館山市一家4人放火殺人事件|犯人は筋金入りの放火魔

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高尾康司/館山市一家4人放火殺人事件 日本の凶悪事件

館山市一家4人放火殺人事件

2003年12月18日、高尾康司(当時40歳)は溜まったストレスを解消するため、民家の玄関先に置かれた新聞紙の束に放火する。この日は強い西風が吹いていたこともあり、火は建物に燃え移り、この家の住人4人が焼死する大惨事となった。
高尾は10年前から放火で憂さ晴らしするようになり、過去に20件ほど放火をしていた。調べでは、6年前に1人が死亡したキャバレー放火も彼の仕業だったことが判明。
「放火」自体が目的で、殺意はなかったと主張する高尾だったが、裁判では死刑が確定する。

 

事件データ

犯人高尾康司(当時40歳)
犯行種別連続放火殺人事件
犯行日1998年2月11日、2003年12月18日
犯行場所千葉県館山市
殺害者数5人焼死
判決死刑:東京拘置所に収監中
動機ストレス解消のため
キーワード放火魔

「館山市一家4人焼死事件」の経緯

館山市一家放火殺人事件・犯行現場
犯行現場(現在は駐車場になっている)

千葉県館山市船形地区では、1996年以降17件不審火が発生していた。
特に2003年は不審火が立て続けに起こっており、館山署では警戒してパトロールを強化していたが、10月3日を最後に不審火は発生していなかった。

高尾康司(当時40歳)は2003年12月17日夕方、仕事を終えパチンコなどをした後、午後10時頃から自宅近くの居酒屋に立ち寄った。その後、仕事で使用していた2トントラックを店近くに駐車したまま友人の車でJR館山駅西側に広がる歓楽街「渚銀座」に向かい、スナック3店で飲酒した。

高尾は当時、現金をほとんど持っておらず、スナックなどではツケで飲んでいた。最後のスナックを出たのは翌18日午前2時45分頃だったが、金がないので自宅まで約2時間の道のりを徒歩で帰ろうとした。

その途中、高尾は以前からストレスに感じていた「仕事の収入が減った」ことや、「消費者金融からの度重なる返済督促」、「知人に貸した30万円が返ってこない」ことを思い返したことでイライラが募ってきた。そして憂さ晴らしのため「どこかに放火してやろう」と考えた。

根津さん宅に狙いを定める

午前3時15分頃、高尾は1軒の家に目を付ける。この家の玄関付近には壁に沿って新聞紙の束が置かれており、高尾はこれに火をつけてやろうと考え、持っていたライターで点火した。火は瞬く間に燃え上がり、家の壁に燃え移ったかと思うと、短時間で家全体を全焼させてしまった。

すぐやろう!防火対策|東京消防庁

Bitly

この火災は、4人が焼死する大事件となる。亡くなったのはこの家に住む無職・根津隆次郎さん(56歳)、妻・初枝さん(52歳)、長男・英吾さん(27歳)、次男・昌吾さん(25歳)。
ほかにも同居する家族はいたのだが、三男(当時23歳)は仕事で不在、根津さんの母親(当時80歳)は入院中のため、難を逃れた。

当日、館山市内は強い西風が吹いていたため、火は広範囲に燃え広がり、根津さん宅に隣接する住宅5棟と、千葉県宅建取引業協会の事務所1棟の計6棟が全焼した。このうちの4棟に計5人が住んでいたが、幸い怪我人は出なかった。

いずれの家も、原形を留めないほどに焼け落ちていた。中でも根津さん宅は焼け方が激しく、柱まで焼け落ちて瓦礫のようになり、焼け跡から発見された遺品は硬貨数枚のみだった。

千葉日報では「高尾は根津さん宅に放火する直前にも、住宅やマンションなど2軒へ放火していた」と報道されているが、その2件については燃え跡が残っていなかったため立件されていない。

