長崎・佐賀父子連続保険金殺人事件
1998年10月27日、日本犯罪史上初の母親が実子を保険金目的で殺害するという、衝撃的な事件が起こった。
山口礼子は内縁の夫・外尾計夫と共謀して、自分が産んだ高校生の次男を海で溺れたように工作して殺害。この2人は、6年前にも山口の夫をやはり保険金目的で殺害していた。
一審では、2人に死刑が言い渡される。しかし山口の長男と長女は嘆願書を提出、そのおかげで彼女は無期懲役に減刑されるが、外尾には死刑が確定した。
事件データ
犯人1 | 外尾計夫(当時45歳)判決:死刑 福岡拘置所に収監中 |
犯人2 | 山口礼子(当時33歳)判決:無期懲役 和歌山刑務所に服役中 |
犯行種別 | 連続保険金殺人事件 |
犯行日 | 1992年9月11日、1998年10月27日 |
犯行場所 | 佐賀県鹿島市、長崎県小長井町(現・諫早市) |
被害者数 | 2人死亡(山口の夫と次男) |
動機 | 保険金 |
キーワード | 実子殺害、保険金殺人 |
事件の経緯
山口礼子(当時33歳)は夫との間に2男1女をもうけ、5人家族であったが、夫婦仲はうまくいってなかった。なぜなら、夫の山口克彦さん(当時36歳)は、家庭を顧みるタイプではなく、パチンコ等の遊興にふける日々だったからだ。
克彦さんは長女が生まれた1988年秋頃、ある女性と知り合い交際するようになる。彼女はA子といい、結婚して夫のある身だった。
A子は夫Bと鹿島市内にスナックを開くことになったが、克彦さんはその開店資金として120万円を貸し付け、そのスナックに頻繁に通うようになった。A子夫婦は、1999年4月頃に離婚するのだが、翌2000年になって元夫のBが、離婚は克彦との不倫が原因だからと、慰謝料として150万円を要求し、克彦さんはこれを支払った。
しかし、Bはそれだけで済まさず、克彦さんの妻である礼子にも ”代償” という名目で体の関係を求めてきた。あまりの執拗さに負けて、ホテルに連れて行かれた礼子は全裸写真を撮られ、これをネタに愛人関係を強要される。このことを克彦さんに相談しても、彼は取り合ってくれなかった。
翌年になると、Bのスナックで働くことまで要求された。A子とBは離婚はしたものの、A子はまだホステスとして勤めており、礼子は夫の元愛人と一緒に働くというおかしな状況になった。
すでに愛情の冷めた礼子と克彦さんだったが、このころ彼から離婚を匂わされ、親権も奪われそうな雰囲気になっていた。さらに「離婚しても財産は渡さない」といわれ、礼子は克彦さんに対し深い憎悪を抱くようになる。
夫・克彦の殺害計画
礼子は、離婚される前に克彦さんを事故死に見せかけて殺害し、財産と克彦さんにかけた約1億円の保険金を手に入れようと考えた。礼子は、この計画をBに話して協力を頼むが断られてしまう。
そんな時、店の客だった外尾計夫(当時45歳)が何かと味方になってくれ、礼子は外尾に好意を抱くようになった。外尾のおかげで、強要されていたBとの愛人関係も切ることができ、ほどなくして2人は、体の関係を持つようになる。
礼子は、Bに断られた克彦さん殺害の計画を、外尾に頼んでみた。すると、多額の借金を抱えていた外尾は、これを承諾する。2人は克彦さんに睡眠導入剤を飲ませて眠らせて海中に突き落とし、魚釣り中に過って転落したように見せかけることにした。
1992年9月10日午後8時過ぎ、克彦さんに睡眠導入剤入りのカレーライスを食べさせ、眠った克彦さんを佐賀県藤津郡太良町の護岸まで運んだ。そして翌11日午前0時30分頃、睡眠状態の克彦さんを護岸の擁壁から海中に突き落とし、溺れさせて殺害した。
佐賀県警は、事故死として処理したが、状況的におかしいと思える点はいくつもあった。
