妙義山ろく連続殺人事件
1990年12月とその翌年7月、松本美佐雄(当時25歳)は遊び仲間2人とその父親を殺害して逮捕された。最初の犯行は、困っている別の仲間を助けるために殺害。だが、2度目は仲間のキャッシュカードから300万円を盗み、怒った仲間の父親から罵倒されて逆ギレした末の犯行だった。
裁判で死刑が確定したが、「犯行はシンナーの影響によるもの」と主張して再審請求した。現在もシンナーの後遺症で妄想があり、刑に服するのが困難なほどだという。
事件データ
犯人 | 松本美佐雄(当時25歳) |
事件種別 | 殺人事件 |
発生日 | 1990年12月4日、1991年7月6日 |
犯行場所 | 群馬県 |
被害者数 | 2人死亡 |
判決 | 死刑:東京拘置所に収監中 |
動機 | ・困ってる友人を助けるため ・友人の父親に侮蔑された |
キーワード | シンナー吸引 |
事件の経緯
群馬県安中市の建設作業員・松本美佐雄(当時25歳)は、碓氷郡に住む遊び仲間の男性会社員A(当時26歳)から、ある相談を受けた。相談の内容は、同じく遊び仲間で碓氷郡の男性B(26歳・自動車販売業)から、「しつこく借金を頼まれて困っている」というものだった。
Aは、すでに100万円以上の金をBに貸していた。ところがBは返すどころか、さらに「ゲームセンターの経営資金として160万円を貸してほしい」と再三無心してきていた。「このままでは一生金づるにされる」というAの相談を受けた松本は、殺害を持ちかけ準備に取りかかった。
1990年12月4日深夜、松本とAは、男性Bの自宅近くで待ち伏せた。そして、帰宅してきたBにシンナーを吸わせたうえで、首をロープで絞めるなどして殺害。遺体は甘楽郡の妙義山に埋めた。
松本と男性会社員Aは、高校の同級生だった。
翌年(1991年)の4月下旬、松本は遊び仲間の男性工員C(当時28歳)のキャッシュカードを盗み、Aに引き出すよう指示した。Aは信用金庫支店のATMで300万円を引き出した。
このことで、松本は7月6日午前0時半頃、工員Cとその父親(当時54歳)に電話で公園駐車場に呼び出される。父親は金を盗んだことを、厳しく追求するとともに、松本を激しく侮蔑した。松本はそれに反発、詫びるどころか喧嘩になり、倒れて動かなくなるまでCの父親を殴った。
死んだと思いこんだ松本は、父親の両手を用意したビニールテープで縛り、自分の車で妙義山中の山林に運んだ。だが実際は、Cの父親はこの時まだ息があった。
山に着くと、松本は父親を埋める穴を掘った。その間、Cは恐怖で成すすべもなく傍観していた。そして午前2時頃、仮死状態の父親を穴に横たわらせ、土をかぶせるのをCに手伝うように指示。Cは従うしかなく、言われた通りにした。だが、父親殺害の発覚を恐れた松本は、Cもスコップで殴打して殺害。そして、父親と同じ穴に埋めた。
男性工員Cは、松本と同じ高校の1学年上だった。
県警捜査1課および安中署は、C父子が事件に巻き込まれた可能性があるとみて捜査を開始した。やがて、Cの友人である松本が捜査線上に浮上。8月28日、松本とAは逮捕となった。
松本は、取り調べでC父子の殺害を認める供述をした。警察は自供通りに妙義山麓の山林で白骨化した遺体を発見。さらに余罪があるもとのみて厳しく追求した結果、金銭トラブルでBを殺害したことも自白した。9月22日、供述通りの場所から、父子の遺体を発見。9月28日、父子殺人の容疑で松本を再逮捕した。
主犯・松本美佐雄について
松本美佐雄は、1965年2月20日生まれ。
事件の共犯者・会社員Aは高校の同級生で、被害者・工員Cは1学年上だった。松本にはシンナー吸引歴があり、逮捕前から精神面に問題があった。松本には本事件まで前科・前歴はなく、凶行に至った原因は「シンナーの影響の可能性」も考えられる。
脳の神経細胞は脂質でできていて、有機溶媒であるシンナーはこの脂質を溶かしてしまう。また、シンナーは強い麻酔作用を持ち、大量に吸うと呼吸困難で死ぬおそれもある。
依存性も強く情緒不安定・精神異常・無気力などを起こし、吸い続けると脳の神経細胞が死滅して脳が萎縮、こうなるともう元には戻らない。
1998年12月1日、最高裁で死刑が確定し、現在は東京拘置所に収監中であるが、やはり精神を病んでいるとのこと。
死刑囚の支援を行っている「アムネスティ・インターナショナル」によると、松本は「マイクロ波放射線に曝されている」、「血液が紫色だ」と訴えるなど妄想の症状があり、精神状態は刑に服すことが困難なほどだという。
頭痛を訴えたため、CTスキャンの検査が行われたが、潜在的な病気はないとの結果だった。(ただし、結果の詳細は開示されない)
福島瑞穂が過去に行った ”死刑囚を対象にしたアンケート” に、松本は「一審・二審の弁護士のおかげで死刑判決になった」と回答している。実際、松本の私選弁護人(一審・二審)は、検察官かと思うぐらい法廷で松本を責めていたらしい。仕事ぶりにしても、「一審最終弁論」と「控訴趣意書」が、”誤字までまったく同じ” だったという。