その直後も放火を続けた

「ニコニコ小売市場 館山北店」跡地

4人が焼死する大火災を引き起こした高尾だったが、それで満足することなく、その直後に立て続けに以下の放火事件を起こしている。

  • 午前3時25分頃、館山市八幡の「海幸苑たてやま夕日海岸ホテル」大浴場循環室に置かれていたタオルに放火、配水管を壊した。
  • 午前3時45分頃、館山市正木のスーパーマーケット「ニコニコ小売市場 館山北店」の出入口付近に置かれた段ボール箱(中身は正月用しめ飾り)に放火、外壁を焼損。
    *高尾はこの放火直前に、根津さん宅の消火のため出動した消防車を見ていた。
Bitly
  • 午前4時5分頃、館山市内の民家の勝手口付近に置かれたゴミ袋に放火したが、これは自然鎮火したため、壁が焦げただけだった。
  • 午前4時10分頃、館山市那古の民家へ侵入、隣接する車庫内に置かれていた発泡スチロール箱に放火した。火は外壁や屋根に燃え移ったが、偶然発見した消防署員が消火したため大事には至らなかった。(偶然の発見がなければ強風で家が全焼し、足の悪い住人(当時86歳)が焼死していた可能性があった)

高尾はこれら一連の放火のあと、「最後に館山市正木付近の民家でも火を点けた」と供述しているが、立件は困難だったため見送られた。

連続放火事件として捜査

館山市一家4人放火殺人事件

一連の火災はいずれも出火が同じ時間帯で、現場に火の気もなかったことから、千葉県警は事件直後から連続放火事件と判断していた。

5件の火災現場は、約2km圏内に集中していたため「犯人は地元の地理に詳しい人物」とみられた。だが不審者の目撃情報はなく、事件直後は近隣住民たちの間で「根津さん宅の失火ではないか?」と心ない噂が立った。

また、今回放火が相次いだ「八幡地区」と、以前から放火事件が多発していた「船形地区」は離れていたが、時間帯や手口など共通点が多かったため、館山署は両地区の不審火の関連も視野に入れて捜査していた。

飲酒運転で逮捕、放火を自供

高尾は一連の放火のあとの午前6時頃、館山市船形付近の市道でトラックを運転中、飲酒運転特有のフラフラした運転を見咎められ、館山警察署員により調べられた。

署員がアルコール検査を実施したところ、呼気から酒気帯び相当量のアルコールが検出されたため、署員は道路交通法違反(酒気帯び運転)容疑で高尾を現行犯逮捕

その際、高尾のセーターやズボンに燃えた跡のような穴が開いていたり、高尾の体からは「火災現場特有の焦げ臭いにおい」が漂っていたため問い詰めたところ、高尾は放火したことを認める供述をした。
また、犯行に使用した100円ライターも所持していた。

犯行動機については「給料が少なく、金がなくてイライラしていた」と供述、「18日以前から館山市内で放火を繰り返していた」と、この日に発生した5件の不審火への関与を認めた。
そして「火を点けることで胸がすっとした」「火が点いたことを確認したらすぐに現場を立ち去ったため、同じ現場には戻らなかった」と犯行について述べた。

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取り調べで高尾は「根津さん宅が空き家ではないことを知りつつ、玄関に置いてあった新聞紙の束に火を点けた」、「古い木造家屋なので強い西風で火が燃え広がり、住人が逃げ遅れて死ぬかもしれないと思った」と供述したため、捜査本部は ”未必の故意” として「殺人容疑で立件することも可能」と結論付けた。

根津さん宅で4人が死亡したことについては「申し訳ないことをした。深く反省している」と話した。

その後の供述で高尾は「これまでに記憶に残っているだけでも約20件の放火をした」と自供している。(立証できないものが多く、ほとんどの事件で立件は見送られた)

全容解明へ

翌2004年1月8日、千葉地方検察庁はスーパーへの非現住建造物等放火罪で高尾を起訴。館山署捜査本部も同日、”根津さん宅に放火して、一家4人を焼死させた” 殺人・現住建造物等放火容疑で高尾を再逮捕した。

