「SMクラブ下克上殺人事件」の概要
五反田でSMクラブを経営する男性が、ある日失踪した。男性が慶応義塾大学卒のやり手経営者という、この手の事件にはめずらしい経歴だったことから、テレビのワイドショーはこの事件に飛びついた。
現場の状況から、警察は殺人事件として捜査。翌年夏、逮捕されたのは陸田真志(当時25)らSMクラブの従業員だった。真志は、待遇面への不満から店を乗っ取ろうと計画し、協力の意志を示した従業員とともに経営者と店長を殺害。その後、自身が経営者となり、1億円以上を売り上げた。
裁判では主犯の真志に死刑が確定。獄中で哲学に目覚め、善の心を理解した真志だが、2008年、死刑が執行された。
事件データ
主犯 | 陸田真志(当時25歳)双子の弟 死刑:2008年6月17日執行(37歳没) |
共犯1 | 陸田賢志(当時25歳)双子の兄 無期懲役 |
共犯2 | SMクラブ従業員B 懲役15年 |
犯行種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 1995年12月21日 |
犯行場所 | 東京都品川区東五反田 SMクラブ「五反田パラダイス」 |
被害者数 | 2人死亡 |
動機 | 勤務するSMクラブを乗っ取るため |
キーワード | 従業員による下剋上 |
事件の経緯
五反田のSMクラブ「パラダイス」の従業員・陸田真志(当時25)は、経営者の橋口聖司さん(当時32)に対する不満を募らせていた。真志は前年1994年9月にアメリカから帰国し、スポーツ新聞の求人広告を見て応募、10月から従業員として働き始めた。
経営者の橋口さんは慶応義塾大学卒業後、大手不動産会社に就職したが1年ほどで退社。その後、1993年頃から品川区東五反田のマンションの部屋でSMクラブの経営を始めた。
真志が働き始めた当時は従業員も少なく、経営者の橋口さんと真志の2人が中心となって店を切り盛りしていた。ある時、真志は橋口さんから「売上げが伸びたら、それに応じて歩合を付ける。店が増えたらその店を任せる」などと言われ、俄然やる気を出した。
真志は自分なりに営業方法に工夫を凝らし、それまで毎月600万円~800万円程度だった売上が、12月には1000万円を超えるようになり、店舗も増えていった。しかし、橋口さんは真志にわずかな一時金を与えたのみで約束を果たさなかった。さらに翌年2月頃、店の客の一人であった平賀聖浩さん(当時33)を店長として雇い入れたことで、真志は不満を募らせた。
SMクラブ「パラダイス」は、事件が起きたマンションの902号室、907号室、602号室の他、品川区や港区のマンション数カ所の部屋を借りて計6店舗まで拡大していた。
不満は募る一方
真志は、橋口さんと「1日の利益が基準額を超えたら日当を追加する」との約束を改めて交わした。だが利益が上がるにつれて橋口さんは基準額を引き上げていったため、真志の給料はあまり上がらなかった。
真志は度々「給料アップ」や「店を持たせてほしい」と交渉するも聞き入れてもらえずにいた。次第に「橋口さんが自分を軽視している」と感じるようになり、真志の不満は爆発寸前だった。
また、真志は平賀さんに対しても憤りを感じていた。平賀さんは従業員らに対する態度が横柄で、仕事ぶりのわりに自分よりはるかに高い給料を得ていた。真志の月給は歩合も含めて80万円ほどに対し、平賀さんは300万円だったと言われている。
”平賀さんが女性従業員に売春行為をさせて、その客から別料金を取ったり、店の売上金の一部を横領している”と疑っていた真志は、それを橋口さんに告げたりもしたが、相手にされなかった。
不満の留飲を下げるためなのか、真志の方も1995年7月頃、従業員A・その友人と共謀して3人で狂言強盗を行い、店の売上金約90万円を奪っている。(真志の取り分は約40万円)
8月頃から、当時大学生だった真志の双子の兄・賢志(当時25)が「パラダイス」で働くようになったが、賢志もまた、平賀さんの態度を腹立たしく感じていた。橋口さんとはあまり接点がなかったが、真志に対する仕打ちを聞くにつけ、橋口さんに対しても良い感情を持たなくなった。
10月下旬頃、橋口さんが給料制を変更する。真志はこれをきっかけに、「店を持たせてくれる話はどうなったのか」と尋ねたところ、「嫌だったら辞めてもいい」と突き放された。
真志は経営者である橋口さんに本名を明かさないなど、心を開いていなかった。狂言強盗の件もあり、橋口さんに信用されていなかったと考えられている。
店の乗っ取り計画