松本は最高裁判決の前、「私は、自らの犯した罪の大きさに負けてしまい、すべてを放棄することこそが、償いの道だと思ってまいりました。しかし、刑の確定も寸前の時期になって、自らの罪と真に向き合ったとき、”せめて、真実だけは明らかにしておかなければならない” と自覚してやみません」とコメントしている。
事件・事故の宝庫「妙義山」
日本一遭難事故が多いといわれる妙義山だが、その険しさゆえか、殺人事件の舞台としてもたびたび登場する。本事件でも遺体を埋めた場所は妙義山だが、昭和の時代には ”世間を震撼させた2つの有名事件” が起きている。
また、妙義山そのものではないが、同じ国定公園内の山で「クレヨンしんちゃん」の作者が登山中に死亡している。
連合赤軍・山岳ベース事件
本事件は1971年(昭和46年)年末から1972年2月にかけて、新左翼の組織・連合赤軍が、警察の目を逃れるために群馬県の山中に築いたアジト・山岳ベース(榛名山・迦葉山・妙義山)において、組織内で ”総括” が必要とされたメンバーに対し、人格否定にも近い詰問・暴行・極寒の屋外に放置・絶食の強要などを行い、結果として29人のメンバー中、12人を死に至らしめた事件である。
本事件による犠牲者の続出、脱走者や逮捕者の続出で最終的に5名だけになったメンバーは警察の追跡を逃れる過程で「あさま山荘事件」を起こすことになる。このあさま山荘事件の生中継(1972年2月28日)は、各局合わせて視聴率89.7%に達した。(ビデオリサーチ・関東地区調べ)
大久保清 連続女性誘拐殺人事件
大久保清元死刑囚が、1971年(昭和46年)3月~5月までの2か月間に、路上で車から声をかけて誘った女性8人を相次いで殺害した事件。犠牲者のひとり、竹村礼子さんの遺体は、妙義山で発見された。
大久保は、1973年に死刑判決を受け、1976年に死刑を執行された。日本ではめずらしいシリアルキラーで世間の関心が高く、「大久保清」を題材とした作品が数多く制作されている。
クレヨンしんちゃん作者が滑落死(荒船山)
妙義山とともに「妙義荒船佐久高原国定公園」に属する荒船山では、あの「クレヨンしんちゃん」の作者・臼井義人さんが滑落死している。
臼井さんは2009年9月11日朝、「荒船山に行く」と言い残して行方不明になっていた。19日になって登山道の途中にある「艫岩(ともいわ)」のがけ下約120mの地点で遺体を発見。死亡推定時刻は11日午後とみられている。
裁判で死刑確定
1991年11月21日の初公判で、松本美佐雄被告、会社員A(1件目の殺人のみ)とも起訴事実を認めた。しかし、Aの弁護側は、正当防衛あるいは過剰防衛を主張したため、公判は分離された。
共犯の会社員Aは、1992年11月6日、前橋地裁で懲役13年(求刑懲役15年)の判決だった。弁護側は、正当防衛・過剰防衛を主張するも退けられた。(控訴せず確定)
1993年7月9日の論告求刑で検察側は、「犯行の動機、態様、結果などを総合考慮するならば、極刑をもって臨むほかない」と死刑を求刑した。
8月5日の最終弁論で、弁護側は「松本被告はシンナー吸引などで精神的持続力がなく、不利な供述もした。被害者にも問題があった」と述べた。
9月24日の判決公判で、前橋地裁は松本被告に死刑を言い渡した。裁判長は、「まれにみる凶悪事件。一連の犯行を冷静に行っており、人間性の欠如に底知れないものがある」と指摘した。
判決にあたっては、以下の諸事情が考慮されたが、「死刑制度を定めた現行法の下においては、極刑はやむを得ない」として求刑通り死刑判決となった。
- 1件目の殺害については、被害者Bが金を無心したことが発端となっている
- Cの父親への暴行行為については 、松本被告に対する侮蔑的な言動が遠因となっている
- 窃盗の被害300万円については、全額弁償されている
- 前科・前歴がない
ただし、Cの父親殺害については、「松本被告は『公園での暴行で、すでに死んでいた』と認識していた」と認定し、殺人罪ではなく傷害致死罪とした。
松本被告側は、量刑不当などを理由に控訴。しかし1994年9月29日、東京高裁で控訴は棄却となり、さらに上告へと進む。上告審で弁護側は、「C父子殺害について、共犯者がいる」との新事実を主張し、一審・二審では重大な事実誤認があると主張した。
1998年12月1日、最高裁で判決公判が開かれ、裁判長は「半年余りの間に3人の命を奪った結果は極めて重大で、動機に酌量の余地はなく、2件の殺人の態様は冷酷かつ残忍」と理由を述べ、一審・二審の判決を支持、松本被告の死刑が確定した。
裁判長は「被告人に有利な事情を十分に考慮しても、罪責は誠に重大であり、原判決が維持した第一審判決の死刑の科刑は、やむを得ない」との判断を示した。