高尾は根津さん宅を放火する前に「ほか2件の放火をした」と自供していたが、捜査本部は「焼けた跡がないなど、裏付けが取れない」として立件を見送っている。

また高尾は「10年ほど前から放火を始めた」と供述したため、捜査本部は1998年2月のキャバレー「クリフサイド」火災をはじめ、市内で発生した過去の火災についても改めて調べを進め、不審火の全容解明のため本格的捜査を開始した。

その結果、捜査本部は高尾が1998年2月11日に館山市北条のキャバレー「クリフサイド」へ放火して、2階で就寝していた男性を焼死させたと断定、2004年2月19日、現住建造物等放火容疑で再逮捕した。

この件について高尾は放火は認めたものの「建物の中に人がいるとは知らなかった」と供述、捜査本部はこれに反証できる材料もないことから、殺人容疑での立件は断念した。

2004年3月10日に捜査本部は2003年9月の「スナック放火事件」でも高尾を再逮捕。千葉地検も1998年2月のキャバレー放火事件に関して非現住建造物等放火罪で千葉地裁へ追起訴した。

 

高尾康司の生い立ち

高尾康司

高尾康司は1963年(昭和38年)10月3日、千葉県館山市で生まれた。

高尾は地元の小中学校を卒業しているが、中学時代の同級生によると特に目立つ存在ではなかったという。5年おきに開かれていた同窓会も、いつも欠席していた。
だが、本事件より1~2年前に発生した不審火の際、消防団には未所属にもかかわらず、必ずといってよいほど現場に姿を現していた

1990年~1991年頃からダンプカーを購入し、館山市内で運搬業を営んでいたが、収入の多くを飲み代やパチンコ代で浪費し、税金などを滞納するようになった。その後、1993年に父親が癌で死去したが、その死に目には会えなかった。

事件当時は千葉県館山市船形に、母親と兄と3人で暮らしていた。近隣住民によれば「普段はおとなしいが酒癖が悪い」性格で、酒に酔うとトラブルが絶えなかった。

高尾の人柄について、知人や近隣住民は「読売新聞」の取材に対し

  • 「酒に酔うと性格が一変して暴力的になる性格」
  • 自分に注目してほしいという欲求が強く、酒の席でだれからも相手にされないと怒りだして暴れることが多かった」と証言している。
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その後、仕事が減少してダンプカー購入代金の返済が困難となり、1995年2月頃には千葉県内の解体会社へ就職。ダンプカーの運転や家屋解体などの作業に従事したが、収入や負債の現状を省みず飲酒・パチンコなどを控えることはなかった。

そのため税金などを滞納し続ける状態が続き、消費者金融から借金して支払いに充てていたが、次第に自己の経済状態などを思い悩むようになる。

1996年4月頃、解体作業中に足を負傷したが、その際に会社側が労災申請してくれなかった。さらに、その後専務として入社した「社長の娘婿」による仕事の進め方などに不満を抱く。
しかし内向的な性格ゆえ、社長や専務に意見や文句を言えず、職場のストレスを溜めるようになった

憂さ晴らしの犯罪を始める

1997年頃、高尾は自動車のドアガラスを割られる被害に遭う。数日後、その腹いせをしてやろうと考え、酒を飲んだ帰りに他人の車のタイヤをカッターナイフで突き刺したところ、日頃の鬱憤なども含めて気分が晴れるのを感じた。

それからカッターナイフでタイヤをパンクさせたり、ワイパーを壊すなどのいたずらをして憂さ晴らしをするようになった。

数か月後のある日、いつものようにタイヤをパンクさせようと考えたが、カッターナイフを持っていなかった。そのため、ゴミ置き場のゴミにライターで火をつけたところ、”誰かに見つかるかもしれない” というスリルや緊張感で気持ちが高揚し、鬱憤を晴らすことができた。
そしてこれ以降、放火で憂さ晴らしをするようになる。

1998~1999年頃からは、それまで参加していた青年会に出なくなったが、そのころから船形地区で不審火が相次ぐようになっていた。

【1998年】キャバレー「クリフサイド」放火事件

館山市キャバレー「クリフサイド」があったあたり
この一角にキャバレー「クリフサイド」があった

高尾は、本事件から6年前の1998年2月11日未明、千葉県館山市北条のキャバレーを放火して全焼させ、住み込みで働いていた従業員男性(65歳)を焼死させる放火事件を起こしている。