まず、死亡推定時刻とされた午前2時頃は干潮で、海に落ちたとされる場所は溺れるほどの水位はなかった。本来ならむき出しになった岩などで遺体には外傷があるはずだが、それも見当たらなかった。
また、「夫が海に落ちた」と民家に駆け込んだ礼子は、雨が降っていないにもかかわらず、ずぶ濡れだったという。さらに、釣りをしていたという場所には釣り竿が1本あっただけで、釣り道具やクーラーボックスなど、釣り人が準備するはずのものがなかった。
そのため、事故死と断定して司法解剖も行わなかった佐賀県警に、地元住民は疑問を持ったという。
こうして、計画通り財産も保険金も手に入れた2人だったが、1億円もあった保険金は、驚くほどの早さでなくなってしまう。それは、外尾のギャンブルのせいだった。保険金は、2人の借金3000万円を返済した残りを外尾が管理していたが、彼はそれを競輪などのギャンブルで使い果たし、1993年7月末には数万円しか残っていなかった。
高校生の次男の殺害計画
2人は、相続した財産を処分して5900万円を得るが、これもまたたく間に使ってしまい、礼子がパートで稼ぐわずかな金で生活することになる。そんな1995年7月、外尾はもう一度、保険金詐欺を考えるようになった。そのターゲットは、なんと礼子の次男・山口吉則さん(16歳)だった。
次男は外尾に懐いておらず、また、性格も合わなかったため、3人の子どものうち次男を選んだのだった。次男は外尾の機嫌の悪い時に暴力を振るわれるなど、冷遇されていた。彼はいつも顔に擦り傷があり、ある時は鼻骨や他の箇所を骨折するなどしていたが、まわりには兄弟げんかだと説明していた。
近所の人は、次男が夜、自販機の灯りや街灯の下で本を読む姿、雨の日でも犬の散歩を欠かさない姿を見て、何か事情があるのではと薄々感づいていた。
礼子は次男の殺害について、当然のごとく猛反対した。しかし、しつこく要求されたこともあり、そのうち礼子の心境に変化が現れる。このころ礼子は外尾と縁を切りたいと考えており、次男を殺して得た保険金を元手に、残された2人の子どもと自立しようと考えるようになったのだ。
1998年8月末、イカ採りと称して次男を連れ出し、「睡眠導入剤で眠らせたうえで、イカ採りに使うガスを充満させて殺害する」という計画が実行された。ところが、礼子はやはり自分の子を殺すことはできないと躊躇し、長男に計画を話してガスを止めさせ、これを防いだ。
そして、逆に外尾を殺害してこの計画を回避しようと考えた。礼子は睡眠導入剤を外尾に密かに服用させて眠らせ、タバコの火の不始末で焼死したようにみせかけようとした。しかし、これはうまくいかなかった。
強盗で金を得ようとしたが・・・
そこで、礼子は以前、家政婦として働いた高齢女性の家に強盗に入ることを提案し、外尾が実行犯としてこれを遂行する。1998年9月29日午後8時頃、覆面をした外尾がこの家に侵入し、7時間にわたり女性を脅し、現金約13万7000円、ネックレス等6本(合計約120万円)を奪った。
警察に捕まることもなく成功したとはいえ、思ったほどの収穫ではなかった。そのため、やはり次男を殺害して3500万円の保険金を得るしかない、と礼子は腹をくくる。
1998年10月26日午後10時30分頃、長崎県小長井町の岸壁にイカ採りといって次男を連れて行き、睡眠導入剤のカプセルを飲ませて眠らせた。そして、翌27日午前0時30分頃、眠っている次男の上半身と両足に紙粘着テープを数回巻き付けたうえで海中に投げ込んだ。
しかし、海に落ちた衝撃で、次男は目を覚ましてしまう。彼は「この野郎!」と叫びながら泳いで岸壁に向かったが、外尾がこれを阻止し、礼子も次男の頭を押さえて海中に沈めて次男を殺害した。
