西口彰事件
1963年10月18日、福岡県で2人の男性が殺害され27万円が奪われた。この事件で指名手配された西口彰(当時37歳)は逃亡を続け、その後も詐欺事件を起こしながら静岡県で女性2人、東京で男性1人を殺害した。
合計5人の命を奪った西口は、次のターゲットを求めて熊本県の住職宅を訪れる。しかし、西口はこの家に住む10歳の少女によって正体を見破られてしまうのだ。住職は、「正体を知ったことを悟られたら家族に危険がおよぶ」と考えた。そこで、西口を油断させて就寝させ、それから警察に通報することに決めた。こうして住職一家の長い一日が始まった…。
事件データ
犯人 | 西口彰(当時37歳) |
犯行種別 | 連続殺人事件 |
事件発生日 | 1963年10月18日~1964年1月3日 |
犯行場所 | 福岡県行橋市:男性2人殺害 静岡県浜松市:女性2人殺害 東京都豊島区:男性1人殺害 熊本県玉名市:未遂 |
被害者数 | 5人死亡 |
判決 | 死刑 1970年12月11日執行(享年44歳) |
動機 | 金銭 |
キーワード | 指名手配ポスター |
事件の経緯
1963年10月18日、福岡県の山道で、男性の遺体が発見された。
この男性は、専売公社職員の村田幾男さん(58歳)。そして、この現場からわずか2kmほどの場所で、もうひとり男性の遺体が見つかった。男性は運送会社の運転手・森五郎さん(38歳)だった。
村田さんはタバコの配給および集金業務をしており、その運転手が森さんだった。犯人は村田さんが業務で集金した現金27万円を奪って逃走していた。
福岡県警は、目撃証言などから付近に住む元運転手・西口彰(当時37歳)の犯行と断定。西口には、詐欺や窃盗で前科4犯があった。福岡県警は、すぐに西口彰を全国に指名手配した。
翌19日、西口は福岡市新柳町の旅館に女連れで泊まり、朝刊で自分が指名手配されたことを知る。さらにラジオで、「警察は、関西方面へ逃亡したとみている」と放送されたのを聞くと、九州に留まり佐賀県唐津市へ向かった。ギャンブル好きな西口は、唐津競艇で2日間で21万円を稼いでいる。
自殺を偽装したが・・・
10月23日、西口は佐賀県から行橋署に、以下の文面で手紙を送った。
「前略、手配のとおり、自分が専売公社輸送強盗殺人の犯人である。犯行後、情婦と逃げるつもりであったが、前非を悔いて自殺することにした。警察には絶対に捕らえられない。悪しからず。東京にて 西口彰」
その2日後、福岡県警は、西口が宇高連絡船「瀬戸丸」から投身自殺した形跡がある、という連絡を香川県警から受ける。上着と靴が船に残されており、上着のポケットからは遺書がみつかった。海上保安庁は航路を中心に捜索するも遺体は発見されず、これは偽装自殺と断定された。
静岡の旅館女将を殺害
10月28日、西口は静岡県浜松市の貸席「ふじみ」に、京都大学教授と名乗り宿泊した。黒縁の眼鏡をかけてコートを着込み、大学教授に見えるように成りすましていた。
西口は、静岡大学に電話をかけるなどして、女将の藤見ゆきさん(41歳)と母親のはる江さん(61歳)に大学教授であると信じ込ませることに成功した。
その後、疑われないために「ふじみ」を出て、広島・徳山・沼津と渡り歩いた。広島では、電気店からテレビ4台(22万円相当)をだまし取り、これを質に入れて8万円を手に入れた。徳山では東大教授と称して2泊したが、美人の女中が「女将の許しを得たから」と言って、夜を共にしたという。
11月14日、西口は静岡県浜松市の貸席「ふじみ」に再びやってきた。京大教授と信じて疑わない女将のゆきさんは西口を歓迎し、自分の部屋で寝るように準備したという。
11月18日、西口は女将のゆきさんと母親のはる江さんを細ひもで絞殺し、宝石や貴金属など金目のものをすべて持ち出した。そして、それらを質屋で4万8000円に換金して逃走。翌19日には「ふじみ」の電話加入権を質屋に入れ10万円を手に入れた。
特別手配となった西口彰
11月22日、警察庁は、西口彰を重要指名被疑者として特別手配することを決定した。
その後も、西口は各地で詐欺を繰り返している。
- 千葉地裁で会計課職員になりすまし、長男の交通違反の罰金を払いにきた母親(当時61)から6000円を騙し取った