事件前日の夕方、高尾は仕事を終えてパチンコなどをした後、JR館山駅西側の歓楽街「渚銀座」に出かけ、スナックを3軒ハシゴした。

翌11日午前4時30分頃、高尾は3件目のスナックを出て駐車場まで向かう途中で、以前何度か行ったことのあるキャバレー「クリフサイド」が目に留まった。その時、店舗と物置の間に新聞紙の束が置かれていることに気付き、これに火をつけて憂さを晴らそうと考えた。

放火したのは、午前4時40分頃。その約10分後、近くを通りかかった人が ”店舗付近が妙に明るい” ことに異変を感じて火災を発見し、119番通報した。

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キャバレー「クリフサイド」は午前4時頃に閉店し、店内に客はいなかったが、2階住居部分には住み込みの従業員男性が就寝していた。この従業員男性は経営者とは30年来の付き合いで「穏やかで腰の低い真面目な人」として知られており、1983年の開店時から住み込みで働いていた。

この日は店が大繁盛で、従業員男性は閉店後に経営者とともに夜食を食べたあと、2階居室に移って就寝した。そしてその約1時間後、火災で帰らぬ人となった。

消防車12台が出動して消火活動に当たったが、焼け跡の2階住居部分のベッドで従業員男性の焼死体が発見された。周囲に火の気がなかったため、千葉県警察・館山警察署は「放火の可能性が強い」として捜査したが、後に高尾が自供するまで約6年にわたり未解決事件となっていた。

近隣住民の間では「煙草の火の不始末が原因では?」という噂も立っていたという。

事件後、高尾は「クリフサイド」の放火により従業員が死亡したことを知って衝撃を受け、それ以降「渚銀座」での飲酒を控え、罪悪感に駆られて放火行為もやめていた。

しかし、自分に嫌疑がかけられる様子もなく、時間とともに罪悪感も薄らいでいった。また、仕事のストレスも溜まる一方だったため、しばらくすると「渚銀座」での飲酒を再開、数か月後には憂さ晴らしのため再び放火を行うようになった。

クリフサイド放火事件後

1998年の「クリフサイド」放火後、高尾は飲酒運転により免許停止処分を受け、ダンプカーを運転できなくなった。そのため、2000年2月頃には勤務先を退職して、以前アルバイトをしていた館山市内の土木業者で働き始める。

だが依然として飲み代やパチンコに浪費する生活を続け、さらに2002年夏頃からは勤務先の業績悪化により収入が減ったため、消費者金融からの借金は増えていった。返済も次第に滞りがちになり、未納分の税金も払えなくなり、以前にもまして頻繁に督促を受けるようになった。

さらに10月頃には知人に依頼され、消費者金融から借りた30万円をその知人に貸した。しかし知人は返済しようとせず、高尾は腹を立てるとともにそのこともストレスになっていった。

その後も続く不審火

高尾が当時住んでいた館山市船形地区では1996年~2003年11月末の約8年間に計17件の不審火が発生していた。

2001年

2001年12月末、高尾宅に近い飲食店に「船形を火の海にしてやる」といった脅迫電話があり、直後の2002年1月17日午前2時40分頃、店舗軒下の発泡スチロールが焼失する不審火が発生。

2002年

2002年2月17日午前3時~4時15分頃、高尾宅近くの店舗で、網戸や物置が焼失する放火事件3件連続で発生。いずれも約1週間前に狙う相手の苗字を挙げ「火を点けてやる」といった犯行予告の電話が地元の消防団に寄せられていた。

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2003年

2003年には本事件前に、住宅2棟が全焼する5件の不審火が起きていた。一連の火災は約1km圏内で集中して発生。いずれも立件はされていない。

 

  • 2003年1月17日午前0時頃、無人の住宅が全焼
  • 2003年4月30日 、物置が全焼
  • 2003年8月20日午前3時~5時頃、3件の不審火が発生。被害にあった2軒は高齢者2人が住んでおり「初めて人が住む住宅が狙われた」事件となった。(住人は無事)
    館山署は翌日から市などと連携して、毎夜午後9時~11時に合同パトロールを実施して船形地区を重点的に警戒していた。

