家族は夕方までいつもと変わらない様子で、家には妻の眼鏡が家に残っていた。これらのことから、警察は「自発的な失踪ではなく、何らかの事件に巻き込まれた」と判断して捜査を開始。海岸に向かう道に赤ん坊のおむつが落ちていたため、海岸を中心に広範囲の捜索が行なわれたが、手がかりはみつからなかった。
翌年2月12日、別の窃盗容疑で逮捕されていた近藤勝太郎さん(当時23歳)および小島敏雄さん(当時19歳) が本事件についての追及を受けたが、翌日、近藤さんが一家殺害を自白。14日には共犯者として近藤糸平さん(当時45歳)を逮捕し、20日に吉野信尾さん(当時38歳)が被害者宅からの盗品を買い受けた罪で逮捕された。
後日、近藤勝太郎さんの自供により、埋められていた一家4人の絞殺遺体が発見される。容疑者4人は起訴されたのだが、公判が始まると一転して全面的に犯行を否認、「焼火箸を手や耳に押しつけれた」 などの拷問により、虚偽の自白をさせられたと訴えた。
1950年、第一審の静岡地裁は4人の ”無実の訴え” を認めず、近藤勝太郎さん・小島さん・近藤糸平さんの3人が共謀して強盗殺人を行ったと認定、死刑判決を言い渡した。吉野さんに関しては「強奪した物品だと知りながら買い受けた」として懲役1年および罰金千円の判決だった。
冤罪発覚
4人は東京高裁に控訴するも棄却され、最高裁に上告。ここで風向きが変わる。
最高裁は、「重大な事実誤認の疑いがある」として、審理を高裁へ差し戻した。一審および控訴審において有罪の証拠とされたのが、”遺体発見の過程” だった。被害者4人の遺体は、「近藤勝太郎被告の自白によって発見された」と認定されていたが、実際は違っていたのだ。
遺体発見場所には、事前に目印の棒が挿されていたことが、公判で証言されていた。1959年、差戻審の東京高裁は、遺体発掘の経緯や多くの証拠に疑問を呈し、4被告全員に無罪を言い渡した。1963年、検察側が上告するも棄却となり、4人全員の無罪が確定した。
近藤勝太郎さんは、審理が高裁へ差し戻されたあとの1959年8月、無罪確定を待つことなく持病が原因で死亡した。
【冤罪2】二俣事件(1950年)
1950年(昭和25年)1月6日、静岡県磐田郡(現・浜松市天竜区)二俣町で、8人家族のうち4人が殺害される事件が発生した。殺されたのは父親の大橋一郎さん(当時46歳)、妻のたつ子さん(当時33歳)、長女・孝子さん(当時2歳)、生後11か月の次女・信子さん。
同じ部屋で寝ていた長男(当時10歳)・次男(当時8歳)・三男(当時5歳)および隣の部屋にいた祖母(当時87歳)は無事で、翌朝起きた際に惨劇に気づいた。死因は、大橋さん夫妻が刃物で複数箇所を刺されたことによる出血多量、長女は扼殺、母親の遺体の下から発見された次女は窒息死だった。
時計の針が午後11時2分を指した状態で破損していて、これが事件発生時刻と思われたが、司法解剖の結果、死亡推定時刻は午後8時半ということが判明。また、時計には犯人のものと推測される指紋が付着していた。家の周辺から刃物や被害者の血液が付着した手袋が発見され、家族のものではない27cmの靴跡もみつかった。
駆け付けた山崎兵八刑事は、現場にいた近隣住民の男性から状況を聞いている時、ある違和感を覚える。この男性は左手親指を怪我しており、誰も見つけられなかった次女の遺体を「母親の遺体の下に埋もれている」と言い当てたのだ。
だが、2月23日に逮捕されたのは、山崎刑事が捜査を担当した須藤満雄さん(当時18歳)だった。当時、3回にわたり衣類などの窃盗をしていた須藤さんは、紅林に目をつけられることになる。窃盗で別件逮捕された須藤さんは、「一家殺人発生当時の所在が不明である」という理由で、本殺人事件でも再逮捕された。
山崎刑事は親指を怪我していた近隣男性が犯人だと主張したが、紅林警部補はまったく聞き入れてくれなかった。それどころか、ある同僚によると「(男性の)妻が紅林に現金入りの封筒を手渡すところを見た」という。
そして須藤さんは、紅林らの拷問による過酷な取り調べに耐え兼ね、やってない犯行を自白した。その後、須藤さんには犯行時刻のアリバイがあることを山崎刑事が突き止め、捜査主任である紅林警部補に報告。しかし、紅林は「須藤少年は推理小説マニアで、ミステリー映画『パレットナイフの殺人』のトリックを真似た」と断定し、アリバイを否定した。
映画『パレットナイフの殺人』では、「止まった時計の針を回してアリバイを作る」という偽装工作を行うシーンがあり、当時この作品は近所で上映されていた。
1950年3月12日、検察は須藤さんを強盗殺人の罪で起訴した。
刑事が紅林の不正を暴露
少年が死刑に処される公算が強いことを知った山崎刑事は、「自白は紅林警部補らの拷問によるもの」であること、「供述調書は、先入観に合致させた捏造」であることを読売新聞社に告発した。