- 千葉刑務所で弁護士になりすまし、勾留中の男の母親(当時50歳)から保釈金5万円を騙し取った
- 北海道沙流郡門別町の洋品呉服店に弁護士を装って訪れ、1万5000円を騙し取った
- 弁護士を装い東京都中央区日本橋兜町に現れ、証券詐欺で捕まった男性(当時24歳)の兄に、保釈手続きの費用と言って4万円を騙し取った
東京で弁護士を殺害
西口は、弁護士を装って詐欺を続けるうちに、弁護士らしく見せかけるために訴訟書類を盗み取ろうと思いたつ。
西口は東京地裁の控室でたまたま見かけた高齢の弁護士・神吉梅松さん(当時82歳)を次の標的に選んだ。西口は、まず神吉さんに「民事事件を依頼したい」と偽って電話をかけた。そして12月29日、外出先で面談。その後、うまく理由をつけて東京都豊島区の神吉さんのアパートに同行した。
部屋に入ると、西口は神吉さんの背後から頭を殴り、ネクタイで首を絞めて殺害。現金や弁護士バッジなど14万円相当を奪った。それから4日間、遺体をタンスの中に移してこの家で過ごした。
最後の悪事
西口はここまでに5人を殺害し、詐欺や強盗も繰り返していた。警察は延べ12万人の警察官を動員して行方を追っていたが、逮捕には至らなかった。
1964年1月2日、西口は弁護士を装い、熊本県玉名市内の立願寺に現れた。この寺の住職は、福岡刑務所の教誨師もしている古川泰龍さん(当時43歳)で、冤罪被害者を救う活動もしていた。古川さんは福岡刑務所にも講話のため訪れたことがあり、服役中だった西口は彼を覚えていたのだ。
西口は「川村弁護士」と名乗り、古川さんの活動を支援するために東京から来たと説明した。会話の中に他の支援者の名前を出して古川さんを安心させたが、これは前日のうちに年賀状を盗んで調べておいたのだ。
当時、古川さんは自費で活動しており、支援の話はありがたかった。
正体を見破った少女
両親が歓迎ムードであるのとは違って、古川家の次女・るり子ちゃん(当時10歳)は、”川村弁護士”を見て驚いた。そして何を思ったか、彼女は突然家を飛び出して行った。
しばらくして戻ったるり子ちゃんは、両親に ”川村弁護士(西口)は、連続殺人犯の西口彰にそっくり” だと訴える。 彼女は外でよく見かける指名手配写真を確認するため、出かけていたのだ。
当初は古川さんも取り合わず、「お客さんに対して失礼」と叱ったという。
るり子ちゃんの同級生に「西口彰」と似た名前の生徒がいたため、彼女は通学中に指名手配書をよく見ていたのだ。
その後、長女の愛子さんも手配書を確認。長女が見たところ、確かに川村と名乗る弁護士は、西口にそっくりだった。 手配書によると、西口には右のおでこと頬に小さなアザがあると書かれていたが、母・美智子さんは男の顔にその通りのアザがあるのを確認した。
古川さんも正体を知る
不安になった美智子さんは、そのことを夫に話し、念のため古川さんも手配書を見に行った。家に戻ると ”川村弁護士” と会話しながら顔の特徴を確認したところ、確かに犯人と同じだった。さらに長く話していると、あきらかに怪しい点があり、古川さんは ”川村弁護士と名乗るこの男は、西口彰である” ことを確信する。
古川さんは、どうしたものかと思案した。
不自然な動きをして気付かれたら家族に危険がおよぶ。家族全員の安全を確保したまま、警察を呼ぶ方法・・・。古川さんは考えた末、西口を油断させたまま家に泊めることにした。
寝ている間に警察を呼ぶのが一番安全と考えたのだ。
古川家の長い夜
古川さんは、まず部屋のひとつに鍵を取り付け、家族はそこに避難させることにした。鍵を付ける間は、妻の美智子さんが話し相手をして気をそらせ、鍵を付けるための釘を打った。絶対に気付かれないよう音に注意して、釘1本打つのに20分もかかったという。
正体がわかってからは、緊張の連続だった。長く感じられた時間は過ぎ、やがて就寝の時間になった。
午後11時過ぎ、西口に用意した部屋から明かりが消えた。美智子さんと愛子さんはこっそり家を抜け出し、警察に行き事情を説明した。 しかし時間が遅いため、人員を集めるのに数時間かかると言われた。
警察が到着したのは、午前4時過ぎだった。古川さんにとっては、永遠にも感じられるほど長い時間だったが、これで安心だった。
警察が調べたところ、男が名乗った「川村覚次」という弁護士は、東京に実在していた。警察が確認のため電話すると、川村弁護士は東京の自宅にいることが判明する。