橋口さんを信用できなくなった真志は、独立を考え始めた。そして、賢志や他の従業員A・Bにその話を持ちかけたが、資金調達の目処が立たず、仮に独立できたとしても、橋口さんらによって潰されてしまうだろうと考え、11月頃には独立することをあきらめた。
次に真志が考えたのは、店を乗っ取ることだった。その手段は合法的なものではなく、経営者の橋口さんと店長の平賀さんを殺害して自分が経営するという物騒なものだった。独立を断念してからはこれを真剣に考えるようになり、賢志にその話を持ちかけた。賢志はあまり乗り気ではなかったが、説得して承諾を得た。
橋口さんは身長174cm・体重80kg、平賀さんは身長182cm・体重110kgと2人とも大柄。それに対し、陸田兄弟は身長160cmたらずと小柄な体格だった。そのため、「もっと人手が必要」と考えた真志は、従業員Aに手伝いを頼んだが断られた。続いて従業員Bに話を持ちかけたところ、Bはこの計画への加担を承諾した。
橋口さんが極真空手の有段者だったことも、真志を慎重にさせた。
陸田兄弟は、時にBも交えて殺害計画を練った。そして、12月20日には殺害に使う斧やハンマーなどの凶器、布団袋やビニールシートなどの死体遺棄のための道具を買いそろえていた。真志はBに対し、「明日以降チャンスがあればやるから、ちゃんと出勤してくれ」と告げた。
翌21日午前10時過ぎ、真志が凶器を持って907号室に行くと、夜勤明けの平賀さんが待合室のソファで熟睡していた。真志は、平賀さんを殺害する絶好の機会だと思い、602号室で勤務していた賢志を呼びに行った。賢志はバタフライナイフを持って907号室に赴いた。
午前10時30分頃、犯行にためらいを見せた真志に代わり、賢志が眠っている平賀さんの頭を斧で殴打して一連の犯行の口火を切った。2人は平賀さんの頭を斧やハンマーで数回殴打し、賢志はさらに胸部をバタフライナイフで数回突き刺した。
平賀さんはその場で胸部刺創による心損傷により死亡した。遺体は、陸田兄弟と午前11時30分に出勤した従業員Bの3人で902号室のユニットバスに隠した。
午後5時過ぎ、真志は「可愛い女性が面接に来ている」と嘘を言って橋口さんを907号室に呼び出した。この時、賢志は疲弊していて犯行に加わるのを断ったため、真志はBと2人で実行することにした。
橋口さんが907号室に入ると、真志が背後からハンマーで殴った。さらにBが押さえつけたところをバタフライナイフで何度も突き刺し、紐で首を絞め、斧で殴り殺害した。死因は背部刺創による肺損傷だった。そして現金20万円が入った財布や乗用車の鍵、マンションの鍵などを奪った。それから翌22日にかけて橋口さんの遺体を902号室に運び込んだ。
殺害後、SMクラブは真志が経営
遺体の処理は、報酬としてベンツ2台と現金1000万円を支払うことを約束して無職男性Cと暴力団員D・E・Fに依頼していた。暴力団員らは2人の遺体を木箱に入れてコンクリート詰めにし、1996年1月21日、茨城県の鹿島港に捨てた。
真志は橋口さんが経営に関わっていた痕跡をなくそうと考え、12月24日深夜、渋谷区広尾の橋口さんの自宅マンションに侵入。SMクラブの書類などを奪い、さらに翌日午後9時頃には定期預金通帳などが入った耐火金庫を奪った。
そして1996年1月5日から9日まで計3回にわたり、真志らは偽の委任状を作り、奪った定期預金通帳を使って現金2502万7548円および額面500万円の小切手3通、合わせて約4000万円を騙し取った。
その後、SMクラブは真志が経営し、1億3千万円以上の利益を出した。
しかし1996年2月、橋口さんの両親が警察に捜索願を提出したことにより、事件は発覚する。警視庁捜査一課と渋谷署が橋口さんに関係する場所を検証したところ、争った跡や血痕が見つかったことなどから周辺を捜査。失跡後に無職男性Cが、橋口さんの通帳と印鑑を使って多額の預金を下ろしていたことが判明した。
警察は、8月30日までに無職男性Cを詐欺と有印私文書偽造の容疑などで逮捕。現場の状況から「橋口さんは殺害された疑いが強い」とみた警察は、賢志宅など約20か所を家宅捜索した。その結果、短銃や薬物が見つかったため、賢志を銃刀法違反容疑で、暴力団員Fを覚せい剤取締法違反容疑などで現行犯逮捕した。
これにより逃げられないと悟ったのか、真志は自ら警察に出頭して詐欺などの容疑で逮捕となった。そして9月6日午前、供述どおり鹿島港から2人のコンクリート詰め死体が入った木箱が発見された。