法廷でも、山崎刑事は弁護側証人として出廷して同様の内容を証言。また、紅林警部補がこうした捜査方法の常習者であり、静岡県警自体がそれを容認・放置する傾向があることも合わせて証言した。
- 時計に付着していた指紋は、須藤さんと一致しない
- 須藤さんの服や所持品から、被害者一家の血痕は検出されていない
- 現場の靴跡は27cmだが、須藤さんの足のサイズは24cm
- 凶器の刃物を須藤さんが入手した証明がない
- 死亡推定時刻には、須藤さんは父親の飲食店を手伝っていた(須藤さんが出前に来たことを麻雀店の店主が証言)
だが、事態は思いもよらぬ方向へ進んでいく。県警は山崎刑事を偽証罪で逮捕したのだ。検察は「精神鑑定で妄想性痴呆症の結果が出た」として不起訴処分にしたが、山崎刑事は懲戒免職処分となってしまった。
山崎刑事は失職、須藤少年は無罪へ
山崎刑事の正義は打ち砕かれ、1950年12月27日、静岡地裁は須藤被告に死刑を言い渡した。須藤さん側は控訴するも翌年9月29日に棄却となり、死刑判決は覆らなかった。
しかし、1953年11月27日、最高裁は審理を静岡地裁へ差し戻すことを決定。須藤さんは1956年9月20日の差戻審判決で無罪を言い渡された。検察側はこれを不服として控訴したが、翌年10月26日、第2次控訴審判決で東京高裁は検察側の控訴を棄却。検察が上告を断念したため、須藤さんの無罪が確定した。(須藤さんは、2008年に77歳で死去)
警察官を失職後、運転免許も取り消された山崎さんは、新聞配達などで生計を立てたが5人の子どもを抱えての生活は困窮した。一家は村八分を受け、親族からは縁を切ると言われた。
事件から10年後(1961年)、不審火により自宅が全焼してしまう。火事の直前、次男(当時小学3年)が「長靴をはいた男が家に入っていくのを目撃した」と警察に話したところ、逆に次男が疑われ補導されそうになった。
結局、捜査が行われることはなく「コタツの不始末による失火」と片付けられたが、この火事で山崎さんが集めていた二俣事件の資料の多くが焼失した。
その後、1970年には長男の住む愛知県豊田市に移住。知人の紹介でゴルフ場の雑役夫として働き、のちに資格を取得してボイラー技士として勤務した。
山崎さんは精神鑑定の再検査や故郷へ帰ることを希望していたが、実現することなく2001年8月に他界した。(享年87)
【冤罪3】小島事件(1950年)
1950年(昭和25年)5月10日深夜、静岡県庵原郡小島村(現・静岡市清水区)で、飴製造業者の大沢ユキさん(当時32歳)が就寝中に薪割り斧で撲殺された。現場の時計が午後11時37分で止まっていたことから、犯行時刻はその前後であると推定された。
現場のタンスや金庫には物色された跡があり、のちの捜査で現金2500円が奪われていることがわかった。大沢さんの夫は引越し準備のため不在だったが、家にいた子供は犯行直後に ”坊主頭でカーキ色の服を着た男” が逃げて行くのを目撃している。
翌朝、紅林麻雄警部補を主任とした捜査員らが派遣された。被害者宅は村の中で特に大きいわけではなかったが、家業で儲けているという噂があった。このことから、紅林は「内情を知る村人による金銭目当ての犯行」と推測。だが、大規模な捜査を行っても手がかりはみつからず、また村人のほとんどが縁者だったことからも捜査は難航した。
事件から1か月が経過したころ、周辺の聞き込みから村で農業に従事する松永さん(当時27歳)の名前が浮上した。松永さんは、髪型や年齢などが(被害者の娘の)目撃証言と一致していた。また事件が起こって以来、顔色が悪くなったと噂され、事件当時のアリバイもはっきりしなかった。そして被害者一家に5000円の借金があった。
さらに松永さんは、被害者の夫から持ちかけられたサツマイモの闇取引で、松永さんだけが罰金刑を課せられていた。このことを恨んでいる可能性を疑われたが、「夫婦を恨んだことはない」と主張した。
6月19日、松永さんは任意同行を求められ、材木などの窃盗容疑で別件逮捕された。窃盗の件はすぐに不起訴となったが、翌20日から殺人容疑での取り調べが始まった。すると、その日のうちに殺害を自供し始めたため7月12日に逮捕、そして7月20日に静岡地裁へ起訴となった。
高裁に差し戻され無罪に
本事件には松永さんの供述以外の直接証拠がなく、裁判は「自白の任意性と信用性」が争点となった。しかし松永さんは公判が始まると、一転して「自白は拷問を受けたため」と無実を訴えるようになった。
松永さんは、「自白の2日後にこれを撤回しようとしたが、紅林警部補の部下から2時間以上も拷問を受けた」のだという。これにより脚にひどい怪我を負い、見かねた庵原地区署の警部補がマーキュロとペニシリン軟膏を松永さんの金で買って治療してくれたと話した。