つまり、古川家にいる人物は、川村弁護士ではない。
ついに西口彰を逮捕
夜が明けて目覚めた西口は、何かを感じ取ったのか「これから福岡に出る」と言い、逃げるように帰ろうとした。だが家を出たところを、警察にあっけなく逮捕された。
”大騒ぎせず逮捕させる”という、古川さんの作戦は成功した。しかし、のちに恐ろしい話を警察から聞かされる。西口の目的は古川さんの活動資金で、折を見て一家を皆殺しにして金を奪い、沖縄に逃亡する計画だったというのだ。
結局、西口は逮捕され78日間の逃亡生活は終わりを告げた。警察庁長官は「警察12万人の目は、1人の少女の目にかなわなかった」というコメントを発表している。
【映画化】殺人現場でロケを敢行
この事件は世間の関心も高く、のちに小説や映画・ドラマになっている。
映画のタイトルは「復讐するは我にあり」
この作品は高い評価を受けたが、それ以上にすごいのは実際の殺害現場で撮影されていること。
福岡と東京(アパート)の殺害シーンは、実際の殺害現場でロケを行っている。
これは今村昌平監督のこだわりで、監督曰く「ロケがすべてだよ」とのこと。
タイトルの「復讐するは我にあり」は聖書の文言で、『我』は『神』を表す。「復讐はするな。それは神が下す」という聖書の教えだという。
原作者の佐木隆三は、「犯人のことを肯定も否定もしたくない」という思いを込めてこのタイトルをつけた。
この映画は、当時の売れっ子俳優が総出演し、日本アカデミー賞も受賞している。
最優秀作品賞 / 最優秀監督賞 / 最優秀脚本賞 / 最優秀助演女優賞 / 最優秀撮影賞
監督:今村昌平
出演:緒形拳、三國連太郎、倍賞美津子、小川真由美、ミヤコ蝶々、清川虹子
原作:小説「復讐するは我にあり」佐木隆三
テレビドラマとしても、3度制作されている。
・「一億人を敵にした男 復讐するは我にあり」(主演:根津甚八)TBS/1984年
・「復讐するは我にあり」(主演:柳葉敏郎)テレビ東京/2007年
・「東京オリンピックと世紀の大犯罪~追跡!封印された死刑囚たちの“正体”~」(主演:陣内智則)フジテレビ/2014年10月12日
犯人・西口彰の生い立ち
西口彰は1925年12月14日、長崎県五島列島から大阪へ出稼ぎに来た両親のもとに生まれた。
カトリックの家庭で、子供の頃に洗礼を受けている。
西口が3才の頃に五島列島に戻り、父親はアジ・サバ漁の船2隻を所有して成功、五島の有力者となった。1936年頃、父親は漁業をやめて福岡県行橋で果樹園経営を始めた。
その後、喘息が悪化して果樹園をやめている。1941年には大分県別府市にある温泉旅館を買い取って、旅館経営を始めた。
中学から福岡のミッション系スクールに進んだ。だが厳しい戒律のある寮生活になじめず、3年生の時には中退して家出した。
その後、窃盗・詐欺を繰り返し少年刑務所に入ったが、出所後も犯罪を犯しては服役のくり返しだった。
服役と出所のくり返し
1946年10月、20歳の時に1歳年下の福岡県の女性と結婚、3人の子どもに恵まれた。結婚した2年後の1948年に恐喝罪で逮捕されて服役、2年後に出所した。
翌年1949年に米ドル不法所持で逮捕、翌1950年には進駐軍日系二世になりすまして詐欺で逮捕。5年間服役し、出所から2年後の1959年に詐欺で逮捕されて服役している。
別府刑務所を出所した36歳の時、家族を別府の実家に預け、福岡県行橋市で理容師の女性と同棲を始めた。このころトラック運転手の職に就いたが、1年も続かなかった。
そして1963年、事件を起こす
1963年10月18日、福岡県で男性2人を殺害、27万円を奪って逃走。(行橋事件)
1963年11月18日、静岡県浜松市で女性2人を殺害、宝石や貴金属を奪って逃走。
1963年12月29日、東京都豊島区で弁護士の男性を殺害、14万円相当を奪って逃走。
1964年1月3日、熊本県の冤罪被害支援者宅に訪れた際、10歳の少女に正体を見破られ逮捕となる。
1966年8月15日、裁判にて死刑確定。
1970年12月11日、福岡拘置所で死刑執行された。(享年44歳)
西口彰の最後の言葉は「遺骨は別府湾に散骨してください、アーメン」だったそうである。
裁判
第一審:福岡地裁