2003年の一連の不審火では、高尾と似た人物が目撃されていたため、「犯人ではないか?」という噂が立っていた。また、館山署からもマークされるようになり、事情聴取もされたこともあった。

【2003年】スナック放火事件

2003年9月17日、高尾は「渚銀座」のスナック店内で前の勤務先の社長と偶然出くわし、その連れの男性から「金がないのにこんな店に来るな」と言われて腹を立てる。だが何も言い返すことができず、その後、スナック2軒に立ち寄り飲酒するも、その男性への怒りが収まらなかった。

しかし、言われたこと自体は図星で、自分の経済状況を思うとイライラしてきたので「どこかに放火して気分を晴らそう」と考えた。そして日付が変わった18日午前2時30分頃、高尾が年に3~4回行っていたスナック「サンチョパンザ」に目をつけ、勝手口付近にかけられていた足拭きマットに火をつけた

その約10分後に119番通報を受けた消防署は、消防団を含め22台の消防車を動員して消火活動を行い、約2時間後に火を消し止めている。
火は足拭きマットから建物に燃え移り、隣の店舗兼住宅にも燃え広がり、2軒を全焼させた。

スナックは1階が店舗、2階が住居となっており、出火当時は男性1人がいたが避難して無事だった。このスナックは、1998年に高尾が放火した「クリフサイド」から、わずか50mしか離れていなかった。

本事件前、最後の不審火

2003年10月3日未明、船形漁業協同組合所有の木造平屋建ての倉庫から出火して、倉庫の約半分が焼けた。高尾はこの件に関しても容疑を認めたが、立件はされていない。

これまで1件を除いて空き家・物置など 、狙ったように人の住まない建物ばかり狙われていた。そのため、地元住民の間では「地元に詳しい者の犯行ではないか?」とささやかれていた。

この10月3日の火災を最後に不審火は発生していなかったため、警戒心の緩みかけた12月18日、「一家4人放火殺人事件」は起きた。高尾は事件を起こしたあと(当日早朝)に飲酒運転で逮捕され、その際に服の一部が焼けていたり、焦げ臭いにおいがしていたことで疑われる。
そして捜査員の追及の末、自供に至った。

裁判では2010年9月16日、最高裁で死刑が確定。現在は、東京拘置所に収監中である。

死刑確定後の動向

参議院議員・福島瑞穂が確定死刑囚らを対象として実施したアンケートに対し、高尾康司死刑囚は以下のように答えている。(実施期間:2011年6月20日~8月31日)

「裁判員制度導入から1年以上が経過し、死刑判決が乱発されているように感じる。自分は死刑確定者として日々を前向きに生きているが、『いつ死刑執行されるか』と怯えながら生きている。自分は人間で、『人間は生きているから償える』と考えているから死刑制度には反対だ」

死刑囚の最期~葬られた心編

高尾康司が獄中で描いた絵

高尾康司死刑囚が獄中で描いた絵
「アベ軍隊 アベ空母」高尾康司/2015年
高尾康司死刑囚が獄中で描いた絵
「年報・死刑廃止2014」高尾康司/2014年

また高尾康司死刑囚は「第5回・大道寺幸子基金表現展(2009年)」の絵画部門で奨励賞を受賞している。2012年度の第8回でも、10作品の絵画を応募して努力賞を受賞した。

極限芸術~死刑囚は描く~」(2017年)出展作品より

裁判


高尾康司被告は、捜査段階では「人が住んでいることを認識しており、強い西風が吹いていたから『住人が逃げ遅れて死ぬかもしれない』と思っていた」という供述していた。しかし、公判では一転して殺意を否認するようになっている。

一方、検察側は「未必の故意」による殺人罪の成立を主張した。

そのため争点は、殺人罪についての「未必の故意」の有無となった。

第一審

2004年4月22日、千葉地方裁判所で初公判が開かれた。

弁護側は、罪状認否で7件の放火の起訴事実を認めたが、捜査段階の供述から一転して「家を燃やそうとしたわけではない。『人が寝ているかな?』とは思ったが殺意はなく、死なせるつもりもなかった」と述べて殺人罪について否認、未必の故意はなかったと主張した。