その後も無実を主張する度に脅迫を受け、検事による取り調べで無実を訴えようとすると、取り調べのあと紅林の部下らに暴行を受けたため、結局検事に対しても自白を維持したのだと主張した。
1952年(昭和27年)2月18日、静岡地裁は松永さんに無期懲役を言い渡し、松永被告側は控訴した。翌年11月には紅林が手がけた二俣事件の死刑判決が破棄(差し戻し)され、紅林には逆風が吹き始めていたが、1956年(昭和31年)9月13日、松永さんの控訴は棄却となった。
だが、判決後の1957年(昭和32年)2月には幸浦事件の死刑判決も最高裁によって差し戻され、これを機に紅林は「名刑事」から一転「昭和の拷問王」と非難されるようになった。
これが松永さんへの追い風となったのか、1958年(昭和33年)6月13日、最高裁は本事件についても審理を高裁に差し戻す決定をした。そして翌1959年(昭和34年)12月2日、高裁は無罪の判決を言い渡し、検察側が上告を断念したため松永さんの無罪が確定した。
【冤罪4】島田事件(1954年)
1954年(昭和29年)3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で、卒園記念行事の際中に佐野久子ちゃん(当時6歳)が行方不明になった。その3日後の3月13日、久子ちゃんは大井川の南側の山林で、遺体で発見された。
司法解剖では、「犯人は首を絞めて仮死状態にしたあと、胸を凶器で殴って殺害した」と鑑定した。(性器にも傷害を負っていた)
誘拐した犯人の目撃情報は、いずれも「スーツにネクタイ、髪を7・3分けにした勤め人に見える若い男」だった。警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴者、精神病歴者、知的障害者を捜査対象として捜査したが、被疑者を発見することはおろか、特定できる情報もみつからなかった。
1954年5月24日、岐阜県稲葉郡鵜沼町(現・各務原市)で静岡県警が重要参考人とみていた赤堀政夫さん(当時25歳)が職務質問され、正当な理由も無く身柄を拘束された。
赤堀さんには軽度の知能障害と精神病歴があり、2度の自殺未遂歴があった。また、窃盗の前歴も2回あり、1回目は少年院に入れられ、2回目は刑務所で服役して1953年7月に出所していた。就職しても職場に溶け込めず、短期間で退職していた。
紅林警部補らは赤堀さんを窃盗で別件逮捕。密室で拷問を行い、久子ちゃん殺害の自白を強要した。その結果、拷問に耐えきれなくなった赤堀さんは、犯行を認める供述をしてしまった。
再審無罪
1954年7月2日に初公判が開かれ、赤堀被告は「警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である」と主張した。
1958年(昭和33年)5月23日、静岡地裁は赤堀被告に死刑判決を言い渡した。軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある赤堀被告が、公判では一転して無実を主張し、犯行当時のアリバイを供述したことに「信用性が無い」と判断した。
1960年(昭和35年)2月17日、東京高裁が被告側の控訴を棄却、1960年12月5日には最高裁も上告を棄却する判決を言い渡し、12月26日付で赤堀被告の死刑判決が確定した。
死刑囚となった赤堀さんは、1961年(昭和36年)8月17日に初めての再審請求を行うも棄却され、1969年(昭和44年)5月9日には第4次再審請求も棄却となった。だが、これに対する即時抗告にて、東京高裁は1983年(昭和58年)5月23日付で静岡地裁の原決定を取り消し、審理を地裁に差し戻すことを決定した。
その後、静岡地裁は検察側・弁護側双方の鑑定結果を精査し、「赤堀死刑囚の自白は、被害者の遺体の状況から信用性・真実性に疑問がある」などの理由から1986年(昭和61年)5月30日付で再審開始・死刑の執行停止を決定した。
検察側はこれを不服として東京高裁に即時抗告したが、1987年(昭和62年)3月25日に棄却。検察側が最高裁に特別抗告しなかったために再審開始が決定した。
1987年10月19日に静岡地裁で始まった再審は、計12回の公判が開かれ、1988年8月9日に結審した。そして1989年1月31日の再審判決で、静岡地裁は赤堀被告に無罪判決を言い渡した。
赤堀さんはこの時点まで静岡刑務所拘置監に在監していたが、12時過ぎになって逮捕以来34年8か月ぶりに釈放された。静岡地検は控訴を検討したが、1989年2月10日に「無罪判決を覆すだけの新たな証拠がない」として控訴を断念、赤堀さんの無罪が確定した。
無実の人が誤認で死刑確定となり、その後に再審で無罪判決を受けた事例は免田事件(免田栄)、財田川事件(谷口繁義)、松山事件(斎藤幸夫)に続いて4件目であった。