西口は検察側から「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と言われ、裁判長からは「悪魔の申し子」と形容された。
1964年12月23日、福岡地裁は、西口彰に対し死刑の判決を言い渡した。
1965年1月5日、弁護側が控訴し、その理由を3つ挙げた。
- 犯罪史上まれな凶悪事件は、異常性格の仕業であり、第一審において精神鑑定の請求が退けられたのは不当である
- 犯行当時、心神耗弱状態で責任能力のない被告人に、この判決は重すぎる
- 行橋事件の動機について、第一審では考察が充分でなく、被告人に不利な点のみが採用されている
これについて裁判長は精神鑑定請求の件は保留にし、行橋事件の証人として西口と最後に交際のあった行橋市の理容師女性を呼ぶことを決定した。
控訴審:福岡高裁
1965年7月10日、福岡高裁で控訴審の第2回公判が開かれた。
精神鑑定については、合議した上で「供述態度および内容から判断して、犯行当時に心神耗弱でなかったのは明らか」と却下になった。
8月28日、福岡高裁は第一審の死刑判決を支持し、控訴を棄却した。
棄却の理由は「西口は欲望の表現方法に若干の異常は見られ、情操の欠如は認められるが、刑法上責任能力を減少するほどのものではない。犯罪のやりかたは残忍で、被告人に有利な証拠一切を考慮に入れても死刑は相当である」とした。
9月10日、弁護側は上告したが、1966年8月15日に上告を取り下げ、死刑が確定した。
8月15日は西口彰にとって特別な日だった。理由は以下のように説明している。
聖フランシスコ・ザビエルが伝導のために渡米したのが1549年8月15日であり、もっと大きな意味をもつのはアッソムションが8月15日、すなわち、聖母マリア様が亡くなられて天の御国へ還られた日だから、この被昇天祭は特にカトリックにとってクリスマスに並ぶ大きなお祝いにあたる
心のケアを続けた古川泰龍さん
危うく家族もろとも被害者になるところだった古川泰龍さんだが、死刑確定後も西口彰の心の支援を続けている。古川さんは「犯罪者は心の病気」という信念のもと、罪を憎んで人を憎まずの精神で西口と文通を続けた。
さらに古川さんは、西口の家族に対しても心のケアを行い、西口の息子の学費の援助も申し出た。その結果、西口の心に反省と謝罪の気持ちが生まれたという。
西口彰の息子と文通
「お手柄少女」といわれた、るり子ちゃんも息子と文通をして励ましたそうだ。
るり子ちゃん「お元気ですか?私は今カゼをひいています。私達いつまでもなかよくしましょうね。」
西口彰の息子「僕は一生懸命に頑張ろうとファイトを燃やしています。るり子ちゃんも、お体をお大事になさって下さい。」
(実際の文通より抜粋)
*西口の息子は、熊本県の古川さん宅を訪れたこともあった。
しかし、世間の風当たりが相当強かったのか、西口の息子はグレてしまった。そんな時、西口は息子に対し、20通もの手紙をしたためて改心させたそうである。
西口彰の最期
福岡拘置所に同時期に収監されていた免田栄さんによると、西口の最期は潔かったという。
西口は”最期”に着る服を自分で作るなど、死に向けての準備も冷静に行っていた。免田さんが冤罪を認められ出所するまでの34年間に見た中で「一番立派な最期だった」、とテレビの取材で話している。
このように、古川さんによる心の支援は西口の心に変化をもたらした。クリスチャンの家庭に生まれたにもかかわらず、「悪魔の申し子」と呼ばれるほど凶悪な犯罪を犯した西口彰だったが、最期はクリスチャンとして立派に旅立って行った。
(古川泰龍さんは、2000年8月25日に他界している。享年80歳だった)
「広域重要事件特別捜査要綱」制定
前身と言える「重要被疑者特別要綱」は1956年に制定されていた。
当時は各地域の警察同士で縄張り意識が強く、広域事件発生時に連携が取れず、捜査の妨げとなるケースが多かったた。こうした事態を解決するために発足したものだった。
そして1964年4月13日、これをさらに発展させた「広域重要事件特別捜査要綱」がスタート。これは、前身である「重要被疑者特別要綱」よりも、地域間の連携や情報の統合を強化する内容になっている。
これが制定されたのは、この「西口彰事件」の影響といわれている。