2匹目のどじょうはいなかった
礼子は次男を殺害したあと、車でファミリーマートに駆け込み110番通報を依頼する。これを受け警察は小長井漁協に捜索のため船を出してもらうよう依頼、40分後、岸壁から50m離れたところで次男の遺体が発見される。
この時、漁協の組合員らは違和感を感じていた。「明日、学校があるのに深夜にイカ採り、しかもイカの時期は過ぎている」このような疑問は、長崎県警も同じく感じていた。
県警は、「高校生の次男に、高額の保険金が掛けられている」ことや、「6年前の夫の死亡時も、1億円もの保険金を得ている」ことから事件の疑いがあるとみて、遺体は司法解剖されることになった。そのため、次男の保険金は支払われなかった。
司法解剖の結果、次男の遺体から睡眠導入剤が検出されたことから事件と断定、捜査が開始された。そして礼子は容疑者となり、外尾の存在も警察の知るところとなる。
夫の保険金は1億円もあったのに、生活は困窮していたことから、外尾も徹底的に調べられることになった。その結果、外尾は過去に親しくなった女性らに対して、言葉巧みに金を出させることを頻繁に行っていることが判明。おそらく礼子も外尾に言われるがまま、夫の保険金や財産を「貢いで」いたと警察はみていた。
こうしたことから、長崎県警はまず、内縁関係にあった外尾を殺人容疑で逮捕、そして1999年8月30日、外尾の自供から、礼子も殺人容疑で逮捕されることとなった。
その後の捜査で、礼子の19歳の長男には4000万円、10歳の長女にも2500万円の保険金を掛けており、長女には何回か睡眠導入剤を飲ませていたことが発覚した。
長女は近所の人に「次は私が殺される」と話していたという。
犯人について
山口礼子の生い立ち
山口礼子は1958年10月22日、佐賀県藤津郡で生まれている。
地元の小中学校を卒業後、佐賀県内の高校・短期大学に進学した。1979年3月に短大を卒業後は、佐賀県鹿島市内の病院の寮に住み込み、看護婦見習いとして働きながら、准看護婦の資格取得のため看護学校に入学した。
その後間もなく、礼子は知人を通じて山口克彦さん(1953年12月28日生)と知り合う。彼は、電気通信工事等を行う佐賀市内の会社に勤務していた。そして2人は1979年12月に結婚し、礼子は病院を退職、看護学校も退学している。
克彦さんは、結婚直前の1979年9月に、父方の遠縁にあたる鹿嶋市古枝の山口クヨさん(当時89歳)と養子縁組をしていたので、結婚後、夫婦はクヨさん宅で3人で生活を始めた。
その後、夫婦は1980年9月6日に長男、1982年5月24日に次男・吉則さん、1988年11月25日に長女の3子をもうけた。しかし克彦さんは家庭を顧みず、外に愛人を作ったために揉め事を起こす。愛人女性の夫から慰謝料を請求されたうえに、礼子はこの男性の愛人になることを強要された。
それを救ってくれたのが、この事件の共犯者である外尾計夫だった。礼子は外尾に惹かれ、交際するようになる。そして、2人で共謀して本事件を起こすに至り、裁判では無期懲役が言い渡された。
礼子は、2004年5月21日に福岡高裁で無期懲役の判決を受けたあと、獄中結婚している。相手は、判決前に同じ拘置所に拘置されていた男性である。親族や弁護士以外とは面会が不自由なため、男性との結婚を希望し、上告手続きを取った後に婚姻届を提出した。
当初は、獄中結婚後に上告を取り下げるつもりだったが、その後「子供たちに早く会いたい」と有期刑を望み、上告審を受ける気持ちに変わったという。
現在、山口礼子は和歌山刑務所に服役中である。(獄中結婚したため、現在は男性の「M」姓に改姓している)
外尾計夫の生い立ち