公判を傍聴していた被害者遺族は、高尾被告が殺人罪について否認に転じたことに対し「1998年2月の『クリフサイド』放火事件で1人を死亡させているのだから再び放火を行えば死者が出ることは予見できたはずだ。にもかかわらず被告人は強風下で再び放火を行っており、今なお殺人罪を否認しているから反省の色がない」と怒りを露わにした。

2004年6月15日に第2回公判で、検察側は「高尾被告は『クリフサイド』放火事件で1人が死亡したことを知っており、2003年の事件でも住人が就寝していることを認識していた。仮に放火すれば住人が死亡する危険性があったことは身をもってわかっていながら『死んでも構わない』と思いながら放火した」と指摘して「未必の故意」による殺人罪の成立を主張した。

弁護側は「高尾被告の関心は、あくまで火がライターから物へ燃え移ることで、その後の結果には無関心だった。『クリフサイド』火災でも火がゴミに燃え移る光景が見たかっただけで、一家4人が焼死した本事件でも新聞紙に点けた火が建物へ燃え広がる可能性は認識していたが『住人が死んでも構わない』とは考えておらず、殺意はなかった」と主張して殺人罪成立を否認した。

2004年12月14日に論告求刑公判が開かれて結審し、検察側は高尾被告に死刑を求刑した。

また高尾被告は最終意見陳述で「被害者、遺族に大変申し訳ないと感じる。一生をかけて罪を償いたい」と発言した。
公判を傍聴した被害者遺族は「公判で高尾被告から反省の態度は感じられない。本当に罪を償う心を持っているなら犯行前に気付くはずだ」「謝罪の言葉はまったく心に響かない。死刑以外に考えられない」と高尾被告の態度や発言を非難した。

判決は求刑通り死刑

2005年2月21日に判決公判が開かれ、千葉地裁は求刑通り死刑判決を言い渡した。
裁判長は「住民が寝ており火災で死亡するかもしれない、と認識しながらあえて放火した」と事実認定し、「未必の故意」は優に認めることができると述べた。

判決理由については以下のように説明した。

  • 「人が死ぬとは思わなかった」という高尾被告の供述は不自然・不合理
  • 初公判における「人が寝ているかな?と思った」という供述以外は信用できない
  • 勤務先や経済状況のストレスを晴らすため、無差別の連続放火におよび、まったく落ち度のない尊い人命を奪った
  • 危険かつ凶悪な犯行で、矯正は非常に困難。再犯の恐れも否定できず極刑はやむを得ない

弁護側は、判決を不服として同日中に東京高等裁判所へ控訴した。

控訴審・上告審は棄却

控訴審・上告審においても弁護側は一審同様「犯行は計画的なものではなく衝動的。『建物に人が住んでいる』という認識は乏しく、殺意はなかった」と主張した。
一方、検察側は「放火された家は住宅街にあり、容易に民家と推測できた。憂さ晴らしに無差別な放火をくり返した悪質な犯行だ」と反論した。

また、控訴審では高尾被告の妹の夫義弟)が情状証人として証言し、社会復帰後の更生への協力を申し出ていた。

しかし2006年9月28日、控訴は棄却され、その約2年後の2010年9月16日には上告も棄却。これにより高尾被告の死刑が確定することとなった。

最高裁裁判長は判決理由で「スリルと快感を求めて深夜に建物密集地帯で無差別に放火した。生命を軽視した極めて危険悪質な犯行。『真摯な反省、罰金以外の前科なし、未必的な殺意にとどまる』ことなどを考慮しても死刑を是認せざるを得ない」と述べた。

一家4人が焼死した事件現場はこの時点ですでに駐車場になっていた。
また、当時入院中で難を逃れた根津さんの母親は、この2年前(2008年)に他界している。

2013年10月1日時点で、獄中から再審請求していることが確認されている。

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