9月25日、捜査本部は陸田真志・賢志・従業員Bを強盗殺人などの容疑で、無職男性Cと暴力団員D・Eを死体遺棄容疑で逮捕した。26日には覚せい剤で服役中の暴力団員Fも、死体遺棄容疑で逮捕した。
陸田真志・賢志兄弟の生い立ち
陸田真志・賢志の兄弟は、1970年、一卵性の双子として山口県下松市の両親のもとに生まれた。当時、父親は船員をしていた。真志が弟で三男、賢志が兄で二男になる。
本事件の主犯となる陸田真志は、地元の高校を経て専修大学商学部に進学。しかし1年の時に中途退学してデザインの専門学校を卒業した。その後、インテリアデザインを学ぶためにアメリカに留学したが、暴力事件をくり返し、金品を巻き上げるなどの犯罪に加担したことから逮捕。1994年9月に帰国となった。
その翌月、スポーツ新聞の求人広告をきっかけに、被害者の橋口聖司さんが経営していたSMクラブ「パラダイス」の従業員として働き始めた。
真志の双子の兄・陸田賢志は、地元の高校を経て遅れて湘南工科大学に進学し、大学在学中の1995年8月頃から、真志の誘いにより「パラダイス」で働き始めた。
事件を計画・主導したのは真志で、その理由は経営者である橋口さんに対する不満が爆発したことだった。”利益を上げれば褒美をやる” との約束は守られず、”頑張れば店長にしてやる”と言われて努力するも実際に店長になったのは、それまで客のひとりだった平賀さんだった。
資金がないため独立も叶わず、店を乗っ取ることを真剣に考え始めた。そして事件を起こしたのが1995年12月21日。橋口さんと平賀さんを殺害し、自分が経営者となって1億円以上を売り上げたという。
だが翌1996年夏に逮捕となり、2005年10月17日、最高裁で死刑が確定。そして、そのわずか3年後の2008年6月17日、収監されていた東京拘置所にて刑が執行された。(37歳没)
共犯の賢志には無期長期、従業員には懲役15年が確定している。
また、死刑執行となった2008年6月17日は、あの「幼女連続殺人事件」の宮崎勤も同時執行されたため、世間の注目はこちらに集中することになった。
哲学者・池田晶子との出会い
睦田真志は死刑確定後、たまたま読んだ池田晶子氏の著作『さよならソクラテス』に衝撃を受け、原典の『ソクラテスの弁明』も読んだ。その結果、”自分の中にも「善」があること”、”ただ生きるのではなく、善く生きる” ことに気づかされた。
真志は、本当の意味で自らの罪を認め、被害者にも謝罪できたことについて、獄中から出版社経由で池田氏にお礼の手紙を送った。これがきっかけで以後、真志と池田氏の手紙による「哲学対話」が始まる。
真志が控訴せずに死刑判決を受け入れる意向を示した時、池田氏は「自分と十分な対話をしたあと、天命を全うしてから死んで下さい」、「人を殺しておいて、そのうえ、かっこよく死んでやろうなんて、考えが甘すぎます」と強く反対した。真志はこれを受け、控訴することを決意した。
そんな池田氏だが、2007年2月23日、腎臓がんにより46歳で逝去した。そして翌年2008年6月17日、真志の死刑が執行された。
真志は死刑を執行される際、「池田晶子さんのところに行けるのはこの上もない幸せです」という言葉を遺して逝ったという。
約7ヶ月、計23通の2人のやり取りは、後日、書籍として出版されている。
『死と生きる 獄中哲学対話』(池田晶子・陸田真志/ 著)
池田晶子:日本の哲学者、文筆家。1960年8月21日、東京都港区で生まれる。慶應義塾大学文学部・哲学科倫理学専攻を卒業。大学時代、雑誌『JJ』の読者モデルを務め、卒業後は就職せずモデル事務所に籍をおいた。このとき『文藝』の校正の仕事をしたのがきっかけで文筆活動を開始した。
2007年2月23日、腎臓がんで他界。(享年46歳)
被害者2人の経歴
被害者・橋口聖司さんは宮崎県で生まれ、1988年年3月に慶応義塾大学経済学部を卒業した。卒業後は住友不動産株式会社に入社したが、1年ほどで退社。自ら不動産業を始めたが失敗する。
1992年春に風俗店経営の友人の紹介で風俗経営コンサルタントと知り合い、セミナーに参加して経営のノウハウを教わった。
1993年頃から片桐哲也の名前で品川区東五反田でSMクラブ「パラダイス」の経営を始め、事件が起きたマンションの902号室、907号室、602号室のほか、品川区や港区のマンション数カ所の部屋を借りて計6店舗まで拡大していた。橋口さんは独身で、東京都渋谷区内のマンションに住んでいた。
「パラダイス」で働いていたSM嬢は、テレビの取材で橋口さんについて以下のように話している。