外尾計夫)は、1947年7月11日、佐賀県藤津郡鹿島町(現・鹿島市)で生まれた。
地元の小中学校を卒業後、佐賀市内の高校に編入学したが、2年時の時に退学する。
その後は主に東京方面に赴いてトラック運転手、ボーリング場従業員等として仕事をしたが、1977年7月頃、神奈川県小田原市でバス運転手として働くようになる。
1973年6月に結婚し、神奈川県内に住んで3人の子どもをもうけた。しかし、外尾は1976年頃から競輪などのギャンブルにのめり込むようになり、そのため数百万円もの借金を背負ってしまう。そして妻に暴力を振るうようになり、1984年5月に離婚した。
1988年1月、バスの運転中に事故を起こしたことなどから、会社を退職。その年の5月には父親が死去し、これを機に佐賀県鹿島市の実家に転居して父親の経営していた古物商を引き継いで生活するようになった。しかし、古物商では生活できるほどの収入はなかった。
外尾には兄姉が4人いる。そのうち、ひとりの兄は1990年7月に死去しているが、ほかの3人は1978年までに相次いで精神病に罹患し、長期入院となっている。3人の障害者年金は外尾が管理していた。
外尾は、それを担保に金融機関から金を借り、他界した両親の障害者扶養共済金の支給を受けたり、交際女性から金を借りたりして、生活資金に充てていた。そして、依然として競輪・パチンコ等のギャンブルにも耽っていた。
外尾は離婚後、何人かの女性と交際するも多額の借金やギャンブル依存のため、再婚には至らなかった。1991年暮れ、パチンコで知り合った人に、当時礼子が勤めていたスナックに連れて来られ、礼子と知り合う。
1992年9月11日に礼子の夫を、1998年10月27日に礼子の次男を殺害した罪で死刑となる。
現在、外尾計夫は福岡拘置所に収監中である。
裁判
両被告人は、2件の殺人罪・詐欺未遂罪および詐欺罪・窃盗罪・住居侵入罪・強盗罪に問われた。
母親が実子を保険金目的で殺害するというのは、日本犯罪史上初のことだった。
第一審:両被告に死刑
2000年2月15日、長崎地方裁判所で両被告人の初公判が開かれた。
公判は32回にわたって開かれ、両被告人は起訴事実を認めたが、犯行の主従関係などを巡って争った。
山口礼子被告は「2件とも外尾被告が主導した」と従属的な立場を主張した。
2002年7月23日に論告求刑公判が開かれ、検察側は両被告人に死刑を求刑した。
第一審の公判は、同年10月に結審している。
2003年1月31日、長崎地裁は被告人2人に死刑判決を言い渡した。裁判長は、夫・克彦さん殺害については「発案・主導した、山口被告の方が責任が重い」、次男殺害については「両名が一体となって実行したもので、刑に軽重の差はつけられない」との判断を示した。
「外尾被告の暴力から逃れるためだった」との山口被告の釈明については「身勝手極まりなく、子供を犠牲にして殺害するなど言語道断。親子の絆を断ち切るような犯行は許されない」と退けた。
弁護側が「残された被告の2人の子供も、極刑を望んでいない」と情状酌量を求めていたことについては「山口被告が死刑になれば、2人の子供は実父と兄弟を殺害されたうえ、実母までなくすことになるが、酌量の評価には一定の限界がある」と述べた。
山口被告は即日控訴、外尾被告も同年2月14日付で控訴した。
- 長崎地検による死刑求刑は「波佐見保険金殺人事件」村竹正博以来、約20年ぶり
- 長崎地裁における死刑判決は1978年9月の「長崎雨宿り殺人事件」小野照男以来、25年ぶり
控訴審:山口礼子は減刑
控訴審にあたり、山口礼子被告の長男と長女は、母の助命嘆願書を提出した。
山口被告は「夫と仲直りして殺意は喪失していたが、外尾被告が一方的に計画を進めた。次男殺害は、思いとどまらせようと何度も抵抗した」と、強引な外尾被告に服従せざるを得なかったと主張。