- ウラ・オモテがあるが、頭は切れる人
- 人をあまり信用していない、信用してるのはお金だけ
- アメとムチを使い分け、うまくやっていた
- 少しでも反抗的な者はクビにするなど、恨みを買うことは多かった
- 同業者から反感を買っていたようで、「いつか潰してやる」と言われていた
- 店の従業員やSM嬢の中にも敵視している人が多かった
店長になったばかりに…
もうひとりの被害者・平賀聖浩さんは兵庫県で生まれ、1985年3月、甲南大学経済学部を卒業し、株式会社マッキャンエリクソン博報堂に入社した。1994年12月に退社すると、翌年2月頃から白石亮の名前で、橋口さんが経営するパラダイスに店長として勤務した。平賀さんは独身で、東京都品川区内のマンションに住んでいた。
平賀さんは従業員に対する態度が横柄なうえ、自分を差し置いていきなり店長に抜擢されたことが、真志には面白くなかった。とはいえ、このぐらいのことはよくある話で、平賀さんにとっては「パラダイス」に関わったことが不運としか言いようがなかった。
裁判
1997年3月3日の初公判で、陸田真志被告は強盗殺人などの起訴事実を大筋で認めたが、「(被害者から)金を奪う意図はなかった」と強盗目的については否認した。
兄の賢志被告も「経営者の殺害には加わっていない」と一部を否認。従業員B被告は「事前共謀はしていない」と起訴事実を否認した。
1998年3月16日の論告で検察側は、真志被告について「殺害計画や凶器の選定などを主導した首謀者で刑事責任は極めて重く、自ら2人を殺害した」と指摘して死刑を求刑。賢志被告については「店長を殺害するなど積極的に加担し、真志被告に次いで重要な役割を果たした」と無期懲役を求刑した。
1998年6月5日の判決で、裁判長は真志被告を事件の首謀者と認定し、死刑を言い渡した。賢志被告についても「(橋口さん殺害に関して)直接手は下さなかったが、遺体運搬などを手伝い、犯行の成功報酬を得ていた」と共謀を認定した。
そして「計画的で悪質であることはもちろん、金銭欲を満たすために手段を選ばず、自己中心的かつ短絡的な態度が表れたもの」と真志・賢志両被告を厳しく批判。「犯行の執拗性・残虐性は目を覆うばかりで、刑事責任はいずれも極めて重い」と指弾した。
そして真志被告に「被告は事件の首謀者として主導的役割を担い、共犯者を巧みに誘って犯行を実現した。殺害後に風俗店を乗っ取った行動は大胆不敵と言え、犯行の残虐性などを考えると死刑をもって臨むほかはない」と述べた。賢志被告にも「事前にバタフライナイフなどの凶器を準備したほか、最初の犯行で被害者(平賀さん)を殴ってその口火を切るなど、関与がなければ乗っ取り計画は実現されなかった」と認定し、無期懲役を言い渡した。
被告側は量刑不当を理由に控訴した。
真志は死刑判決を受け入れようとしていたが、当時手紙のやり取りをしていた哲学者・池田晶子の説得により控訴を決意した。
陸田真志に死刑が確定
従業員B被告は、一審の途中から公判が分離され、控訴審の途中からは兄・賢志被告の公判も分離された。
兄の賢志被告は、2001年9月6日、東京高裁で控訴棄却となった。裁判長は「周到に計画された残忍・非道な犯行で、一審の判決が重過ぎて不当とはいえない」と指摘した。その後、賢志被告の無期懲役が確定した。
賢志被告の判決から5日遅れて、9月11日には真志被告の控訴審判決が行われた。東京高裁は被告側の控訴を棄却、一審の死刑判決を支持する結果となった。
裁判長は「周到に計画された極めて残忍・冷酷非道な犯行」と指摘。真志被告が起訴事実を認め、5000万円を遺族に渡すなど反省していることを踏まえても、「一審の死刑判決が重すぎて不当とは言えない」と述べた。(真志は上告している)
上告審で弁護側は「犯行は計画的ではなく、深く反省している」と死刑回避を求めた。しかし、2005年10月17日、最高裁は上告を棄却し、真志被告の死刑が確定した。
裁判長は、「店を乗っ取り、収益を奪おうとした一連の犯行であり、人の命を犠牲にして自己の利得を図ろうとした動機・罪質は悪質極まりない。周到に準備した計画的犯行で、殺害方法も残虐。死刑とせざるを得ない」と理由を述べた。
従業員B被告には、1998年10月5日、東京地裁は無期懲役の求刑に対し、懲役15年の判決を言い渡した。裁判長は「陸田兄弟が経営者になれば給料が良くなると考え、安易に犯行に加わった。殺害方法などの残忍性は社会に強い衝撃を与えたが、被告が実際に行ったのは経営者の体を押さえ付けるなど一部にとどまった」と述べた。