一方、外尾被告は「山口被告に同情し、救うために協力した。死刑は重すぎる」としていた。
2004年5月21日の控訴審判決公判で、福岡高裁は第一審判決のうち、山口被告に関する部分を破棄自判し、山口被告を無期懲役とした一方、外尾被告に関しては一審の死刑判決を支持し、控訴を棄却する判決を言い渡した。
裁判長は、山口被告について、夫殺害では夫が家庭を顧みなかった点などを指摘し「犯行に至った経緯には一片の同情があってもよい」とした。一審は「山口被告主導」としていたが、裁判長は「両被告の果たした役割に、大きな違いはない」と述べた。
さらに、次男殺害についても、外尾被告からくり返し誘われたことや、外尾被告が次男を殺そうとするのを度々妨害した点を考慮、山口被告の2人の子供が極刑回避を求める嘆願を出していることもあり、「責任は重大だが、それぞれに酌むべき点があり、一審判決の量刑は重過ぎる」と結論付けた。
一方、外尾被告については、夫殺害に積極的に加担したうえ、借金返済後の保険金のほとんどを競輪につぎ込むなどしており、「外尾被告の異常な行状がなければ、両被告が重大犯行をくり返す必要はなかった。極刑をもって臨むほかない」とした。
両被告は、判決を不服として最高裁へ上告した。
上告審:外尾に死刑、山口は無期懲役
2005年10月25日、最高裁が山口被告の上告を棄却する決定を出したため、山口は無期懲役が確定した。
2007年12月20日の最高裁弁論で、弁護側は、共犯で無期懲役刑が確定した山口受刑者と比較して「刑が重過ぎる」と主張。死刑回避を求めた。
検察側は「金銭欲から2人を殺害し、死刑を回避する理由がない」と反論、結審した。
2008年1月31日、判決公判で最高裁は、外尾被告の上告を棄却、死刑が確定した。
裁判長は「犯行は保険金目的で、人の苦しみも生命の重みも考慮しないもので、罪質は非常に悪い」「水難事故を装って殺害した計画的な殺人で、冷酷、非情かつ残忍だ」と述べた。
また、山口受刑者に比べて刑が重いという弁護側の主張に対しては、「実子の殺害に抵抗する山口受刑者を執拗に説得。被害者2人を力ずくで海中に沈め、生命を奪う決定的行為をした」と、死刑が相当との判断を示した。
佐賀県警の捜査能力
またしても、佐賀県警の捜査能力が疑われるような事件です。
夫の克彦さん殺害事件の際、地元の住民は事件の状況に違和感を感じていたのに、プロである佐賀県警の捜査員はこれを事件性なしと判断しました。そして、司法解剖もしませんでした。
記事中でも書いたように、おかしな点はいくつもあったようです。
干潮で水位が低いのに溺死、むき出しの岩に当たったはずなのに外傷なし、釣り好きのはずなのに必要な道具の準備がない・・・。
そして、極めつけは1億円もの保険金がかけられていたこと。これひとつだけでも充分なぐらい怪しいです。
せめて司法解剖だけでもしていたら、遺体からは睡眠導入剤が検出され、2人は逮捕されたと思います。そうなっていたら、次男の吉則さんは殺されずに済んだのです。
「次男は佐賀県警が殺したも同然」という意見が多いですが、筆者もこれを否定しきれません。
佐賀県警の捜査能力に関しては「佐賀女性7人連続殺人事件」でも首をかしげたくなるようなありさまです。13年間に7人もの女性が殺害されているのに、容疑者すら判明していません。
「太宰府主婦暴行死事件」では、助けを求めた主婦を見殺しにして、悲惨な死に方をさせたにもかかわらず、佐賀県警は言い訳に終始しました。さすがにこの時は当時の本部長・杉内由美子は更迭されましたが、やはりトップの任命は慎重にやってほしいと思います。